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いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

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大国主命の舞台 その6

伝宇牟加比売命御陵古墳(平成20年7月6日)

松江城の北、2km足らずの新興住宅地にある法起神社(ほっき)の主祭神である宇牟加比売命(うむがひめ)の名を持つ宇牟加比売命御陵と言う古墳へ向かう。神社の前の道をそのまま北の山側に向かって上って行くと、うぐいす台という住宅団地がある。この辺りは、法吉神社の由来書にあったように以前は鶯谷と呼ばれていたのだろう。鶯谷の少し高台にあるのでうぐいす台と言う名前になったと思われる。

うぐいす台の住宅地は斜面に造成されていて、道の勾配は少々きつい。大都会と違って周りが住宅で建て込んでいる訳でもない。もう少し平坦な場所を利用すればよかったのだろうが、当時の関係者に様々な思惑があったことが容易に想像できる。

団地の正面を通るメインストリートを真っ直ぐに山に向かって上ると御陵古墳があった。
見つけるのに少々苦労したが着いてみれば迷うような場所ではない。あらかじめ精確な場所が分かっていれば簡単なのだが、といつも思う。
閑静な住宅街の中を左右を探しながらバイクで走ると、どうにも音が騒々しい。マフラーの交換などはしないので、ごく普通の市販車の状態なのだが、バイクの音はどうして車よりこんなに大きいのだろう。
キョロキョロと左右を窺いながらゆっくりと住宅街の中を流す見知らぬバイク。不審者と思われても仕方がない。まさか古墳を探しているとはだれも思わないだろう。

宅地の一番上の山の斜面が法面で固められて、その上が公園風に整備されている。
階段を登ると確かに方墳になっている。頂上部は10m四方前後。中央に石槨の跡が石で表示してある。そして、何故か少々朽ちているベンチが二つ。妙に心寂しい。
他には特別見るべきものもない。下に説明板がなければ不便な場所にある妙に狭い公園としか思われないだろう。ベンチもなければ公園とも思われないかもしれない。

小高い場所にあるため眼下には住宅街の屋根が並び、眺めは悪くないが谷の横に位置するために展望は限られる。土地もかなり急な斜面だ。古墳を造成するには適しているとは思えないが、まさか、古代人も土地に困っていた訳ではないだろう。

駐車場などはないし、道も住宅街の中に生活道路なのでそれ程広くはない。車で来ると少し迷惑になってしまうだろう、などと考えながら降りるが、この古墳をわざわざ見学に来る人がいるとは思えない事に気づく。

古墳の見学をあっさり終えたのには理由がある。実はこの古墳の発見は新しく、宇牟加比売命(うむがひめ)の御陵と言う伝説も存在しない。団地造成が平成5年に行なわれた時に、その工事中に見つかった古墳なのだ。壊されずに保存されているだけでも評価に値すると言って過言ではない。
発見された後に、宇牟加比売命が法吉鳥になって飛んで来たので、この地を法吉と呼ぶ様になったと言う出雲国風土記の記述から古墳名が付けられたのだ。
伝宇牟加比売命御陵古墳、命名者のセンスはすばらしい。これから百年もすれば本当に宇牟加比売命の御陵と言う伝説が出来るかも知れない。

被葬者が誰かは全く分らない。もちろん宇牟加比売命の可能性だってある。誰にせよ、まさか1400年も後に周囲を住宅で囲まれるとは思いもしなかっただろう。

この近くには、本当に宇牟加比売命の伝説のある法起神社旧社地があるらしい。

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大国主命の舞台 その6

法吉神社(松江法吉神社)(平成20年7月6日)

宍道湖の北岸、国道431号、通称湖北線を東に走り松江市内に入る。いつもながら松江の街は迷子になってしまう。中心が宍道湖から中海に流れ出る大橋川で南北に区切られているからかも知れない。何故か何時までも道が全く覚えられないのだ。

