同行二輪

いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

イメージ 1

素戔嗚尊と八岐大蛇 その9

c(平成20年6月7日)

雲南木次の室山の麓の細い道を釜石、布須神社と見て回り、そのまま走ると佐世小学校前の道に出る。そこで、佐世川沿いの道と交わる所に佐世神社がある。

道端に鳥居らしき石柱があり、荒れた石段が小山に向かって延びている。何かの整備中のようで、参道横の木が一部伐ってある。そのために道は枯葉と泥で埋まっていて、とても石段とは思えない状態だ。

登りきると低い丘の尾根に出る。雑木林の中を道が一本続いている。途中に左に曲がる参道らしい石段があったので登ってみると平地になった。しかし、社殿がない。
枯葉の敷き詰められた空き地の中央に2m程の四角い土台だけが残っている。社殿の改築中なのだろうか。それとも、このまま無くなったままなのだろうか。
中津で見た本殿のなくなった社といい、今年は社殿のない神社に縁があるようだ。

参道へ戻る。道はそこから広くなる。そのまま林の中を歩いてゆくと広い空き地と大きな鳥居が見えてきた。奥には社殿がある。
神社は八幡神社となっている。名前が佐世神社ではないのは合祀されたからだ。

ここには、車で上って来られる道があり、空き地は駐車場として使われているようだ。ただ、道幅は狭く、車同士のすれ違いは難しいし、最後はかなり急な坂道なので、車で来るにはそれなりの勇気が必要となる。
登ってきた参道入り口横には「佐世神社森の入り口」の看板、「佐世の森」の説明板があったが、どうやら現在は脇参道となっているようだ。入り口、石段横に森に向かう細い道がここにつながっている。それは、後で知った。

本殿はよくある大社系の造り。境内の向かって右には武内神社。武内宿禰が祀ってあるのだろう。八幡なので武内宿禰は応神天皇と神功皇后とセットで祀られることが多い。
そのすぐ近くには苔むした岩に注連縄がしてあるが、いわれは不明だ。

本殿の右手に来た参道とも車道とも違う別の参道があり、そこを数メートル降りると石段横に注連縄で囲まれた巨木がある。
幾本もの枝が古い幹から四方に伸び、相当な樹齢のようだ。佐世の森の標識がある。佐世神社で、これだけは見なければならない椎の木だ。
出雲国風土記に素戔嗚尊の伝説がある。
素戔嗚尊が佐世の木の葉を頭にさして踊った時に、葉がこの地に落ちたので佐世と呼ぶようになったと記されている。
その落ちた葉から芽吹いた巨木が佐世の森だ。枯れては芽を吹くことを繰り返し、現在は5代目とのことだが、かなりの古木になっている。さすがに、素戔嗚尊の時代芽吹いた木ではないようだ。
実は、佐世がどの様な樹木を指していたのかは不明で定説はないそうだ。ここでは5代目と代数も数えられているので、それを素直に受け入れれば椎の木で良いのかも知れない。

素戔嗚尊が佐世の木の葉をかざして踊ったのは八岐大蛇を退治した後だと書かれている案内書を時々見るが、それは全く違う。風土記では単に踊ったとされるだけで、八岐大蛇との関連は述べられない。それも当然で、出雲国風土記には八岐大蛇退治の話はどこにもないからだ。
記紀では大活躍の素戔嗚尊だが、出雲国風土記では出番が少ない。少ないというよりほとんどない。しかも、風土記には大神と呼ばれる神が四柱記載されるが素戔嗚尊はその大神でもない。
出雲国風土記では注目度の低い素戔嗚尊だが、ここでの伝説も些細な話だ。風土記での扱いを考えると、素戔嗚尊と八岐大蛇の伝説は起源が地元に根付いたものではない気がする。

神社の横に来る車道はそのまま社殿がなくなっていた小さな境内へ真っ直ぐに向かう参道続く。八幡神社へは空き地で後ろを振り向くような格好で参拝方向を変えなければならない。車道参道が新しいからなのか、八幡を勧請したて合祀する過程で変化したのか。

割石

イメージ 1

雲伯の古寺と仏と その9

割石

釜石、布須神社と見て回り、そのまま木次の室山の東を回るように細い道を佐世小学校へ向かい走っていると、「割石すぐそこ」、という看板が眼に入った。確かに左手に大きな岩が見える。何か知らないが立ち寄ってみた。

