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いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

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出雲国に四つの神奈備 その3

八雲立つ風土記の丘・展示学習館(平成20年6月1日)

松江市街の南、国道432号線を南に5-6km走った場所に八雲立つ風土記の丘と呼ばれる古墳や史跡の集まった地域がある。出雲国府跡や国分寺跡などもここにある。その中心となる施設が展示学習館だ。国道沿いではないが、案内があるので見逃すことはない。

今回は3度目の正直でようやく入館を果たした。史跡には何度も訪れているが展示館に足を運ぶことは少なく、いざ立ち寄ってみると、一度は閉館日、二度目は内部改装のため休館中と入ることが出来なかった。出雲地方を中心とした史跡巡りをしていながら、この展示館を今まで見ていないというのも恥ずかしい話だったのだが、しかし、これからは違う。堂々と胸を張れるというものだ。何か、不純な臭いもするが、ともかく、入館する。


平成19年7月21日にリニューアル展示となっているので、それまでの館内は知らないのだが、少なくとも入るまでに懐いていた期待以上にすばらしいものだ。入館料は大人200円。展示はしっかりしていて立派で見ごたえがあり、この値段は文句なく安い。照明にまで配慮が行き届いている。

出雲国府を中心とした風土記の丘周辺のジオラマなどは、見ていると奈良時代へタイムスリップしてしまいそうだ。条里制に区切った道を歩く官人や国分寺で学ぶ僧侶などが今に出現しそうな気がする。まあ、白昼夢と言われればその通りなのだが。

現実派の人は、岡田山一号墳発掘の額田部臣銘の銀象嵌文字入りの鉄剣や、平所遺跡出土の見返りの鹿の埴輪、神原神社古墳から出た景初三年銘入りの三角縁神獣鏡などで感動出来るだろう。
銘文入り鉄剣は埼玉稲荷山古墳、江田船山古墳が有名だが、他にはここの岡田山一号墳からのものを含めても数本しか出土していない。考古学的には大変貴重な品だ。残念ながら銘文のほとんどが判読できないが、出雲と額田部や地方の部民制などを考える上で重要な発見となったらしい。このあたりは詳しい知識がない。
景初三年銘入り三角縁神獣鏡は異論も多いが、一部には卑弥呼の鏡とも呼ばれる(2006年、卑弥呼の鏡、神原神社)。邪馬台国に興味がある人にはたまらないだろう。
鹿埴輪は首を後ろに向けて、まるで何かの気配に振り向いているような形だ。首を曲げた姿の動物埴輪は極めて珍しい。その姿と愛くるしい顔が人気だ。まあ、眼は単なる空洞なのだが。
何に感激するのかは人それぞれだが、これだけでも十分に来館する価値があるように思うのは、少し贔屓が過ぎるだろうか。しかし、この3点は国指定重要文化財で一見の価値はある。
ともかく、こんなに立派になっているのだから多くの人に足を運んで欲しいものだ。そうしないとボランティアのガイドの人が暇を持て余している。

展示学習館は広い風土記の丘公園の中に建っている。公園では家族連れが芝生でのんびりと寛いでいる。ただ、あまり日陰がないので日焼けしそうだ。

公園の奥に歩くと岡田山古墳がある。一号墳は前方後方墳。前方後円墳が鍵穴の形にたとえられるなら、前方後方墳は四角い鍵穴だ。これは出雲地方に多く見られる独特の形で、前方後円墳の大和文化圏と対比されることもある(2005年、山陰に弥生の光芒、その1、古代出雲王陵の丘)。古代出雲を考える上でも興味深い古墳だ。
ここから額田部臣の銘文入った鉄剣が出土した。
一号墳も隣の二号墳も「古墳の上に昇らないで下さい」とある残念だ。もちろん墳丘に登ったところで特別何もあるわけではないのだが、古墳があると何故か登りたくなる。小学生並みといわれればそれまでだ。

石室は開いているが中は暗くて見えない。この奥に象嵌銘入りの鉄剣が眠っていたのだろうか。
墳丘の側面には葺石もある。残っているのか復元されているのかわからないが、再現されてない古墳が多いので新鮮だ。

