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○第一番、金陵山、西大寺 (平成16年10月16日)
蕃山から岡山ブルーラインに入り市内を目指す。この道は以前有料だったので交差点もなく信号もなく快走できる。ただし交通量は割と多い。
途中一本松展望園に入る。観光農園や娯楽施設があり子供連れの家族などで賑わっている。園内は広い。瀬戸内が綺麗に見えるらしいが展望台まで行くのはあきらめて休憩だけで出発した。ちなみに土産物売り場にはどこにでもありそうなものしかなかった。
西大寺で自動車道を下りて県道28号線で吉井川を渡ると西大寺に着く。岡山を代表する有名なお寺で観光案内にも必ず載っている。いよいよというかやっとというか中国観音霊場の一番札所を打つことになった。
竜宮型の門をくぐって進むと広々とした境内に本堂と三重塔など多くの伽藍がある。門は石門と呼ぶらしいが竜宮を思わせる形になっているのは寺の縁起によっていることを後で知った。
岡山西大寺といえば裸祭りで全国的に名前が知られている。本堂二階の御福窓から投げられる宝木(しんぎ)を下帯の猛者たちが奪い合う勇壮な祭りだ。参加者は9000人にもなるという。大阪四天王寺、石川黒石寺と並ぶ日本三大奇祭の一つらしい。
そんな境内も今は静かで祭りの喧騒は思わせるものは全くない。参拝者も数人が散策するのみだ。ここが裸の男でいっぱいになるのかと想像するがやはりがらんとしすぎていてイメージが湧いてこない。
本堂内の拝観ができるので迷わずお願いした。本堂への渡り廊下には寺の縁起と裸祭りの解説が詳しい。
裸祭りは正確には会陽(えよう)と呼ばれ、旧暦の正月に行われる修正会の結願の行事の一つとのこと。投与される宝木は初めは牛玉(ごおう)といい「牛玉、西大寺、宝印」と書かれた紙でいわゆる牛玉所大権現のお札だったが、これを授かると大層なご利益があると奪い合うようになったため破れないように木製になり会陽と名づけられた。たしかに数千人もの荒くれが奪い合うのには紙では無理だろう。展示してある会陽は30cm程で中央がややくびれたコケシや和ロウソク状のものだった。これを求めて時には死傷者もでるのかと思うと信仰の持つ力を考えさせられる。もっとも信仰心だけでなく祭りやゲーム感覚といったものも半分以上を占めている気はする。
会陽のもととなった牛玉とは明らかに牛玉宝印の変形だ。牛玉宝印といえば熊野誓詞が非常に有名だが熊野のものとは描かれかたが全然違ってとてもシンプルだ。牛玉宝印に一般的なデザインというものは存在しないのだろうか。そういえば熊野では牛玉ではなくて牛王の文字を使う。熊野が特別なのか。
会陽という言葉はどこから来たのだろう。もしかして陰陽の変化ということはないだろうか。流鏑馬では「いんよー(陰陽)!」の掛け声で矢を放つことから思いついた。神事ではない競技としての流鏑馬では掛け声は単に「はっ!」となる。陰陽の言葉は陰陽道から出ているが神聖な行事と結びついているのは確かだ。そこからの連想なのだがさすがにこれは間違ってるようだ。
寺創建の縁起が絵物語で説かれている。寺伝によれば次のような話となる。
奈良時代、周防国に藤原皆足という観音信仰篤い姫がいた。皆足姫はたまたまその地を訪れた仏師に仏像製作を依頼したところ、仏師は、出来上がるまでは決して部屋をのぞいてはいけないといって仕事を始めた。しかし姫は約束を破ってのぞいてしまった。仏師は怒って大和国長谷に住むものだと言い立ち去った。その後には観音像が残されていたため姫は、あの仏師は長谷観音の化身だったと信じ、彩色、開眼供養のために長谷寺へ運ぶこととした。海路途中で船がどうしても動かなくなり、観音様がここから動きたくないのだと思って姫はそこにお堂を建てて安置した。
