同行二輪

いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

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黄泉比良坂

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伊邪那美命と比婆山 その10

黄泉比良坂(平成20年8月3日)

伊邪那美命(いざなみ)に関した神跡を廻っていて、しかも出雲地方となれば、ここを抜きには出来ないだろうということで揖屋(いや)の黄泉比良坂(よもつひらさか)を訪れた。
正直なところ、以前に来たことがあり、その時に受けた印象がとても弱くがっかりしたので再訪は考えていなかった。そのため眼と鼻の先の揖屋神社に寄った時も、ここは敢えて素通りしたのだ。
しかし、あまりにも有名な場所なので一度はこのぶらり周遊でも触れなければと思ったので今回の訪問になった。まあ、別にそこまで考慮する必要もなかったのだが。

国道9号線の松江と安来の間の東出雲町に揖屋という場所がある。揖屋小学校の東数百メートルの道路沿いに、黄泉比良坂、あるいは伊賦夜坂(いぶやさか)の看板があり、それに従ってJR山陰本線下をくぐる細い道を突き当たりると駐車場がある。国道から1kmあまりの場所だが、周囲には何もなく農道の突き当たりのような場所なので、余所者は看板を頼りに進む以外に辿り着くことは出来ないだろう。

黄泉比良坂は、あの世とこの世、黄泉と現世、死者の国と生者の国の境にある坂とされる。
例によって日本書紀と古事記で記述に違いがあるが、黄泉の国を訪問した伊邪那岐命(いざなぎ)が伊邪那美命(いざなみ)と雷神に追われて逃げ帰ったのが黄泉比良坂だ(2006年、伊邪那美命と比婆山その6、揖屋神社)。

駐車場で驚いた。人が来ている。車が2台。しかも、レンタカーだ。以前、もう十年以上前だが、訪れた時は誰もいなかった。そう言えば道も途中からは畦道にようだったのに整備されえいる。随分と変ったものだ。

神蹟の手前には二本の石柱に注連縄が掛けられて、一種の鳥居のようになっている。多分、結界の意味なのだろう。何しろ黄泉の国との境だ。霊的に閉じておかないと大変なことになる。まあ、そこ以外は開けっぴろげな山裾の雑木林で前は駐車場なのだが。

巨石が右奥にある。巨石といっても人の背を越える程度で圧倒されるような大きさではない。その石の向かって左にもう少し小さな石があり、右手側は少し空いてやはり別の石がある。記紀では伊邪那岐命は黄泉から逃げ帰った時に、黄泉比良坂に岩を置いて黄泉への道を塞ぎ、そこをこの世と隔てる境界にしたとされる。それを千引石(ちびきいわ)と呼ぶのだが、多分、中央の一番大きなのがそうなのだろう。

千引石の前で熱心に、手で盛んに九字らしきものを切りながら、何か呪文か祝詞か祭文か唱えて、時々石に左手で触れている中年女性がいる。この地か千引石か、何か霊的なものを感じているだろう。
千引石の右隣は人が通れる。別に道を塞ぐように石が置かれているわけでも何でもない。左も歩いて行ける。単に山裾の狭い荒地に石をいくつか置いただけだのものだ。黄泉へ通じる道が物理的に閉じられていないために、霊的に封鎖する儀式でもやっている女性なのかも知れない。
少し離れて御主人と思われる男性がぼんやりとそれを眺めている。特に邪気は感じていないようだ。個人的にも何も感じるものはない。男は超自然的なものを感じる能力が低いからではないと思う。何故なら、ここが黄泉比良坂のされて整備されたのは最近の事だからだ。記憶に間違いがなければ、昭和の産物のはずだ。そもそも、何もないところに作られた神蹟なので、ここで何かを感じるほうがどうかしている。
本当の黄泉比良坂はどこか人目の付かない場所にひっそりとあるに違いない。しっかりと千引石が道を塞いで。

