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後醍醐天皇にまつわる史蹟 その5
珠慶山、生蓮院、凉善寺(平成20年6月28日)
古くからある町には寺院の集中した寺町と呼ばれる地域があることが多い。多くは江戸時代に藩の方針で集められたものだ。鳥取県の西部、島根県との県境に近い米子にも昔ながらの細い路地に沿って寺がずらりと並ぶ寺町がある。
その寺町から100m程南にある凉善寺(りょうぜんじ)を訪れたのはそろそろ蒸し暑くなってきた平成20年6月28日。
開発のされてない旧市街なので道は細く一方通行も多い。土地鑑がないと、来るのも難しいような場所だ。
ごく一般的な町中の寺で取りたてて特徴などない。もちろん観光寺院でもないので人の姿も見ない。そんな中に「児島高徳縁の地」の看板が妙に目立つ。
児島高徳(こじまたかのり)の名前は現在ではあまり知られているとはいえない。しかし、後醍醐天皇の忠臣として、皇国史観で天皇至上主義だった戦前戦中は天皇を助けた臣下の鑑として教科書などにも載り、知らない人はいなかったと聞く。
「天莫空勾践 時非無范蠡」。十字の詩で有名だ。もっとも、漢文がよほど得意でなければ読めない。
元弘元年(1331年)、後醍醐天皇は鎌倉幕府倒幕を計画して挙兵するが失敗する。元弘の変だ。捕らえられた天皇は隠岐島に流罪と決まる。天皇方の郎等は天皇を奪還しよう画策するが、実現しなかった。児島高徳はあきらめず護送中に助け出そうとすして、天皇が宿泊していた津山市院庄(いんのしょう)の美作守護院庄館に忍び込む。しかし、さすがに厳重な警護のためにそれ以上近づけず、そばにあった桜の木に、十字の詩を彫った。現在、館があったとされる場所には後醍醐天皇と児島高徳を祀る作楽神社(さくら)が建てられている。「作楽」の「さくら」とはもちろん児島高徳が彫った「桜」の木を意味している。旧国名で津山のある岡山北部は美作(みまさか)という地で。略して作州(さくしゅう)とも呼ばれた。宮本武蔵は出身を作州宮本村といっている、あの作州だ。そこで、「さくら」の神社を表わすのに作楽の字を使ったのだと想像される。創建は非常に新しく明治だ。天皇の権威で国を纏め上げる過程で創建されたものだ。
桜の木に刻んだ十字の詩の意味を知るには、鎌倉幕府滅亡の太平記の時代から、遥か紀元前500年位前の中国春秋戦国時代まで遡らなければならない。
古代中国は周が紀元前770年に倒れてから、秦の始皇帝が紀元前221年に再び統一するまで、
各地に小国が群雄割拠する状態で、春秋戦国時代と呼ばれる。
そして当時、南の揚子江流域では呉と越という二大勢力があった。呉は今の上海あたり、越は紹興酒で有名な紹興のあたりだったらしい。呉王夫差(ふさ)と越王句践(こうせん)が激しく戦う。
まず、呉の夫差の父親が越に攻め込むが越王勾践に敗れ、越へ復讐して無念を晴らすように息子の夫差へ言い残して亡くなる。呉王夫差は夜に薪の上に寝て自分を痛めつけ、父の無念と復讐の念を忘れないようにして、軍を強化した。
それを知った越王句践は、重臣の范蠡(はんれい)が止めるのも聞かずに呉王夫差へ打って出るが、敗れて会稽山に逃れる。句践は范蠡の忠告に従い、生きて再起を図るために恥を忍んで呉の臣下となり降伏する。この時、夫差の父の重臣だった伍子胥(ごししょ)は、句践を生かしておいてはいけないと進言するが、夫差は降伏条件を受け入れて助けてしまった。
命の助かった句践は、恥を忘れず復讐の念を持ち続けるために、肝をいつも側において舐めた。肝というのは動物の胆嚢のことで、胆汁のためにとても苦い。
