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「綱」 第十九番 長浜神社
平成19年8月14日、お盆の真っ最中だが事情により墓参りにも帰れない。職場が休みということもあり第二回目の出雲国神仏霊場巡りに出かける。
いつものように混雑を避けて山間の農道をのんびりと走る。一つ山を回り込んだり一つ坂を下ったりするだけでまわりの温度が暑くなったり涼しくなったりする。少しだけ地形が変わるだけで気温が変わるのが実感できる。車ではこれはわからない。直接肌で風を感じられるバイクならではの楽しみだ。
左右の水田は青々としていて、神話の昔からこうして人々は暮らしてきたのかと、連綿と続く農村生活を妙に感傷的に考えてしまったりする。
出雲市(いずも)のはずれ、市街地と多伎(たき)の間、島根半島の西の付け根あたりに位置する場所に神西湖(じんざい)がある。東西南北1km余で湖と呼ぶより少し大きめの池といった規模だ。周囲は一面の水田で、湖面との差はほとんどない。湖の水位が上がればまわりは簡単に水没する。
湖の水深も2m程度で非常に浅い。広い湖沼が周辺から埋め立てられて残った湖のように見えるが、実際その通りだ。
これから訪ねる次の霊場、長浜神社のシンボル、「綱」という字を理解するには、国引き神話と神西湖周辺の古代の地形を知る必要がある。
国引き神話とは出雲国風土記の冒頭に語られ、出雲の地名説話にもなっている重要な物語だ。
八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)は国を見まわして、小さく造ってしまったので他所から土地を引っ張ってきて継ぎ足した。そして、仕事を終えた時に瑞祥の雲がたなびいたので、この土地を出雲と呼ぶようになった。
一言で説明すればこういう内容だが、実際は、繰り返しを多く用いたリズミカルな文調で壮大に語られる出雲国風土記のハイライトの一つだ。
以前は、素戔嗚尊(すさのお)の八岐大蛇退治(やまたのおろち)などと並ぶほど全国的に知られているのだと思っていたが、古事記や日本書紀などには載らない内容で、どうやら知名度はそうではないようだ。しかし、多分、出雲を含めて山陰地方では誰でも知っているといってもおかしくない程良く知られている。
引っ張って来られた土地は今の島根半島で四ヶ所から別々に引いて来て継ぎ合わせたとされる。その時、一番東は、引っ張った綱が島根半島の東に延びる弓ヶ浜半島(ゆみがはま)で、その綱を継ぎとめた杭が大山(だいせん)とされる。
これは、地図を開いて見ると成る程と思える地形になっている。実際に、大山の中腹にある大山寺あたりから日本海を眺めると、大山の麓から弧を描いて日本海に突き出る弓ヶ浜の先に島根半島が俯瞰できる。まさしく国引き神話の景色そのものだ。
一方、島根半島の西に目を転じると綱と杭は見当たらない。しかし、古代は出雲市の西にも大山と弓ヶ浜のような地形が存在した。島根半島の東西両側に同じような大きな山と砂州があったために、国引き神話が誕生したと考えられる。
斐伊川(ひいかわ)は現在は宍道湖(しんじこ)に注いでいるが、これは江戸時代の治水工事で付け替えられたもので、それまでは西へ向かい日本海に注いでいた。そして出雲の暴れ川であった斐伊川から供給される土砂で砂州が形成され、その砂州によって河口には広い沼沢が広がっていた。それが神西湖だ。
つまり、神西湖は今よりずっと広く北の出雲大社の方へ向かって広がり、その西に砂州が弓状に南北に伸びて、斐伊川は神西湖に注ぎ神西湖は日本海に出雲大社の南側でつながっていた。
現在の大社近くの日本海では稲佐(いなさ)の浜とも呼ばれているが、古代の砂州の名残が大社から多伎へ延びている薗の長浜(そののながはま)と呼ばれる砂丘だ。
国引きで八束水臣津野命が使った綱が薗の長浜で杭が三瓶山(さんべ)と風土記には記される。
国引きの綱の地に鎮座する長浜神社。シンボルの一字は「綱」しかない。
神西湖から国道9号線に出て国道431号線に入り出雲大社方面へ向かう。1.5km程で県道279号線との交叉点を西へ曲がれは更に1km余で神社に到着する。一応、交叉点には看板があるのだが、高くなった夏草に隠れて目に入らずに一度は行過ぎてしまった。
