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○由加神社本宮 (平成16年10月16日)
干拓地を抜けて児島半島へ入った後、由加山の表示に沿って山を登ってゆく。間違えることもなく由加山神社本宮表参道入り口前の駐車場に到着。神社の表参道だが実はここが第六番札所蓮台寺なのだ。
瑜伽大権現という神仏混肴で発展したのだが明治に由加神社と蓮台寺に分離した。そのため神社とお寺は同じ場所にある。
入り口の御茶屋においてあるパンフレットを手に厄除け石段と呼ばれる参道を登る。33、42、61段と3段になっていてなかなか長い。両脇は店や民家となっている。賑わいはなく閑散としているし規模も比べることはできないがどことなく讃岐金刀比羅宮を思わせる。思わせるだけでなく実際金刀比羅とは深い関係がある。
江戸時代になると伊勢参り、善光寺参り、大山参りなど各社寺参りの旅が盛んになってくる。四国讃岐の金刀比羅参りも多くの人を集めるようになるが、それに並行してここ瑜伽山も栄えるようになった。
「金比羅参りは瑜伽参り。一方参りは片参り。」
どちらかだけではご利益も半減とされ、金刀比羅と瑜伽を同時に参る両参りと呼ばれる参拝が流行るようになったのだ。その成立は当時の交通手段とその変遷によるところが大きい。
本四連絡橋がない時代、金刀比羅参りをするには船で四国へ渡るしか方法がなかった。その主な船便は児島半島南岸の下津井や琴浦から出て四国坂出の多度津へ向かうものだった。当然だが今の瀬戸大橋と似たような航路だ。短くて利便のよい道筋は船でも橋でも同じになる。
岡山市には高梁川、吉井川、旭川という大きな河川が流れ込んでいてその河川からの堆積も加わり児島は江戸時代には陸続きとなって瀬戸内航路は児島の北側から南側へと移っていた。それによって下津井や琴浦が繁栄するようになったのだ。
金刀比羅へ参るのにこれらの港を利用する場合、干潮の差が激しく流れが速い瀬戸内では時に潮待ちをしただろうし、海が荒れればもちろん参拝者は足止めをくらう。そんな時には近くの大きな神社についでに参ろうと思った者もいただろう。金刀比羅と同じく権現さまだったことも幸いしただろう。それ以上に、港の商人たちが積極的に瑜伽山にも参るように勧めたことが想像できる。旅人が一日でも多く逗留すればそれだけ町が潤うからだ。
ともかくそんなことで両参りと言われだしたのだと思われる。
唐突だが講談で有名な森の石松。彼は親分である清水の次郎長に代わって金刀比羅宮に代参した。代参というのは自分で参れない人の代わりに参拝に行くことで江戸時代には盛んに行われた。希望者全員が行ければ問題ないが資金や時間などなかなかそうもいかないので代表者だけ行くわけだ。
「江戸っ子だってね、スシ食いねえ。」はその帰りの船での話。そしてこの後謀略で殺されるのだが、両参りせずに金比羅宮だけの片参りだったので命を落とすことになったという伝承がある。いくらなんでもこれでは片参りはご利益半分どころかばちがあたることになる。遠路はるばる参拝してばちあたりになっては石松も浮かばれないだろう。
ところで当面金刀比羅にお参りする予定はないのだが瑜伽権現だけの方参りは大丈夫なのだろうか。
参道石段の途中に石の鳥居があり扁額に由加大権現とある。そして鳥居の裏にまわってみるとそこには金比羅宮の扁額がある。登ってくるときは由加神社の鳥居として、帰りには金刀比羅宮の鳥居として機能するようになっているようだ。このまま金刀比羅へ参れということだろ。両参りを象徴した道具といえる。
そんな由緒ある神社なのだがとても残念なものを発見した。鳥居をくぐったところに看板が出ててそれが少し気にかかるのだ。
「瑜伽山大権現蓮台寺とは一切関係ありません。蓮台寺ご参拝のかたへ。」
そして蓮台寺の方向へ矢印が書かれているのだ。
参道脇で手に入れたパンフレットもよく見ると
「厄除け、成就、金比羅の両参りは神社で、蓮台寺は葬式、法事のかた。」
などと書かれていて蓮台寺を示す位置には葬式、法事殿となっている。参拝順路も表参道から赤い線で一路神社へ向かっている。
実はこのあと寺の方でも
「瑜伽大権現蓮台寺と由加神社とは何等関係ありません」
という看板があるし、蓮台寺の案内パンフレットには神社が表示されていない。
ここの神社と寺の関係には何か険悪な雰囲気を感じてしまう。
一般に明治の神仏分離令で神仏混肴の寺や神社はそれぞれが切り離される。そうして分かれた寺と神社が隣接するところはお互い関係がよくないようだ。前の余慶寺と豊原北島神社でも仲は悪そうだった。
そのような場合神社と寺を混同することを極端に嫌うだけでなく双方が起源を主張して他方を無視しようとする傾向がある。本家争いのようなものだ。それは寺院より神社でその傾向が強いようだ。神仏混肴とは言っても理論基盤は本地垂迹を基にしているので神に対して仏が優位に立った状態が長く続いたことへの神社側の反発なのだろうか。
しかし、ここほど関係が悪そうなところは多くない。お互い無視するというよりもむしろどこか敵意が感じられる。
案内板では倉敷市は由加山の建築群として寺と神社を一括説明していた。だからというわけではないが元は一つの施設から出たものなのだからもう少し仲良くしてはどうだろうか。
正直なところ多くの参拝者には神でも仏でもありがたければどちらでもいいのだ。戦後になって神仏の完全分離は必要でなくなった。権現に戻って一つになれとはいわないが共存共栄できる方法があるだろうと思うのだが残念だ。今のままでは参拝者に混乱と不快感を与えかねない。
参道を登りきると右手に備前焼の大鳥居が迎えてくれる。拝殿正面からは無理だがそばの権現堂への石段を登ると木立の中に本殿が見えてくる。
本殿は比翼造り。国宝備中一宮吉備津神社の本殿を参考に作られたものとされる。しかし、吉備津神社が平入りなのに対してこちらは妻入りになっているので印象が全く違う。同じ比翼造りといってよいのかどうかもわからない。
本殿背後には巨石がいくつか見えている。瑜伽山の起源はこの磐座信仰から始まっているのは疑いない。
現在、主祭神は手置帆負命(たおきほおひのみこと)でこれは由加大神と同体とされる。もちろん神社が分かれた時に定められたもので明治以前は由加大神とか瑜伽大権現と呼ばれていたはずだ。
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