古事記によると、黄泉比良坂は出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)だと記されている。出雲国風土記に伊布夜社として載るのが、近くの揖屋神社に比定されているために、この近くに伊賦夜坂があったはずだというのが、ここが黄泉比良坂にされた根拠だ。しかし、具体的にこの場所と決定された経緯は全く不明だ。根拠はない。
出雲国風土記には伊布夜、あるいは伊布、伊夜などの地名は見えない。しかし、社の名前として伊布夜社はいくつか出てくる。そこからは、伊布夜というのが固有名詞というより一般的な名前だったことを思わせる。そうなら、揖屋の地名が出来たのは意外に古くないだろう。その点からもここが伊賦夜坂とするのも少し無理があるかも知れない。

一方、書紀では泉津平坂と記されるが、それは特定の場所ではなく、死に臨んで息絶える間際のことを言うとある。結構現実的な説明だ。

広場に桃の木が植えてある。古来より桃は邪気を祓うとされた。
伊邪那岐命は逃げる時に色々なものを投げつけて黄泉の軍団を撃退しているが、その内の一つに桃がある。それにちなんで植えてあるのだ。あの鬼退治の桃太郎も悪を打ち払う桃の霊力から名前が取られている。

黄泉比良坂というのだが、坂がない。それどころか道もない。正確には、道はあるのだが、千引石の場所にはない。少し離れた場所に人がすれ違える程度の細い山道がある。近くを通る国道は新しい道なので、もしかすると古代の旧道がこの道なのだろうか。場所的には極近いのだが現在の道と旧道が全く違っていることはよくある。西南戦争の激戦地、田原坂が非常に細い狭道だったことを思い出した。
この道の途中までの少し上り坂が黄泉比良坂で、その先の下りが伊賦夜坂だという説明もある。あれこれ想像しながら山道を進んでいると、何と、向こう側から若いアベックが歩いて来た。黄泉の国からやって来たことになる。
最近は古代史や遺跡に興味のある人が多いようだ。ここは古代史ファンには良く知られている。ここに入る場所がわかりにくくて西側からやって来たのだろうか。

良く考えれば、これがが古代の道のはずはない。旧道の通る揖屋の町は国道を挟んで北にある。この道を通っても行けないのだ。新しい住宅団地には行けるが。
どう考えても単なる山道のようだ。
国道9号線にある黄泉比良坂の看板のある場所の方が、よほど坂になっている。

せっかくやって来たので、いろいろと想像を掻き立てるものがないかと思い、うろうろして空想してみるが、どうにも駄目だ。前回は興味を惹かれなかったが、あれから随分と経ち、様々な場所を巡って来たので、感じ方も変るかと思っていたのだが、やはり、特にそそられるものはなかった。所詮は新しいモニュメントに過ぎないことを知っているからだろうか。

楊瀧山乗光寺

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平家物語 その6

楊瀧山乗光寺(平成20年8月3日)

平成20年8月3日、真夏の暑さの中、乗光寺を目指す。
安来と松江の中間あたり、国道9号線から分かれて県道324号上意東揖屋線を南に向かうと、3-4kmで道の右手に現れる。県道は主要道ではないので土地鑑がないとなかなか入れないかも知れない。黄泉の国の入り口とされる黄泉比良坂(よもつひらさか)の近くにある道だ。

ほとんど山裾に突き当たったような谷の山間にある田舎にひっそりとたたずむ寺だ。周囲には民家がちらほらとあるだけで、他には水田しか見えない。

道路から少し高い位置にある山門を見上げると、その向こうに銀杏の巨木が聳えるのが印象的だ。

境内に入ると、お盆が近く、どうやら法事のようで大変に忙しそうだ。本堂に大勢人が集まっているのが分かる。こんな時に檀家でもない物見遊山がお邪魔してよいのか迷ったが、厚かましく庭園拝観をお願いすると、奥さんが快く受けて下さった。
「お盆前で手入れもしてませんし、刈り込んだ後ですから植木が醜くなってまして。こんなですがどうぞ。」
相手が出来ない事を申し訳なさそうにしておられて、かえってこちらが恐縮してしまう。