松江城の隣にある武家屋敷や小泉八雲旧居などを横目に県道37号線を通り抜けて行くと黒田町の交叉点に出る。そこから佐太神社などのある鹿島方面に向かい北上すると1km足らずで、松江市街の北を東西に走る道路と交差する。それを東に向かうと道沿いに大きな須賀神社があるので、そこの交叉点を北に進むとうぐいす台と言う住宅団地に行く。その途中に法吉神社がある。
こうして文章で書いても分り難いが、実際も迷子になりながらようやく到着した。

鳥居前の道端に小さいが駐車場がある。神社は道沿いの山の斜面に建てられている。周囲は新興住宅地で、その中にポツンと残っている感じだ。実際は、奥にあるうぐいす台と言う住宅団地を造成する時にここに移設されているので新しい。そのため境内は明るい。社叢がないからだ。知らない場所の神社を遠くから見当を付けて探す場合にこんもりとした森を目指すのが常道なのだが、社の森のないこういう神社は見つけにくい。

由来は古い。出雲国風土記、島根郡法吉郷の法吉社(ほき)に比定されている。出雲国風土記によると宇武加比売命(うむがひめ)が法吉鳥になって飛んできて鎮座したため、この地を法吉と呼ぶ様になったと言う。
法吉鳥と言うのはウグイスと考えられている。「ほほき」と読んでいたらしいが現在の神社名は「ほっき」で、地名も同じだ。神社の由来では、宇武加比売命が法吉鳥、つまりウグイスに化して渡ってこられたので、古来より宮の地を鶯谷と呼ぶとある。
法起と言うと、奈良斑鳩の法隆寺に近い場所にある法起寺がすぐに思い浮かんでくるが、もちろん関係がない。

宇武加比売命(うむがひめ)は古事記で八十神(やそがみ)の大国主命(おおくにぬし)への迫害に登場する蛤貝比売命(うむぎひめ)と同一神と考えられている。
八上比売(やかみひめ)の求婚の相手に選ばれた大国主命は、それを根に持った八十神の姦計に堕ちて真っ赤に焼けた岩で焼け死んでしまう。それを哀れに思った母神の刺国若比売は神皇産霊尊(かんむすび)に頼み、枳佐加比売命(きさかひめ)と蛤貝比売命(うむぎひめ)が大国主命を生き返らせる(2008年、大国主命の舞台3、赤猪岩神社)。大国主命の命の恩人と言う訳だ。

枳佐加比売命は蚶貝比売とも記され「きさがい」とも読まれる。赤貝を神格化したものとされる。蛤貝比売命は文字通りハマグリの神様だ。古事記の文章から、赤貝の殻を蛤の汁で溶いて練ったものが火傷の治療として用いられたのだと言う説もある。今でも漢方では牡蛎などの殻が使われるし、シジミは肝臓に良いらしい。貝が薬として使われていたことは十分にありそうだ。
赤貝や蛤は海で採れるが宍道湖は汽水湖だ。多分関係はないだろうが宍道湖はシジミで有名で出荷量日本一だ。しかし、貝と言う点で少し気になる。

それにしても、出雲国風土記の説話は奇妙だ。法吉鳥がやって来たので法吉と呼ばれる様になったのは分るが、何故、赤貝の神がウグイスに化身するのだろう。風土記の記述は極端に簡略化されているため、前後関係や意味が通じにくい話が多い。この説話も何か物語がごっそり抜けている気がする。

大社系の本殿で千木が内削になっている。女神を祀る神社に内削が多い事から、そうなっているのだろう(2006年、美保神社境外末社参り2、美保神社)。境内の左右には小さな稲荷社と摂社があるが、伝説を伝えるものは何もない。説明板や由来書の類も一切ない。
ひょっとすると、近隣や氏子にも伝説を知らない人がいるのではないだろうか。もし、そうなら、ちょっと残念だ。

法吉の古称「ほほき」は「ほふき」とも読むらしく、ウグイスの鳴き声を表わしているとされる。今では誰でも「ホーホケキョ」を思い浮かべるが、これは仏教伝来以後に定着したものだ。「法、法華経」。

住宅地に開発された周囲にはウグイスの声は聞かれない。車の騒音だけだ。

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素戔嗚尊と八岐大蛇 その10

大野津神社(津ノ森大野津神社)(平成20年7月6日)

