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いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

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素戔嗚尊の系譜 その2
五十猛神社(大田五十猛神社)(平成20年4月27日)

五十猛駅を通り過ぎ、そのまま進むと、町はずれでT字路になる。直進にも道はあるにはあるが農道だ。右に折れるのが県道289号久利五十猛停車場線で、そこから200m程進むと右の低い丘陵に登る小さな細道がある。昔ながらの集落内の生活道を上ると、公園のような解放的で明るい境内の神社が建っている。五十猛神社だ。

国道9号線の静の窟の看板を過ぎると程なく、五十猛海水浴場の横を走る真っ直ぐな海岸線道路となって、続いてトンネルが二つ続く。その初めのトンネルの手前に細い川沿いの左に入る道がある。そこからアプローチすると県道289号線に最短なのだが土地勘がないと入り口の道が少しわかり難い。遠回りになるが五十猛駅を目指すのが一番と思われる。
県道289号に進んだ後、五十猛神社への分岐を不幸にも見落として通り過ぎてしまうと、すぐに集落からはずれるが、そのあたりで振り向くと神社の鳥居が見えるので見当がつくはずだ。

境内は少し小高い場所にある。地面は砂地で、周囲は松林。防風林を切り開いたような雰囲気だ。公民館が隣接している。

静間神社は拝殿に鈴がなかったがここはちゃんとある。本殿は一間社流造。大社造の圏内を外れていることをがわかる。五十猛は古代律令制では出雲国ではなく石見国なので文化圏が違うのは当然なのだが、目の前に示されるとはっきりと実感する。

五十猛神社の祭神はもちろん五十猛命。五十猛命を祀るからというより、地名から五十猛神社と呼ばれているというのが正しそうだ。元の地名が磯竹なので、その当時は磯竹神社があったはずだからだ。

五十猛命ら一行が朝鮮半島から上陸したので五十猛と呼ばれるようになった、という伝説は少し妙なのではと推論した(2008年、素戔嗚尊の系譜その2、五十猛駅)。
古来よりずっと「磯竹」であって「いそたけ」の名前に「五十猛命」を結び付けて五十猛命上陸地の伝説を後世に創作したという可能性だ。
この仮説が正しければ、話を作ったのは書紀を知り文字も良く知ったかなりの知識人でなければならない。磯竹村にある磯竹神社。特に何の変哲もない村の産土神社。しかし、これが五十猛命を祀る五十猛神社となると急にインパクトが強くなる。神社の格も上がった印象さえする。
五十猛神社の神主あたりが伝説創作の張本人だったような気がした。

もちろん磯竹と五十猛命を強引に結びつけて、まったくのフィクションを作っただけでは伝説は定着しないし、祭祀も成立しない。元々、五十猛命を祀る文化があったことは確かだろう。逆に、磯竹の地に何らかの形で五十猛命が祀られていたからこそ思いついた伝説だったのかも知れない。

書紀の記載から五十猛命、大屋津姫命、柧津姫命は樹木の神とされる。しかし、樹木の神なのに境内の周囲はオープンで社叢はなく、あるのはせいぜいが防風林のような松林なのはどうにもしっくりこない。ぜひ深い杜で社が囲まれていて欲しいところだ。しかし、土地が砂地ではどうにもならないだろうが。

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素戔嗚尊の系譜 その2

五十猛駅(JR山陰本線五十猛駅)(平成20年4月27日)

集落の細い生活道路を抜けて、途中対向車とすれ違うこともなく、静之窟から無事に国道9号線に戻りほっとする。
逆走となるが少し大田市街方向へ帰り、昼食のために郊外型大型ショッピングセンター、ホープタウンへ。

お弁当を求めて店の入り口に向かうと、近くに停まっているミニバンの屋台から良い香りがしてくる。揚げパン屋さんだ。揚げたての香りには敵わない。結局それが昼食になった。
勧められるまま籤を引くと、何と無料券が当たった。しかし、有効期限はこのGW中だ。次に来る機会もなく使えそうにない。運が良いのか悪いのか。

ついでに敷地内のホームセンターで自転車の荷台用のゴムロープを買う。
前のX11は積載がほとんど出来なかったためにキャリアを付けていた。今度のCB1300SFは荷掛けフックがあるため、そのままタンデムシートに荷物を積める。しかし、実際に走って見るとバッグの固定に多少不便な所が出てきたため、ロープを少し工夫することにした。
標準では荷物の積載を全然考えてない二輪が多い。移動する場合には多少の荷物は必ずあるのだから、メーカーはもう少し積載を考えたほうが良いと常々思うのだが、全く改善される様子はない。こんな点からも、バイクの将来の先が暗い感じがして、気持ちも少し暗くなる。「バイクは趣味の乗り物」という言葉を免罪符にして細かな実用性を無視することを、そろそろメーカー各社は考え直したほうが良い。多くの人に受け入れられるように努力しなければ市場はますます狭くなり先細りとなるだけだ。