庫裏へ上がらせていただき、縁側に腰を下ろして裏の庭園を眺める。
寺が山裾にあるため、裏山の斜面を利用して作庭してある枯山水の庭だ。正面に石組みとサツキと思われる刈り込みで構成された小高い部分が作ってある。全体で蓬莱山か須弥山を表わしているのだろうか。その左右に植木がいくつかあるだけで、思ったよりも小さな庭園だ。

山陰の名園とされるので、もう少し華麗で規模の大きな庭を想像していたのだが、その点では少し期待外れだった。しかし、がっかりしたという訳ではない。確かに京都などの風流な庭と比べると見劣りはするが、寺だけでなく周囲の風景を含めて環境がとてもゆったりとした長閑な感じで、実に落ち着いた雰囲気のある庭なのだ。気持ちが落ち着く。

この庭は悪七兵衛景清(あくしちべいかげきよ)の築庭という伝説を持つ。景清は月山富田城(がっさんとだ)を作ったともいわれている(2007年、平家物語、その3)。怪力無双の武将なので城は似合うが、築庭はイメージがつながらない。
城のある広瀬は寺の前の山を越えた所だ。この近い距離関係が景清伝説の元になっているような気がする。

乗光寺そのものは開基創立の年代は明らかではないが、平安末期には、南の山上にある星上寺と関係して多くの末寺を持った真言密教の道場となっていたらしい。
星上寺は星の神が天降ったとされる山だが、その星上寺の山号は安徳山と称される(2003年、星の降る夜は・・・、安徳山星上寺)。安徳天皇の病気平癒を祈願したところ全快されたので勅命で安徳山星上寺となったという伝説を持つ。
安徳天皇といえば平清盛の娘、建礼門院の産んだ天皇で、平氏一族と共に最後は壇の浦の海の藻屑となった。平家落人伝説の主人公でもある。
この近くに落人伝説は聞かないが、平氏の奉じた安徳天皇の名を持つ星上寺と、その山の北の麓の乗光寺と東の麓の月山富田城に残る平景清の伝説。これが無関係だとは思われない。

偶然にしては平氏関係の伝説が集まっているのだが、それがどの様な経緯で発生したのかは、今のところさっぱり見当も付かない。
本堂前にある樹齢数百年の大銀杏も、寺の歴史の古さを示すだけで他は何も語ってくれない。

寺を後にしてから、寸志を忘れたのに気がついた。忙しい中、親切にしていただいたのに、なんという失態。再訪の折には寸志を忘れないように肝に銘じた。
花の季節で法事の忙しくない時にのんびりと訪れたい寺だ。

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伊邪那美命と比婆山 その9

熊野神社(比婆山熊野神社)(平成20年8月2日)

国道180号線からJR比婆山駅の近くの県道254号線で入り、どん詰まりのような山の奥深い場所に背後に比婆山系を従えるように大鳥居が建つ。実際は道はそのまま続いて広島県民の森へ続く県道256号比婆山県民の森線につながる舗装林道となっているらしい。あちこちに林間公園が整備されるのは、トレッキングやハイキング好きにはうれしい。

大鳥居には「比婆大社」の額。鳥居の向こうに聳える三角形の山頂が比婆山御陵で、この神社が御陵の遥拝所の役目を果たしているはずだ。そう思っていたのだが、後で地図を眺めると、どうも後ろの山は竜王山で御陵を仰ぎ見るのはこの位置では難しそうだ。
遥拝所と言うからには眺められなければならない気がするのだが、直接拝めない遥拝所は多い。以前はそれを不思議に思っていたが、昔の人は遠くから仰ぎ見る場合でも、直接だと畏れ多いと感じていたため、わざと見えない場所を遥拝所にしたのではないかと考えるようになった。まあ、直接見えなければならないと決めるのが現代人の思考なのかも知れない。神聖さとは心の中にあるものだから、見えようと見えまいと関係ないのだろう

