同行二輪

いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

出雲國神仏霊場(第2回)

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「譲」 第一番 出雲大社

国道9号線から長浜神社を経て、国道431号線を北へ向かうと島根半島の山々の麓に出雲大社が鎮座する。

島根県というより山陰一のビッグネーム、どんな観光案内にも必ず登場する出雲大社。出雲国神仏霊場の第一番になっているのも当然だろう。むしろ、ここが一番でなければ、一体どこを一番にすれば良いのか見当も付かない。

日本書紀と古事記の記紀神話と出雲国風土記の出雲神話、高天原(たかまがはら)の天照大神(あまてらす)以下の天津神(あまつかみ)と追放された素戔嗚尊(すさのお)の子孫である大国主命(おおくにぬし)たちの国津神(くにつかみ)、高天原の天神と葦原中国(あしはらのなかつくに)の地祇(ちぎ)、伊勢と出雲。中央の大和朝廷との関係で数々の対比で述べられる出雲大社は多くの謎を含み、古代史好きはいくらでも想像が膨らむ。
ここでは何か一つでも想像し始めるとそれだけできりがなくなってしまうので、なるべく触れないで通ることとにする。

出雲大社を代表する文字は「譲」。国譲りから来ている。話は結構長いのだが、「譲」を重点に記紀を要約すると次のようになる。

天上の高天原の天照大神はこの日本の国は自分の息子が治める地だと、御子の天忍穂耳尊(あめのおしほみみ)を派遣したが、下界の葦原中国は国津神が多くひどく騒がしいと言って帰って来た。そこで、天照大神は統治の委任を承認させるために天穂日尊(あめのほひ)や天若日子(あめのわかひこ)を出雲に派遣するが、反対に大国主命に仕えて帰って来ない。そこで、武神である建御雷神(たけみかづち)や経津主神(ふつぬし)を送り武力で従うことを強要させる。建御名方神(たけみなかた)の反抗もあったが、結局は大国主命は自分の宮を造り祀ってくれるならという条件で、以後は葦原中国を天照大神の御子に譲り、自らは宮に隠れた。これを出雲の国譲りと呼んだりする。
その後、この国譲りの騒動の間に天忍穂耳尊に御子が生まれていて、その瓊瓊杵尊(ににぎ)が天降る天孫降臨の話へと続く。

簡略化しすぎているが、要点は大体間違っていない。
これを大和朝廷の出雲勢力の武力平定の神話化と考えるのは良く知られた説だ。また、大国主命の宮隠れは、出雲の首長の降伏と自殺とみなすのも有名だ。
真実はともかく、記紀をそのまま読めば、国譲りはけっして平和的ではないし、出雲にとっては喜ばしいことでもない。天照大神の側からすると国譲りなのだろうが、出雲の大国主命にすれば略奪侵攻や討伐平定になるので、「譲」よりむしろ「奪」の方が正確な気がする。

しかし、何故か被制服側の出雲でも国譲りとして友好的な話として説明されることが多い。不思議だ。実は国譲りは余所者への表面的な態度で、古来より住民の奥底には大和朝廷や天照大神への反抗心があるのだろうか。出雲人ではないので知る方法がない。

駐車場の混雑から予想していたが、お盆ということで参拝者が多い。さすがに山陰地方を代表する神社だ。元旦とはいかないが、少し遅い初詣に匹敵する人ごみだ。普段の休日よりも明らかに多い。初詣にお寺に参り、お盆に神社詣で、実に日本人だ。

大社の駐車場は境内の横なので、そこから神楽殿の前を通って境内に入ると、もうそこが拝殿の横だ。車で来た人はそのまま拝殿と本殿で参拝を済ませて帰って行く。もちろん普段は観光客と同じように真っ直ぐ拝殿に向かうのだが、今日は久しぶりに参道を歩いてみたくなった。