荷台用のロープを追加したことでバッグの固定は飛躍的に改善された。安心して次へ向かうことが出来る。
再び国道9号線を西進して五十猛駅への案内を入る。

JR山陰本線、五十猛駅は少し変っている。
道端に広い場所があるが駅舎がない。盛り土で高架になった堤防のような場所を線路が走り、そこをくぐる地下道のようなトンネルがある。その入り口の上に「五十猛駅」の看板があるだけだ。
線路下をくぐる道は一般道路ではない。先は行き止まりで階段があり、上ったところがプラットホームだ。五十猛駅の看板通りに、トンネルが駅そのもの。
鉄道ファンにとっては、このようなタイプの駅は珍しくないのかも知れないが、初めて見た。ある意味感動。もちろん無人駅だ。

駅の名前は「いそたけ」と読む。町の中心地はもう少し西なのだが地名としてははこのあたりを五十猛という。少し難読の地名だ。初見で正しく読める人はほとんどいないのではないだろうか。
一般の人は見慣れない文字なので読むのは難しいだろう。記紀など日本神話に興味がある人は、素戔嗚尊の息子の五十猛命と同じなので簡単に読めそうだが実はそうでもない。一般的には神名の五十猛命は「いたける」の命、と読まれることが多いからだ。個人的にも「いたける」と読んでいる。「いそたける」の命、「いそたけ」の命と読む説もあるが少数派なので、五十猛命を知っていると、五十猛駅を「いたける」駅と読んでしまう可能性が高い。

地名が五十猛のなったのには伝説がある。
日本書紀の一書によれば、素戔嗚尊は高天原を追放された時に、沢山の樹木の種を持った息子の五十猛命と新羅の国に天下り、日本にやって来て国中に種を植えて緑にしたとされる。(2007年、素戔嗚尊の系譜その1、鬼神神社)
また、書紀の別伝の一書によると、素戔嗚尊は樹木を生み出し、その木々の種を皆で蒔いて国中に増やすように言い、息子の五十猛命、娘の大屋津姫命と次女の柧津姫命の三神が樹木を広めたと記される。(2007年、素戔嗚尊と系譜その1、伊賀多気神社)
これらの記事を元にしたのだろうと考えられるが、五十猛命ら兄妹三神が父神素戔嗚尊と共に韓国から帰って来た時に上陸したのがこの地で、五十猛と呼ぶようになったと伝えられる。
歴史的には、明治の町制で磯竹が五十猛村になったのだが、それは古い時代に五十猛を磯竹に改称していたからだそうだ。要するに、五十猛が磯竹になり、それを元の五十猛に戻したということになっている。

五十猛命は渡来系の神という説もあり、この地に上陸伝説があるのは非常に興味深いのだが、地名説話に関しては少し妙な気がする。
五十猛命の縁の地なので五十猛と称していたのを、わざわざ磯竹に変えたというのが納得できない。磯竹では五十猛命とのつながりが弱く、ありふれた地名になってしまう。せっかく神の村とも言うべき自慢できる伝説があるのにこれでは台無しだ。
どうやら、五十猛を磯竹と改称したというのが怪しい。根拠は石見の地誌である石見八重葎(むぐら)で、その中で神亀3年(726)のことと記されているらしい。しかし、石見八重葎自体が書かれたのは文化14年(1817)なのだ。江戸時代に書かれた奈良時代の歴史で、少々信用し難い。
多分、村の表記は最初から磯竹であって、古代に五十猛と記されたことはなかったのではないだろうか。

「いそたけ」という村がある。朝鮮半島から海を越えて「五十猛命」がやって来た伝説がある。それを結びつけて地名説話が作られたというのが一番ありそうな話だ。

もちろん、「五十猛」から「磯竹」への変更が実際に行われて、それが和銅6年(713年)の諸国郡郷名著好字令、いわゆる好字二字令によったという可能性はある。好字二字令というのは、地名は縁起の良い二文字で表せという命令だ。
地名や人名など固有名詞は文字が使われる以前は発音しかなかったので、漢字で表記する場合その「音」による当て字になる。どのような文字を使うかの指針として発せられたのが好字二字令ということだ。多分、中国の地名は二字が多いのでそれに倣ったのだろう。
出雲国風土記で一例をあげると、現在の斐伊神社とされる樋社の説明で樋速比古命(ひはやひこ)が鎮座するので樋と言って、後に文字を斐伊に改めた、とある。(2007年、素戔嗚尊と八岐大蛇その4、斐伊神社)。こうした、後に表記を改めたという記事は風土記に大変多い。