それから20数年後、長谷寺参篭中の安隆(あんりゅう)上人が夢のお告げを受けてお堂の改修を志す。上人は周防の皆足姫のもとに行き喜捨を受けて帰る途中海中から竜神が現れて犀の角を授けられお告げの通り角を埋めてそこに堂宇を建立し姫の観音を安置した。それが西大寺だという。当初、犀の角を戴くという意味で犀戴寺と称したが、後に後鳥羽上皇が祈願文に西大寺と書いたことから変わったという。
この話の前半は鶴の恩返しを思い起こさせる。いわゆる鶴女房とか狐女房などに分類されるよくある民間伝承に、旅の者が実は仏の化身だったという仏教縁起譚が合体したものだ。それにしても見てはいけないといわれるとどうしても見たくなるのは古今東西人情というものだろう。そして後半は寺の創建と名前の由来を説明する命名説話になっている。この二つの話はつながりがよくないので元は別の伝承だったのだろう。
ところで犀の角とはまた妙なものを授けたと思えるがどうして犀の角なのか。
正倉院宝物には犀の角で作られてた有名な、犀角如意(さいかくのにょい)、犀角坏(さいかくのつき)などがある。確かに日本では大変珍しいものでまさしく宝物ではあるが、僧に渡す宗教的な意味は薄い気がする。
初期仏教経典とは関連がないのだろうか。
最初期の仏典の一つにスッタニパータというのがある。この中の蛇の章に「犀の角のようにただ独り歩め」というフレーズの教えが次々と述べられる。例えば、
「妻子も、父母も、財宝も、穀物も、親族やほかあらゆる欲望までも、すべて捨てて、犀の角のようにただ独り歩め。」
とか
「妄執の消滅を求めて、怠らず、明敏であって、学ぶこと深く、こころをとどめ、理法を明らかに知り、自制し、努力して、犀の角のようにただ独り歩め。」
など。
ここでは一人でたゆまぬ努力して確実に修行する者を犀の角に例えているとされる。
この経典をふまえたというのは考えすぎだろうか。
本堂に入り、二階というかキャットウォークのような通路に登ると裸祭りで会陽が投下される御福窓がありそこまで行ける。小さな覗き窓のようだ。
ご本尊の千手観音は秘仏なのだがお前立ちがちゃんとおられ前まで近づけるのでうれしい。
本堂正面に戻って改めてまわりを見渡す。入ったときに境内がやけに広々としてあっけらかんとしているように感じられたのは松などが生えてないせいだ。立ち木がないのは祭りの時に障害になるからだろうか。
入ってきた門の前が水垢離場になっていて裸祭りではそこで禊、潔斎をした後男たちは争奪戦に向うのだ。
本堂に向かって、右手には三重塔、祖師堂、仁王門などがある。本堂の正面が仁王門でなく石門になっているのは会陽の重要性を示しているのかもしれない。
ここ西大寺にはもう一つどうしても見ておきたい建物がある。やや奥まったところにある牛玉所殿。寺の鎮守として牛玉所大権現を祀る。会陽の牛玉宝印はここの護符だ。本尊の護符ではない。
牛玉所大権現とは牛頭天王である素盞嗚尊命のことと推測できるが朱の鳥居がいくつも重なり稲荷神社のようになっている。いわれを考えるとまた想像が膨らみそうだが、ただ興味は別のところにある。
扁額を見上げると、右に牛玉所大権現、左に金比羅大権現と並んで掲げてある。
明治の廃仏毀釈のおりに神仏習合である権現は迫害を受けた。堂内に本地として安置されていたされた多くの仏像が行き場を失ったり壊されたりした。
讃岐の金比羅宮の本地仏も危機に陥ったが、金比羅の末寺の住職から岡山藩池田公の手に移りここへ勧請されることとなったという。
現在ここには金毘羅大権現の本地仏である不動明王と毘沙門天の二尊が初めからの牛玉所大権現とともに祀られている。
金比羅宮の本地仏を拝見したかったのだが正月だけの秘仏となっていて目通りかなわなかった。残念だ。
駐車場に戻ってみると猫がバイクの陰で休んでいた。日が高くなりいつの間にか暑いくらいになっている。
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