境内は山の斜面にあるため参道は鳥居から登って行く形になる。
両側に巨大な杉並木が迎えてくれる。県の天然記念物、熊野神社の老杉群だ。幹周囲が、5m以上が11本、4m以上のものでも55本もあり、中には8mを越える巨木もあるそうだ。樹齢1000年を越えるものもあるとされ、さすがにその迫力と生命力には圧倒される。
深い山懐に周囲を杉の巨木とそれを囲む森は静かで深遠な気配が漂う。人の気配が全くなく、鳥やセミの鳴き声しか聞こえてこない。深い社叢で陽も差し込まない木陰の中。まさしく神域と呼ぶに相応しい場所だ。最近流行のスピリチュアル好きだと何か感じるのかも知れない。

途中の右手には玉垣に囲まれた他と比べてもいっそう太い杉があり「天狗の休み木」と呼ばれている。天狗とのつながりは熊野ではなく鞍馬のほうが強いと思うのだが、高い枝に天狗が立っていても不思議ではない雰囲気はある。説明には、地元では別の巨杉を天狗の休み木と伝えているともあり、どの杉の木で天狗は休んでいたのか正確には分からないようだ。ただ、どの杉も幹は太く、どれでも好きな枝で大丈夫だろう。

それにしても誰一人として見かけない。何年か前に比婆山をトレッキングをした際に立ち寄った時には登山者など、もっと多くの参拝者が歩いていたのだが。そういえば、駐車場の前の茶屋も閉まっていた。季節的には閉店時期ではないと思うのだが、一体何時賑わうのだろう。

拝殿手前の隋神門には神像はなく幣が納められているだけだった。
更に石段を登る。拝殿はそれ程特徴のない平入りの建物。ここの額は熊野大権現。
後ろの本殿は拝殿より一段と高い石垣の上にあり、拝殿から長い登廊でつながっている。登廊は橋のように高架状に架けられていて、その下には御神水がちょろちょろと湧いていた。

左手に背後の山へ登る小道が続く。そちらに進んで横から本殿を眺めると、本殿だと思っていた建物の後ろに小さな社が更につながっている。どうやら、それが本当の本殿で、その前は幣殿のようだ。造りの複雑さが古来よりの格式の高さを思わせる。
本殿は基本的には大社系の造に見える。やはり、熊野や比婆山、伊邪那美命となると大社系が相応しい。

案内があり、比婆山御陵まで7km。鳥尾の滝、別名、那智の滝700m。滝までもそれなりの登山道になるので、さすがにちょっと遠すぎる。しかし、途中の道沿いに小さな社があるはずなのでそれを確認するため、少しだけ登ってみる。

杉林に囲まれた道をゆっくり進む。植林されたものも混じっているのだろうが、巨木が多い。杉は比較的育つのが早いので想像するほど古くはないのかもしれないが、それでも神社の歴史を感じさせるには十分だ。
登山道へ進んで行く。鳥居があってまず出現するのが三宝荒神社と牛馬荒神社の小さな祠だ。

更に登ると二宮神社が見えてくる。その手前には一辺がは4-5mで高さは3m弱の巨大な箱型の四角い巨石がある。岩の前に金蔵神社(金倉)と書かれた祠がある。岩境として祭祀されていたとのことだ。典型的な磐座信仰の霊地だ。原始の祭祀場だったようだ。ここから出発し熊野神社が発展したと考えられそうだ。
もしかすると、比婆山頂の伊邪那美命御陵とされる磐座の遥拝所として里宮としての機能も備えていたのかもしれない。

そばには、別伝の天狗の休み杉がある。拝殿までの参道にあった杉でもこちらでも、どちらも大きな杉なので、天狗は好きな方に腰掛けて休める。その時の気分で休む場所を変えたのかもしれない。

更に100mほど上に三宮神社がある。鳥尾の滝は更に500mはあるだろう。完全な軽登山、あるいはトレッキングになるので、今回はここで引き返した。

伊邪那美命の御陵、比婆山、熊野神社はセットとなって何度も出現している。しかし、実は本家の紀州熊野には比婆山はないし、熊野三山も伊邪那美命を主祭神として祀ってもいない。