もし、好字二字令で表記を改めたのなら、それを行った者は文字を使えるエリートだったはずで、五十猛という文字の持つ意味を十分知っていたはずだ。神の名を直接戴く村。それを何の変哲もないどこにでもある磯竹に変える。担当者が中央からの官吏ならこだわりは少なかったと思われるが、地元出身者なら相当にためらっただろう。
地元の誇りの村名、それを変えろという朝廷からの命令、板挟みとなった地方官僚。想像すると何だか悲哀感漂う姿になってしまった。

もっとも、どのように書き表そうと、一般庶民にとっては「いそたけ」は「いそたけ」で「磯竹」でも「五十猛」でもどっちでもよかったはずだ。何しろ文字を読める知識人は支配階級だけだったのだから。さらに地方都市では識字は支配層の中でも極めて限られた知識人だけだったに違いない。

古い磯竹村。「いそたけ」は文字通り磯竹で、磯の近くまで竹薮が迫っていたような地形だったような気がする。これは素朴すぎる考えなのだろうか。

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静之窟(平成20年4月27日)

静間神社を後に、そのまま細い道を進む。国道には詳しい案内がなかったのだが、有難いことに集落に入ると案内板があり、それに従って進むが、海岸方面へ向う道は細く、しかもかなりの急坂で下ってゆく。

遂にはほとんど行き止まりのように見える場所になってしまう。漁師が二人道端で井戸端会議をしていた。
「この先入って行けますか。」「大丈夫。車も回せるから。」
こともなさそうに答える。狭くて傾斜のある場所での大型バイクの取り回しは、小型自動車よりも苦労することを二輪に乗らない人には全く理解されてないので、この手の安請け合い的な返事には注意しなければいけない。何となく不安でこれ以上進入したくなかったが、集落内の細い路地で前後に駐車ペースもないため、仕方なく進む。

海岸に出た。確かに車は転回できるが、自家用車で入って来るには相当の覚悟が必要だ。車のすれ違いは不可能だし、途中ではUターンも出来ない。教習所のクランクのような曲がり角もあって、少し大きな車だと曲がりきれないかもしれない。車で入るととんでもないことになる気がする。ちなみに、大型二輪も入らないほうが賢明だ。
静間神社の前にある少し広い空き地に停めて歩くのが一番無難なアプローチかも知れない。500mほど歩く必要はあるが。

目の前には日本海。周囲は鄙びた漁村の風景。コンクリート護岸の先に狭い砂浜が広がっている。砂浜の左手が岩場となっていて海に向かって口をあけた洞窟が見える。地形的には海蝕洞窟と呼ぶのだろう。
「大田市指定文化財、天然記念物、静之窟」と大きな看板が立っている。説明板が付いているが、錆びているのがうら淋しい。訪れる人はほとんどいないのだろう。

砂浜に下りて、洞窟に向かう。
洞窟前には鳥居。遠くから見て想像していたよりも開いた口はかなり大きい。入り口にはロープが張ってある。
落石注意の看板。静之窟入り口の岩が落石のおそれがあるため中に入らないで下さい、とあった。入れないのは残念だが仕方がない。
周辺に人影もなく見ている人など誰もいない。一見したところ、それ程の危険がありそうにもない。その気になればいくらでも入ってゆけるが、良識ある大人として鳥居から先を覗くだけにする。

奥は入り口よりも更に広そうだ。中には朽ち果てたような船と、そばに石碑らしきもの、さらには小さな鳥居が見えるが、何せ遠くて暗いためはっきりと確認できない。

実は中に立つのは万葉歌碑だそうだ。
大汝(おおなもち)少彦名の座(い)ましけむ、志都(しつ)の石室(いわや)は、幾世経にらぬ(巻3-355)
この大意は簡単だ。大汝と少彦名がいらっしゃった志都の石屋は、どれくらいの年月を経たのでしょう、というような意味だ。
大汝は大己貴命、すなわち大国主命のことで、大国主命と少彦名命の共同して日本の国造りをしたと記紀に記される。そのためか、この二神はコンビで各地の神話に登場する。
大己貴命と少彦名命が国造りをする時に、志都の石室を仮宮として、様々なことを相談したという伝説があり、その窟を見て詠んだとされるのが先の万葉歌で、そして、それがここだと伝えられている。ただ、ここ以外に他にも志都の石室の伝承地は幾つもあるらしいが。神話なので当然だ。万葉集には詠まれた場所は載っていない。
この歌を詠んだ生石村主真人(おいしのすぐりのまひと)は奈良時代中期の人物なので、少なくともその頃には大国主命と少彦名命の国造り神話は広く知られていたことがわかる。

