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下野薬師寺等跡の東側。 土塁? 城跡かと思って南側へ行ってみたら神社があった。 下野薬師寺八幡宮という。 説明板。 【八幡宮】 薬師寺八幡宮の起源は古く、主祭神は誉田別命で貞観17年(875)京都の石清水八幡宮の祭神を勧請して東北守護の大神としたと伝えられています。 また一方では下野薬師寺の寺内社として直接宇佐八幡宮(大分県)から分社されたともいわれている。 天喜4年(1056)源頼義が奥州追討の途中当社に立ち寄って戦勝を祈願したが、その際、後続軍と奥州軍との戦いで社殿などすべてを焼失したといわれている。 その後近世に入って、新たにこの地を支配地とした佐竹右京大夫義(秋田藩三代藩主)の援助によって寛文2年(1662)に本殿及び拝殿が再建されたものとされる。 現存する本殿と拝殿はまさにその時代の特徴を留めており、17世紀までに遡り得る県内でも数少ない神社建築として貴重なものである。 薬師寺の八幡宮は歴史も古く、常にこの地域のシンボルとして崇敬され深い信仰をあつめている。 平成8年3月 下野市教育委員会 由緒略記。 手水舎。 裏に左から、(種銭)毘沙門天像、(三昧)弁財天像、(海豚)恵比寿神像、(金比羅)大黒神像と古札納所。 庚申様。 不明の古社。 古墳かな。 土塁に見えるなぁ〜 本殿。 拝殿。 拝殿東側に祖霊社。 祖霊社の東側に三十三社稲荷。 ここは台地の縁。 切岸みたいな急斜面。 三十三社稲荷の南側に五条天満宮と千勝神社。 旗揚げ祈願旗。 説明板。 ここでようやく弓削道鏡が登場。 金精様。 道鏡のシンボルを祀る。 大銀杏。 神楽殿。 参道を進む。 境内を振り返る。 一の鳥居。 葉書の木。 源頼義手植えの大欅。 昔、梟が棲みついていたと云う。 夏目坂という薬師寺から東方に下る坂があり、ここにも狐の嫁入り伝説がある。 参道を振り返る。 二の鳥居。 脇に雷電神社。 説明板。 下野薬師寺八幡宮を後にする。 参道入り口。 境内の西側に境外摂社の八坂神社。 下野薬師寺八幡宮の南に行くと龍興寺がある。 境内案内図。 山門。 本堂。 そして、本堂脇に道鏡塚。 【弓削道鏡について】 いまを去る1200余年前、奈良時代の高僧・弓削道鏡の墓所が当所です。 道鏡は若くして仏道に精進し、厳しい修行を積み重ね、高度な医学も身につけた立派な人です。 孝謙天皇に仕えて十年余り、天皇が崩御されますと、上層社会に権力を振るう者たちの陰謀によって、ここ下野薬師寺別当職に移されました。 道鏡は、都を遠く離れたこの霊場において、天皇のご冥福と人々の幸せを祈りながら、772年4月7日不遇の生涯を閉じました。 従来の正史は、その時々の権力者の都合で記されたもので、決してありのままでなかったことを遺憾に思います。 私たちは、歴史の真実性を尊重する立場に立って活躍された故・横嶋斜月先生や、故・古田清幹先生の遺志を受け継げ、道鏡禅師の更なる顕正をめざします。 1994年4月7日 道鏡を守る会 道鏡塚前に奈良時代の礎石。 道鏡を寵愛した孝謙天皇は、都から追いかけてやって来たとも。 JR石橋駅から西へ約1km行ったところに孝謙天皇神社がある。 説明板。 【孝謙天皇神社由来】 今から約千二百余年の昔、下野国薬師寺の別当に弓削道鏡が配流された。かつて道鏡は法王として孝謙天皇(女帝)に最も厚い信任を得ていました。 女帝は配流された道教をあわれみ、この地にまえり病没したと言い伝えられていますが、女帝の崩御後、道鏡と共に女帝に仕えていた高級女官の篠姫・笹姫も配流されてきた。 二人は奈良の都には永久に帰ることが出来ないことを悟り、女帝の御陵より分骨をして戴き、銅製の舎利塔に納め当地にあった西光寺に安置し、女帝の供養につとめた。 その後、西光寺は廃寺となり、村人達は舎利塔を御神体に祀り孝謙天皇神社と改め、8月4日(崩御の日)に女帝を偲び、清楚なお祭りを催し今日に至っています。 なお、二人の女官の墓は、ここより南五百メートル位の所に、篠塚・笹塚として戦前まで保存されていたが、残念ながら現在はその跡しか残っておりません。 祭日 9月4日(月遅れで実施) 境内の様子。
社殿。 社殿の裏には孝謙天皇の塚? 孝謙天皇と書いてある。 付近には高級女官の墓と伝わる古墳がある。 孝謙天皇神社から南の上大領にある御笹塚。 その北に位置する御志塚。 道鏡縁の地、下野薬師寺跡でした。 |
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