昔の斐伊川の名残を留める神戸川(かんど)を渡ると少し樹木に覆われた小高い丘が目に入る。薗松山(そののまつやま)と呼ばれる50m程の小山だ。
山を一周するように道が続くが、参道は真っ直ぐに突き当たった場所から始まる。ここも手前の表示がはっきりしなくて横道に少し進んでしまった。しょっちゅう間違うのは単純に方向音痴だからなのか。気持ちとしては年のせいにしたいのだが。
駐車スペースから山頂に向かう長い登りの参道が続く。
大きな石の鳥居、随神門と続き長い石段。細い舗装路が横にあるのでそちらはまだ進めそうだしもちろん舗装路を走った方が楽だが、参道は静かで落ち着いた風景で、のんびり歩いて登るのは悪くない。後で知ったが800m程あるらしい。
少々疲れた頃、ほぼ山頂付近に境内が広がる。
拝殿は新しいモダンな屋根の建物で、その後ろの本殿は典型的な大社造。先日霊場巡りで訪れた須佐神社(すさ)よりは一回り小さいが、それでもかなり立派だ。主祭神はもちろん国引きの神、八束水臣津野命。
境内を掃いているのは田舎の神社には珍しく大学生くらいの若い女性。社家の娘さんだろうか。夏休みなのか、それともお盆の里帰りなのか。
周囲は原生林そのままで、他に参拝者もいなく、静かでゆったりとした時間が流れる。
ここには縁がなく今回始めての参拝だが、落ち着いた気持ちにさせられる癒される良い場所だ。何故今まで来てないのだろうと、少し反省した。
本殿に向かって右後ろに、三つ鳥居がありその背後には壇が築いてある。壇上に岐神(くなど)の石碑、荒神の祠が据え置かれて、中央に要石(かなめいし)、夫婦石と記される人の頭程の自然石が三つ固定されている。新しいもので、境内の末社や神石などをまとめたらしい。まるで何かのモニュメントのようだ。どうでも良いことだが岐神は「ふなど」と読まれる場合が多いが、道祖神のことで、道俣(ちまた)の神などとも呼ばれる。夫婦石はどうやら陰陽石らしい。
この中で、要石が国引きに関係がある。風土記にはないが、八束水臣津野命は引っ張って来た土地や継ぎとめた綱が動かないように所々に杭を打って歩いたとする伝説があり、その時の杭が要石とされる。ここ以外にも島根半島などにもあるらしいが、調べても確認できなかった。
それにしても三つ鳥居が変っている。鳥居の両脇に更に小さな鳥居が組み合わされているもので、非常に珍しい。シルエットはオリンピックの表彰台のようになる。三輪山(みわ)の麓の大神神社(おおみわ)の禁足地にあるものが良く知られていて、三輪鳥居とも呼ばれる。
伊勢神宮の起源の笠縫邑(かさぬいむら)伝承地とされる檜原神社(ひばら)で見たのが最初でその後も記憶にない。もちろん山陰で見かけたのは初めてだ。
大神神社や檜原神社などでは特別な意味を持つ鳥居なのだろうが、ここではそこまで深い意味はなさそうだ。典型的な三つ鳥居は明神鳥居という少し反りのある形式の鳥居が基本なっているが、ここでは神明鳥居という反りのない鳥居で構成されている。
祀られているのが、中央の要石群、左右の荒神、岐神ということで、単純にその三つにそれぞれ対応する鳥居として建てられたとしか思えない。
境内には砂場がある。子供の遊び場ではなく、ジャンボ綱引き大会の催される場所だ。もちろん綱引き大会は国引き神話に因んでいる。
ここは国引き神話の舞台となった神社とされるが、実は起源はあまりはっきりしないようだ。
江戸時代までは妙見社として知られている。北斗星あるいは北斗七星を神格化した妙見菩薩を祀るのが妙見社だ。神仏混肴の社だ。
ここらは元々、斐伊川によって堆積した砂丘が長く広く続く平坦な地なので、小高い丘でも昔は良く目立ったはずだ。その頂で北斗星を祀っていたのだと思われる。
意外に国引き神話との結びつきは新しいのかも知れない。
参道入り口に出雲国風土記登場地を示す石柱がある。松江、出雲にはあちらこちらに立てられていて、簡単な地図と説明が付けられている。訪問の手助けや理解にとても役立っている石柱だ。
薗松山「此(これ)は意美豆努命(おみずづぬ)の国引き坐(ま)しし時の綱なり」。
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