出雲市を後に、宍道湖の北岸、国道431号線、別名宍道湖湖北線を東へ向かう。道の南には宍道湖が広がり、北側には一畑電鉄が並走する。天気は良いが湖面を吹いてくる風は少し強い。宍道湖を横目に眺めながらのコースで心地よいルートなのだが、道に変化がなく少し退屈になるのが欠点だ。

平田市街と松江市街の丁度真ん中辺りに一畑電鉄、津ノ森駅があり、その湖畔に大野津神社がある。津ノ森神社とも呼ばれるようだ。
湖畔沿いを走る国道と宍道湖の間に挟まれた場所で境内は狭い。

拝殿本殿は何故か東向きに建っている。
本殿はいつものように大社系。それ程大きな社ではないが小奇麗で、境内の清掃が行き届き氏子の信仰は深そうだ。境内に向かって左奥、湖に近い方に祭祀の小さな木立があり注連縄が張ってある。荒神と言うより雨乞いの龍神ではないだろうか。

ここは非常に特色のある雨乞い神事で有名だが、最近では昭和9年と14年に行なわれたのが最後とのことだ。潅漑治水技術の発達で旱魃被害に遭うことがなくなったことがその理由らしい。
神社に伝わる「蛇骨」と呼ばれる一種の御神体を船で宍道湖の真中に運ぶ特殊な神事だそうだ。
由来書をまとめると次の様に行なわれる。
先ず3日間、蛇骨に神職が祈願する。3日目の朝に蛇骨を竹籠に入れ鳥居の付いた台に乗せて、それを船に移す。太鼓や笛の音、漕ぎ手の勇ましい掛け声と共に、蛇骨が安置された船は南西に向かい、宍道湖の南北にある4つの山を結ぶ線上で、湖底に石の鳥居があると伝えられる場所に停泊する。
そこで蛇骨の入った籠は細長い白木綿に結ばれて湖底に下ろされる。
その後、一同は裸になって、付き従っていた若者たちは船を神職の船に寄せて水桶で水を激しく浴びせ掛け、神職の船は逃げ回る。興奮が最高潮に達すると水掛は終了し、再び一同が装束を調えて、来た時とは違って無言で神社へ帰る。
神社の横に到着すると若者は今度は見物人に水を掛け、人々は大騒ぎしながら逃げ散ってしまい、その後静かになった本殿に蛇骨は戻されて、神職の祝詞が奏上される。

境内の宍道湖の岸辺には水面に続く石段があり、それが雨乞い神事での船着場のようだ。湖面や海面に向かう神社によくある船での参拝の参道かと思ったがどうやら違うようだ。

神社は出雲国風土記の大野津社あるいは大野社に比定される古社だが、雨乞い神事は江戸初期までしか遡れない様なので、神事の内容は古式を伝えるものではないのだろうが、なかなか興味深い点が多い。

蛇骨とは言う名前だが、蛇ではなく龍の骨と考えられている事は間違いない。中国から龍が伝わった時に日本では大蛇とイメージが重なり結びついていて、ほぼ同義に使われる事が多いからだ。そして、龍は雲を呼び雨を降らせる水神の性格を持つので、雨乞いには欠かせない。
水神への祈願の神事である事が分る。神事は、蛇骨、つまり龍の骨を竜宮に送り届る儀式だといえる。

