同行二輪

いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

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○特別霊場、栃社山、誕生寺 (平成16年7月24日)

津山から国道53号線で南へ10kmほどの所に誕生寺はある。何を勘違いしたのか国道を逆走したりしてずいぶん大回りをしてしまった。多少の土地鑑がある所でもこの調子だ。迷いやすい性格は変わらない。この先の札所巡りも思いやられる。

誕生寺は、浄土宗他力念仏門の開祖、法然上人降誕の聖地。建久4年(1193)法力房蓮生(熊谷直実)が、師法然上人の命を奉じこの地に来て、上人誕生の旧邸を寺院に改めたものである。以上はパンフレットからの要約。

南無阿弥陀仏と念仏を称えることで極楽往生を願う浄土系の宗派は法然に始まるといえる。それ以前にも阿弥陀信仰と念仏は比叡山延暦寺を中心に行われていたが法然の唱えた念仏はそれとはかなり異なる。
本来は仏教の究極の目的は悟りを得るところにある。悟りとは仏そのものと言ってよい。つまり仏になるということでそれが成仏することだ。悟りを得るために戒律を守り修行を重ねることが要求される。一般に使われるような、死者を仏と呼んだり亡くなることを成仏といったりするのは本来の意味と全然違う。

平安時代初期に円仁が比叡山で始めた常行三昧(じょうぎょうざんまい)は、阿弥陀仏を念じ本尊の阿弥陀仏の周りを歩きつづけながら一心に念仏を唱える。阿弥陀仏の周囲に広く空間がとってあり周りを歩けるようになっている本堂を時々見かけるが、それはこの常行三昧を行うためのもので、そのような造りの建物を特別に常行三昧堂と呼んだりする。ちなみに三昧とは何かに一心不乱になること。
この常行三昧は一見すると念仏が主体となっていて浄土宗と違わないようだが、あくまでも念仏は修行方法のひとつに過ぎず、その目標は悟りを得ることにある。

仏教では釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来など沢山の仏がおられるが悟った人の数だけ仏は存在してよいので無数の仏がおられることになる。そして一人の仏は一つの浄土を持つ。阿弥陀仏の浄土は極楽浄土と呼ばれる。浄土と言えば極楽浄土のことのようだが極楽浄土は浄土の一つに過ぎない。
法然の説く他力念仏は、悟りを開き如来の一人になろうとするのでなく、阿弥陀如来の極楽浄土へ生まれ変わることを願う。目標が悟ることから極楽往生に変わっているのだ。
法然はの教えは目的が悟りでなくなっている点では既に仏教と呼べないのかもしれない。この後、浄土宗は浄土真宗、時宗などを生みながら全国に広がってゆく。これら浄土系仏教を浄土教と呼ぶことがある。その言葉には仏教から派生した半ば新しい宗教といったニュアンスが含まれているように感じられる。ともあれ、日本の仏教史において画期的な出来事であったのは間違いない。
修行は厳しいし、教義は難解だ。どうせ凡夫は悟ることなど出来ないのだからせめて浄土にでも、といった気持ちはよく判る。しかも、南無阿弥陀仏と唱えるだけで良いと言う。大衆受けするに十分だ。

意外だったのは熊谷直実(なおざね)の名をパンフレットで見つけたことだ。出家した後は法然門下になっていたらしい。こんなところに来ていたのか。
寿永3年(1184)2月、木曾義仲に京都を追われた平氏一門は今の神戸、福原に陣を構え源氏軍と対立していた。源義経の鵯越の逆落としとして知られる背後の急斜面を下る奇襲攻撃を受け平氏軍は一気に崩壊する。有名な一の谷の合戦だ。
陣を捨てて沖の船団に退却する平氏。混乱の中、波打ち際を逃げる一騎の武者を発見して呼び止めて堂々勝負の一騎打ちを望んだのが源氏の熊谷直実。平氏の武者は笛の名手の平敦盛(あつもり)。
直実は敵を馬から落とし上から押さえてみると、自分の息子と同じ年くらいの少年。敦盛は組み伏せられた状態で、自分の首は手柄としては申し分ないから早く殺せと言う。直実は若い命を散らすのは忍びないと見逃そうとするが、源氏の兵が近くに集まってくるのがわかる。とても無事に逃がせないと知り、他人の手にかかるるくらいならと断腸の思いで討ち取る。

戦の前の両陣対峙中の夜、敦盛の笛の音が響き源平両軍にひと時の風流を感受させ、その後の悲劇の予兆とする。直実は、あの時呼び止めねばと、泣きながら紅顔の美少年の首をはねる。平家物語中でも特に悲しく哀れを誘う有名な場面として知られる。
戦の舞台となった須磨浦公園には敦盛塚がある。また須磨寺には敦盛愛用の笛があるというし敦盛の首塚もあるらしい。是非訪れたいと思いつつ、残念ながら未だに果たせずにいる。ちなみに平家物語では笛の名前は小枝(さえだ)なのだが世阿弥の謡曲「敦盛」以来青葉の笛という名で伝わっている。
直実はこの敦盛の件で無常を感じて出家したことになっているが、実は所領争いに敗れて裁定を不服として髷を切ったのが事実らしい。もちろんそれまでに出家したい気持ちを持っていたのは確かだろう。