説明板が立っていて、次のように書かれている。。
宇谷の領主と佐世の領主が境界争いをして、室山42坊の大門と西の大門から同時に牛で出発し、出会った所を境界とすることになった。しかし、宇谷の領主は馬で出て為峠を越えたところに大岩まで来ると馬と牛は岩に衝突してその岩が割れ、中から白蛇が現れた。両領主は不思議に思って争いを止めてここを境界とした。
岩には馬と牛のひずめの跡が残っている。

少しわかりにくい。
宇谷と佐世というのは地域の名前で、室山を挟んで北が佐世、南が宇谷になる。
室山42坊というのは、かつて鎌倉頃に室山にあったとされる寺院で42坊を数えたという山岳寺院のことだ。室山にある巨石を磐座とした修験道の寺で、布須神社や釜石などもその寺と関係していたと思われる。
寺はその後衰退し、山の南の宇谷には坊の一つの安養寺が残っていたが昭和初期に無住となって今はお堂を残すだけとなっているらしい。そのお堂も今はあるのかどうか。

室山寺がどのような寺だったのかほとんどわかっていないし、42坊の実態も全く不明だ。ただ、宇谷と佐世の領地争いは、多分、42坊の寺領争いだったはずだ。寺の規模が大きくなると、内部で対立が起こるのは避けられない。調べてみたところ、室山寺があったとされる寺床は宇谷の地らしいので、宇谷の大門というのは統括していた室山寺本寺の門と考えてよさそうだ。一方、説明からは西の大門は佐世にあったと読めるが、こちらも大門と呼ばれ領地争いをするからには、坊というよりも寺といってよいほどのもで、42坊といっても小さな堂宇ばかりではなく、その中には本寺に匹敵する規模のものがあったと想像できる。
多分、室山寺42坊は一つの寺院組織ではなく、室山の南から北東側のかなり広い範囲にあった大小の寺や堂庵を一括した呼称だろう。それらを宇谷寺床の室山寺が統括していたと思われるが、領地争いが生じるくらいだから、一方的な完全な支配関係にはなかったと思われる。
ただ、山岳寺院集団としては相当に大きい。日登の駅前辺りに寺領という地名があるが、それも無関係ではないはずだ。

岩には牛や馬のひずめの跡が残されているとあるので、近寄ってみる。確かに表面にいくつかくぼみがあるし、白い模様もある。それらが足跡といわれればそう見えないこともない。

しかし、足跡よりもっと似ているものを思い出していた。5-6m以上はありそうな巨大な岩が真ん中から真っ直ぐに断ち切られた様に割れているのだ。それは、柳生にある柳生石船斎宗巌が修行中に一刀で断ち切ったという伝説の一刀石に良く似ている。
このあたりに剣豪伝説があれば間違いなく同じような逸話が残っただろう。

石のは夏草の繁った空き地の中にあるので、近づく場合は少し注意したほうが良さそうだ。

イメージ 1

素戔嗚尊と八岐大蛇 その8

布須神社(室山布須神社)(平成20年6月7日)

八岐大蛇を酔わせた酒を造ったかまどの釜石から更に100-200mほど進むと、「御室山布須神社参道入り口」の看板の別れ道がある。細い上りの山道だ。

100m程進んだ所で舗装がなくなりダートに変る。車の轍があるため、農耕車や林業の車は走っていることがわかる。しかし、大型ロードバイクだとこれ以上は苦しい。もちろんオフロード車なら大丈夫で、腕さえあればロードタイプでも何とかなるだろうが、もちろん迷わずバイクを停めて歩く。

植林された杉を横に眺めながら木陰を200m程歩くと布須神社に到着。山の中腹、周囲は森で何もない所だ。
釜石の時もそうだったが、目的地までの距離がわからないのと、途中に人の気配もなく民家もないので進んで行くのは少々不安だ。山道を歩かなければならない所にはぜひ距離も表示しておいて欲しいものだ。あと何メートル、と表示があるだけで、安心できる。

山の斜面に少し開けた平らな境内があり、そこから長い急な石段が真っ直ぐに上に向かう。
見上げると、急な斜面に石垣を作り背後の山に張り付くように社が建っている。

鳥居の側の由来記によると、ここは須素戔嗚尊(すさのお)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治するときに八塩折(やしおおり)の酒を造らせた御室だそうだ。歴史的には出雲国風土記の布須社(ふす)に比定さえる。