神具である蛇骨を竹籠に納めて鳥居のあるとされる海底に降ろすのは、山幸彦の海神宮(わたのみや)訪問と重なる。
記紀によれば、兄の海幸彦の釣り針をなくした山幸彦は塩椎神(しおつち)の助けで海底の海神の住む宮へ行くのだが、その時に乗ったのが、无間勝間(まなしかつま)と呼ばれる籠なのだ。書紀では無目籠(まなしかたま)と記されるように、目がないほど細かく編んだ籠船と考えられている。
籠船と言えば、祭りで曳かれる飾り付けた船型の山車の事が一般的で、実用的な船ではないと考えがちだが、多分、古代では実際に用いられていたはずだ。
竹で細かく編んで造った船は今でも東南アジアで使われている。もちろんそのままでは浮かばないので、編み目を漆や泥やコールタール、家畜の糞などで塗り固めて防水処理をするらしい。また、古代日本では船の帆も竹で作られていた。必ずしも編んだものではなく短冊形に並べたものもあったようだが、網代帆(あじろほ)と呼ばれる。遣唐使船も布の帆以外にこの帆も使っている。竹が船の諸材料として用いられるのは普通だったようだ。
山幸彦の物語はもちろん浦島太郎の話の原型でもある。それは、海の彼方に神仙境があるという伝説から発生している。その類型の話は東南アジアの海洋民族に広がると言われる。もちろん海神の宮殿へ行く船はその地方の身近な籠船だろう。
日本では実用的な籠船は使われた形跡がない。伝説だけが伝わった時に、海神の元へ行けるのは籠の船と言う奇妙な乗り物だと解釈される様に変ったのではないだろうか。

浦島太郎が訪れるのは竜宮城で、海神ではなく龍の住む宮殿とはっきり明記される。龍は水神であり水を司るので海神でもあるからだ。しかし、何故か住んでいるのは乙姫さまだ。山幸彦の物語では海神宮で綿津見神の娘、豊玉比売(とよたまひめ)を娶るので、これが乙姫さまなのは間違いない。
父親の龍神は影が薄い。本当は主人のはずなのに気の毒だ。

日本では籠は神を招きよせる神籬(ひもろぎ)や依代(よりしろ)を納める神聖な器と考えられているが、それは、こちらの世界と海の彼方の神仙境と往き来できるのが籠船だったことから、籠は神が乗る神聖な物と見なされるようになったのではないだろうか。山車の籠船は神をお迎えした籠を乗せる船なのだ。
京都、丹後の日本三景の一つ、天橋立の近くに国宝海部氏系図(あまべしけいず)の伝わる古社、籠神社(この)がある。祭神の天火明命(あめのほかかり)が「籠」で常世と行き来したことから社名になったとされる。この籠も无間勝間なのだろう。

神事で蛇骨を籠に納めるのは海神の住む海底の宮へ送り届ける竹で編んだ籠の船と言う意味もあるが、沈めるのに便利だと言う理由も大きい気がする。湖に沈めないと海底の宮に送れないから。

蛇骨を沈め納める海底には石の鳥居があると伝えられているようだが、海神の宮、竜宮城の入り口と言う事だろう。石の鳥居は伝説ではなく実際にあるかもしれない。
宍道湖の水深は平均で5m程、ほぼ平らな湖底で最大深度も6-7m程度とされる。松江に近い湖上に嫁ヶ島と言う島があるが、湖岸から湖底に石を連ねた参道があり時々行事の時などに歩いて渡る事が行なわれる。ただし一番深い場所は1m以上になるのでそれなりの準備が必要だ。
かなり浅い湖なので、鳥居を海底に作ったとしても不思議ではない。

興味深いのはその場所だ。正確な場所は書かれてないが宍道湖の南北にある四つの山を結ぶ線上にあると言う。由来書には山の名前は記されてないが、宍道湖を囲む四つの聖なる山と言えば風土記に記される四つの神奈備山しかないだろう。松江の北西の朝日山、八雲立つ風土記の丘にある茶臼山、宍道湖西岸平田の北の大船山、そして荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡で一躍有名になった仏教山。これらが風土記の四つの神奈備に比定されている。この四つの山を結ぶと確かに宍道湖の中で交わるのだ。
正確には交わる点は津ノ森より随分と東なので、神事で漕ぎ出す南西ではない。しかし、昔の地図の不正確さから考えると誤差範囲だ。神事が行なわれるようになった江戸時代でも神奈備山が聖なる山として信じられていたことが窺える。

