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素戔嗚尊と八岐大蛇 その9
布須神社(加茂布須神社)(平成20年6月7日)
出雲大東から県道157号線に並行して東から西へ斐伊川に注ぐ支流がある。赤川。素戔嗚尊が八岐大蛇を切り殺した時に流れ出した血で川が真っ赤に染まったことから名付けられたとされる(2006年、素戔嗚尊と八岐大蛇3、八口神社)。
その赤川が斐伊川と合流する近く、川の右岸に延野と言う集落があり、そこに布須神社がある。
山裾の小さな村落で、神社を探しながら走っていて行過ぎてしまった。そこで、停まって切り返せばよかったのだが、Uターンしようとして失敗し転倒してしまった。その際に右足が挟まれて押しつぶされるかと思ってしまったが、幸に怪我はなかった。右足がクッションになったためか車体へのダメージもほとんどなく、良かったのか悪かったのか。
それにしてもCB1300SFは重い。想像以上の重さだ。ほんの少しでもバランスを崩すと足で支ささえるのは不可能で確実に倒れる。
集落への道の左手の小山の中腹の少し高い場所に社があり、参道が真っ直ぐに伸びる。その先、鳥居の向こうは階段になっている。
近づいてみて驚いた。階段が鉄骨製だ。まるで古い非常階段だ。今までいくつもの山裾の斜面に作られた急な石段の参道を見て来たが、鉄製の非常階段は初めてだ。
かなり急な斜面なのだが、参道は石段でも作れそうだ。何故、鉄製の階段なのだろう。
少し錆が浮かんでいる。そのうちに新しくする必要がありそうで、石段の方が長く使えそうな気がする。
下から眺めた時は、真っ直ぐな参道の先の社で、立派な印象だったが、拝殿の前まで来ると、意外に小さい。
拝殿の注連縄は巨大だが、本殿は大社系の大きな特徴はない神社だ。村の鎮守、氏神なのだろう。
ここは出雲国風土記の布須社に比定される神社の一つとされる。ただ、一般には木次の室山にあった同名の布須神社がそれに当てられている(2008年、素戔嗚尊と八岐大蛇8、布須神社)。
室山の布須神社は古代祭祀の歴史を持つ社のようで、拝殿のみで本殿を持たない、など興味深いものがあったが、失礼ながらこちらは取りたてて特徴のない大社系の社だ。珍しいのは鉄製階段の参道くらいのものだ。しかし、こちらに歴史がないかと問われると、あながちそうともいえない。元々が村の鎮守や氏神なら神社名は、そこの地名になるはずなのだが、ここは違うからだ。古来より何らかの祭祀の社があった可能性は高い。
残念ながら、由来記のようなものは見当たらない。
ここは、先に見学してきたが、八岐大蛇が退治された後に天叢雲剣の出てきた尾留大明神旧社地と赤川を挟んで直線でおよそ1km。その間には八岐大蛇が用意された酒を飲んで酔っ払って寝てしまった草枕山や、素戔嗚尊に矢で射られた八口神社もある(2006年、素戔嗚尊と八岐大蛇3、八口神社)。つまり、大蛇退治の最後の舞台が多く集まっている。そのためだろうか、ここでは室山の布須神社に伝わる話と少し違う。素戔嗚尊が八岐大蛇を退治した後に奇稲田媛命と居を構えた場所がこの布須神社だそうだ。素戔嗚尊と奇稲田媛命の最初の宮として一般的に良く知られている八重垣神社や須我神社は、ここから移ったのだとされる。
室山の布須神社は酒を醸すのに使われたという伝説だった。
室山の「ふす」は、頂上に磐座があり、山が聖なる古代信仰の御神体考えられていたことから、多分、遥拝の、伏し拝む意味の「伏す」だったのではないかと思う。
それでは、ここの「ふす」は何だろうか。隠すと言う意味の「伏す」ではどうだろう。奇稲田媛命を隠したということで。それなら館跡とされても不思議ではない。
想像を膨らませると、隠したのは姫ではなかったかも知れない。
出雲国風土記の大原郡の記事に、神原(かむはら)の郷は古老の伝によると、所造天大神(あめのしたつくらししおおかみ)の御財(みたから)を積み置かれた場所で、そのために神原と呼ぶ、とある。所造天大神は大国主命のことだ。
この神財(かむたから)は、以前は川向こうの神原神社境内の遺跡から出土した三角縁神獣鏡ではないかと考えられていた(2006年、卑弥呼の鏡、神原神社)。何しろ卑弥呼の鏡との説のある景初三年銘の入った銅鏡だからだ。しかし、最近では山を挟んで反対側の加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡を神財と見る説が人気だ。それら、どの意見にも個人的には今ひとつ納得できないが、前を流れる赤川の対岸のやや東には神宝があるとされていたのは確かなのだ。隠すという意味の「ふす」はそれと関係してないだろうか。
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