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いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

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安徳陵(中津安徳陵)

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平家物語 その5

安徳陵(中津安徳陵)(平成20年5月3日)

中津の村の入り口、平家一門の墓と道を隔てて反対側にお堂のような建物がある。建物を囲むように境内に水仙が植えられ今盛りに咲いている。近くには小さな山桜も花を添える。

狛犬がいるので、元は神仏混肴の寺と社があったということだ。
軒下に普賢堂と書かれた板が置かれている。閉められているが格子から中をのぞくと正面に白像に乗った普賢菩薩(ふげんぼさつ)が安置されていた。像高は50cm位。全高も1mはないと思われる。遠く暗いがこんな所にこんな像がと意外な感じさえ受ける美しい像だ。
壇前には密教法具も置かれている。お勤めが日常的に行なわれているようだ。
壁に穴が開いててもおかしくないような傷んだお堂一つ。これが今でも機能しているというのが驚きだ。

境内の一番端、それは道と区別つかないが、そこに「中津の大紅葉」というさりげない看板がある。町指定の銘木ということだ。隣の杉がかなり太いので、古くは大きな寺で伝統があったことを想像させる。
そして、その前の小道の反対に安徳陵(あんとく)があった。

全国に平家落人伝説とともに安徳天皇陵と称するものが沢山ある。そのいくつかは有名で、中には宮内庁の陵墓参考地に指定されている場所もあるが、ここは知る人もほとんどない伝承地だ。そのため、事前にかなり調べたが、場所が特定出来なかった。平家一門の墓の近くという情報だけで、見つけられるかどうか心配だったが、こんなに簡単に見つけられるとは思ってもいなかった。

周囲には何の案内もない。剥げた安徳陵の看板が落ちているのでようやくそれがそうだとわかる。小さな自然石の墓石の前に竹の花立、どう見ても道端にある一基の墓だ。ただ、墓石に何も彫られてないのが妙だが。
その背後は雑木と枯れ枝と夏草に覆われているが、巨石が見える。どうやら安徳陵はそれらしい。道端の墓石は遥拝所ということだろうか。

高く繁った雑草をかき分けて入る。朽ち果てて錆びた賽銭箱が隠れていた。少し寂しく悲しい。いくつかの巨石で庇状になっていて、左右も囲まれ、ちょっとした窟のようになっている。しかし、人の手で組上げたものではなく自然のようだ。
巨石で作られた窪みのような空間は祭祀を行うのに丁度良い。前にあるお堂の存在を考えると、磐座だったとするのが正しそうだ。少なくとも古墳とは思われない。

あくまでも伝説で、本当の墓ではないにしろ荒れ方が酷すぎる。あまりといえばあまりな有様だ。もちろん宮内庁とは関係がないので自由に近寄れるのは有難いのだが。

集落は絵に描いたような典型的な過疎の村だ。安徳陵を整備する余裕はなさそうだ。普賢堂の隣には本当に落ち武者が出てきそうな朽ち果てた中津荘という廃業した旅館がある。売り家の看板も地に落ちている。誰も買うとは思えない。
ここは間違いなく限界集落だろう。それを感じさせる出来事は次にも待っていた。

引き続き、二位尼の墓所を探して村の奥に進む。道端では今満開となった山桜迎えてくれる。その桜の花の向こうの山裾、森の奥に小さな社が見えるたため、手がかりを求めて足を伸ばしてみた。

残念ながら扁額の文字が綺麗に消えていて社名がわからない。もちろん説明板などはない。
倒れてもおかしくないようなかなり傷んだ拝殿があり、その後ろに回ってみると驚いたことに本殿がない。拝殿と本殿が分かれてないお堂なのかというとそうでもない。
礎石や土台がむき出しになっていて、明らかに本殿が建っていたことを示している。倒れた後に再建出来てないのだ。氏子の経済的な力の問題だろう。
いずれ建て直される具体的な予定があるのだろうか。失礼だが、そのうちに拝殿も倒れそうだ。最終的には小さな祠か神社跡だけになる可能性のほうが高いような気がする。しかも、そう遠くない日に。

結局、二位尼の墓はわからず仕舞いだった。どうやら平家一門の墓の東の山裾あたりにあるらしかったことが後に判明した。ただ、再訪する機会はない気がする。
神社の名前は今もわからない。地域名からすれば中津神社なのだろうが。