雨乞い神事には美保関神社に伝わる諸手船神事(もろたぶねしんじ)と青柴垣神事(あをふしがき)が大きく影響している気がする。この二つは国譲りでの事代主神(ことしろぬし)に由来するものとされる。
諸手船神事と言うのは、出雲国の国譲りに際して大国主命(おおくにぬし)の御子の事代主神に伺いをたてに行くのを再現したとされる。二艘の船に乗った氏子の若者たちが互いに威勢良く水を掛け合うのが祭りのクライマックスとして呼び物になっている。
記紀では、高天原からの使者である建御名方神に迫られた事代主神は国譲りを承諾し、自らは船を青柴垣(あをふしがき)に変化させて中に入り海中に隠れたと伝えられる。
青柴垣と言うのは榊などの枝で囲ったもので、一種の神籬だと考えられるが、見方によっては竹の籠にも通じるような気がする。青柴垣神事の主要な部分は船上で行なわれる秘儀のため詳しくは分らない。しかし、青柴垣で囲まれた事代主神が海中に隠れると言うのは、雨乞い神事で籠に納めた蛇骨を海底に降ろすことと同じではないだろうか。

神霊の行幸、神幸には賑やかな祭りと厳粛な無言の儀式とどちらもあるが、漕ぎ出す時は賑やかで帰りは無言。どっちも使っているのが興味深い。

蛇骨と言うのは数個伝わり、長さ5-6寸(15-18cm)、太さ1尺(30cm)位のものらしい。蛇骨は龍の骨と思われるので、いわゆる龍骨と同じではないだろうか。
龍骨は文字通り龍の骨と考えられて、漢方では薬として用いられる。虚弱で神経質体質、自律神経失調症や精力減退に用いられる桂枝加龍骨牡蛎湯(けいしかりゅうこつぼれいとう)が有名だろうか。因みに、やせてない人の精力減退には柴胡加龍骨牡蛎湯(さいこかりゅうこつぼれいとう)だ。
残念ながら実際は龍の骨ではなく大型哺乳類の化石とされる。中には恐竜の化石もあるらしいので、「竜」には違いないか。
もちろん中国三千年とも四千年とも言われる歴史。しかも、その奥地には前人未踏の秘境もあるかも知れない。そこには龍が生息しているかもしれないし、太古にはいたかもしれない。

全然関係ないが、化石と牡蛎(かき)の貝殻の粉末を加えものが、バイアグラの代わりになるとは到底思えないのだが。

蛇骨には伝説がある。
素盞嗚尊(すさのお)が八岐大蛇をを退治した時、その角と骨がここに流れ着いたので「角森」と呼ばれていたのが、後に「津ノ森」となったと言う。説話としては面白いが、この話が全く成り立たないのは残念だ。
実際は、中世には大野荘と呼ばれた大野氏と言う豪族の根拠地たったらしい。今では全く港らしさはなくその面影もないが、宍道湖の海上交通で栄えた場所だったらしい。
港のことを津と呼ぶ。大野の津なので大野津。そして、津にある森なので津ノ森と言う事のようだ。
しかし、地名の由来以上に問題なのは、ここに八岐大蛇の骨は流れ着く事が出来ないと言う点だ。

斐伊川は古来より幾たびも洪水を繰り返す暴れ川だった。そのために治水工事が行なわれている。一番大きな規模のものが寛永12年(1635)の洪水の際に行われた。それまで河は西に向き日本海に注いでいた。河口は巨大な潟湖を形成して現在の神西湖がその名残になる。その河口を東へ曲げて宍道湖に注ぐように川の流れを変える川違えを行なったのだ。
素戔嗚尊が八岐大蛇を斐伊川上流で退治した頃は、斐伊川は宍道湖に流れ込んでないのだ。倒された八岐大蛇の骨は日本海に流れ出てしまう。
蛇骨が八岐大蛇の骨であると言う伝説は、ずっと新しいことが分かる。

雨乞い神事が始められたのは、由来書によると1635年とある。斐伊川の川違えの年と奇しくも同じだ。まさか、雨乞いの霊験あらたかが、程度が過ぎて雨が降りすぎて大洪水になったということはないだろうが、無関係ではなさそうな気がする。
その時点で既に蛇骨と呼ばれていたらしいので、大蛇の骨と言う伝説はあったのだろうが、流れ着いたとはされてなかったはずだ。

