同行二輪

いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

中国観音霊場(第11回)

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宇部神社

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○宇部神社 (平成19年5月27日)

昨日に引き続き二日連続で札所巡りへ出発。自宅から日帰りで廻れる場所になっているし、道を知っているので楽だ。平成19年5月27日。いよいよ今日で打ち終わる。

鳥取(とっとり)へ向かうのに中国山地を縦断するルートをとった。
国道482号線というのがある。鳥取県の米子(よなご)から京都府の宮津(みやづ)まで、海岸から離れた山中を通る道だ。一本道ではなく、途中で細かく別の国道と重複して続いている。
米子から江府(こうふ)までは国道181号線でそこからようやく国道482号線の表示が出てくる。岡山県の蒜山(ひるぜん)に上り、国道313号線に変わるが、国道482号線になって鳥取県に戻る。次は国道179号線になって人形峠(にんぎょう)を越えて再度岡山県入り、国道482号線になって恩原高原(おんばら)を通って辰巳峠(たつみ)から佐治(さじ)に降りたところで本格的に鳥取県に入る。
その後も国道の号数は目まぐるしく変り、一瞬、国道53号線になったあと再び分かれて国道29号線になる。この後も既存国道を結びながら国道482号線はまだまだ続く。
若桜(わかさ)で再び国道482号線となって氷ノ山(ひょうのせん)を越えて兵庫県に入るが、ここの峠越えは国道でなく舗装林道らしい。数キロ国道9号線になったあと出石(いずし)を通って国道313号線になり京都府へ入る。峰山(みねやま)で最後の国道482号線の表示となって丹後町(たんご)で日本海へ到達。その後は国道178号線となり丹後半島の海岸線を宮津(みやづ)へ到達する。
こんなにつぎはぎの国道を設定する必要があったのかどうか疑問だが、設定当初未開通区間があったにもかかわらず、今では一応完全につながっていることを考えると、道路整備目的には良かったのだろう。
それに単調な国道よりツーリング向きで変化に富んでいて走るのには悪くない。

今回は国道29号線になったところで国道482号線とは分かれて鳥取へ向かう。
そのまま走れば札所へ近いが、またまた寄り道で途中から県道31号鳥取国府岩美線(いわみ)で国府町へ入る。
国府町は文字通り因幡国(いなば)の国府が置かれたところで、因幡国庁跡、国分寺、国分尼寺跡、新たな観光施設の因幡万葉歴史館など見学ポイントは多い。
万葉の歌人、大伴家持(おおとものやかもち)が国司として赴任してこの地で万葉集最後の歌を詠んだことにちなむ碑もある。そういえば、山上憶良(やまのうえのおくら)は昨日立ち寄った伯耆国府(ほうき)へ国司として赴任している。山陰は結構万葉歌人とかかわり合いが深いようだ。
少し離れた岡益(おかます)には白鳳期製作と想像される謎の石塔があり、岡益の石堂(いしんどう)と地元では呼ばれている。これは、時代が全く違うのにもかかわらず安徳天皇陵(あんとく)として宮内庁が陵墓参考地に指定しているという、実に興味深い遺跡だ。あちらこちら見所は多いが、全て見て回っていてはもちろんきりがない。第一目的も違う。今回はそれらは一切パス。
それでも何も寄り道しないというのもそっけない。

国庁の中心地を左に眺めながら小学校のところで住宅街に入ると宇部神社(うべ)に到着する。因幡国一宮だ。
長い石段を登ったところに社殿がある。鳥居前に停めようとして、ふと横を見るとまだ奥へ行けそうな道があるので、進んでゆくと登りとなって境内横にある小さな駐車場に着いた。
石段を登らなくても楽な道があったとは知らなかった。

境内に足を運ぶと結婚式の真っ最中。人が多いのは皆関係者のようだ。写真屋さんもスタンバイしている。一般の参拝客は見当たらない。拝殿には近づけないので邪魔にならないように遠くから眺める。
新郎新婦や参列者は武内宿禰を知っているのだろうかと、ふと思った。