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平家物語 その5

平家一門の墓(中津平家一門の墓)(平成20年5月3日)

山陰は源平の合戦とあまり関係がないので歴史的な検証に耐えるような縁の地は少ない。しかし、平家の落人伝説は存在する。比較的知られている場所は鳥取県東部に集中するが少し遠いので今のところ訪れる予定はない。

倉吉(くらよし)から三朝温泉(みささ)へ。そこから県道33号線をひたすら進む。小鹿渓(おしか)から先は道は狭くなる。交通量は少ないがブラインドカーブの連続で地面には枯れ枝や枯葉などもあってスピードは禁物だ。渓流沿いを走る山道でトコトコゆっくり流すには清々しい気持ちの良い道だ。走りながらの森林浴が出来る。

渓谷を抜けると貯水池になりあたりが開ける。開けたといっても渓谷がなくなっただけで、川の両側から山が迫る狭い土地なのだが。そこにひっそりとあるのが中津(なかつ)という村だ。
この集落より先に地図上では道があるが、通り抜けても人の住む山村まで相当遠く、利用者がいるとは思えない。もちろん通ったことはないし、行ってみようという気にもならない。道が舗装されているかどうかも知らない。
小鹿渓は降雨量によっては通行止めになるが、その時でも何とか陸の孤島となり隔絶するのを免れるための道としての利用しかないのではないだろうか。
そんな、山間の村、平家の隠れ里として相応しい。

村の入り口の右手側に墓地があり、その一番奥の山裾に平家一門之墓の碑が建っている。
新しい。新しすぎる。
碑の裏には由来がある。要約すると、平清盛(たいらのきよもり)の庶子である平保道という人物が、一ノ谷の合戦の後、ここに安徳天皇(あんとく)と二位尼を守って落ち延びてきたということらしい。
そして、昭和32年、林道開発でここに墓を移したと、21代当主、平嘉人という人が昭和46年に記したことになっている。

碑のまわりには自然石が散乱しているので、それが古い平氏の墓石なのかと思って見たが、ここは新しく作られた墓地なので、そうでもないようだ。

碑文にあった、安徳天皇が一ノ谷の合戦の後に早々と平氏軍から離脱したという説は珍しい。
広く知られる安徳天皇生存伝説では壇ノ浦の合戦で源氏に敗れた後に平氏の残党に守られて密かに落ち延びたとされるのが普通だ。わずか八歳の安徳天皇を抱いて二位尼が入水したのは身代わりだったということなのだが、この場合説明に苦心するのは、本当の天皇と二位尼はどうやって戦場から脱出したのかということだ。その点、既に一ノ谷の合戦後に身代わりと入れ替わっていれば全く問題はない。意外だが合理的だ。盲点を突かれたような気がする。

平家一門之墓の前の墓地の中に小椋性を見つけた。一般に、山間の平家落人部落は木地師と関係が深いことは民俗学的に指摘されているが、やはりここもそのようだ。小椋性は木地師に多い。
今は農村だが、この山奥深い村は昔は木地師集落だったのだ。

木地師というのは木を削ってお椀やお盆などを作る職集団で、作られた白木のお椀などに漆を塗師が塗って漆器となる。更にその上に蒔絵師などが装飾を施す。完全に分担作業でそれぞれが専門職となっている。

平安前期、文徳天皇(もんとく)の後を継いだのは第一皇子の惟喬親王(これたか)ではなく第四皇子の惟仁親王(これひと)だった。惟喬親王の母は紀名虎(きのなとら)の娘の静子で一方の惟仁親王の母親は藤原良房(よしふさ)の娘の明子(あきらけいこ)。母親の後ろ盾が違う。右大臣で政治の中枢にいた良房に紀氏では争いにならない。そのために惟喬は涙を飲んだのだ。惟仁親王は9歳で即位して清和天皇(せいわ)となり、良房は外戚として政治の実権を掌握し藤原家繁栄を確実にする。

惟喬親王は清和天皇即位前から中央政権より遠ざけられ、その後若くして出家し隠居する。天皇の第一皇子ながら日の当たる場所に登場出来なかったのは残念だったろうが、暗殺されなかっただけでも運が良かったともいえる。

