|
○下山観音堂 (平成19年7月8日)
大山寺本堂(だいせんじ)から石段を下って観音堂へ向かう。いよいよこの中国観音霊場めぐりの打ち止めというかお礼参りというか締めくくりとして廻っている大山寺探訪も終わる。
そして、それは本当に観音霊場巡礼の最後でもある。
観音堂は狐の狛犬が迎えてくれる。狛犬が置かれているのが神仏習合の名残をとどめている。狐だがお稲荷さんが併せて祀られていたわけではない。
大山寺観音堂、正確には下山観音堂(ともやま)と呼ぶ。
先に廻ってきた大神山神社(おおがみやま)の隣にあった下山神社と関係の深い観音堂で、下山神社が白狐を祀っていることから狐の狛犬がいると思われる。
下山神社の縁起のところにあったように、白狐が自分を祀るように告げた場所の土中から掘り出された観音菩薩を安置したのがこの観音堂の起こりとされる。それで下山観音堂とも呼ばれるのだ。
土中から出た観音菩薩が最初は下山神社に安置されていたのか、観音堂が初めからここにあったのかは確認できなかった。
ゆっくりと最後の般若心経をあげる。
既に御朱印は頂いているので、お勤めの後は参道石段を下って帰路につく。
順路からいえば逆になるが山門で志納金300円を納める。実は、入山料は登ってくる人から取るのが基本なので裏から大山寺本堂へ入って降りてくる場合、払わなくても通過できてしまう。
大山寺は往時は自治で独立していたし、明治以後はしばらく寺が途絶えたこともあって檀家というものを持たない。基本的には全てを寄付金でまかなわなければならないのだ。現在は伽藍がほとんどないと言っても、維持するにはそれなりの費用は必要なはずだ。それを考えると素通りする気になれなかった。それに観音様にも怒られそうだ。
しばらく前に上ってきた参道に戻ってきた。山門を後に少し降ると左手に霊宝閣(れいほうかく)という収蔵庫が見える。実は山門での入山料が入館料を兼ねている。見方を変えれば山門の入山料納志は宝物館の押し売りといえないこともない。
正直言って、今の大山寺本堂に入山料を払ってまで見るべきものはないし、この宝物館も観光客に訴えるようなものはほとんどないので、寄付金と考えないと入山料が高いと感じられてしまうだろう。
宝物館は単なるコンクリートの収蔵庫のような建物で霊宝閣というのは名前負けしている。それはともかく今回はここに絶対に入らなければならない。観音霊場としての大山寺のお礼参りに是非とも必要な場所なのだ。
中は一部屋で広くはない。じっくりと見てまわっている人は少なく、ほとんどさっさと一回りして出てゆく。期待はずれという顔つきの人が多い。展示物の中身を考えるとしょうがないだろう。
大山寺縁起絵巻でも残っていれば違うのだろうが。
それでも腰を据えて見学するとそれなりに興味深い展示もある。
まず、大山寺の本尊とされた大智明権現像(だいちみょうごんげん)。坐像と御影の画像。右手に数珠、左手に宝珠の僧形で現してある。
右手の数珠を錫杖に持ち変えると地蔵菩薩像だ。大智明権現の本地が地蔵菩薩であったことと関係しているのかもしれない。
大山寺を統治した西楽院本尊(さいらくいん)の薬師如来坐像。1m足らずのそれ程大きくない像だが良く整っている。大山寺は大智明権現、つまり地蔵菩薩の霊地とされていたが西楽院は薬師如来を安置していたことがわかる。これは天台宗の影響下にあったことと無縁ではなさそうだ。
30cmくらいの小さな千手観音像は、右脇侍に毘沙門天(びしゃもんてん)、左脇侍に地蔵菩薩という変わった組み合わせの三尊形式だ。大山寺を代表する地蔵菩薩はどうしても必要だったのだろう。脇侍の相手に毘沙門天が選ばれた理由は見当がつかない。
そして、部屋の一番奥に20cm足らずの金銅仏が4体。白鳳時代の観音菩薩立像。これが今回どうしても見ておきたかった仏像だ。
下山神社建立の地から出土したとされる観音菩薩像とされるものだ。つまり、これが下山観音堂の本尊だったはずなのだ。現在はこうしてここに保管されていて、今の観音堂の本尊は新しく造られたものが安置されている。
4体の全てが安置されていたのかどれか1体が御本尊だったのか説明がないため知ることができない。大体、観音堂の本尊だったことの説明すらもない。多分、この観音像をそういう目で見る人はほぼ皆無ではないだろうか。ひっそりと展示してある小さな像にはそれも似合うかもしれない。
手を合わせて経をあげる。
観音像はいかにも異国的中国的な作風だ。東京国立博物館の平成館に展示してある四十八体仏と呼ばれる法隆寺献納宝物が白鳳時代の小金銅仏の代表とすると、細かい違いはわからないが全体の印象は良く似ている。