拝殿まで登ってみた。平坦地は狭い。拝殿で全て占められている。拝殿の中は倉庫のようで殺風景だ。
正面から拝すると、奥に祭壇が設けられていて、その後ろは格子のガラス窓になっている。何だか、ガラス窓を祀っている状態だ。
ガラスを通して後ろの急な崖斜面に無造作に山状に積まれた小さな岩くれとそこに立つ鳥居が見える。
由来書によれば本殿がない形式で、太古より室山(むろやま)そのものを御神体にしているそうだ。奈良の大神神社(おおみわじんじゃ)のように拝殿しか持たない神社ということだ。大神神社も後ろの三輪山(みわやま)を御神体としている。このような形式のものを神奈備式(かんなび)の社、神奈備造というと説明してあるが、初めて聞く名称だ。一般的な名称ではない。神奈備とされる山を御神体として本殿を持たない拝殿だけの社を便宜上そう名付けているのだろう。

拝殿後ろの小岩の積まれたものは、御神体の神奈備山である室山の依代、神籬(ひもろぎ)として機能すると思われる。

神社の立地と本殿を持たない形式から、背後の山に磐座があるらしいことは簡単に予想できる。実際に背後の室山の頂上に磐座があるとのことだ。神社近くに登山道があり、頂上へ行けるはずなのだが見当たらない。ここまで歩いて来た道はさらに先に続いているが、相変わらず作業林道で登山道ではなさそうだ。まあ、登山道がどこにあるかわかっても登るつもりはないが。

室山の裏側には寺床という場所があり、そこには寺院があって平安時代から鎌倉にかけて42坊があったとされる。かなりの大寺院だ。しかし、今はただ石の階段が残っているだけだという。
この山が古来より神聖な山だったことが知れる。先の釜石も磐座の一つだったのは間違いない。山頂や釜石などの磐座信仰から発展した山岳修験道の寺だったと思われる。

出雲国風土記には素戔嗚尊の御室があったので御室山と呼ばれると記されている。しかし、そこには八岐大蛇も酒造りの話もない。当然といえば当然だが。
単なる想像だが、頂上にあるとされる磐座に岩陰があって「室」のようになっているではないだろうか。
素戔嗚尊の八岐大蛇退治の伝説と結びつくのは、かなり時代が下ってからと考えられる。少なくとも、かつてあった寺が衰退したあとだろう。山岳修験寺院は密教とは結びつきやすいが、記紀や風土記とは無縁だからだ。

祭神は素戔嗚尊のはずなのだが、何故か祭壇のお札は天照皇大神宮だ。
狭い境内に立って木々の切れている先を望むと山並がどこまでも連なり緑が深い。

釜石(室山釜石)

イメージ 1

素戔嗚尊と八岐大蛇 その8

釜石(室山釜石)(平成20年6月7日)

平成20年6月7日、昨年に続き八岐大蛇伝説をまとめて廻るべく木次(きすき)に向かって中国山地を走る。木次の町から東へ4km、JR日登駅前(ひのぼり)から飯石(いいし)ふれあい農道を北へ入り、食の杜への案内があるのでそちらを進む。食の杜というのはこだわりを持った農家が集まった交流体験型の施設らしい。
県道176号線と交わり、更に400mほど進むと釜石の案内板が出た。脇道に入って行くと完全に山道に変った。そのまま進んで良いのかどうか少し迷うが、舗装されているので大丈夫だろう。道幅は狭いが、少なくとも農家の軽トラックとなら離合は出来そうだ。

しばらく進むと道端に釜石の案内が出た。駐車場はない。路肩の少し広い場所にバイクを停める。車だとすれ違いのスペースを残して停めるのは少し大変そうだ。
案内板に近寄る。側に遊歩道のような小道がある。先は雑木林の中に消え、そこまでの坂道は夏草が左右から覆っている。
「やまたのおろち伝説、酒を作った釜石」の看板に、釜石の説明板がある以上はここで間違いないはずだ。思い切って登ってみる。

道は枯れ草と落ち葉と苔で覆われ路面もはっきりしないが間違いなく舗装してある。一応整備されていることがわかってホッとした。舗装はすぐに途切れるが、そこからの林の中の遊歩道の方が雑草が少ない。100mもしないで苦労せずに到着した。事前にかなり調べたのだが、釜石の具体的な場所を知ることが出来なかったため、不安はあったのだが意外に簡単に着いてしまった。

雑木林の中。道の側に良く繁った下草に覆われるように岩があった。
向かって右に2mを越える巨大な岩が二つ寄り添う様に鎮座して、左には1mもない小型の石が何となく組まれた様になっている。少しカマド状に見えないこともない。もちろん人工物ではないが。
どちらが釜石なのか。釜石という名前からすれば小型の集まりの方で、標柱もそちらにある。ただ、存在感は巨岩の方が強い。
そもそも、この巨石群は間違いなく磐座で、八岐大蛇とは無関係だったはずだ。いつしか伝説と結びつくときに石組みに見える一群が釜石に変わったのだろ。