平安中期には法皇や上皇の行幸が盛んで、蟻の熊野詣と称された熊野参詣。そして現在、その道は熊野古道として世界遺産になっている。
熊野詣の一番の目的は熊野神社、つまり熊野本宮への参詣だが、熊野信仰は熊野本宮だけでなく主に三つの霊地で成り立っている。それは熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社で、総称して熊野三山と呼ばれる。三山と称されるように仏教的な要素が強く典型的な神仏混肴の信仰で、吉野金峰山寺と高野山金剛峯寺とを結ぶ修験道の道を抜きにしては存在しない。しかしそこには伊邪那美命の出番は全くない。主祭神としても登場しない。
本宮は家都御子神(けつみこ)、速玉大社は熊野速玉神(はやたま)、那智大社は熊野夫須美神(ふすみ)を主祭神とする(2006年、伊邪那美命陵と比婆山比定、その5)。
ここには、本殿の他に二宮、三宮があるので、それぞれ熊野三山に対応しているのかと思ったが、違った。本社は伊邪那美命、二宮は速玉男神(速玉之男神)、三宮は黄泉事解男神(事解之男神)。速玉男神と黄泉事解男神は、日本書紀によれば黄泉の国から追われた伊邪那岐命が厄を祓った時に出現した神だ。大本の熊野三山とは速玉之男神しか一致してない。

熊野神社と称する限りは、紀州の熊野三山に対応した神々を祀るのが本筋なのだが、実は、伊邪那美命や比婆山とセットになっている熊野神社の場合は対応してないことも多い。そもそも、紀州の熊野三山が伊邪那美命とほとんど関係していないので、どうしようもないのだ。
全国にある熊野神社は、熊野三山が知れ渡り熊野信仰が広がった結果で、伊邪那美命から出てきたものではないことが良く分る。

社伝によると、「創建不詳、和銅6年(713)までは比婆大神社と称し、嘉祥元年(848)社号を熊野神社と改称す」とのこと。もちろん、比婆山にあるので比婆大神社ということだろう。しかし、天平5年(733年)に完成した出雲国風土記には、備後国今の広島県との境としての山の名前に比婆山は登場せず、比婆山系の一つ、烏帽子山が遊託山(ゆたやま)と記されるのみなので、失礼ながら神社のこの由来は信じられない。比婆山は古名が美古登山だということも知られていて、比婆山と呼ばれるのがそれほど古いことではないのだ。社伝の説明には少し無理があるようだ。

比婆山系が現在のように比婆山と呼ばれるようになった後に記紀の影響で伊邪那美命の葬られた場所の記載から熊野という名前と結びついたと今まで考えていたが、ひょっとすると逆かも知れないとの思いが浮かんだ。
熊野という地名が先にあって、伊邪那美命と結びつき、その影響で後ろの山系が比婆山と見なされるようになったのではないだろうか。それなら出雲国風土記に比婆山の名前も伊邪那美命の話も登場しないのも納得できる。

比婆山

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伊邪那美命と比婆山 その9

比婆山(平成20年8月2日)

伊邪那美命御陵として一部の古代史ファンに人気の比婆山から、世間で広く受け入れられている比婆山に向かう。もっとも一般的な知名度では、ヒバゴンの里のほうが高いかも知れない。
安来から向かう主要ルートは国道180号線に出て生山(しょうやま)から183号線で広島県に入る道だろうが、土地鑑を利用して県道を使い、少し近道をする。

安来の久米神社を後に、そのまま県道9号安来伯太日南線をひたすら南下。山間の村々を継ぐ典型的な田舎道。所々狭い場所もあるが車の往来は少ないのでのんびり流すのも悪くない。最後に急なヘアピンの坂を下ると国道183号線に合流する。
県境を越え、備後落合を抜けて比婆山へのアクセスである県道254号比婆山公園線に入る。

