同行二輪

いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

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素戔嗚尊と八岐大蛇 その10

大野津神社(津ノ森大野津神社)(平成20年7月6日)

出雲市を後に、宍道湖の北岸、国道431号線、別名宍道湖湖北線を東へ向かう。道の南には宍道湖が広がり、北側には一畑電鉄が並走する。天気は良いが湖面を吹いてくる風は少し強い。宍道湖を横目に眺めながらのコースで心地よいルートなのだが、道に変化がなく少し退屈になるのが欠点だ。

平田市街と松江市街の丁度真ん中辺りに一畑電鉄、津ノ森駅があり、その湖畔に大野津神社がある。津ノ森神社とも呼ばれるようだ。
湖畔沿いを走る国道と宍道湖の間に挟まれた場所で境内は狭い。

拝殿本殿は何故か東向きに建っている。
本殿はいつものように大社系。それ程大きな社ではないが小奇麗で、境内の清掃が行き届き氏子の信仰は深そうだ。境内に向かって左奥、湖に近い方に祭祀の小さな木立があり注連縄が張ってある。荒神と言うより雨乞いの龍神ではないだろうか。

ここは非常に特色のある雨乞い神事で有名だが、最近では昭和9年と14年に行なわれたのが最後とのことだ。潅漑治水技術の発達で旱魃被害に遭うことがなくなったことがその理由らしい。
神社に伝わる「蛇骨」と呼ばれる一種の御神体を船で宍道湖の真中に運ぶ特殊な神事だそうだ。
由来書をまとめると次の様に行なわれる。
先ず3日間、蛇骨に神職が祈願する。3日目の朝に蛇骨を竹籠に入れ鳥居の付いた台に乗せて、それを船に移す。太鼓や笛の音、漕ぎ手の勇ましい掛け声と共に、蛇骨が安置された船は南西に向かい、宍道湖の南北にある4つの山を結ぶ線上で、湖底に石の鳥居があると伝えられる場所に停泊する。
そこで蛇骨の入った籠は細長い白木綿に結ばれて湖底に下ろされる。
その後、一同は裸になって、付き従っていた若者たちは船を神職の船に寄せて水桶で水を激しく浴びせ掛け、神職の船は逃げ回る。興奮が最高潮に達すると水掛は終了し、再び一同が装束を調えて、来た時とは違って無言で神社へ帰る。
神社の横に到着すると若者は今度は見物人に水を掛け、人々は大騒ぎしながら逃げ散ってしまい、その後静かになった本殿に蛇骨は戻されて、神職の祝詞が奏上される。

境内の宍道湖の岸辺には水面に続く石段があり、それが雨乞い神事での船着場のようだ。湖面や海面に向かう神社によくある船での参拝の参道かと思ったがどうやら違うようだ。

神社は出雲国風土記の大野津社あるいは大野社に比定される古社だが、雨乞い神事は江戸初期までしか遡れない様なので、神事の内容は古式を伝えるものではないのだろうが、なかなか興味深い点が多い。

蛇骨とは言う名前だが、蛇ではなく龍の骨と考えられている事は間違いない。中国から龍が伝わった時に日本では大蛇とイメージが重なり結びついていて、ほぼ同義に使われる事が多いからだ。そして、龍は雲を呼び雨を降らせる水神の性格を持つので、雨乞いには欠かせない。
水神への祈願の神事である事が分る。神事は、蛇骨、つまり龍の骨を竜宮に送り届る儀式だといえる。