この観音像は地中から掘り出された伝承があるが、多分それは本当の事なのだろう。
小金銅仏は埋納によく使用された。特に修験道の聖地で多い。日本の最大修験道場である吉野の大峰山(おおみね)からも出土するし、熊野三山の那智(なち)山中からのものも有名だ。そしてそれらの金銅仏はやはり法隆寺献納の金銅仏に素人目には良く似ているのだ。
大山寺は地蔵菩薩の寺だが修験道(しゅげんどう)の寺でもある。中国霊場の三十一番札所、三徳山とも関係している。当然、宝物館には修験道の開祖である役行者(えんのぎょうじゃ)像もある。大山寺は中世修験道の聖地だった
大山寺縁起によれば兜率天(とそつてん)の第三院の巽(たつみ)の角から落ちた磐石が三つに分かれて熊野山、金峰山、大山が出来たとされる。もちろん熊野山といのは熊野三山の那智で金峰山は吉野大峰山系の山だ。縁起からも大山寺が修験道の道場として発達していたことがわかる。
しかも、大山が修験道の有名な聖地とみなされていたのは地元だけではない。都でもそのように信じられていた。
修験道の守護神である蔵王権現(ざおうごんげん)の出現に関する説話でそれがわかる。
多武峯神社(とうのみね)に伝わる役行者絵巻では、役行者が守護神を感得しようと祈った時、まず柔和な相で神が現れたが、このような姿では悪行の広がるこの世を感化するには心もとないと思ったところ、出現した神は西へ飛び、今の伯耆の大山の権現になり、さらに役行者が守護神を求めたところ遂に憤怒の蔵王権現が出現したとされる。
また、別の絵巻伝でも、初め地より湧出された形は柔和忍辱の相を現し、地蔵菩薩の如くであったが、このような姿では未来濁世の衆生を済度出来ないだろうと思ったところ、地蔵菩薩は伯耆の国の大山というところに至って大智明権現となったと説明されている。
最も一般的に受け入れられているのは峰中秘伝などによるものだろうがそれにも大山が述べられる。役小角、つまり役行者が祈ったところ、最初に弁才天(べんざいてん)が雲に乗ってあらわれたが、力を奮い悪を懲らしめる強い方が欲しいと願うと、天女は天河(てんかわ)の里へ降りて行かれた。次に慈悲の姿の地蔵菩薩が降りられた。小角が人々に奮起を促すにはあまりに柔和な姿であると思うと、川上の阿古滝の方へ去って行かれた。あるいは遠く山陰の大山に避けられた。最後に大地を揺るがす轟音と共に金剛蔵王権が忿怒の相で現れた。
出現順番は、釈迦、弥勒、蔵王権現というのもかなり良く知られている。これには地蔵菩薩は出現しない。いずれにせよ役行者が祈って湧出した地蔵菩薩が大山にやってきたことは都でもそのように信じられていた。大山が修験道の聖地とみなされていたことは間違いない。
修験道では吉野と熊野が総本山のようになっている。大峯(大峰)(おおみね)山系の吉野側を金剛界(こんごうかい)、熊野側を胎蔵界(たいぞうかい)とする両部曼荼羅に対応させて、両方を巡るとされる。
天台系の聖護院(しょうごいん)が取り仕切った本山派(ほんざん)は、熊野から入峰(にゅうぶ)して北上して大峯吉野に至る順路をとり、これを順峯(じゅんぷ)と呼び、。真言系の醍醐寺(だいごじ)、三宝院(さんぽう)は当山派(とうざん)と呼ばれ、吉野から峯入りして南下して熊野に至る順路の逆峯(ぎゃくふ)と呼ばれる巡礼修行方法を取った。
実は、山陰の修験道の霊地、大山寺と三徳山三佛寺を結ぶ参詣路が大山の山中の大休峠(おおやすみ)を越えてあった。今はトレッキング路となっているが、途中の全くの山中、登山道のような場所に石畳が残っていたりする。
この大休峠越えの道は吉野と熊野を結ぶ修験道と対応されていたのではないだろうかなどと思った。
大山寺では考えることが多い。巡礼最後にもう一度来て、いろいろ知ることが出来たし、良い体験にもなった。
収蔵庫を出ると山門には白衣の巡礼者の集団が見えた。ほとんどが老婦人だ。ツアー遍路のようだが無事に廻れますように。
今日は少し寄り道しすぎた79km。これで本当の中国三十三ヶ所観音霊場を打ち終わった。
様々なことに感謝。
|
上の記事といい、重ね重ね お疲れ様でした。
今回 私ここを訪ねて、奥宮の途中で →金門??って あったので 途中まで 行って見たのですが 分かりませんでした。
また 伺いますね
2008/8/8(金) 午前 10:04 [ 建築や ]
案内にしたがって歩けば行けるはずですが・・・。
機会があれば再挑戦してみてください。特にびっくりするよなものでもないですが。
2008/8/8(金) 午後 8:38