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当初沖縄風疹児の教育は各地の小学校に設けられた難聴学級で行なわれた。
健常児も障害児もいっしょの学校で 教育するという新しいやり方だった。
しかし、風疹児が成長するにつれて やはり専門家の圧倒的な不足が問題になってきた。
そこで 風疹児が中学へ進学するのを機に 沖縄本島中部に北城ろう学校がつくられた。
また宮古島、石垣島には 分校がつくられた。
北城ろう学校は 昭和39年の風疹によって生まれた大量の障害児を教育するための
学校だったから 彼らが中学1年のときは1年生だけ 2年のときは 2年生だけという
変則的な学校で 彼らの卒業と同時に消滅した。
いま その校舎は 沖縄県立ろう学校となり、風疹児教育の碑が建っている。
北城ろう学校には 寄宿舎もあって 各地の風疹児を集め
言語教育や一般の教育とともに
彼らが将来 社会的に自立できるように 職業訓練も行なうことになっていた。
北城ろう学校を有名にしたのは 野球部の活躍だった。
普通 ろう学校では生徒数が少ないので 野球のチームが作れないのだが
北城は 同じ年齢のこどもが多く 野球部も可能だった。
そして 彼らはろう学校としてはじめて 甲子園を目指し、
予選で負けはしたけれど その話は劇画「はるかなる甲子園」として
有名になった。 その後 さらに映画にまでなったのだ。
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健常児も障害児もいっしょの学校で 教育するという新しいやり方だった。
しかし、風疹児が成長するにつれて やはり専門家の圧倒的な不足が問題になってきた。そこで 風疹児が中学へ進学するのを機に 沖縄本島中部に北城ろう学校がつくられた。
ということは少し違うように思います。当時、沖縄から山城高校に来られたし、山城高校からも沖縄に行きましたが、那覇市教委と県教委の意見の対立があり、那覇市は難聴学級を作り続け、大学への補助もしていたはずですが。
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