神具である蛇骨を竹籠に納めて鳥居のあるとされる海底に降ろすのは、山幸彦の海神宮(わたのみや)訪問と重なる。
記紀によれば、兄の海幸彦の釣り針をなくした山幸彦は塩椎神(しおつち)の助けで海底の海神の住む宮へ行くのだが、その時に乗ったのが、无間勝間(まなしかつま)と呼ばれる籠なのだ。書紀では無目籠(まなしかたま)と記されるように、目がないほど細かく編んだ籠船と考えられている。
籠船と言えば、祭りで曳かれる飾り付けた船型の山車の事が一般的で、実用的な船ではないと考えがちだが、多分、古代では実際に用いられていたはずだ。
竹で細かく編んで造った船は今でも東南アジアで使われている。もちろんそのままでは浮かばないので、編み目を漆や泥やコールタール、家畜の糞などで塗り固めて防水処理をするらしい。また、古代日本では船の帆も竹で作られていた。必ずしも編んだものではなく短冊形に並べたものもあったようだが、網代帆(あじろほ)と呼ばれる。遣唐使船も布の帆以外にこの帆も使っている。竹が船の諸材料として用いられるのは普通だったようだ。
山幸彦の物語はもちろん浦島太郎の話の原型でもある。それは、海の彼方に神仙境があるという伝説から発生している。その類型の話は東南アジアの海洋民族に広がると言われる。もちろん海神の宮殿へ行く船はその地方の身近な籠船だろう。
日本では実用的な籠船は使われた形跡がない。伝説だけが伝わった時に、海神の元へ行けるのは籠の船と言う奇妙な乗り物だと解釈される様に変ったのではないだろうか。

浦島太郎が訪れるのは竜宮城で、海神ではなく龍の住む宮殿とはっきり明記される。龍は水神であり水を司るので海神でもあるからだ。しかし、何故か住んでいるのは乙姫さまだ。山幸彦の物語では海神宮で綿津見神の娘、豊玉比売(とよたまひめ)を娶るので、これが乙姫さまなのは間違いない。
父親の龍神は影が薄い。本当は主人のはずなのに気の毒だ。

日本では籠は神を招きよせる神籬(ひもろぎ)や依代(よりしろ)を納める神聖な器と考えられているが、それは、こちらの世界と海の彼方の神仙境と往き来できるのが籠船だったことから、籠は神が乗る神聖な物と見なされるようになったのではないだろうか。山車の籠船は神をお迎えした籠を乗せる船なのだ。
京都、丹後の日本三景の一つ、天橋立の近くに国宝海部氏系図(あまべしけいず)の伝わる古社、籠神社(この)がある。祭神の天火明命(あめのほかかり)が「籠」で常世と行き来したことから社名になったとされる。この籠も无間勝間なのだろう。

神事で蛇骨を籠に納めるのは海神の住む海底の宮へ送り届ける竹で編んだ籠の船と言う意味もあるが、沈めるのに便利だと言う理由も大きい気がする。湖に沈めないと海底の宮に送れないから。

蛇骨を沈め納める海底には石の鳥居があると伝えられているようだが、海神の宮、竜宮城の入り口と言う事だろう。石の鳥居は伝説ではなく実際にあるかもしれない。
宍道湖の水深は平均で5m程、ほぼ平らな湖底で最大深度も6-7m程度とされる。松江に近い湖上に嫁ヶ島と言う島があるが、湖岸から湖底に石を連ねた参道があり時々行事の時などに歩いて渡る事が行なわれる。ただし一番深い場所は1m以上になるのでそれなりの準備が必要だ。
かなり浅い湖なので、鳥居を海底に作ったとしても不思議ではない。

興味深いのはその場所だ。正確な場所は書かれてないが宍道湖の南北にある四つの山を結ぶ線上にあると言う。由来書には山の名前は記されてないが、宍道湖を囲む四つの聖なる山と言えば風土記に記される四つの神奈備山しかないだろう。松江の北西の朝日山、八雲立つ風土記の丘にある茶臼山、宍道湖西岸平田の北の大船山、そして荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡で一躍有名になった仏教山。これらが風土記の四つの神奈備に比定されている。この四つの山を結ぶと確かに宍道湖の中で交わるのだ。
正確には交わる点は津ノ森より随分と東なので、神事で漕ぎ出す南西ではない。しかし、昔の地図の不正確さから考えると誤差範囲だ。神事が行なわれるようになった江戸時代でも神奈備山が聖なる山として信じられていたことが窺える。