公園には蓮池があり大賀ハスが植えられている。大賀ハスと言うのは大賀一郎博士に因む名前だ。博士は遺跡から出土した2000年以上前と考えられるハスの実を発芽、開花させた。昭和27年、随分と昔の話だ。
ハスの季節には少し早いが、何輪か白い花が咲いている。細かいことだが、これは本当に大賀博士が咲かせたハスのクローンだろうか。ハスは非常に交雑しやすいと聞いたことがある。そういえば、確か大賀ハスは花の色がピンクだったような気がするが。

学習館は屋上が展望台になっている。
階段を登ると、建物を真っ直ぐに正面から奥に向かって神社の参道のように続いた緩やかな階段の登り道になっている。その突き当りが展望台だ。変った形の建物だが、岡田山一号墳を模して前方後方墳の形になっているのだそうだ。せっかくの凝った作りなのだが、説明されなければ気がつかない。どうせならもっと思い切って古墳の形にすれば良かったのに。
ともかく、本物の古墳には登れなかったのでここで満足することにした。実は緩やかな斜面を登ってくるので本当に古墳に登っているような気分なのだ。

展望台に登っても大したものは見えない。建物が2-3階の高さしかないために視界がほとんど変らないのだ。
正面には出雲国風土記に神名樋野と記された茶臼山がゆったりと鎮座している。
神奈備山とは神が宿る山、神が降臨する山、さらには神そのものとされる神聖な山をいう。神奈備山は高く険しい山容の山ではない。里にあり、平野の中にあるか、または面していて、比較的なだらかな裾野の低山のことがほとんどだ。
一番有名なのが大和の三輪山で、その麓には大神神社が建っている。大神神社には拝殿はあるが、その奥にあるべき本殿はない。それは背後の三輪山が御神体そのものだからだ。参拝者は拝殿を通して、その向こうに聳える三輪山を拝している。

出雲国風土記には神奈備山が四つ記載されている。
一つは、松江の北にる神名火山。字は違うが表記の差に過ぎない。麓に佐太神社がある、現在の朝日山に比定されている。西には二つあり、出雲平田の北の神名樋山と、358本の銅剣を出した神庭荒神谷遺跡や39口の銅鐸が出土した加茂岩倉遺跡の近い神名火山で、それぞれ今の大船山、仏教山と考えられている。
そして、残りの一つが、目の前に静かに横たわる茶臼山で、風土記では神奈備野と記される。ここは山でなく何故野なのか。それは、低山の岡のような山で、樹木が茂っていなかったからと考えられている。古代の人々は野を平野の意味には使っていなかったらしい。
神奈備と呼ばれる山はそれほど多くはない。それが四つもあり、しかも宍道湖を四隅から囲むように位置している。これは何か意味深だ。

神奈備があるここは聖なる山を仰ぎ見る良い地だったことは間違いない。周囲には岡田山古墳の他にも多くの古墳が点在し出雲国府が置かれた古代出雲の中心地は神奈備があったことと無関係ではないはずだ。

学習館の公園と反対側は風土記植物園がある。風土記に登場する草木が植えられていて、非常に綺麗に整備してある。しかし、草木に興味がないので一通り眺めて終わった。
公園にはちらほらと家族連れがいるのだが、学習館にもここにも人の姿は少ない。単なる公園としては機能しているが、史跡には一般の興味は向かないようだ。

駐車場に帰ると福山ナンバーのVTRの隣に初老の男性が座って休んでいた。声をかけると今夜は松江泊まりらしい。会話は弾まなかったが、バイクと史跡、同じような趣味の人がいるのは嬉しかった。安全な旅を祈った。

田和山遺跡公園

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山陰に弥生の光芒 その3

田和山遺跡公園(平成20年6月1日)

6月1日、松江市立病院を目指す。別に病気で受診するわけでも見舞いに行くわけでもない。
国道9号線松江道路を走っていると新しい大きな病院の隣に遺跡公園が見える。老朽化に伴う市立病院の移転に際して予定を大幅に遅らせると同時に少し建築予定地を移動させることになったのが、田和山遺跡だ(たわやま)。