宇部神社の主祭神は武内宿禰(たけのうちのすくね)。
記紀では大和朝廷で景行(けいこう)、成務(せいむ)、仲哀(ちゅうあい)、応神(おうじん)、仁徳(にんとく)と5代の天皇に仕え、国政を補佐したとされる。
年齢は諸説あるが300歳くらい。非常に長生きだ。応神天皇の母である神功皇后(じんぐううこうごう)と共に朝鮮へ遠征したとされる三韓征伐(さんかんせいばつ)で活躍する。長生きと出征ということで、戦前、戦中は武運長久のシンボルとして信仰された。
またいわゆる三韓征伐の話は戦前、朝鮮半島と中国東北部の植民地支配を進めていた日本政府にとって非常に都合がよく、天皇を長期に渡って支えた忠臣でもあり、二重の意味で都合が良かったため国が盛んに教育に使ったこともあって大変に有名だった。お札の肖像にもなっている。しかし、あまりに天皇崇拝に結び付けられていたことから、戦後は皇国史観への反動で逆に全く人気がなくなりすっかり影が薄くなってしまった。
別に武内宿禰が悪いわけではなく時代に利用されただけなので、そういう点では不運な人だ。
もちろん、300歳ということからも実在の人物とは考えられていない。

境内に武内宿禰の終焉の地の碑がある。
その横から本殿裏にあたる小高い場所に上ると「双履石(跡)(そうりせき)」と呼ばれる1mにも満たない石が二つ瑞垣で囲まれている。
因幡国風土記逸文に、「仁徳天皇の五十五年春三月、大臣武内宿禰命は御年三百六十余歳で因幡国に下向され、亀金に双(ふたつ)の履(くつ)を残して行方知れずとなられた。聞くところによると、因幡国法美郡(ほふみ)の宇倍山の麓に神の社があり、これは武内宿禰の御霊(みたま)である。昔、武内宿禰は東方(あずま)の夷(えみし)を平らげて宇倍山に入ったあと終われる所を知らずという。」という記事があるとのことだ。
要するに、武内宿禰はここで山に入り履を残して姿を隠したということだ。
その残された双履が石になったものがこれらしい。石が双履そのものではないだろう。人が履くには大きすぎるし、第一重過ぎる。
小高い岡に履物だけを残して姿を消すというのは、天に昇って行ったということをイメージしているのだろう。

双履石は元来は神社の御神体のようにも思える。しかし、大きさからは磐座ではなさそうだ。あまりにも小さい
ひょとすると古墳の一部かも知れないと想像したが、後で調べてみると、本殿を建てるために平地にならされたため一部切り取られているが本当に古墳とのことだ。
伝承通りならこれは武内宿禰の御陵となるのか。
ただ、この「因幡国風土記によると」という引用はどうやら創作らしい。作者が勝手に風土記に書いてあるように語ったものか、当時そういう伝承があったのをそのまま記したものかはわからないが、ともかく伝説は鎌倉以前には溯らないという説もある。
どうやら因幡国風土記は残ってないが、そこには記されていない話らしい。
昔の人は、何々によると、といった引用を何の根拠も資料もなく勝手にしている例がよくある。大らかだったのだろうが、人騒がせなことだ。

本殿は桧皮葺、流造の変形のようだ。さすがに巨大な社で一宮の風格十分だ。
境内の隅に摂社の国府神社(こう)というものがある。国府跡も近いため総社かとも思ったが、最近合祀されたものらしい。

この神社からは遊歩道が続き、近くの山を鳥取市の方まで散策できるようだ。トレッキングで歩いているとここから姿を消した武内宿禰に会えるかも知れない。

式場の方々に「お幸せに」と心の中でお祝いを述べて、神社を後にした。


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