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○文化財点描 坂中廃寺跡 (平成18年8月14日)
平成18年8月14日、お盆でしかも休みだというのに実家に墓参りに帰ることが出来ない。少し開いた時間があるのでふらっと出かけた。
国道180号線を米子から走っていると7-8kmでとっとり花回廊への案内が出る。とっとり花回廊は鳥取県西部を代表する観光施設なので案内は目に付きやすい。そこを県道316号線に入ると坂中(さかなか)という集落へ着く。
廃寺跡を集落の中を歩き回るが見つけられない。公民館を目印にしてその横にあるという文化財紹介の記事を頼りにしていたのだが、肝心の公民館が見つからないのだ。県道を行ったり来たりして、ようやく道沿いにバス停も備わった新しい公民館が出来ていることに気がついた。どうやら紹介記事内用が古かったようだ。
公民館が目印にならない以上は自力で探すしかない。バイクを公民館駐車場に停めて歩き回り何とか見つけ出した。何のことはない雑草の繁った単なる空き地でヒノキが一本生えている。横の建物を見ると確かに古い公民館のようだ。
小さなお堂があり中に蓮の花が沢山置かれている。お盆だからなのか。
塔の心礎が、唯一ここに現在坂中廃寺と呼ばれる寺が平安時代初期にあったことを物語る。心礎は大変珍しい形をしている。通常の礎石は上面が平らだがここのものは中央に直径30cm程の出っ張りがあってさらにその真ん中にに凹みがある。出柄式と呼ぶらしい。
このあたりは坂中長者原と呼ばれ、長者というのは紀成森(きのなりもり)という豪族が住んでいたからとされる。このあたりは確かに広い台地で開墾すれば大地主となったはずだ。ただ、日野川はここから低い場所を流れているので用水の確保が問題だっただろう。
心礎の横に碑文は全く読めないが紀成盛長者之塔というものも建っている。坂中廃寺はどの様な寺だったのかよくわかってないが紀成盛との関連が考えられている。紀成森盛は1172年に大山寺(だいせんじ)の金銅地蔵菩薩を鋳造したり大山権現堂も造営したとされ神仏に篤かったと思われるため、坂中廃寺の大壇越であっても不思議ではない。
それにしても和歌山を勢力基盤にした紀氏一族につながる豪族がどうしてこんな山陰で長者と呼ばれるようになったのだろうか。実に奇妙だ。
この廃寺跡に興味を持ったのは興福寺の国宝館で玄賓(げんびん)の像を見たからだ。奈良の興福寺はあの有名な阿修羅像を初めとして国宝の宝庫だ。すばらしい仏像群に囲まれているので目に付き難いがそこには国宝木造法相六祖坐像というものがありその中に玄賓像がある。
玄賓は天皇の病気平癒を祈祷するために招請される前に伯耆の会見郡に阿弥陀寺を建立していたとさる。ここの坂中廃寺は出土した瓦などから創建は奈良時代後半で玄賓が寺を創建した時期と重なる。遺跡で何々廃寺というのが出てくるがこれは元々の寺の名前が不明なためにその土地の名前を使って廃寺とつけている。つまり、この坂中廃寺が玄賓の阿弥陀寺の可能性があると考えても良いとされている。それで一度見たかったのだ。
玄賓は後に大僧都の位を贈られるのを辞退し三輪山の麓に隠居したとされる高僧でそれをもとにした能の三輪という話がある。改めてストーリーを確認した。
三輪山の麓に隠棲していた僧都に美しい女性が仏への供え物を持って通ってくるようになった。ある日、寒さをしのぐため僧都の衣を頂きたいと乞うので僧都はそれを女に与える。すると翌日、三輪神社の杉の枝に与えた衣が掛けてあると村人が教えに来る。僧都がそこに行くと女性は三輪明神の化身であった事を明かし三輪山の故事などを告げて消える。
とにかく有名な高僧なので能の題材にもされている。中央の権力を嫌った孤高の僧であったようだ。それ程の高僧と縁のある寺かもしれないと知れば一度は見てみなければと思ったのだ。
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