雨乞い神事には美保関神社に伝わる諸手船神事(もろたぶねしんじ)と青柴垣神事(あをふしがき)が大きく影響している気がする。この二つは国譲りでの事代主神(ことしろぬし)に由来するものとされる。
諸手船神事と言うのは、出雲国の国譲りに際して大国主命(おおくにぬし)の御子の事代主神に伺いをたてに行くのを再現したとされる。二艘の船に乗った氏子の若者たちが互いに威勢良く水を掛け合うのが祭りのクライマックスとして呼び物になっている。
記紀では、高天原からの使者である建御名方神に迫られた事代主神は国譲りを承諾し、自らは船を青柴垣(あをふしがき)に変化させて中に入り海中に隠れたと伝えられる。
青柴垣と言うのは榊などの枝で囲ったもので、一種の神籬だと考えられるが、見方によっては竹の籠にも通じるような気がする。青柴垣神事の主要な部分は船上で行なわれる秘儀のため詳しくは分らない。しかし、青柴垣で囲まれた事代主神が海中に隠れると言うのは、雨乞い神事で籠に納めた蛇骨を海底に降ろすことと同じではないだろうか。

神霊の行幸、神幸には賑やかな祭りと厳粛な無言の儀式とどちらもあるが、漕ぎ出す時は賑やかで帰りは無言。どっちも使っているのが興味深い。

蛇骨と言うのは数個伝わり、長さ5-6寸(15-18cm)、太さ1尺(30cm)位のものらしい。蛇骨は龍の骨と思われるので、いわゆる龍骨と同じではないだろうか。
龍骨は文字通り龍の骨と考えられて、漢方では薬として用いられる。虚弱で神経質体質、自律神経失調症や精力減退に用いられる桂枝加龍骨牡蛎湯(けいしかりゅうこつぼれいとう)が有名だろうか。因みに、やせてない人の精力減退には柴胡加龍骨牡蛎湯(さいこかりゅうこつぼれいとう)だ。
残念ながら実際は龍の骨ではなく大型哺乳類の化石とされる。中には恐竜の化石もあるらしいので、「竜」には違いないか。
もちろん中国三千年とも四千年とも言われる歴史。しかも、その奥地には前人未踏の秘境もあるかも知れない。そこには龍が生息しているかもしれないし、太古にはいたかもしれない。

全然関係ないが、化石と牡蛎(かき)の貝殻の粉末を加えものが、バイアグラの代わりになるとは到底思えないのだが。

蛇骨には伝説がある。
素盞嗚尊(すさのお)が八岐大蛇をを退治した時、その角と骨がここに流れ着いたので「角森」と呼ばれていたのが、後に「津ノ森」となったと言う。説話としては面白いが、この話が全く成り立たないのは残念だ。
実際は、中世には大野荘と呼ばれた大野氏と言う豪族の根拠地たったらしい。今では全く港らしさはなくその面影もないが、宍道湖の海上交通で栄えた場所だったらしい。
港のことを津と呼ぶ。大野の津なので大野津。そして、津にある森なので津ノ森と言う事のようだ。
しかし、地名の由来以上に問題なのは、ここに八岐大蛇の骨は流れ着く事が出来ないと言う点だ。

斐伊川は古来より幾たびも洪水を繰り返す暴れ川だった。そのために治水工事が行なわれている。一番大きな規模のものが寛永12年(1635)の洪水の際に行われた。それまで河は西に向き日本海に注いでいた。河口は巨大な潟湖を形成して現在の神西湖がその名残になる。その河口を東へ曲げて宍道湖に注ぐように川の流れを変える川違えを行なったのだ。
素戔嗚尊が八岐大蛇を斐伊川上流で退治した頃は、斐伊川は宍道湖に流れ込んでないのだ。倒された八岐大蛇の骨は日本海に流れ出てしまう。
蛇骨が八岐大蛇の骨であると言う伝説は、ずっと新しいことが分かる。

雨乞い神事が始められたのは、由来書によると1635年とある。斐伊川の川違えの年と奇しくも同じだ。まさか、雨乞いの霊験あらたかが、程度が過ぎて雨が降りすぎて大洪水になったということはないだろうが、無関係ではなさそうな気がする。
その時点で既に蛇骨と呼ばれていたらしいので、大蛇の骨と言う伝説はあったのだろうが、流れ着いたとはされてなかったはずだ。

列車の音が聞こえる。一畑電鉄の津ノ森駅に二両編成の電車が入ってくる。
風が強い。振り向くと少し濁った宍道湖から波が岸に次々と押し寄せてくる。こんな波に西から骨が吹き寄せられたのだろうか。そんな事はないと分ってはいるのだが。


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