駐車場は遺跡公園の西にあるのだが、この時は知らなかった。もっとも、砂利敷きなのでどうせ大型ロードバイクで入る気になれない。

病院救急入り口近くに、遺跡公園入り口の標識がある。もちろんそこには駐車場はないが、歩道の隅に停めさせてもらった。

史跡公園見学の案内パンフレットの入った箱がある。こうしたパンフレットはなくなっていることが多いが、開けると中にある。公園が新しいためか、それとも見学客が来ないためか。多分両方なのだろう。

遺跡自体は病院横の小山全体だ。頂上へ向かって登り始めると入院病棟がはっきり見えてくる。もちろん病院側からも遺跡が良く見えるはずだ。史跡を眺めながらの入院生活というのは良い環境だと思うのは少し変だろうか。

山頂標高は約46m。頂上部の主要な遺構は9本柱遺構、5本柱遺構などの柱跡だ。柱跡を示す円柱が立っているだけで建物などはない。たいして広い空間ではない。建物遺構だけで一杯になる。
田和山遺跡には謎が多い。謎が多いというよりも、遺跡自体が全て疑問だらけといっても良い。議論の多いものの一つが、この頂上に残る柱跡だ。
柱は太いものでもせいぜい20-30cmしかないので、当然太さは全然違うが、柱の跡の列が並んでいるのは三内丸山遺跡(さんないまるやま)の巨大柱跡を思い出させる。
物見櫓という説がある。確かに宍道湖が目の前に見えるし眺めは良さそうだ。しかし、頂上部自体が眺めが十分良好な小さな丘の上なの、そこに更に櫓を構える必要はない気がする。
9本柱は出雲大社に代表される大社造の構造の原型で、神を祀る社のような建物だったのではないかともいわれる。
建物遺構ではなく柱しかなかったのかも知れない。祭祀用の心御柱(しんのみはしら)や依代(よりしろ)のようなものだ。三内丸山の巨大木柱も諏訪神社(すわ)の御柱(おんばしら)の様に天高くそそり立っていただけという説もある。もっとも三内丸山では、櫓を復元している。わからないものはわからないと無理に復元しない、ここの様な姿勢も大切なのではないだろうか。
ただ、実際は、復元と称した建造物を作る費用がないだけなのかも知れないが。

頂上から少し下った場所には定番の竪穴式住居や高床式倉庫などが復元されているのが見える。建物は新しくまだ傷みが少ない。どの遺跡公園でも同じだが維持が十分出来なくなり、どんどん廃墟と化すのだろうが、今はまるで人が住んでいるようだ。
その向こうに広がる水田などと復元住居は妙にマッチする。今でも田植えに弥生人が出てきそうな農村風景に見えないこともない。水田の広がる風景が日本の原風景ということを実感させる。
ただ、すぐ横をバイパスの高架が貫いているのが興ざめだ。

この遺跡の大きな特徴は山頂をめぐらせる三重環濠だ。三つの空掘りで山頂が囲まれている。平野にある小山の頂上を、ここまで厳重に守らなければならなかったものは何だろうか。
単純に考えれば他のムラとの戦のための防備ということだ。しかし、これには妙な点が多すぎる。
環濠の中にはつぶて石とよばれる石が沢山発掘された。もちろん投げるのに丁度いい大きさなのでつぶて石と呼ばれるのが、立てこもって濠の外の敵に投げたとは思えない。溝の中あっても役には立たないからだ。堀の内側に置いてなければ投げられない。
さらに、環濠も完全には一周してないことが明らかで、尾根筋には溝が掘られてない。そこから山頂に侵入しようとすれば簡単に入れたはずだ。
何といっても、三重環濠で囲まれた頂上部が狭すぎる。集落を構えるような広さはない。第一、住むには水がない。
防御施設とすれば、戦国時代の天守閣と城のような位置付けになるだろう。山城(やまじろ)といったところか。しかし、この狭い場所に避難しなければならなくなったら、もう勝敗は決している。水もないので篭城も出来ない。しかも、濠のない場所もある。
ここに立てこもって耐えようと考える人はいだろう。