比叡山麓小野の里に隠棲した惟喬親王は釈迦四門出遊の故事に触発されて数人の伴を連れて東へ旅立った。そして、滋賀県愛知郡東小椋村、現在の東近江市の山奥に入って庵を結び経を読んで過ごしていたが、ある日、法華経の巻物を開く時に巻物の軸が回転するのを見て轆轤(ろくろ)を考案し、椀や盆など作る轆轤の技法を里人に広め伝えたとされる。そのため、木地師の間には、祖は惟喬親王という伝説があり、彼らの多くは親王に従って来た公家の子孫または親王そのものの末裔と称していた。後胤説の一種だ。また、親王が隠棲した地にちなんで木地師は多くが小椋や小倉性を名乗った。

木地師と平家落人伝説が結びつくにはもうワンステップ必要だ。
木地師は材料の栃の木を伐りつくすと部落全体が集団で新しい山に移動する。里の人たちには、転々と移動すること彼らを平家の落人だと考える見方が生まれた。中には惟喬親王伝説が希薄な集団もあり、彼らは平家落人伝説を受け入れた。
平家物語を琵琶法師が語り歩き、落人伝説には安徳天皇が付いて回っていた。天皇や平氏の末裔と呼ばれることは木地師達も悪くは思わなかっただろうし、一種の優越感で受け入れていったという説が有力だ。

定住できず移動が宿命の木地氏らと里の住民に交流は生まれない。むしろ、土着の住民は他所者が入ってくることを嫌ったはずだ。お互いに争いもあっただろう。また奥深い山での生活も楽ではなかったはずだ。そんな彼らの精神的支えは専門技術職という自負であり、親王や天皇に連なる血統という誇りだったのは間違いない。
木地師たちは朝廷や藩から移住と山林伐採の特権を与えられていたが、その根拠は御落胤(ごらくいん)という言い伝えが大きい。現実的には御落胤説は先住の農村民達との争いを避けるのに役立っていたことになる。

墓地に墓石の他に円柱の塔のようなものが立っている。高さ1m余の土管を立ててその上に円錐の屋根を載せたようなものだ。見たことがないが、何だろうか。

萬祥山 大岳院

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伯耆の南総里見八犬伝 その2

萬祥山 大岳院(平成20年5月3日)

5月3日。よく晴れた連休中だというのに一体何をしているのか。相変わらず山陰のあまり有名でない場所を巡っている。ただ、大岳院は無名な中でも比較的知られている部類だろうか。無名で知られているというのも変だが。

大山(だいせん)から蒜山(ひるぜん)を抜ける。せっかくのツーリング日和なので走りの定番ルートを使うことにする。鳥取県中部の倉吉方面(くらよし)に向かう時に大山の南を通るのは、もちろん大回りになるが絶好のツーリングルートなので機会があると使ってしまう。
いつもは県道45号線を利用するのだが、今回は蒜山から国道313号線を走る。何度走っても大山、蒜山周辺は気持ちが良い。

倉吉(くらよし)市街に入り寺を探す。打吹公園(うつぶき)の前の古い城下町の名残を留める住宅街の一画に、残されたように建っている曹洞宗の寺だった。

南総里見八犬伝のモデルとなった里見忠義(ただよし)は、伯耆国(ほうき)倉吉に移封され亡くなった(2005年、南総里見八犬伝その1)。その墓がここには残されている。

八犬伝とのつながりだろう。小さなかわいらしい犬の像が境内のあちらこちらに置かれている。狛犬ではなく本当の犬だ。
説明板によると里見忠義の持ち物であった鏡が所蔵されているとのことだ。女性がお化粧に使う手鏡のようなものではなく、中国製の三彩稜花刻花文盤という円形の鏡だ。三彩というからには彩色されているのだろうが、写真がモノクロでしかも不鮮明でなため古銅鏡のように見える。しかし、彩色されているなら古代の鏡ではないはずだ。