列車の音が聞こえる。一畑電鉄の津ノ森駅に二両編成の電車が入ってくる。
風が強い。振り向くと少し濁った宍道湖から波が岸に次々と押し寄せてくる。こんな波に西から骨が吹き寄せられたのだろうか。そんな事はないと分ってはいるのだが。

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素戔嗚尊と八岐大蛇 その10

雲根神社(出雲大津雲根神社)(平成20年7月6日)

平成20年7月6日。ここのところ急に暑くなった、梅雨明けはまだ発表されていないが昼間は連日30度を超えて、夜も熱帯夜になっている。夏本番に一気に突入したようだ。

国道9号線を西へ走り、斐伊川を越えて出雲市街地へ入って行く。橋を渡って直ぐに右手に見える小学校の交叉点を入る。学校の裏手の細い路地は車は一台しか通れない幅だが、他に行き方が分らないのでそこを入ると鳥居前に出た。道は間違ってなかった様だ。

雲根神社(くもね)は、周りは農地と住宅街が入り組んだ場所で社叢はなく境内を含めて明るい。直ぐ西は堤防でそこを斐伊川が流れる。

鳥居を抜けて進むと、南面する拝殿正面。鈴がない。本殿は大社系の造り。
拝殿の扉は鍵が掛かってないので、失礼して中に入らせてもらい参拝する。
拝殿内は土間で特別威厳のある風情はなく、むしろ事務所的な感じさえする。新しいからだ。

ここには周辺の氏神や祠が沢山合祀されている。現在でも堤防の隣で、斐伊川が暴れ川だった昔はこの辺りは氾濫に何度もあっているはずだ。明治の合祀令だけでなく、洪水に流れた神社も多かっただろことも合祀を進めたはずだ。社地も移動しているだろう。社叢が残っていないのも多分その様なことが関係しているに違いない。

社は新しいが神社の歴史自体は古いようで、風土記社の一つに比定されることもある。
由来によれば、斐伊川の中州の住民が開拓祖神として「ヒメ神」を祀ったのが始まりだとされる。その後、祭神が奇稲田媛命(くしなだひめ)と見なされるようになり稲田姫社(いなた)とか稲田神社と呼ばれていた。そして、近くにあった石塚社を合祀して石の異名である雲根を社号にしたとされる。

合祀された石塚社は石神社、石塚明神とも呼ばれ、素戔嗚尊(すさのお)と八岐大蛇(やまたのおろち)の伝説がある。
素戔嗚尊に退治された大蛇の頭がここへ流れ着き、それを哀れに思ったのか村人が埋めて石で塚を作り祀った。しかし、その後、塚から毎晩怪火出るようになり、恐れて困った村人が素盞鳴尊の神霊を祀ったところ、怪異がおさまったという話だ。

古事記や日本書紀の本文では、素戔嗚尊は八岐大蛇を斬り刻んだように書かれている。頭を斬り落としたかどうかは不明だが、書紀の一書には頭を切ったと、はっきり記されているので、あながち間違いではないだろう。それに、ビジュアル的にはやはり首を斬って頭を飛ばして欲しい。
具体的にはどこで八岐大蛇が討たれたのかは分らないが、斐伊川が血となって流れたらしいので、斐伊川の上流だ。それなら、首が下流のこの地に流されてきても不思議ではない。
血生臭く真っ赤に染まった斐伊川から巨大な大蛇の首が流れ着いたとすると、かなり怖い。これは丁寧に祀らなければ祟られると、村人が思っても不思議ではないだろう。

素戔嗚尊と大蛇の伝説があったからなのかどうかは確かではないが、石塚社の方が稲田姫社より住民の信仰に及ぼす影響が大きかったようで、合祀された石塚社が社号を取ってしまった格好になっている。それは、石塚社が有名になってこの辺り一帯を石塚と呼ぶようになっていたからだとされるが、どうも逆の気がする。