三重環濠はどうも戦のための防備だったわけではないようだ。
宗教的な境だったという説もある。みだりに近づいてはいけないということだ。頂上の柱群は祭祀施設だったのかも知れない。

小学生低学年くらいの子供を連れた家族連れがお弁当を持って登ってきた。ちょっとしたピクニックには良い場所だ。

青谷上寺地遺跡展示館

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山陰に弥生の光芒 その3

青谷上寺地遺跡展示館(平成20年5月3日)

三朝(みささ)から少し主要道から離れた民家の少ない山間ルートを選択して駆け抜ける。
県道29号三朝東郷線(とうごう)を北上する。そのまま走れば東郷湖畔から国道9号線へとつながるのだが、途中から県道51号倉吉川上青谷線へ入って狭い峠越えの道を走る。距離的には遠回りになり、景色はただの田舎の山地で、特別に良いわけではない。それに、ツーリングに適しているわけでもなのだが、交通量が少なく道も悪くないので走りやすい。民家も少ない山間の細道をトコトコと流すのが好きなのだ。

青谷羽合道路(あおやはわい)の高架を過ぎると青谷の中心地。市街地といっても田舎の小さな町で華やかな商店街や繁華街などはない。
迷子になりながら、なんとかJR青谷駅前に出る。そこから一番のメインと思われる道路を北東に100mあまりで青谷上寺地遺跡展示館(あおやかみじち)。隣には地元特産品売り場、青谷ようこそ館。どうやら町の観光拠点という位置付けのようだ。

遺跡展示館は予想よりはるかに小さな施設だった。
さすがに吉野ヶ里や三内丸山のようなものは考えてなかったが、それにしても小さい。
まあ、吉野ヶ里はともかく、三内丸山は縄文遺跡で弥生時代ではないので比べるのは間違っているのだが。
知名度はともかく、発見される遺物の多さから弥生の博物館といわれこともある。日本でも有数の出土物を誇る遺跡の展示施設が、平屋で一見仮設に見えてしまうような建物とは思わなかった。

中に入っても展示物は多くない。
しかし、出土状況を見るとすごい。特に木製品の多さには眼を見張るものがある。家が丸ごとそのままつぶれたような形で出てきたりしている。確かにその出土状態は宝庫と呼ぶにふさわしい。しかし、木片が主体では華やかに見せようにも、展示の工夫も難しいのも間違いない。

木製品以外に人骨の多さも特徴だ。100体以上の人骨が出土しているらしい。また、単に数が多いだけではない。古代史に問題を投げかけたり、弥生人の生活がどうだったかを示すような骨が出ている。
中国の後漢書東夷伝(ごかんしょとういでん)に卑弥呼(ひみこ)より1-2世代前の倭国大乱(わこくのたいらん)と呼ばれる記事があり、武器で傷ついた人骨が多数出てきているのはそれを示唆させる。また、結核による脊椎カリエスと思われる変形した胸椎も見つかっていて、日本最古の結核例とされる。
しかし、何よりセンセーショナルだったのは、三体から弥生人の脳の一部が発見されたと報告されたことだ。これで一躍注目をあびた。もちろん古代人の脳が見つかったのは国内で初めてのことだ。もちろん世界的にも非常に珍しい。その一部が展示されているのが一番のメインだ。
そんな、弥生人の脳なのだが、下手なロウ細工の大きなクルミのようなものが展示ケースに収まっているだけだ。約2000年前の脳なのだが、感動が薄い。元々地味だし、単に展示物の一つだからだろう。もう少しショーアップした展示方法を考えないと、中には見逃してしまう人がいるかもしれない。まあ、この施設に入場する人が見逃すとは思えないが。

「とっとり弥生の王国の謎を解く論文、アイディア」の発表がされている。論文やアイデアを一般公募したようだ。
論文テーマは、弥生時代鳥取にはどんなクニが存在したのか?
アイデアの方は青谷上寺地遺跡で発見された遺物の謎が三つ。格子状の木製品の謎、青谷渦巻模様のある木製品の謎、土器の破片に描かれている絵の謎。
それぞれ、高校生以上の一般部門、中学生と一般の共通部門、小中学生部門となっている。
こういうアイデアはなかなか良い。費用もかからないし、それなりに宣伝になるし。何より正解があるわけではないので何時でも使える。