里見主従の墓は楼門をくぐって右手ある石塔群。
中央正面に一番大きな五輪塔が高さ1m余。これが里見忠義のものだろう。その左右に5基づつ小さな石塔が立つ。五輪塔の左右の一基づつは他より少し大きい宝篋印塔だ。
五輪塔といっても上の空輪と風輪が一つの無縫塔のようになっていて、その下の火輪は宝篋印塔の隅飾りの付いた傘型になっている。形式としては宝塔に近いのかも知れない。石の磨耗が目立ちコケも生えているため全体的にかなり古そうだ。
冤罪で流された里見忠義の墓だが、彼の恨みのようなものは何も伝わってこない。住宅街に取り残された町の寺院に特有の周囲の明るい開放的な雰囲気のためだろうか。これが、鬱蒼とした森の中にでもあったら印象も違うのだろう。

しばらく眺めていて気がついた。数が合わない。正面が主君の忠義で左右の4基づつの小さな五輪塔が殉死した八賢士とすると、忠義の墓の左右の宝篋印塔は誰だ。正妻と側室だろうか。しかし、主君と殉死した忠臣の墓に奥さん達が入るものだろうか、などと考えていたら答えが説明板に書いてあった。
伯父の正木大膳と里見家家老堀江能登守もともに埋葬されている、とあるので、この二人が宝篋印塔だ。

境内右には観音堂がある。ここは伯耆国三十三観音、三十一番札所でもある。残念ながら厨子には御簾がかかっていて観音像は見えない。
その隣にあるのが、光格天皇の祖母にあたる、りんの墓所。一基だけ瑞垣で囲まれているが墓石自体は普通の墓だ。標柱には「お母君、お林の方墓所」と書かれている。

事情を知らないと南総里見八犬伝のモデルの里見主従の墓がここにあるのも相当不思議に感じられるだろうが、それ以上に天皇の祖母が無名の地方寺院に普通の墓石に葬られているというのも妙な気がするだろう。
それは、中国三十三観音霊場巡りで、第三十番打吹山長谷寺に関連した打吹公園のところで楽しんだが、光格天皇の生母、大江磐代君(いわしろ)が倉吉の商家の町娘だったからだ。そして、当然ながら親のおりんも町娘だ。
大江磐代君は天皇本家と離れた傍流の宮家の内親王の侍女として仕えて、その宮のお手つきとなり、生まれた子供が思いもかけず第119代光格天皇となった。もちろん大江というのも養女になったからの姓で、幼名もおつる。
このあたりの話は興味尽きないのだが、今回は省く。
ともかく、おつるが磐代君になったおかげでりんの墓も伝えられているということだ。それでなければいくら豪商でも名前も墓も伝わることはなかったはずだ。江戸時代の庶民の、しかも妻の名前と墓が後世に伝えられることはまずない。

その隣には駒姫八幡大菩薩。これはよくわからない。
いろいろなものが境内にある寺だ。

鴨山公園

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万葉を旅する

鴨山公園(湯抱鴨山公園)(平成20年4月27日)

斎藤茂吉鴨山記念館から国道375号線と分かれ、川沿いに入ること1km足らず。四方を山で囲まれた狭いドン詰まりの集落に着く。

湯抱温泉(ゆがかえ)。鄙びている。いや。鄙びすぎている。寂しすぎる。
宿と思われる建物が3-4件あるがどこも客の気配がない。いや。客どころか従業員がいるのかどうかも怪しい。本当に営業しているのだろうか。たとえ、ここに泊まったとしても、日が落ちてから外を出歩く気にはなれない。人の気配が全くない暗がりの夜は怖い。もちろん散歩するような場所もないのだが。

秘湯というキャッチコピーを付けたくなるが、国道にとても近いし、秘湯というよりも単に寂しい田舎集落だ。

旅館の建つそばの小さな川に架かる橋を渡ると、記念館で教わった通りに空き地があった。
少し歩いて登らなければいけないけれど、すぐに着くから、と言われた。かなり遠そうなな口ぶりだったので数百mの登山を覚悟していたが、登るとか歩くとかいう距離ではなかった。棚田への畦道を登るような遊歩道を数十メートルで着く。
問題は、案内があるがその示す道が、本当にここれで良いのかと心配になるような点だ。

公園は様々な点でインパクトがある。
地元には失礼だが公園と呼べるようなものではない。雑草が刈ってあるあるだけましといった程度の空き地だ。隣は水田で、農地の端を公園と名前を付けてみたといった印象だ。
それでも申し訳なさそうに樹木が植えられているが、雑草などと一体になって見分けがつかない。
木と雑草に囲まれて碑があるので、間違いなくここが鴨山公園(かもやま)だ。鴨山の説明板もある。もちろん、碑も案内板もなければ本当に空き地に過ぎない。

