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木花咲耶姫命 その1
縄久利神社(比田縄久利神社)(平成20年6月15日)
暖かな日差しの中、平成20年6月15日、安来の町から県道9号線を中国山地に向かって奥へ走る。徐々に山が深くなり左右からの山が迫って、小さな峠が近づいてくる景色の中、草野の集落の木立に隠れるように縄久利神社(なわくり)の案内板が出た。
分岐は県道258号線で、一応県道だが道幅は一気に狭くなる。程なくして集落の中では一車線道路となり、車同士はおろか車とバイクでの離合も困難になった。集落を抜けると道幅は少し広がるが舗装林道のようになり、この先大丈夫なのかと少々心配になるが、道路状況がそれ以上悪化することはなかった。
一つ峠を越えると間もなく山中を走る道端に参道と鳥居が現れてほっとした。
神社前の県道は草野と比田を結ぶ道だが、どちらの集落とも離れた山の中でとても静かだ。老杉に挟まれて立派な長い石段が拝殿に続く。予想に反して大きな神社だ。
周りは高い木々で囲まれているが、鬱蒼とした森の中といった印象は受けない。境内が広いので明るいのだ。
彫刻で飾られた唐破風向拝の拝殿も立派だ。本殿は方一間の大社系の造りで小さいながら綺麗に管理されている。
向かって左奥には若宮神社の石碑。かなり新しそうだ。残念ながら祠は残っていない。境内の左手に廻って一段降りた一画には小さな摂社とお稲荷さんなどがあるなど、境内摂社も多い。しかも、そのどれも手入れが行き届いている。
奥深い山の中に入って来て周囲には民家もほとんどないような地なので、傷んだ小さなお堂のような社を想像していただけに、これだけのしっかりした規模の神社があったことは少々驚きだった。しかし、それもそのはずで、単なる山奥の氏神ではなかった。
江戸時代には家畜の守護神として信仰を集め、中国地方にこの神社の講(こう)が結成されていたという。現在でも春には花傘神事と呼ばれる、家畜の健康に効験があるとされる花を争奪する行事が続いているのだそうだ。境内に牛像が置かれ、鳥居近くに畜魂碑が立っているのも納得できる。具体的な内容は不明だが、さぞ賑やかに祭りが催されるのだろう。
講というのは厳密にはかなり定義が難しいが、ある神仏の信仰を持った組織のようなものを指す。神社や寺院などは基本的に氏子や檀家で成り立っていて地域密着だが、講は、そいういう枠を超えた広域的な範囲に構成員が存在する。例えは良くないが、自分の集落ではない遠く離れた場所にある寺社の氏子や檀家になるようなものだ。
講では信仰する寺社が日帰り出来ない程遠方にあることも多く、参拝するのも大変だった。そのため、講の皆でお金を積み立てて少人数の代表が参拝することも普通だった。その一番有名なのが、お伊勢参りということになる。これは伊勢講と呼ばれた。
多くの庶民にとって伊勢までの旅は個人負担ではとても無理だったので、講で集めたお金で参ったわけだ。講での集金と積み立ては定期的に行なわれ、参拝するメンバーは案内人となる先達以外は順番に変るのが普通だったので、講に参加している人は毎回は行けなくてもそのうち自分の順番に恵まれることになる。
お伊勢参りも含めて、講での参拝は信仰もあるのだが観光旅行の要素も大きかった。一生に一度の大旅行だった人も数多くいたはずだ。講というのは、貧しい人たちが協力して普段行けないような場所に旅をするという、よく考えられた行楽のシステムだったともいえる。
神社は元は縄繰大権現と呼ばれたらしい。
ここは下の宮で、奥宮、いわゆる本宮は飯盛山にあり、山頂からは大山(だいせん)や三瓶山(さんべさん)が望めると説明されている。奥宮周辺には巨岩が多く、菊水の岩、こもり岩、乳岩、赤子岩など、名前の付けられた岩には言い伝えもあるらしく、古くから巨石信仰の地であったことが知れる。大権現と呼ばれたのは、磐座を中心とした山岳修験の地であったからだろう。古来からの西日本の修験道の勢力分布を考えると、山頂からの大山の遥拝が重要だったのだと思われる。鳥取県西部にある大山にある大山寺(だいせんじ)は、室町以降は多少寺勢が衰えるものの、明治維新まで日本有数の修験道の聖地だったからだ。また、大山寺は牛馬を扱う博労(ばくろう)としても知られていた。説はいくつもあるものの、大山寺博労座は日本三大牛馬市の一つに数えられることもある。大山を遠望できるここが牛馬の守護神として崇敬されていたことと無関係ではないはずだ。
神社周辺は山中にしては広く、鳥居前も開けていて古来は神宮寺のような僧坊でもあったのではないかと想像するが、隆盛だった頃の姿がどうの様だったのかは知れない。
現在の主祭神は大山祇神(おおやまずみ)と磐長姫命(いわながひめ)。大山祇神はともかく、磐長姫命を祀る神社はあまり多くない。
以前の神社名の表記が「縄久利」ではなく「縄繰」だったのには次の様な伝説が伝わっている。
大山祇神の娘に、磐長姫命と木花咲耶姫命(このはなさくやひめ)という姉妹がいた。二人はお互いの住家を見つけるために飯盛山に登り見渡すと、遠くに大山が見え、そこがよさそうだった。木花咲耶姫命は、良い場所が見つかったら合図に引っ張るといって、縄を持ち引いて出て行ったが、何時までたっても連絡がない。そこで残されていた磐長姫命が縄を繰ってみると、縄は途中で切れていた。裏切られた磐長姫命を祀り縄繰神社と呼ばれるようになったと伝えられる。
この神社の氏子は縄を大切にして使えなくなっても焼かないのだという。
磐長姫命と木花咲耶姫命の話は記紀に有名なものがある。