比婆山は島根、鳥取、広島の県境にあるが、北側からのアプローチはあまり便が良くない。良く整備されている南の広島県側に大きく回りこむため山陰からは意外に遠い。ちょっとそこまでのつもりが勢いで結構なツーリングになってしまった。

県道に入った後は、川に沿うように山の中へ入って行く。もっとも国道からの入り口も既に中国山地のど真ん中なのだが。
川の名前は熊野川と言う。ここでも比婆、熊野、伊邪那美命の組み合わせが揃う。記紀が広まるにつれて、どこでもこの三つのセットが類型化しているのが分かる。

途中の看板に「比婆山陵」と書かれている。伊邪那美命の御陵ということを意識した表示だ。
比婆山は単独の独立峰ではなく連峰の総称だ。最高峰の立烏帽子山(たちえぼしやま)の他に竜王山、池ノ段、烏帽子山などからなる。烏帽子山の南の峰に伊邪那美命の御陵とされる場所があり、その峰を特に比婆山御陵と呼ぶことがある。

「伊邪那美命(いざなみみこと)は出雲国(いずものくに)と伯伎国(はくきのくに)との境比婆の山に葬(かく)しまつりき」と古事記に記されている。出雲国は現在の島根県東部、伯伎国は旧国名の伯耆国で今の鳥取県西部。要するに島根県と鳥取県の境にある比婆山に葬ったということだ。そこでここの比婆山が伊邪那美命御陵とされるようになった。
厳密には比婆山は島根県と広島県との境界で鳥取県との境界ではない。しかし、古代の国境は現代の県境とは一致しないし、何時の時代でも同じで固定していたわけでもないので、大体の位置さえ合えば問題ないのだ。

比婆山は連峰で峰が連なるため登山道はいくつかあり、伊邪那美命御陵へのルートも複数ある。一般的なのは烏帽子山の東山麓の広島県民の森から登る道だ。登山道は良く整備されていて危険は全くないのだが、比婆山連峰は標高1200m台なので登頂はそれなりに疲れる。
しかし、この熊野川沿いの県道を竜王山登山口の方向に進むと、何と立烏帽子山の山頂へ標高差が100mもない場所にある小さな駐車場まで到着出来る。竜王山まで行くと数十メートルの高低差で頂上に達する。
立烏帽子駐車場を使うと、尾根沿いにハイキング気分でブナ原生林を抜けて伊邪那美命御陵へ歩ける。途中には黄泉の国から伊邪那岐命を追いかけてくる伊邪那美命と雷神たちを防いだと古事記に記される千引石(ちびきいわ)などもあり、山好きにも、原生林好きにも、そして古代史好きも楽しく過ごせる。
比婆山を探訪し御陵を見たい人には実にラクチンなアプローチだ。駐車場までの道が険しく車同士の離合が困難だという点を除けば。

問題の御陵だが、以前の記憶とその時のスナップによれば、前には小さな祠があり、その後ろにブナ林と笹林に埋まる円形の小高い高まりにあるイチイの老木に囲まれた巨石で、周囲は鎖で囲まれている。さすがに宮内庁の管轄ではないらしいが、むやみに笹林に踏み込む人はいないようだった。
かなり昔なので記憶があやふやになっているが、約60mの円墳ともされるが、古墳というより磐座(いわくら)にしか見えなかった。

実は、比婆山が伊邪那美命御陵と見なされるようになったのは古代からではないらしい。現在の比婆山系が比婆山と呼ばれるのはそれ程古くは溯れないのだ。
古くは伊邪那美命の御陵があるので美古登山(みことやま)と呼ばれたとされるが、多分順番が逆だろう。「みことやま」の名前から伊邪那美命に結びつき比婆山となったはずだ。初めから御陵があったのなら山の名前は比婆山だったはずだからだ。