一般人が訪れることのないような知名度の低い場所を多く巡って来たし、碑が一つといったこともある。それでも個人的にはかなり満足だ。時には「えっ。」と思う所もある。それもまた、いろいろな意味で悪くはない。普通ではガッカリといった場所でも、それなりに楽しめる。
しかし、ここは今までの全てを越えている。ほとんど言葉もなかった。絶句。

公園から三つの山の峰が見える。記念館のおばさんの説明では左の峰が鴨山ということらしいが、正直、今見ている山がそうなのかどうかあまり自信がない。

斎藤茂吉によって唱えられた万葉歌人柿本人麿終焉の地の鴨山。地元にとっても青天の霹靂だっただろう。何しろ、柿本人麿(かきのもとひとまろ)の伝説など聞いたこともなかった田舎温泉に、見たこともない学者がやって来ていきなり、ここが柿本人麿の亡くなった鴨山だ、と言い出したのだから。誰も夢にも思っていなかった場所に、文字通り、茂吉は鴨山を発見したのだ。
普通なら、何を馬鹿な、と一笑に付されるだけだろうが、言い出したのは昭和の万葉研究者で大歌人だ。狐につままれた様だっただろうが、地元は沸いた。湯抱は温泉客で賑やかだった時期があったようだ。しかし、斎藤茂吉亡き後は忘れ去られる一方だったのだろう。
今では知る人もほとんどいなくなっている。
この公園に足を運ぶ観光客は年に何人いるのだろう。

伝説は作られる。それは確かだ。しかし、ただ作られるだけでは伝説とはならない。まず、人々の間に広まる必要がある。世間に広まってもまだ伝説にはならない。重要なのは、それが伝えられてゆくことだ。そして、この言い伝えられるということが最も難しい。言い伝えられる間に自然淘汰され、残ったものだけが伝説になる。世間に受け入れられやすい話、地元に根付いた話、不思議な話などだが、一番大切なのは、人々がそうあって欲しいと望む話だろう。ささやかな庶民の願いと結びついたのものだけが伝説となるように思われる。

茂吉の湯抱鴨山説は伝説ではない。しかし、消え行く説のように感じられる。そこに伝説が自然淘汰される姿を重ねるのは失礼だろうか。
鴨山の峰をいくら眺めていても、想像は浮かんでこない。

ここらあたり、今、代掻きの真っ最中。ようやく水がぬるんで来たのか。山が深い。

斎藤茂吉鴨山記念館

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万葉を旅する

斎藤茂吉鴨山記念館(湯抱斎藤茂吉記念館)(平成20年4月27日)

島根大田市からの国道375号線を南へ、中国山地に向かって走る。市街地から離れるにしたがって、村も民家もまばらな山道になる。中国山地はせいぜい1000m級でそれ程の高い山はないのだが、その懐に入るといつもながら山深さを感じる。
川沿いの谷間を縫うように進む道をしばらく進むと、湯抱温泉(ゆがかえ)が近づく。

国道沿いに斎藤茂吉(さいとうもきち)の記念館がポツンと建っていた。駐車場には車はない。

玄関先では中年の御夫人が二人立ち話をしている。どう見ても近所の奥さん同士の井戸端会議だ。そのうちの一人が受付だった。実に長閑だ。そして、入館者は誰もいない。

館内に入るとすぐに説明が流れ出す。全て有難い茂吉先生の話だ。展示もほとんど茂吉の遺品や関連のものばかりだ。茂吉記念館なのだから当然といえば当然だが、どうも期待していた説明や解説がない。

そもそも、何故ここに斎藤茂吉の記念館があるのか。
斎藤茂吉といえば万葉歌人の柿本人麻呂(かきのもとひとまろ)研究でも名高い昭和前期を代表する歌人だ。文学史に全く興味がなくてもそれくらいは知っている。一般には、モタさんの愛称の斎藤茂太と、どくとるマンボウで有名な北杜夫(きたもりお)の父という方が通りが良い。余談だが茂吉と茂太、北杜夫の親子三人とも全員が精神科医だ。どうやら茂吉は頑固親父だったらしく、息子を自分と同じ精神科医にしたらしい。
生まれは山形県上山(かみのやま)市。記念館があるのは生家や青年時代を過ごした地なのが普通で、生家近くの公園内には斎藤茂吉記念館が建っているはずだ。名前は似ているが、ここは斎藤茂吉「鴨山」記念館。この「鴨山」がキーポイントで、それに関する展示を期待していたのだが、触れ方が非常に弱い。

