同行二輪

いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

全体表示

[ リスト ]

イメージ 1

・・静の岩屋(平成20年6月28日)
お岩さんを過ぎ、粟嶋の小山に沿って中海側に回り込むように更に進む。少彦名命の伝説をだけでなく 八百比丘尼(やおびくに)の伝説も残る。複数の伝説が残るのは島全体が御神体として信仰されていたためだろうか。
八百比丘尼の岩屋へ向かう。

島の原生林がそのまま麓ぎりぎりまであるため日は遮られ、元々海上にあった島なので地面は湿気が多くてシダに覆われて、人の気配もないため少々寂しい。
島と反対側は湿地となっているようで、一面、葦のような植物で覆われている。茎の先に茶色いフランクフルトのような穂があるので、蒲かも知れない。

粟嶋神社への参道石段の反対側あたり、頂上境内の出雲大社遥拝所があった場所の下あたりか。少し開けた場所に赤い鳥居があり隣には八百比丘尼の赤い幟。
ここが静の岩屋(しずのいわや)、八百姫宮のようだ。

鳥居奥には崖に岩の裂け目がある。中は暗いが目を凝らすとどうやら下には水が溜まっている。海水が地面から湧き出しているのではなく、水が滴る音がするので、洞窟内の岩から水が染み出していてそれが滴り溜まっている様だ。周囲数百m、高さ30m余の小さな岩山から水が染み出すというのも不思議だ。最近、雨が降っただろうか。思い出せない。

八百比丘尼の伝説は若狭が良く知られているが、全国各地に広がっている。
昔、粟嶋神社の氏子の猟師が講を作っていたが、ある時一人の猟師が引っ越してきて講の仲間に入れてもらった。その猟師が講の当番になった時に、世話になったお礼といって皆を船で竜宮の様な場所に連れて行き歓待し、最後に人魚の料理が出された。誰も気味悪がって食べなかったが、袂に隠して帰った猟師の娘が偶然見つけて知らずに食べてしまったところ、18歳のままで年をとらなくなってしまった。何時までたっても年をとらなかったが、最後は世をはかなんで、洞穴に入り干し柿を食べつつ鉦を鳴らしながら生き絶えた。
その時に娘は800歳になっていたので、村人は哀れんで、八百比丘尼とか八百姫とか呼んで祀った。長寿の御利益があるという。
どこの伝説も内容はほぼ同じで、人魚の肉を食べた娘が年を取らなくなり800歳まで生きた、というものだ。

不老不死になった娘が絶食だけで命を絶てるのも妙な話だが、これには、即身仏(そくしんぶつ)の伝承が重なっているのは間違いない。死ではなくあくまでも成仏、入定なので、不老不死でも息絶えられるのではないだろうか。

即身仏というのは仏教で僧が僅かな飲食だけで瞑想しながら半絶食状態で命を絶ち自然にミイラ化したものをいう。そしてその僧侶のミイラは仏として手厚く祀られる。
思想の背景は単純ではないが、苦行の末に現世の姿を保ったまま仏になる、成仏するという事のようだ。東北に多く残されていて、湯殿山は良く知られている。各地で公開されているので幾体か拝観したことがあるが、現在の感性からは崇拝対象としては少し違和感がある。

エジプトのミイラの様に加工するのではないため、生前から死後の腐敗を防ぐ工夫が必要になる。先ず、筋肉、脂肪などを極限まで減らすために、穀物を絶ち水と木の実や根などの僅かな食物で過ごす木食修行(もくじき)というものを行なう。そして、地中にこしらえられた小さな部屋に埋められ、読経したり鉦や鈴を鳴らしたりして禅定する土中入定というものを行なう。空気穴として地上に出した竹から音が聞こえなくなったことで入定した事を知ったそうだ。
ミイラ化するのには時間がかかるので地下室を掘り起こすのはずっと後のことになる。
もちろん、ミイラ化するかどうかはその時の環境や偶然の要素が大きいので、腐敗してしまった場合の方がはるかに多かった。
また、掘り起こされずにそのままにされた土中入定も相当数あるのではないかと考えられている。忘れられたのだろうか。もし、そうなら何だか悲しい。僧は死を賭けて即身仏になろうとしたのに。

因みに、即身成仏(そくしんじょうぶつ)という似た言葉もあるが、これは即身仏とは全く違う。

この洞窟は静の岩屋と呼ばれる事から想像できるように、八百比丘尼の他にもう一つ伝承がある。大己貴命(おおなむち)と少彦名命が国造りをする時に、仮宮とした志都の石室だとする伝説だ。
大田市の静之窟は大きかったが、ここはかなり狭い(2008、大国主命の舞台4、静之窟)。
岩に開いている洞窟は中は少し広そうだがそれでも人が入るには狭過ぎる。多分、埋め立てられて地面が元の海水面より上がっているのだろう。洞窟は山形で上になるにつれて狭くなっているようなので、海に開いていた時は地面が低く、もっと裂け目は大きかったと思われる。

ここの八百比丘尼の話は江戸の元禄ごろには知られるようだが、少彦名命の伝説はそれより古いだろう。粟嶋の名前から少彦名命と結びついたのが早いことは間違いない。後に静の岩屋とされるようになったはずだ。しかし、何故、八百比丘尼の伝説が生まれたのか不思議だ。

洞窟前は湿地になっていて八橋が架けてあり歩いて渡れるようになっている。隣の水鳥公園からの遊歩道の続きで、トンボ公園と呼ぶ場所らしい。水辺がトンボの生息地になっているようだ。
そこから見ると、粟嶋は湿地に浮かぶ原生林の小島だ。

水鳥公園に向かうと大変な遠回りになるので、もと来た道を帰る。
それまで人の気配が全くなかったのだが、立派なカメラを抱えた男性や、観光客風の若い女性など、三々五々と人がやって来るのには驚いた。意外に人気がある。

途中に万葉集の歌碑がある。
大汝(おおなもち)、少彦名のいましけむ、志都(しつ)の石室(いわや)は、幾世経にらぬ(巻3-355)


.
同行二輪
同行二輪
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事