広い境内は門を入ると法然の子供のときのお手植えと伝えられる大イチョウがあり、正面には本堂である御影堂がある。ご本尊は当然、法然像。丁度法要の最中だったので境内の散策をして時間を使う。
本堂に向かって右手には新築の阿弥陀堂。観音霊場としての観音像は阿弥陀堂の反対側の左側に観音堂がありそこに安置してある。観音霊場と言っても本尊が観音様でない札所もあり、その場合はここのように観音堂がある。
この観音様の寺伝もすごい。案内書によると次のような話だ。
元禄12年(1699年)のこと、当山第15世通誉上人が、江戸に上り、回向院で御本尊法然上人像を出開帳していた。このとき、八百屋お七の遺族が位牌と振袖を持参し、亡きお七の供養を上人に懇願したという。上人はこれらの遺品を持ち帰り、この観音菩薩ご前にて、お七の菩提をねんごろに弔った。そこで聖観音菩薩はお七観音と称され伝えられている。
八百屋お七の言い伝えがこんなところにあるとは。

江戸本郷駒込の八百屋の娘お七は、自宅の火事でお寺に仮住いした時、寺小姓と恋仲になった。自宅が直って家へ戻った後もその恋人が忘れられない。また火事になれば会えるとそそのかされて放火してしてしまう。当時放火は大罪で、結局火あぶりの刑に処せられる。よく知られている話だ。
この話自体にも諸説あって、少し調べただけで次々と異説が出てくる。恋人の名前は吉三や吉三郎が良く知られているが本当は左兵衛で吉三は火付けをそそのかしたならず者だとも言う。恋人のその後も、一緒に処刑されたというが、出家して僧となり漂白のうちに亡くなったとか、目黒に西運堂を建立した西運がそうだとかいう話もあるようだ。

お七と吉三にまつまる後日談も各地にある。しかし、ここに話が伝わっているのはここが浄土宗だということと無縁ではないだろう。
仏教の目的は成仏することなのだが、そのためには当然犯罪は犯してはならない。ところが浄土教では犯罪者も悪人も全てが念仏を唱えるだけで極楽往生できる。さらに、旧仏教では女性は成仏できないことになっている。一度男に生まれ変わらなければ駄目なのだ。理不尽だがそういうことになっている。しかし、南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土にはそのまま往くことが出来る。つまり、放火という大罪を犯した娘の魂を救済するには浄土教が一番適している。
島根県美保関の仏谷寺にも西運が巡礼でたどり着きそこで亡くなったという小姓吉三の墓が伝えられている。仏谷寺も浄土宗のお寺だ。浄土宗の聖が女人救済を説くためお七の後日談を語りながら廻ったというのがありそうな話だ。
ここ誕生寺には供養を依頼された振袖まである。さすがに出来すぎている。

お七を題材にした芝居や浮世絵では火の見櫓に登り半鐘を叩く振袖姿が描かれる。これは、放火したもののさすがに怖くなって自分で火事を知らせるという話になっているからだ。この絵のイメージからお七の火事は振袖火事のことだと思い込んでいたが、調べてみると大きな勘違いだった。明暦3年(1657)1月のいわゆる明暦の大火が振袖火事と呼ばれるもので、お七火事は天和2年(1682)12月のことらしい。ここに振袖が納めてあるというのはやはり振袖火事とお七の混同があったからに違いない。結構混同している例は多いようだ。
ついでに振袖火事にもいわくがある。
「明暦の大火」は明暦3年(1657)1月18日から20日にわたる火事であり、一度鎮火しかけた翌日に再度出火して死者10万人以上、江戸の町がほとんど焼けたという最悪の火事だ。このとき江戸城の天守閣も焼け落ちて以後再建されていない。
これをなぜ振袖火事と呼ぶのか。
大棚の娘が寺の小姓に片思いをして恋に焦がれて死んでしまう。両親は形見の振袖を娘の菩提を弔うため寺に納めたが、寺の坊主が古着屋に売ってしまった。ところがこの振袖を着た娘は次々と病死。供養のために振袖を本郷丸山本名寺で燃やしたところ強風にあおられ本堂に飛んで火事になったという。病死した娘を荼毘に付す時に振袖を一緒に焼いたところ突風で本堂に燃え移ったというのが本当のところらしいが、振袖が火元ということで振袖火事と呼ばれる。しかし、若い娘の恋心が原因という、いかにもお七と混同しそうな話になっているところが興味深い。

随分長い間お七に関わってしまった。観音堂でお勤めを終えた後、日陰が欲しくなり方丈と庭園の拝観を願う。庭は京都の寺院のような雅さはなくどちらかといえば少々野暮ったいがかえってのんびりと座っていられる。涼しい縁側で何をするというでもなく庭を眺める。そうこうしているうちに法要が終了したので本堂の参拝をさせていただいた。

境内に戻り再び観音堂の方へ向かう。浄土宗の聖跡寺院だけあって散策するのもなかなか広い。奥の橋を渡ると勢至堂があり、その横に法然の産湯の井戸と伝えられるものがある。「生水なので煮沸して飲んでください」と注意書きがしてある。失礼ながら確かに一度沸騰させたほうがよさそうな水だ。
さらに白壁と石垣の小道を回りこむと、石段の上に六角堂がある。浄土院というらしい。法然の両親の菩提を弔うために出来たとあるが建物は最近のものだ。寺自体も誕生寺と直接関連はなさそうな様子だった。寺同士の少々複雑な関係がにおう。

誕生寺では練供養(ねりくよう)が行われているとのこと。二十五菩薩の仮面を被って歩く催事で当麻寺のものが全国的には有名だ。機会があれば是非拝見したいが供養は4月第3日曜日なので今年はもう無理だ。
さらにここには七不思議と呼ばれるものが伝わっている。浄土宗総本山の知恩院にも七不思議が伝わっている。浄土宗は七不思議が好きなのか。そう言えばお七も七だ。
ここでいただいたパンフレットには観音堂のことは一言も触れてない。ご本尊は観音さまではないとはいえ中国観音霊場の特別霊場なのに説明が一言もないことのは七不思議以上に不思議だ。このお寺にとって中国霊場などとるに足らないということか。


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