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○吉備児島 (平成16年10月16日)
国道2号線に戻り国道30号線で児島半島を目指して南下をする。途中道端のラーメン屋に入って遅い昼食をとる。
店の周囲一帯は広い平地で、区画整理された田圃が広がり、道路も直線で両脇は工場や郊外型の店舗がゆったりと建っている。どこからどう見ても干拓地。
それもそのはず昔は岡山や倉敷と児島の間には海峡が横たわり児島は文字通り島だったのだ。当然ラーメンを食べているこの辺りも元は海だった。地名からすると倉敷の南にある早島や玉島も島だったことは間違いないだろう。
現在の児島半島が陸続きでなく島だったことは古くは記紀に記される。伊邪那岐、伊邪那美が日本の国土を造ったいわゆる国生み神話で、本土や四国、九州、隠岐島、壱岐、対馬、佐渡、淡路島などと並んで吉備児島(きびのこじま)として挙げられている。もっとも北陸地方が越洲(こしのしま)となっていて本土である秋津島や大八島と別の島のように書かれているので国生みの島あるいは洲が全て本当の島かどうか微妙な問題は残る。本州の一部のはずがどうして越洲と記されるのかまた考えてみよう。
日本書紀には異説も多く載せられているので創造された島は一定しないがともかくその中に名前の挙がっているものは古来より重要視された島であることは確かだ。児島が含まれていることはそこが瀬戸内海交通の要衝であったことを反映している。
大伴旅人は九州大宰府から京へ戻る時に
「大和道の吉備の児島を過ぎて行かば筑紫の児島思ほえむかも」 6-967
と歌っている。
歌道には暗いが、吉備の児島を過ぎるときには筑紫の児島を思い出すかなあ、と言ったほどの意味だろう。
筑紫大宰府で懇意にしていた遊女の筑紫娘子(つくしのおとめ)は児島(こしま)と称していた。源氏名のようなものだろう。旅人が太宰府から京に登るときにこの筑紫娘子が別れに際して作った歌に答えた一首とされる。瀬戸内航路の途中の児島はよく知られた場所だったことがわかる。
航路は岡山と児島の間だったと想定されているため、このあたりから見える児島半島の山並みは旅人が船縁から眺めた景色とそんなに違ってないのではないだろうか。天平ロマンがあるのかないのか昼飯を食べている店が郊外型チェーン店であることを考えると複雑な感じだ。
それにしても餞別に歌を送るとは古代の遊女は教養がありすぎる。現代の風俗嬢とは違うのだ。
児島が島であったことは平家物語によっても知れる。
平家を追って倉敷まで攻めてきた源氏が児島に陣を敷く平氏と対峙する。しかし両者の間を狭いながら海峡が隔てていていた。軍船を大量に擁して海軍力では圧倒的な有利を誇る平氏軍に船戦を得意としない源氏勢はなかなか襲いかかれない。
この時源氏の佐々木盛綱は土地の漁師から浅瀬が馬で渡れることを聞いて攻め込みこれを機に源氏軍は大勝する。このことからも当時かなり浅瀬の所があるものの児島は海で離れていたことがわかる。この海峡を藤戸海峡と呼び約2kmほどだったとされる。
ところで盛綱は先陣の功をあげたが、情報を独り占めして手柄を立てるために渡海場所を教えてもらった漁師を殺した。世阿弥はこのエピソードから謡曲藤戸を作っているので後世の人もさすがに無関係の漁師を殺害したのは惨いと感じたのだろう。
この戦は藤戸合戦と呼ばれる。浅瀬のことを聞いて海を渡る話は覚えていたが実は今回きちんと調べるまでこれを水島の戦いだ勘違いしていた。水島の戦いは藤戸合戦の前年寿永2年(1183)に京を追われた平重衡などの平氏軍と追撃してきた木曽義仲が戦ったもので義仲はこの戦いに敗れた後勢いを失い進撃してきた源頼朝軍によって討たれる。
児島半島の話題と何も関係ないが水島の戦いは源平合戦で平氏方が勝利した唯一の戦いとまでいわれている。本当にこの一戦しか勝ってないということはないのだが平氏軍はほとんど全敗だったことは確かだ。
さらに児島といえば思いつくのが児島高徳。隠岐へ配流となる後醍醐天皇を奪回しようと津山の作楽神社に潜入したエピソードの武将だ。
名前からわかるように高徳の本拠地は児島にあったと思われる。先の余慶寺のある丘陵には高徳の居城があったとされているが、確かなところは不明で謎の人物だ。
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