何時頃から美古登山や比婆山と呼ばれるようになったのか、手がかりはあまりないが、少なくとも記紀が完成した頃ではないはずだ。
記紀とほぼ同時代の出雲国風土記には国境の山の名がいくつも記されるが、比婆山も美古登山もない。記紀と出雲国風土記には記される伝承にほとんど重なりがないことは有名だが、さすがに地名として伯耆国との境に比婆山があれば載せるだろう。
風土記に載る山で、伯耆、つまり鳥取県との境で一番大きなのは鳥上山(とりかみ)で、現在の船通山とされる。これが古事記に記される伊邪那美命が葬られたとされる比婆山の位置に一番近いのだが、記紀では鳥上山は素戔嗚尊の八岐大蛇退治という別の場面で登場する。
古代の国の境界が厳密でないので、島根、鳥取、広島との県境あたりまで範囲を広げてみると、風土記の室原山は三国山と考えられ、鳥取、島根、広島の県境にあるが、比婆山より少し東になる。御坂山(みさか)は少し西で島根県と広島県の境の猿政山に比定される。
一応、風土記の遊託山(ゆたやま)が烏帽子山に比定されていてこれが現在の比婆山系ということになるのだが、風土記にはどこにも比婆山も美古登山も出てこない。もちろん伊邪那美命の伝説の述べられない。

簡単な記述はあるが、その記される場所にはそのものはない、と言うのは、どこか邪馬台国にも似ている。まあ、歴史書の記載と神話を同じレベルで考えるのは乱暴だが、十人十色の説が飛び交っている。百家争鳴と言うよりも、各自勝手に自説を展開しているといったところだ。

峰にある磐座の巨石が何時しか貴人の墓所であるとされ、某「命(みこと)」の墓ということから美古登山となり、記紀の周知によって位置的に近い伊邪那美命が葬られた比婆山へと変ったということだろうか。

すっかり山中の細い道となった熊野川沿いの県道から、比婆山陵と熊野神社への案内板の分岐を折れると間もなく巨大なコンクリートの鳥居の神社、熊野神社が現れる。

比婆山御陵まではここからもアプローチできるが、今日は登る予定はない。思わず遠くまで来てしまい時間もない。それに御陵まで行くなら立烏帽子山駐車場を使う。軽登山やトレッキングは好きだが、交通機関が使えるところはフルに利用する手技だから。
実際の現地確認を第一としている立場としては、古い記憶だけで比婆山のことを考えたりするのは少しずるく後ろめたい気がするのだが、時間と体力の関係上仕方がないと、自分を言い訳のように納得させるのだった。

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伊邪那美命と比婆山 その9

久米神社(比婆山久米神社)(平成20年8月2日)

平成20年8月2日、夏真っ盛りの中、安来から南へ県道9号安来伯太日南線(やすぎはくたにちなん)を走る。長閑な農村風景と田舎町が交互に現れる。

伊邪那美命(いざなみ)の関連地を訪問しながら今まで足を向けてない場所がいくつかある。その中の二ヶ所は比婆山候補地として最も有名な所だ。どちらも意識的にではないが、目を逸らして来た所もあるのも確かだ。それは、以前に訪れたことがあるし、本当なら最終的には山の頂上にまで行く必要もあり、多少面倒だからだ。
しかし、避けてばかりもいられないので、ここらで一度訪ねてみようと言う気になった。
先ずは古代史ファンにとって最も人気のある能義郡伯太町(のぎ)、現在の安来市にある比婆山と久米神社に向かった。

安来から15km程中国地方へ向かって進むと伯太町横屋と言う集落になる。右手の山裾に鳥居があり、そこが久米神社だ。大きな案内標識も看板もないので、知らないと通り過ぎてしまう可能性が高い。

県道から外れて鳥居前に停める。
神主さんと親子三代らしき着飾った人たちがいて、どうやら七五三か宮参りのようだ。いつもの田舎の神社巡りにように誰もいないと思ってやって来たので少し戸惑った。
参拝は終わりに近いようなので邪魔をしては悪いので、しばらく待つ。