真っ直ぐに伸びる参道を拝殿を背に一旦逆に進む。道路に面した境内の端、鳥居までやって来た。通称、二の鳥居。巨大な鳥居を前に見る大社の境内は広い。
息を整え、鳥居前で一礼し、改めて拝殿向かって参道を進む。来る時よりも楽だ。それもそのはず参道は緩やかな下り坂になっている。
現在は県道161号線で車道になっているが、古くからの参道は境内から更に南へ延びている。県道から大社に向かって進むと、700m程離れて一の鳥居である石の大鳥居を抜けるが、その手前から、道が上り坂になっていることに気が付く。
境内正面の二の鳥居前を勢溜り(せいだまり)と呼び、そこが一番高い場所となっているのだ。

長い参道を進んできて、一番高い場所で、歩んできた勢いが溜まるので勢溜りと呼ぶという説もある。門前の出店が多く大変賑やかだったことから勢溜りと呼ばれたらしいが。

鳥居から拝殿や本殿に下って行く参道はあまり多くない。むしろ上って行くことが普通だ。出雲大社を一般的な大国主命を祀る社ではなく、隠れ籠もった宮、奥津城(おくつき)と考える人たちには、本殿が参道より低い位置にあることもそれを暗示する証拠となるのだろう。
そんなこととは関係なく次々と参拝者が拝殿に向かい流れてゆく。下りの参道が珍しいということに気がつく人もほとんどいないのだろう。

参道の両側左右には立派な枝振りの松の巨木が連なる。玉砂利を踏みしめながら、この多くの人たちは一体どこから来たのだろう、とぼんやりと考えていた。勢溜り周囲には駐車場はない。
今までの経験で自家用車で来た場合、駐車場に停めて参道を一度鳥居まで歩き、そこから参道を歩いて参拝する人が多くないことを知っている。
一畑電鉄を利用しても、便数が多くないので人の列は電車の到着の間で途切れるはずだ。大社の前には既にJRはない。出雲市街からバスでやって来たのだろうか。
よくわからないが、確かなのは、これだけの人を集める神社は山陰には他にないということだ。

最後の鳥居、銅の鳥居の手前右手に、波の上に乗り海の向こうから来る和魂(にぎみたま)、幸魂奇魂(さきみたま、くしみたま)を迎える大国主命の像がある。和魂の周囲には、イチイだろうか、密集して植えてある枝がまるで海原のようだ。記念写真を撮っている若者の集団がいるが、ここに表してある記紀の話は知らないだろう。

拝殿でニ礼四拍手一礼する。出雲大社は拍手は二つでなく四つ打つことになっているのだ。
そのまま後ろの本殿に向かう。
本殿は現在、平成大遷宮が進行中だ。遷宮と言っても伊勢神宮のように別の場所に新しい社を造るのではなく、今の建物の修復の意味が強い。仮殿への遷宮は来年平成20年。新しい本殿に帰られるのが平成25年の予定となっている。

まだどこも工事が行なわれている気配はない。しかし、これが今の本殿を自由に眺められる最後になるかも知れない。参拝の後、いつものようにゆっくりと本殿の玉垣を巡る。

ぐるりと一周する人は少ないらしく、本殿裏は驚くほど静かだ。実は、本殿の真裏にあたる場所に、素鵞社(すが)という素戔嗚尊を祀る社がある。まるで奥の院のような配置でかなり気になる。

そのまま宝物館に入る。奉納の刀には興味がない。興味というより刀剣の鑑賞眼がないのだ。
大社造の模型は興味深いが、今回は古い境内図に目が止まった。そこにもやはり本殿の真後ろに素戔嗚尊社が描かれている。本殿は何度か建て替えられていて、場所も同じではない。どこまで溯れるのかわからないが、本殿と素戔嗚尊社の配置が古来より踏襲されているとしたら、素戔嗚尊社はかなり根本的な重要な社で、やはり奥の院としての意味を持つ気がする。そうなると単なる末社などでははないと思われるのだが。
何時来ても、出雲大社は勝手な空想が際限なく湧いてくる神社だ。

宝物館の入り口受付の老人は、愛想がなさ過ぎる。少し考えた方が良いだろう。

出雲といえばそば。何時もの老舗店に回ってみたが、やはり待ち行列ができている。普段は空いている観光土産店の食堂やソバ所にも客が溢れていたので、待たずに入れるとは期待してなかったが、やはりそうだった。
時間の余裕が少ないので今日はあきらめる。


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