元々、この地域は石塚と呼ばれていて住民の氏神である石塚社があった。古来から斐伊川河口付近は氾濫と洪水に何度も遭っていて、当然ここも例外ではない。その度に社が流されただろう。再建するときに近くにあった稲田姫社に社地を移して雲根神社と号したとのことだが、稲田姫社に石塚社が合祀されたと言うよりは、稲田姫社の境内と社殿を石塚社が乗っ取ったと言う方が事実に近い気がする。
石塚の地名も、斐伊川からの堆積地だったため中には巨大な岩があったことから付けられたのではないだろうか。多分、その大岩なども度重なる洪水で流されてしまったのだろう。
稲田姫社の元の祭神の「ヒメ神」も、一般名としての「姫神」や祖先神ではなく、斐伊川を女神と見なして祀る社だったのではないだろうか。水の恵をもたらす神が暴れ洪水を起こさないように鎮めを祈願する社として。

本殿に向かって左には小さな速玉社という祠とお稲荷さんがある。
反対側である向かって右には荒神と思われる樹木と狛犬、さらに小さな石の祠や昭和荒神社、社日石標などが並び、その横に石神社の跡がある。
これが遷された石塚明神のようだ。石柱には、「石塚の社の神跡」、「八岐大蛇荒魂」などの文字も見えるが、その他は摩滅もあって読めない。八岐大蛇荒魂と言うのは、納められたのが頭ではなく荒御魂だったと言う話も伝わっているからだろう。
並びの中で一番大きなものは狛犬を従える荒神だ。一番端の石神はかなり小さい。この石が元々、石塚社にあったものだろう。石は大蛇の鎮めに置かれたはずだが、この石の大きさでは大蛇の頭を埋めた後に乗せても押さえ鎮められそうもない。怪しい妖火が毎晩出るようになった時に、石を大きなものにしようと思わなかったのだろうか。

合祀された社が多いが、その由来などは拝殿横の倉庫に説明板が掲げられていった。

神社名の雲根というのは「石」の意味だそうだ。
古代中国では「雲は石間より生ずる」とされ、雲は岩から湧き出したものだと考えられていた。石は、雲の元、つまり「根」であることから、石の異名を雲根と言ったのだそうだ。
新たに社号を付けた人は博識だ。

石塚社の旧社地は明治初年まで残っていたが、今は斐伊川の河川敷に出来た出雲ゴルフ倶楽部に埋まっているらしい。
ゴルファーはクラブを抱えて八岐大蛇の頭を地に踏みしめてプレーするのだろうか。それとも小さな碑でもあるのだろうか。

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・・静の岩屋(平成20年6月28日)
お岩さんを過ぎ、粟嶋の小山に沿って中海側に回り込むように更に進む。少彦名命の伝説をだけでなく 八百比丘尼(やおびくに)の伝説も残る。複数の伝説が残るのは島全体が御神体として信仰されていたためだろうか。
八百比丘尼の岩屋へ向かう。

島の原生林がそのまま麓ぎりぎりまであるため日は遮られ、元々海上にあった島なので地面は湿気が多くてシダに覆われて、人の気配もないため少々寂しい。
島と反対側は湿地となっているようで、一面、葦のような植物で覆われている。茎の先に茶色いフランクフルトのような穂があるので、蒲かも知れない。

粟嶋神社への参道石段の反対側あたり、頂上境内の出雲大社遥拝所があった場所の下あたりか。少し開けた場所に赤い鳥居があり隣には八百比丘尼の赤い幟。
ここが静の岩屋(しずのいわや)、八百姫宮のようだ。

鳥居奥には崖に岩の裂け目がある。中は暗いが目を凝らすとどうやら下には水が溜まっている。海水が地面から湧き出しているのではなく、水が滴る音がするので、洞窟内の岩から水が染み出していてそれが滴り溜まっている様だ。周囲数百m、高さ30m余の小さな岩山から水が染み出すというのも不思議だ。最近、雨が降っただろうか。思い出せない。

八百比丘尼の伝説は若狭が良く知られているが、全国各地に広がっている。
昔、粟嶋神社の氏子の猟師が講を作っていたが、ある時一人の猟師が引っ越してきて講の仲間に入れてもらった。その猟師が講の当番になった時に、世話になったお礼といって皆を船で竜宮の様な場所に連れて行き歓待し、最後に人魚の料理が出された。誰も気味悪がって食べなかったが、袂に隠して帰った猟師の娘が偶然見つけて知らずに食べてしまったところ、18歳のままで年をとらなくなってしまった。何時までたっても年をとらなかったが、最後は世をはかなんで、洞穴に入り干し柿を食べつつ鉦を鳴らしながら生き絶えた。
その時に娘は800歳になっていたので、村人は哀れんで、八百比丘尼とか八百姫とか呼んで祀った。長寿の御利益があるという。
どこの伝説も内容はほぼ同じで、人魚の肉を食べた娘が年を取らなくなり800歳まで生きた、というものだ。