続いて実際の遺跡へ足を運ぶ。
くぐり抜けてきた青谷羽合道路の青谷ICから西側の高架下がその中心のはずだ。遺跡は埋め戻されているので今は単なる雑草が生い茂った空き地に過ぎない。フェンスに囲まれた一帯が発掘場所と思われる。何もない場所をフェンスで立ち入り禁止にすることはないだろうから。

弥生時代には入り江になった海岸線が遺跡の近くまであり、舟を利用した交易も行っていたと推定される。このあたり広い一帯が全て遺跡のはずだが、発見の発端は道路工事によるものなので、一部の細長い範囲が発掘されただけだ。しかも、埋め戻された後空き地として残っているのは、高架下のみ。
公園化の考想もあるようだが、今のところ利用できるのは高架下の保存部分だけだ。

青谷上寺地遺跡の資料館はパンフレットは充実している。展示物が少なく小さな建物ということからか入館も無料。無料なのはうれしのだが、やはり、有料でも良いのでもっと規模を大きくして欲しい。ジオラマを作ったり、映像館を併設したり。
しかし、それで維持経費が稼げるほど入館者があるかといえば、多分無理なのだが。

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平家物語 その5

神倉神社(小鹿神倉神社)(平成20年5月3日)

県道33号線を小鹿渓(おしか)から三朝(みささ)へ向かい2kmほど戻ると、道のそばに冠巌展望駐車場(かんむりいわ)がある。
ゲートボール場となっている広場と小さな建物があり、その小公園の駐車場と兼用だ。
建物は公園のトイレかと思ったが、紅葉の館という茶店だ。閉じられている。秋のシーズンだけの季節営業なのか、それとも既に閉鎖してしまったのか。村のイベントの時に店舗として使われるだけなのかも知れない。少なくともGWに営業してないところを見ると、商売をやる気がないのは確かだ。

後ろを振り向くと巨大な岩山が見える。神倉山(かんのくら)だ。その頂上付近の巨岩が冠巌と呼ばれる。

神倉神社社叢という説明板が地に落ちている。直す気はないようだ。どこを指すのか示されていないので、どれがそうなのかさっぱりわからない。少なくとも駐車場近くには社叢はない。

駐車場は谷の下に作られている。少し息を切らせながら神倉山に張り付くような集落まで登ると山の斜面の上に神社が見える。
公民館と保育園のような建物の間に鳥居がある。形式は厳島鳥居(いつくしま)だ。小さな山間の村には珍しい。そこから上に一直線に参道が続く。村自体がかなりの急斜面にあるので、参道も急だ。

100m足らずで境内に到着した。
本殿は方一間大社系の造りで、屋根を前に伸ばしてさらに唐破風で装飾してある。想像よりしっかりした、新しい社だ。
本殿屋根の寄進名簿があるが、ここもやはり小椋性が多い。しかし、氏子の経済力が中津とは少し違うようだ。名簿には店もあるし、工場もある。

肝心の社叢だが、参道脇の杉並木のことだろうか。手入れしてあり木陰になっていて、涼やかな印象をうける神社だ。

この神社は、下から見えた山頂の冠巖と呼ばれる巨岩が御神体なのは間違いないだろう。
神倉は「神のいます座(くら)」の意味でつけられたという説もある。文字通り磐座だ。
また、ここは丁度、三徳山三仏寺(みとくさんさんぶつじ)の裏側にあたり、三仏寺との関連も深い。
三徳山三仏寺は山陰を代表する修験道の寺だった。山を越えて行者が往来したとされる。ここが中世では三徳山領に含まれていることが関係の深さを示している。
三徳山とは冠巖で結ばれていた。冠巖は御神体であると同時に山伏の行場でもあったはずだ。事実、冠巌周辺には修験道の祭祀遺跡が残されていて、近くには建物の跡と思われる平地などがあるという。