柿本朝臣人麿(かきのもとあそんひとまろ)が石見国(いわみのくに)に在(あ)りて死(みまか)らむとする時、自(みずから)傷(かなし)みよめる歌一首
鴨山(かもやま)の磐根し枕(ま)ける吾(あれ)をかも知らにと妹(いも)が待ちつつあらむ(2巻-223)
私は鴨山の岩を枕にして横たわっているのだが、それを知らずに妻は私を待っているのだろうか。多分そんな意味の歌だ。

万葉集には歌聖とされる柿本人麿の死に関する歌が五首載っている。茂吉はその歌を手がかりに鴨山考という論文で、柿本人麿終焉の地の鴨山がここ湯抱にあると発表したのだ。

石見のや高角山 ( たかつのやま ) の木(こ)の間より我が振る袖を妹(いも)見つらむか(2-132)
(石見の高角山の木の間から私の振る袖を妻は見ただろうか)
人麿が大和へ戻る時に妻との別れを惜しんだこの歌の高角山の場所もそうだが、古来より鴨山の場所は諸説あった。主な場所は益田市高津沖鴨島説、浜田市亀山(鴨山)説、江津市神山説などでそれぞれに伝承もある。特に益田には伝説が多く、鴨島は沈んだとされる言い伝えもあり興味深い。
しかし、茂吉は伝説など全く伝わっていない湯抱を人麿終焉の地だとする説を展開し主張した。昭和の始め頃だ。もちろんそれまで鴨山湯抱説を唱えた人は誰もいない。

それに対して昭和も後半になって梅原猛(うめはらたけし)が「水底の歌」で、茂吉の鴨山湯抱説を強烈に批判する。この本は当時かなり話題になった。
鴨山考は論文なので一般人には縁がないが、梅原猛の作品は一般の出版物なので親しみやすい。彼の文章は読みやすく、次々と畳み掛けるように批判の矢を繰り出す。ただ、理論というより感情に訴えるような所が多々あり、論文の姿をしたフィクションといった内容の部分も多い。そのため学術論文と見るのは少し無理がある。水底の歌でも後半の柿本人麿の死因を展開する部分は特に理論が弱い。それでも梅原節と呼ばれる独特の作品は楽しいので、かなり読んだ。

鴨山考を読んでもいない素人が言うべきことではないが、個人的には鴨山湯抱説には同意できない。ここには柿本人麿伝説が全くないのが致命的だ。どこにも伝説がないのなら別だが、益田、浜田、江津などにはちゃんと伝説が残っている。もちろん伝説が全て正しいとは思ってない。明らかに伝説の方が事実より数が多い。それは、些細な事柄や物であっても、それを神仏や著明な歴史上の人物、事件に結び付けたい心理が働くからだ。しかし、だからこそ、伝説もないような場所には事実はなさそうな気がするのだ。

梅原猛が批判するまでもなく、最近では鴨山湯抱説は学会でもあまりぱっとせず、むしろ顧みられない状態らしい。皆、少し強引過ぎると思ったようだ。茂吉が健在の時は、万葉研究の重鎮の異見を無視することも出来なかったのだろう。

ここへ来れば茂吉の鴨山考の内容をかなり詳しく知ることが出来ると思ったのだが、どうも、そこに重点は置かれてないようだ。意図的に少し避けている様な気もする。
しかし、記念館の意味は鴨山なのだから、強引だろうと何だろうと、もっと全面に出してもいいのではないだろうか。

受付の婦人が、退色しつつある壁に掛けられた写真で鴨山を説明して下さったのが唯一の収穫だった。
鴨山公園に行くなら、小さな橋を渡ったところに空き地があるのでそこに停めると良い、とも教えて頂いた。

ここは入館料が不要だ。それでも入る人は数少ないだろう。話しからは、どうやら文学部の学生さんなどが時々来るらしい。


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