ところで、釜石という名前だが、かまど跡と説明されている。案内板にも書かれていたが、素戔嗚尊(すさのお)が八岐大蛇を酔わせるための酒を造らせた時に使った竈(かまど)ということだ。それなら、釜石ではなく竈石だろう。この些細な混乱は、石と伝説を結びつけた時に生じたのではないだろうか。

組み石の方を竈として、巨石の方をお釜とするのはどうだろう。まあ、岩をお釜に見立てるのは形状的に少々無理があるのは承知だが、大きさは合う。
大きな石が釜石とすると、それから一度に造った酒の量を八つに分けると印瀬の壺神の大きさにも合いそうだ(2007年、素戔嗚尊と八岐大蛇、その7、八口神社)。何となく話が通じそうで面白。そこから想像すると、八岐大蛇の大きさは数十メートル位だろうか。

それにしても、えらく不便な場所で酒を造らせたものだ。奇稲田媛命の屋敷からも、八岐大蛇が出てくるからも遠い。造った酒を運ぶのだって大変だ。

道は更に伸びているが明らかに管理林道だ。山の手入れのための道をここまで整備したもののようだ。せっかくの整備なのだが観光客が一年に何人来るのか。少なくとも、最近、人が通った形跡はなかった。

途中、日登駅前の小学校では運動会が開かれていた。道端に父兄の車が溢れていた。その歓声とアナウンスの声がここまで聞こえてくる。
それに混じってウグイスの鳴き声も聞こえる。

意宇の杜(客の森)

イメージ 1

国引きの風景 その1

意宇の杜(客の森)(平成20年6月1日)

松江の南、八雲立つ風土記の丘と呼ばれる史跡の集中する地域は意宇と呼ばれ律令時代国府のおかれた古代出雲の中心地だ。風土記では意宇郡は島根半島の一部から安来方面も含むかなり広範囲な一帯だが、一般に意宇と言えば茶臼山の麓の国府跡のある意宇平野とその周辺のことを指す。

古代出雲では意宇は「おう」と読む。現代国語では「意」を「お」と読むのは難しいが、万葉仮名ではそう使われている。
今は、意宇平野(いう)を意宇川(いう)が流れている。

出雲国風土記にいわゆる国引き神話と呼ばれるものがある。それは意宇の地名説話で風土記の中で最も有名な話だ。勇壮でドラマチックな物語なのだが、もちろん記紀には記述がない。
少し長いが要約すると次のような話だ。

八束水臣津野命(やつかみずのおみつのみこと)は出雲国を小さく造りすぎたので、継ぎ足して大きくしようと考えた。
北の方を眺めると志羅紀に余った土地がある。そこで「国来国来(くにこ くにこ)(国よ来い、国よ来い)」と国を引き、つなぎ合わせた。 それが去豆(こづ)の折絶(たえ)から八穂爾支豆支の御埼(やほにのきづきのみさき)で、引いてきた綱が薗の長浜、そして綱の杭にしたのが佐比売山(さひめやま)。継ぎ合わされた土地は今の日御碕(ひのみさき)から十六島湾(うっぷるい)の小津(こず)あたりになる。
ちなみに、志羅紀は朝鮮半島の新羅のこと。支豆支の御埼というのが日御崎で、薗の長浜は出雲大社の西に延びる、国譲りの舞台となった稲佐の浜、そして佐比売山というのは三瓶山(さんべ)のことだ。
次に、北門(きたど)の佐伎国(さき)から引いて来た。多久(たく)の折絶から狭田(さだ)の国。今の十六島から佐蛇川まであたり。引いてきた所は隠岐島(おきのしま)ではないかとされている。
次に、北門の良波国(よなみ)から引いてきたのが、宇波の折絶から闇見(くらみ)の国で、今の佐蛇川から千酌あたりまで。
そして最後に、高志の都都(つつ)の岬から引いてきたのが、三穂の埼(みほのさき)で、引いてきた綱が夜見嶋(よみのしま)、そして綱の杭にしたのが火神岳(ひのかみたけ)。高志というのは越国(こし)のことで、今の北陸地地方だ。海の向こうの島ではないが、古代は別の国と考えられていた。三穂の埼は現在の美保関(みほのせき)で、夜見嶋は弓ヶ浜半島、火神岳というのは大山だ。
全てを終えた命は、意宇の杜に杖を突き「おえ(おゑ)」と言った。それからこの地を意宇(おう)と呼ぶようになった。