洞窟は奥行き45m、横30m、高さ15m。別の説明板には38m、18m、16mとある。自然の洞窟なので測る位置によって違うのだろう。細かい数字はともかく相当に広いことがわかる。
この洞窟に大己貴命と少彦名命を祀る神社が置かれていたとされるが、大津波で社殿が壊れた後、近くの高台に建て直したが、それもそれも延宝2年(1674)に洪水で流れ、更に遷ったのがここへ来る途中に立ち寄った静間神社ということだ。
洞窟の前の砂浜は狭い。少し海が荒れただけで洞窟内に波が押し寄せるのは容易に想像できる。元来が波が崖を洗い穴を竅った海蝕洞なのだから波が襲うのは当然といえば当然で、洞窟内の社は何度も流されていたと思われる。それでもそこに建て続けたのはこの洞窟が神聖な場所と考えられていたからだろう。
しかし、この洞窟に宮を造っても、大己貴命も少彦名命も海が荒れた日には波が気になってゆっくり出来なかったに違いない。長期滞在するには向かない場所だ。

静間神社が遷るきっかけとなった津波には伝承がある。
江戸初期に洞窟前には滝の前千軒という大変賑わった集落があったが、明暦2年(1656)4月の大津波で一瞬にして海中に没したと伝えられているのだ。
ここは土地そのものが消失しているわけではないので少し違うのだが、一夜にして大都市が天変地異で滅ぶというのは良くある都市滅亡伝説だ。世界的に有名なのはアトランティスやムー大陸の話だろうか。日本でも各地に同じような伝説が残っている。
大分湾に浮かんでいたとされる瓜生島伝説は有名だ。柿本人麻呂終焉の地とされる益田の鴨山なども海中に沈んだという。もっとも鴨山は特に繁栄していたた都市ではないが。
不確かな伝説ではなく実在の遺跡としては福山の草戸千軒があるが、こちらは実際は一夜にして滅んだわけではない。ヴェスヴィオ火山の噴火による火砕流で一瞬にして埋まったイタリアのポンペイの例もあるので、都市滅亡伝説が単なる伝説というわでではないが、本当に一夜で滅ぶというのはなかなか起きないということなのかも知れない。

滝の前千軒という集落だったらしいが、何々千軒とのは実際に千軒の家屋が建っているという意味ではなく、それくらい繁栄している豊かで賑わっている町ということだ。
洞窟前に広がる浜はそれほど広くない。背後は今下ってきた断崖とはいわないがかなり急な斜面だ。このような場所に千軒と呼べるほどの大きな集落があったとは想像できない。大津波で村が一つ壊滅したというのが相当にセンセーショナルな出来事だったのだろう。そのため村の規模などが誇張されて伝わっていったと想像される。

洞窟を眺めていると、規模は全然違うが室戸岬の御蔵洞を思い出す。多分、中から洞窟の入り口を通して外を見ると青い海と空が広がっているのだろう。
大きさや立地はとしては猪目洞窟に近い印象だ。もしかすると、ここも古代の葬送地として使われていたことがあったのかも知れない。遥か水平線の向こう、海の先に常世の国が見えていたのだろうか。

何故だろうか。猫は漁港に似合う。バイクまで帰るとトラ猫が不審そうにバイクを調べていた。

注)繁栄している町や村が一夜で滅ぶという、都市滅亡伝説。世界各地にあるが、日本ではその原因が地震と津波とされることが多い。火山や土石流ならば町が一つ埋もれてることもあるだろうが、津波の場合は文字通りほとんどが伝説でそんなことは現実にはあまりないだろうと思っていた。大きな被害をもたらしても、それだけで壊滅することはなく、災害を受けた後に徐々に衰退したのが実際のところだと勝手に思い込んでいた。
しかし、その考えは実に甘いものだった。津波の恐ろしさを全然わかっていなかったのだ。