三徳山に修験道の一大道場、三仏寺があるにもかかわらず、こちらには目立った寺院がない。多分、神倉神社が本来は神仏習合で修験道場の役割を担っていたはずだ。現在、神社には平安時代製作とされ元々は冠巖で祀られていたという伝承がある一木造りの阿弥陀如来や天部が納められていることが、神仏習合の神社だったことを示している。

小鹿渓もそうだが、ここ神倉神社も名前以外には平家物語とは直接関係がない。しかし、平家落人伝説の集落近くに神倉という名の神社があるなら、関係はなくても立ち寄らなければすまないだろう。

神倉神社といえば、普通は紀州熊野の熊野速玉大社(くまのはやたま)の摂社を指す。御燈祭(おとうまつり)という、長い石段の参道を松明を手にした男たちが駆け下りる勇壮な祭りで有名だ。
そして平家物語では熊野は関わりが深い。

平清盛(たいらのきよもり)の権勢を確立した平治の乱は、彼が熊野参詣に出て京を留守にした隙に勃発している。関ケ原の戦いの時に徳川家康が西軍を誘き出すために会津上杉征伐と称して江戸へ向かったように、清盛もわざと軍事的な空白を作って乱を誘導したという説もある。偶然かもしれないが、考えられることだ。
また、熊野といえば、熊野別当湛増(たんぞう)は熊野水軍を率いて源氏に付き勝利に貢献した。源平両軍から助力を求められた湛増は新熊野権現で紅白の闘鶏を行ってどちらに付くか占い、白い鶏が勝ったので源氏に付くことを決め壇の浦に出陣したのは良く知られている。現在の田辺市の闘鶏神社がその場所とされる。ちなみに、紅白の鶏というのは源氏の旗印が白で平氏が赤だったからだ。

平家物語、熊野、神倉という連想で寄り道してみたが、なかなか興味深い神社だった。

ここに、三徳山信仰の修験道場神社があるということは、平家一門の墓のあった中津にも影響を及ぼしていたと思われる。中津のお堂は山村には不釣合いなほどの大きな寺があったことがうかがわれたが、その理由が少しわかった気がする。

小鹿渓

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平家物語 その5

小鹿渓(平成20年5月3日)

「おじか」ではなく「おしか」と読むらしい。案内板にそう書いてある。知らなかった。

県道33号線、三朝へ出る中津集落の人たちの生命線だが、その中津の手前の渓谷が小鹿渓と呼ばれる。紅葉が有名だ。約4kmにわたる渓谷は国の名勝に指定されている。

渓谷はとても綺麗で、川の崖に沿う県道をのんびりと走り抜けるだけでも十分に自然を満喫できるが、やはりここは整備されている1kmほどの遊歩道を歩きたい。
巨岩奇岩が連なり、所々の淵は濃い青緑が美しい。紅葉の名所なので、秋には多くの観光客がやってくるという。確かに赤く染った木々の葉と渓流の対比は見事だろう。
初夏のこの季節もしっかりと芽吹いた緑が眼に鮮やかだ。四季を通じて楽しめると思われる。もっとも、冬は雪が深くて近寄れないだろうが。

川底まで少し降りて、ゆっくりと歩く。森林浴が気持ちいい。川の流れもさわやかだ。
遊歩道はよく整備されている。歩道沿いにはそれぞれ巨岩に付けられた名前などの看板もあり退屈しない。単なる遊歩道沿いのネーミングというだけでなく、上流の中津に平家落人伝説があるので、それなりの伝説のある岩もあるのかも知れないが、説明がないために不明だ。

道は途中に階段が多くアップダウンは大きい。距離は短いがそれなりに歩く覚悟は必要だ。
どうやら一番の見所は雄淵、雌淵という二段になった淵のようだ。エメラルドグリーの深い色の水をたたえている。

秋に観光客がどの程度なのかは不明だが、狭い道沿いには駐車場がほとんどないため、数十台で大混乱しそうだ。

県道は谷の崖を削って付けられている。昔はまともな道はなかっただろう。中津の集落は他との交流がほとんどなかったことが想像される。


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