天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫、瓊瓊杵尊(ににぎ)は天上の高天原から、この地上の葦原中国(あしはらのなかつくに)を治めるために天降って来た。ある日海辺で木花咲耶姫命と名乗る美しい乙女に出会い求婚する。父神の大山祇神は、姉の磐長姫命も一緒に娶って欲しいと姉妹を遣わせる。しかし、磐長姫命は醜かったため帰されて、妹の木花咲耶姫命だけを宮に留めた。
大山祇神はそれを知り、二人揃って差し出した理由を述べる。磐長姫命はいつまでも岩のように硬く揺るぎなく堅固で長寿となるように、そして木花咲耶姫命は花が咲きほこる如くに栄えるように、との事だったが、木花咲耶姫命だけを娶ったため、子孫は咲く花の命が短いように短命になってしまったと。そのために天皇は寿命が限られ短命になってしまった。
人間に寿命があることを説明するこの手の神話は世界各地にある。民俗学ではバナナ型神話と呼ぶのだそうだ。知らなかったがどうやらよく知られた神話分類名らしい。
神が人にバナナと石のどちらかを選ぶように命じたとき、食べられるバナナを選んだ。この時に石を選べば、変ることなく不死となったが、バナナを選んだため人は短命になったというのが大筋らしい。石を不変の象徴としていて、磐長姫命の説話と本質は同じだ。
もっとも、哺乳動物に限らず地球上の高等生物の中でもヒトの寿命は決して短くない。むしろ長い部類に入るのだが、何時でも人が不老不死を望むのは、石よりも堅固な永遠不変の願いなのだ。
瓊瓊杵尊に帰された後の磐長姫命の話は日本書紀では別説が載っている。
扱いを恥じた磐長姫命は、もし自分を娶っていたら子供は堅い岩のように永遠の命となっただろうが、妹の木花咲耶姫命だけを娶ったので、生まれる子供は木の花のように散り落ちるだろう、と呪ったと。磐長姫命の恨みは分る気がする。
ストーリーとしてはこちらの方が二者択一のバナナ型神話に近く、古い神話に基づいているのかも知れない。
それにしても、大山祇神も含めて神様は酷だ。寿命を左右するような重大な意味があるのなら、あらかじめ瓊瓊杵尊に教えておくべきだろう。バナナ型神話の神様にしても何も知らない人類にバナナと石を選択させて決めるというのはあんまりだ。誰だって石よりも目の前の食料に手を伸ばすだろう。神様なのだからバナナをくれた上で、不老長寿にもしておいたから感謝するように、とでも言ってくれても良いだろう。
何故人は死ぬのかという問は、何故生まれてくるのかということの裏返で、それは人生とは何かという問題の言い換えだ。当然、古代人でもこの哲学的な問題に悩んだはずで、その答えの一つがこういう神話なのだろう。それは未発達の稚拙な考えの様だが、神話をそのまま受け入れられていたのは幸せだったように思われる。どうせ今だって答えが出ているわけではない。神話での説明を受け入れられず納得できない現代人は、生き甲斐探しとか、自分探しなどと現実逃避するしかなくなっている。
神社の背後にある山が、伝説の飯盛山のようだ。由来の書かれた説明板には、本宮や巨石が描かれている。磐長姫命を祀る縄繰社というのも見える。社名からは本宮よりこちらが本来の社で、後にここに下りてきたのではないだろうか。いずれにせよ、見学したいと思い、鳥居前の道を進んだのだが、その後が少し大変だった。
かなり急な登りのタイトコーナーがあり、その先に本宮の石製鳥居が道端にあった。鳥居は新しく綺麗なのだが、参道と思われるその先は夏草の生い茂った山道が林の中に消えている。近くによって見たが全く足跡はない。かろうじて道であることは分る。
蛇は出ないだろうか。このあたりは熊の噂は聞かないが、出ないとは限らない。残念ながら足を踏み入れる勇気がなくて、断念した。
Uターンしようと思ったが道幅が狭い。バイクでも一度では回れず切り返す必要がある。しかし、坂道なので大型バイクを方向転換するのは難しそうだ。手持ちの道路地図ではこのまま進めば再び県道9号線に戻れるようになっているので、そのまま進むことにした。
急な細い山道を下って行く。心配になり一度停まったところ、バランスを崩してそのまま立ちゴケ。先日は右に、今日は左だ。
平地にならないとUターンもままならないので、仕方なくそのまま進むと、最悪の事態に。両側に轍のある未舗装になった。未舗装路は自分の腕では絶対に走れない。
未舗となる手前がほぼ平地なのでそこで取り回して転回することにしたのだが、気がつかないほどわずかに下り坂だったため、切り返しのためにバイクを後ろに引くが、びくとも動かない。
数十センチづつ前後に動かして、何とか方向転換を終えたときには、息も切れ切れ、汗だくだった。そして、翌日から腰の筋肉痛に数日悩まされることになる。
今度、本宮に挑戦する時は、神社前から歩くことにしよう。
リッタークラスの大型ロードバイクで山の中の狭い道に入って行くのが間違っていると言われればその通りだ。あまり知られていない社寺旧跡などを捜し求めるにはオフロードバイクの方が適しているのはわかっている。しかし、とても残念なことに小柄なためにオフロードバイクでは足が届かない。オフロードバイクはバイクの中でもシートがとても高いのだ。
県道258号線に戻った後は西の比田温泉に下って国道432号線に出て帰った。来る時とは違って道は広く途中には民家が続く。縄久利神社へはこちらのルートが便利だ。結局、神社へのアプローチも悪路を選択していたのだった。
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