不老不死になった娘が絶食だけで命を絶てるのも妙な話だが、これには、即身仏(そくしんぶつ)の伝承が重なっているのは間違いない。死ではなくあくまでも成仏、入定なので、不老不死でも息絶えられるのではないだろうか。

即身仏というのは仏教で僧が僅かな飲食だけで瞑想しながら半絶食状態で命を絶ち自然にミイラ化したものをいう。そしてその僧侶のミイラは仏として手厚く祀られる。
思想の背景は単純ではないが、苦行の末に現世の姿を保ったまま仏になる、成仏するという事のようだ。東北に多く残されていて、湯殿山は良く知られている。各地で公開されているので幾体か拝観したことがあるが、現在の感性からは崇拝対象としては少し違和感がある。

エジプトのミイラの様に加工するのではないため、生前から死後の腐敗を防ぐ工夫が必要になる。先ず、筋肉、脂肪などを極限まで減らすために、穀物を絶ち水と木の実や根などの僅かな食物で過ごす木食修行(もくじき)というものを行なう。そして、地中にこしらえられた小さな部屋に埋められ、読経したり鉦や鈴を鳴らしたりして禅定する土中入定というものを行なう。空気穴として地上に出した竹から音が聞こえなくなったことで入定した事を知ったそうだ。
ミイラ化するのには時間がかかるので地下室を掘り起こすのはずっと後のことになる。
もちろん、ミイラ化するかどうかはその時の環境や偶然の要素が大きいので、腐敗してしまった場合の方がはるかに多かった。
また、掘り起こされずにそのままにされた土中入定も相当数あるのではないかと考えられている。忘れられたのだろうか。もし、そうなら何だか悲しい。僧は死を賭けて即身仏になろうとしたのに。

因みに、即身成仏(そくしんじょうぶつ)という似た言葉もあるが、これは即身仏とは全く違う。

この洞窟は静の岩屋と呼ばれる事から想像できるように、八百比丘尼の他にもう一つ伝承がある。大己貴命(おおなむち)と少彦名命が国造りをする時に、仮宮とした志都の石室だとする伝説だ。
大田市の静之窟は大きかったが、ここはかなり狭い(2008、大国主命の舞台4、静之窟)。
岩に開いている洞窟は中は少し広そうだがそれでも人が入るには狭過ぎる。多分、埋め立てられて地面が元の海水面より上がっているのだろう。洞窟は山形で上になるにつれて狭くなっているようなので、海に開いていた時は地面が低く、もっと裂け目は大きかったと思われる。

ここの八百比丘尼の話は江戸の元禄ごろには知られるようだが、少彦名命の伝説はそれより古いだろう。粟嶋の名前から少彦名命と結びついたのが早いことは間違いない。後に静の岩屋とされるようになったはずだ。しかし、何故、八百比丘尼の伝説が生まれたのか不思議だ。

洞窟前は湿地になっていて八橋が架けてあり歩いて渡れるようになっている。隣の水鳥公園からの遊歩道の続きで、トンボ公園と呼ぶ場所らしい。水辺がトンボの生息地になっているようだ。
そこから見ると、粟嶋は湿地に浮かぶ原生林の小島だ。

水鳥公園に向かうと大変な遠回りになるので、もと来た道を帰る。
それまで人の気配が全くなかったのだが、立派なカメラを抱えた男性や、観光客風の若い女性など、三々五々と人がやって来るのには驚いた。意外に人気がある。

途中に万葉集の歌碑がある。
大汝(おおなもち)、少彦名のいましけむ、志都(しつ)の石室(いわや)は、幾世経にらぬ(巻3-355)


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