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上水道図は角川書店「歴史誕生」9巻平成3年版から
都市の発達
一方、武士社会では、大名たちの大々的な配置転換が行なわれ、全国的に新しい領主が誕生しました。城は一国に一城と定められましたから、多くの地で領国の中心となる城が建設され、古い城は大改装されて新しい町作りが始まりました。その城下町に武士は集中して住むことになります。もう戦はないわけですから、町は恒久的な性格を持って発展します。武士は自ら生産をしない消費層です。つまり各大名の盾住地に安定した消費都市が出現して、地方経済発展の拠点が定まったことになります。260余の大名が居たわけですから、全国に260余の町・都市が出来ました。
今日の日本の地方都市はほとんどこの頃に城下町としての基礎が築かれています。京都は1200年の都ですから違います。北海道の都市や、横浜、神戸は新しいものですから違いますが、その他の都市はこの当時に新しい城と都市計画をもって出発したのです。2005年、2006年、2007年と多くの地方都市で築城四百年記念などの催しが行なわれていることが、当時の列島改造の証拠となります。
江戸時代に入って100年目の1700年の時点で江戸の人口はだいたい100万人に達しました。
もう少し (20年ほど) 遅いという方もいますが、もっと早いといわれる方もいます。大雑把に言えば1700年で100万人、武家が50万で、それ以外の町人が50万です。京都と大坂はだいたい3,40万人で、こちらは殆ど武家はいません。この3つの都市を合わせて「三都」と呼びました。性格的には江戸は政治の首都で武士の町、大坂は商都、京都は都であるとともに手工業都市でした。この性格は皇室が京都から東京に移られたことを除けば、現在までそれほど変わっていないようです。この他には名古屋と金沢が10万都市になっていたと思われます。
江戸の100万人というのは、恐らく当時世界鼻大の都市でした。ロンドンとパリはこの時点ではまだ5,60万人だったと見られます。(恐らくと書いたのは北京の人口がよくわからないからですが、この時点では明から清に国が代わった後でもあり、まだ百万人にはなっていなかったのではないかと思います)。
全人口に占める都市人口も大体この頃で10%になったと思われますが、これは世界でも断然早い記録です。都市は市場経済を発達させ、文化を育てる場です。1700年から1800年までの百年間、日本は世界で最も充実した都市化した文明を持っていたのですが、逆にいえばそれだけの都市人口を養えるだけの豊かな農業や漁業が育っていたことにもなります。
以上は徳川恒孝さんの「江戸の遺伝子」からの抜粋転載です。
大都市の江戸は上水道が網の目のように巡らされて居たばかりではなく、糞尿やゴミの処理もシステム化されていたのです。そのあたりを、は松原久子さんの著書には
「・・・百万都市の江戸でもこのシステム(排泄物収集)は円滑に遂行され、その他のごみの回収もこれと連動していた。
肥料として利用できるものは、何であれ浪費することは許されなかったので、日本の道路には、汚物、ごみ、くずの類は一切落ちていなかった。このことは当時日本を旅した数少ないヨーロッパ人の旅行記にも、驚嘆の念をもって記されている。人間と動物の排涯物やごみが遠路や裏庭に積まれたヨーロッパの町々と比べて、あまりに清潔なので不思議に思ったのだった。動物の糞もすぐにきれいに取り除かれて、再生リサイクルの循環の中に組み込まれていたのだ。それは、町の遠路ばかりでなく、街道でも同様だった。街道には決まった間隔で厠が設置されていて、旅人たちが利用した。糞尿は近くの村の農民が取りにきた。厠は農民たちによっていつも清潔になっていた。」
と記されています。
ついでに云えば、当時のパリーのルーブル宮殿では、厠がなかったと云うから驚きます。室内に壺?があって、それに用をたし、壺が一杯になると庭や窓の外に捨てたとかいう記事を見たことがあります。
西洋人が匂いの強い香水を好んだのは、体臭の強さをごまかすというより、外からの悪臭を打ち消すというかごまかそうとしたのでは、と思ったりしたのでした。
幸いなことに今でも日本人の清潔さはかわっていないようです。
城下町が建設される前提として「太閤検地」の結果として、端的に言えば、武士が土地の直接支配から切り離され、石高を支給されると言う関係になったことがあります。具体的に云えば、3000石(草高)の領地を与えられる上級武士でも、(増額という名目などで)で3200石の別の領地へ移動させられるようになったのです。それに、武士は家屋敷は所属大名の城内または城近くに住むことが義務づけられていたのです。(そのシステムに抵抗したのが、秀吉の九州征服後の肥前や肥後の国侍一揆でした)
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