鳥居扁額には比婆山大宮の文字。神社神紋にも「比」と書かれている。比婆山久米神社と称されているからだ。
神社の建つ背後の山が比婆山で、山頂に伊邪那美命御陵と伝わる古墳と久米神社の奥宮がある。奥宮は地元では上の宮と呼ばれ、ここは下の宮とのことだ。典型的な本宮と里宮の関係になっている。

古事記によれば、伊邪那美命は亡くなった後に出雲国(いづものくに)と伯伎国(ははきのくに)の境にある比婆之山(ひばのやま)に葬った、と記されている。伯伎国というのは伯耆国のことだが、出雲国と伯耆国、つまり現在の島根県東部と鳥取県西部の境界には比婆山と呼ばれる山はない。そのため各地に比婆山や伊邪那美命陵とされる所がある訳だが、その中でもここはかなり知れている。それは本居宣長が古事記伝の中でここを比婆山と推定していることも大きい。もっとも、古事記伝には他の地も紹介されているらしいので、どの程度ここを比婆山と想定しているかは知らない。

ここは島根県、旧国でも出雲国の中なので正確に言えば出雲国と伯耆国の境ではない。ただ、昔の国境と今の県境とは必ずしも一致している訳ではないので、ここが出雲国と伯耆国の境にかなり近い事は確かだ。場所的には多くの比婆山候補地で最も古事記の記述に近いだろう。本居宣長の説もあり、ここで決まりかと言うと、そう簡単でもないようだ。
そもそも神話を現実に当てはめようとするのに無理があると言ってしまえば実も蓋もない。

実は、この神社は由来がはっきりしない。出雲国風土記の久米社に比定される事もあるが、確かではない。別名、熊野神社とも呼ばれるらしく、古くはそう称されていたことが明らかなのだ。「熊野」は「久米」がなまったものだとする説明もよくあるが、逆かも知れないので、これもあまり根拠にならない。久米から熊野でも、熊野から久米でも、どちらでも良さそうだが、神社の起源が風土記の時代にまで溯る由緒があるかどうかの問題があるのだ。
風土記の久米社は現在の熊野大社に合祀されたとの説はかなり有力だ(2006年、伊邪那美命と比婆山7、熊野大社元宮遥拝所)。そんなことなどから、ここは元々は熊野神社だったと考えるのが正しそうだ。
もちろん風土記の熊野社は祭祀の古さなどから考えて松江の南の旧八雲村の熊野大社に間違いはないので、ここは風土記社ではないだろう。

元が熊野神社だったとすると、記紀の記述から伊邪那美命や比婆山と結び付いても不思議ではない。何しろ、熊野のある所には伊邪那美命も比婆山もあることが多い。
背後の奥宮がある山も古くは熊野山と呼ばれていたそうなので、ひょっとすると山の名前が比婆山に変わって伊邪那美命陵とされるようになったのは意外に新しいのかもしれない。

拝殿の後ろは石段になっていてその後ろ奥の高みに本殿が建つ。拝殿の背後も扉で開くようになっていて、開け放つと拝殿からも本殿が直接拝める様になっている。
意外なことに本殿は神明造だ。しかも、伊勢神宮の唯一神明造と同じく棟持柱が壁の外にある。
正面から見ると扉が中央にあるが、建物としては2間しかない。変わった造りの社だ。

山に囲まれた斜面に建つ社だが周囲は明るい。道に面していて後ろにしか社叢がないからだ。
鳥居をくぐって直ぐ右手に山に向う石段があり、それが登山道かと思ったが荒神だった。

登山道は境内横を流れる川沿いに細い道が続いていてそこだ。山頂まで1050mの表示がある。標高は300m余なので、どんなにゆっくりでも1時間はかからない。しかし、夏草が生い茂っている。
例祭に合わせて草が刈り取られるので、登るならその前後との情報があったが、その通りの様だ。

県道に戻って更に2-3km上流に向かうと比婆山登山口の案内板がある。頂上へ登るだけならこちらが近いはずだ。
久米神社は初めてではないが、山頂へは未だに足を伸ばせないでいる。いつかは登って伊邪那美命陵を自分の目で確かめないと。

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