じっと耐え忍んで范蠡とともに反撃の機会を狙っていたが、ついに句践は呉に攻め込み激戦の末に呉を破る。以前に命を助けられているので、越王勾践は呉王夫差の助命を考えるが、范蠡は許さないように主張して、夫差も臣下に下るのを潔しとせず自決した。
長くなったが、先の十字詩「天莫空勾践 時非無范蠡」はこの呉越の攻防の故事を踏まえている。
「天、勾践を空(むな)しうすることなかれ、時に范蠡無きにしもあらず」と訓読する。
直訳すると「天は勾践を見放してはいけない。時には范蠡の様な忠臣がいないわけではないのだ。」とでもなるのだろうか。勾践を後醍醐天皇に見立てて、「今は囚われの勾践の身でも、必ず范蠡の如く忠臣が現れてお助けし、御武運も開けますので、それまでご辛抱を。」と言うような意味が込められている。もちろん児島高徳は自らを范蠡に重ね合わせている。
朝になって護衛していた兵士が刻まれた詩を見つけたが誰も意味が分らなかった。ただ、天皇だけが理解出来たと伝わる。
戦前は何と、この十字の詩を含む歌が小学唱歌になっていたそうだ。昔の小学生はすごい。それに対して、さっぱり読めないし、意味の分からない現代の我々は護衛の兵士並みか。
その後、児島高徳の願いどおり、後醍醐天皇は隠岐からの脱出に成功して鎌倉幕府は倒れ、建武新政を断行するのは誰でも知っている通り。
因みに、呉越の戦いに関しては多くの故事成語が出来ている。
「呉越同舟」は、夫差と句践の物語とは直接関係ないが、二国の対立が激しかったことを踏まえている。
復讐の念を燃やすため、夫差が薪の上に臥し句践が肝を舐めたことから、「臥薪嘗胆」の成句が出来た。
会稽の恥をそそぐ、というのは会稽山で破れ屈辱を味わった句践が復讐を遂げたことから生まれた。単に、会稽の恥、という使い方もある。
また、呉王夫差の父親の代からの重臣、伍子胥の物語からも故事成句もある。
彼は、父兄の仇の墓を暴き死体を掘り出して鞭で打った。これから、死屍に鞭打つ、の成句が出来ている。死人に鞭打つ、または死者に鞭打つ、などとも使われる。死体を掘り出してまで復讐をするのは、日本ではあまりない。どこか大陸的な感じがする。
さすが死体を掘り返して鞭で打つのはやりすぎだと非難した友人との会話の中からは、「日暮れて道遠し」の句がある。
境内に入るとすぐ左手に児島高徳の顕彰碑が立っている。
「勤皇 児島高徳公」。自然石に彫られたなかなか立派な石碑だ。新しいもので、寄付の名簿の石版もある。
石碑の隣にお堂があり、その側に先程の立派な石碑とは対照的な小さな慎ましい碑がある。「誠忠 児島高徳 遺塔」。石碑との関係は不明だが、どうやらここに遺塔があった跡らしい。
元文5年(1740年)、児島高徳公17代目の子孫、古谷作太夫一政の位牌を、その子の古谷如水が作って凉善寺で供養を行ったことから、児島高徳ゆかりの寺となったようだ。
本堂にはその時の位牌が安置されているそうだ。遺塔はその時の供養と関係するものだろうか。
顕彰碑は寄付で作られているので子孫の供養塔などとはあまり関係がなさそうだ。
児島高徳はその名前から分るように、岡山市の南、児島を本拠地としていた。山陰にやって来たとの話も聞かない。何か伝説があり墓でもあるのか、と期待してここにやって来たのだが碑しかなかった。直接は関係ないことが分かった。正確には児島高徳の子孫ゆかりの地とするのが正しい。
もっとも、児島高徳の実在を疑問視する説もあるようなので、何もなくてもしかたがないかも知れない。
それにしても、実在が疑問視されてもその子孫は続いているわけだ。
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えーっと・・・。書いている本人も覚えてなんかいません。
うっすらと記憶にあるだけです。特に最近は記憶力が・・・。
2013/2/4(月) 午後 8:00