自分の人生で、都市が一瞬で消え去ることを映像とはいえ目の当たりにすることがあるとは思ってもいなかった。

平成23年3月11日14時46分、三陸沖を震源とした東北大震災で、都市が一夜どころか、数分で消滅する現実を突きつけられた。間違いなく都市を滅亡させる津波は存在する。

自然の猛威は人智を遥かに凌駕している。悲惨なニュース映像を見るたびに、所詮、災害予想など学者たちの小賢しいだけの代物に過ぎないように思われる。どれだけ高く強い堤防を作ろうと、それを越える津波が必ずやって来るだろう。大自然の力の前には、人的な被害を食い止める方法の模索しかないのかも知れない。

震災から半年。亡くなられて犠牲者の冥福を祈る。
(平成23年9月11日)

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静間神社(大田魚津静間神社)(平成20年4月27日)

4月27日。ようやくツーリングに出かけられる季節になって時間も少し出来た。
去年同様に今年も比較的早く暖かくなったこともあって、実は車を新しくして3月から少しツーリング活動を始めていたのだが、史跡めぐりには出かけられずにいた。
新車のCB1300SF、慣らしを兼ねて少々長距離を走りたくなり大田方面を廻る。

車を変えた印象は、一言、実に走りやすい。前のX11に比べると明らかに乗り手を選ばない。下手な親父ライダーにぴったりの車だ。ビッグバイクの中ではよく売れているらしいが、その理由がわかる。ライディングが上手になった気がするが、それは単なる錯覚なので安全運転で行きた。

2時間あまり走りを楽しんだところで、目的地に近づいた。
大田市街(おおだ)から国道9号線を数キロ西へ走ったあたりのはずなのだが、入り口が非常にわかりにくい。国道にはかなり大きな「静の窟」の看板があるのだが、そこには分岐の道がなく、案内地図さえもないのだ。
国道は集落を迂回して走っているので尋ねるようにも歩いている人の姿もない。

多少迷って同じあたりを往き来した後、道路沿いには何も情報がないことがはっきりしたので、見当をつけて看板を200mほど西に進んだ小さな十字路を入った。静間小学校方面から入って町中を通過する道筋もあるはずだが、結果的にはこれが一番近いルートだったようだ。

住宅の軒先を通る狭い道を進むと、道端に静間神社(しずま)が現れる。
新しい。新築というほど新しくはないが、古い由来から想像していた社とはかなり様子が違う。周囲も開けて鎮守の森のような社叢もない。境内を含めてとにかく古さが感じられない。
新しいのも当然で、そもそもはこれから訪れる静之窟(しずのいわや)に祀られていたが、ここに遷座したのだそうだ。一瞬、それで納得したが、どこかおかしいことに気がついた。
移転は1674年(延宝2)、洪水で元社が崩壊したため現在地に遷座した、と社伝に記してある。新しく遷座したとはいっても江戸初期。その当時の社殿なら相当古い建物のはずだ。それに、神社の杜も鬱蒼としていてもおかしくない。
しかし。目の前の建物はどう見ても数十年しか経ってなさそうだ。つまり遷座とは関係なく、この地で最近建て直されているということだ。それに関しての記述もないようだ。

本殿は大社系の造りで、大きな拝殿が前に付属している。境内社もあって、それなりに大きな社といえる。
しかし、歴史を感じさせる雰囲気がないので、興味がなかなか湧いてこない。静之窟に祀られていたというのでかなり期待して来たのだが、少し残念だ。

道を挟んで正面に2-30m程の池があり、中島に春日造の小さな祠が建っている。何なのかか説明がないが、この神社と無関係ではないだろう。
静間神社の祭神は当然、大己貴命(おおなもち)と少彦名命(すくなひこな)だが、配祭神に宗像三神(むなかた)が記されている。宗像神は海上交通の神なので、その社なのかもしれない。

どうやらここには余り見るべきものがないし、興味をそそる由来書もないので、さっさと旧社地である静之窟へ向かう。

直撃

山陰は台風とはあまり縁がないのですが、こんかいは台風12号が直撃です。
当初の予想ではもっと東を進むはずだったのに。その上、週末は山陰は台風も通り過ぎているはずだったのに。

自然を相手に文句を言っても始まりません。

鳥取の東郷池は水が溢れているし、島根の安来では川が氾濫しているし。
自宅も、近くの川が決壊したら間違いなく床上浸水です。昨日から雨が相当強く降っているので、可能性はゼロではないでしょう。
若干、心配でした。
しかし、まだ通り過ぎていないのに、雨も風もかなり弱まって落ち着いているのは何故。

このまま、大したこともなく過ぎることを期待しましょうか。

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