「おゑ(おえ)」を「終わった」と説明してあるのもが時々あるし、以前はそう思っていたが、単なる感動詞と言うのが正しいようだ。
古代日本語を知らないが、終わるは「おえる」で旧仮名使いでは「おへる」と表記される。「おゑる」ではないので、多分、終わったというのは間違いなのだろう。
「おお!」とか「ああ!」とか「ほう!」とか、まあそんな感じの思わず口をついて出てくる言葉らしい。

土地鑑のない人には地名に馴染みがないために、国引きの神話を読んでも理解し難いと思われるが、要するに4回に分けてあちらこちらから土地を引っ張ってきてくっつけて今の島根半島を作ったという話だ。スケールが大きい。

この八束水臣津野命が杖を突き立てた意宇の杜とされる場所が茶臼山の麓、出雲国庁跡近くの水田の中にあるのだ。ただ、その場所の説明は難しい。
このあたりは官衙のあった古代出雲の中心地なので条里制がしかれていて、今もその名残で綺麗に水田が碁盤目状に整備されている。そのためにかえって目印が乏しいため、本当にわかり難いのだ。
国庁跡の東600m程の場所に南北に走る比較的大きな道があるが、その道沿い、国庁跡の東北にあたる。

平地に杜がぽつんとあれば目に付くだろうが、残念ながらそんな大きな森ではない。
低木が10本程繁った田圃の中の空き地にしか見えない。看板があるためそれが風土記の意宇の杜だとわかる。現在は客の森と呼ぶようだ。

木の根元にお札が供えてあったりするので、近隣の神聖な場所であることには間違いない。周りが一面水田になっているのにここだけ残されているのもそれを物語っている。
しかし、風土記の時代から続く樹木とは思えない。小さすぎる。とても1300年はない。小さな祠のような社のあった旧社地のように思われる。
そういえば、意宇の杜は意宇の社と書いてある写本もあり、杜は社誤字ではないかとの説も有力だ。

ところで、雄大な国引き神話なのだが、終りの地名説話の部分が何かしっくりこない。
「今は、国は引き訖(お)へつ」と詔りたまひて、意宇の杜に御杖衝き立てて、「意惠(おゑ)」と詔りたまひき。故、意宇と云ふ。
というのが読み下しだ。

ここで最後の「故に意宇と言う」の部分が前とつながらない感じがするのだ。
意宇と呼ぶようになった理由は、杖を突き立てたのが「意宇の杜」だったからなのか、それとも「おゑ」と言ったからなのか、どちらなのかということだ。
説明されている文章をあまり見ない。どれも風土記の読み下しをそのまま書いてあるだけだ。

もちろん、意宇の杜に杖を突いたからというのは明らかに順序がおかしい。これだと杖を突く前から意宇という地名があることになる。
普通は「おゑ」と言ったので意宇と呼ぶようになったと説明されている。多分そうなのだろう。「おゑ」に意惠という万葉仮名をあてているのも意宇との対比からだと思われる。
しかし、「おゑ」が「おう」になるのはどうだろうか。

日本書紀などでも地名説話は非常に多い。そして、その多くに、元はこうだったが今は訛ってこう呼ばれている、という説明が付く。
例えば、神武天皇即位前には大阪湾の記述で流れが速いので浪速(なみはや)と言ったが、今は訛って難波(なには)と言うとあるし、神功皇后の三韓征伐出兵では、佐賀県松浦郡の小川で戦勝を祈願して飯粒をつけた釣り針を投げ入れると、アユ(鮎)が釣れ、「めずらしいものである」と言ったことから、そこを「めづら国」と名づけた。今、松浦(まつら)と言うのは、訛ったものだと説明されている。
地名説話は他愛もないものが多いが、それでも音韻の変化を訛ってこう呼ぶと説明されている。
「おゑ」と「おう」は音が違うと思うのだが、しかし、そこには何の説明もない。もし、変化したのなら、そう書いておいて欲しかった。

意宇の杜ではなく意宇の社で、意宇と言うのが地名ではなく社の名前だったとしたら、意宇神社で終わったと言って杖を突き立てたのでその地を「意宇」と呼ぶようになった、となる。何となくすっきりする。ただ、この場合は社の名前の意宇がどこから来ていたのかが問題になる。結局は、鶏と卵の関係のように終わらない。

振り仰ぐ水田の向こうに神奈備とされた茶臼山が、「下らない事を考えてるな。」と、あきれているように見える。


.
同行二輪
同行二輪
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
ふるさと納税サイト『さとふる』
お米、お肉などの好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!
コンタクトレンズで遠近両用?
「2WEEKメニコンプレミオ遠近両用」
無料モニター募集中!
話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事