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出雲に大和の影
忍原神社(川合忍原神社)(平成20年4月27日)
現在、大田市、物部神社。ここまで来て石見銀山や三瓶山(さんべさん)へ向かわない旅行客はいないだろう。特に石見銀山。世界遺産になってからそれまで考えられなかった数の観光客が押し寄せている、今、最もホットな島根の観光地だ。しかし、だからこそ近寄らない。遺跡に興味がないわけではないが、混雑の度は大変らしいので、何度か行ったこともあるし、しばらくは遠慮することにしているのだ。
ブームが一段落して落ち着いた頃に、また行く機会もあるだろう。
国道375号線を更に南下して物部神社から5km程の道端、右手に忍原神社(おしはら)が見えた。地元の人には申し訳ないが、特別に見るものが何かある訳ではなく、有名でもないどこにでもある田舎の産土神の社だ。
参道を登る。新しい石段だ。鳥居も新しい。
境内に眼を引くものは何もない。拝殿はどう見ても公民館だ。賽銭箱もなければ鈴もない。注連縄もない。正面扉のガラスの向こうに注連縄が見える。どうやら注連縄は建物の中にあるようだ。前面の扉を開けっ放すと拝殿になるということか。
地元民以外でこの神社にわざわざお参りに来るのは、よほどの変わり者だ。社の周囲を歩いている姿を見て不審者と思われて通報されても仕方がない。一言で言えばそんな神社だ。
道を隔てた向かいに鶴降山(つるぶ)があるはずなのだが、手前の山で隠れて見えない。
物部神社の由来によると、宇摩志麻遅命(うましまじ)は物部氏(もののべ)を率いて尾張、美濃、越国を平定し、更に播磨、丹波を経て石見に入り、都留夫(つるぶ)、忍原(おしはら)、於爾(おに)、曽保利(そほり)の凶賊を平定した。そして、鶴に乗り鶴降山に降り立ち大和の天香久山に似ている八百山(やおやま)の麓に宮を建てたことになっている。
都留夫はもちろん鶴降山の西の鶴府だろう。他は忍原以外は、現在の国土地理院の地図では場所が不明だが、全て物部神社のある川合周辺ということだ。
物部氏は饒速日尊(にぎはやひ)、宇摩志麻遅命の子孫という伝承を持つ、古代大和の天皇近臣の軍事氏族だった。物部神社に伝わる話は大和勢力の山陰への進攻を示すものという想像が生まれる。
古代出雲に大和朝廷と匹敵する国があったかどうかは疑問だが、少なくとも簡単には落とせない一大勢力があったと思われる。その出雲の制圧が記紀の国譲り神話に反映されているというのは良く知られている説だ。
大和勢力が出雲を攻略するルートを考えてみる。基本的には大和、出雲両軍の対峙は鳥取島根両県境あたりになると思われる。
一つは日本海に出て海路でも陸路でも山陰の海岸線を西に向かって進む方法だ。このルートの特徴は海路を使える点がある。船は古代では大量輸送を可能にする。大群の移動も容易だ。しかし、大和勢力が船を使った戦が得意だったと思えないのが問題だ。何しろ大和は海のない内陸の盆地だ。しかも、大和盆地からだと日本海へ出るだけでかなり遠い。
もう一つは、山陽から美作(みまさか)、現在の津山方面を通過して、伯耆(ほうき)、つまり鳥取県西部に入り進攻するルートだ。ただ、この場合は、途中の吉備(きび)、つまり岡山南部がどうなっていたかが、大きな問題となる。吉備にも強大な勢力があったとされるからだ。しかし、出雲平定を行おうとする場合、吉備は既に支配下にあったと考えるべきだろう。そうすると、吉備の軍事力も動員できるため、この美作から伯耆を通って進む道筋は日本海を進攻するよりも有利なルートだ。。
大和勢は吉備を配下に美作、伯耆と進攻し出雲に迫り降伏を勧告する。ただ、それでも出雲は容易に軍門に降らない。頑強に抵抗する。軍事力の差から考えて力押しでも破れただろうが、なるべく無益な争いは避けたい。
その場合、軍を分けて別働隊で裏を突くのはセオリーだろう。すぐに思いつくのは今の島根県西部、石見国からの挟み撃ちだ。
山陽から石見国に出る場合中国山地を超える必要がある。江の川(ごうのかわ)に沿って移動するルートが考えられる。当時の江の川がどうだったかは想像できないが、船での輸送も可能だったかも知れない。もし、船が使えるなら大量の兵士と軍事物資を一気に前線に送り込むことが可能だ。本隊から分かれ、三次あたりから江の川を下る。川沿いに進攻すると、三瓶山(さんべさん)の南から西、島根県邑智郡(おうち)あたりで川から離れ展開することになると想像される。そして、そこにあるのが、鶴降山なのだ。
もちろん別働隊には大軍を裂けない。数こそ少ないが精鋭部隊が望ましい。うってつけなのが軍事氏族、物部氏。江の川を船を使って中隊程度を一度に移動、邑智で上陸。周辺の地方豪族を制圧して三瓶山の西に大和勢力の前線基地を作る。
大和勢力の美作伯耆からの本隊は鳥取島根県境付近で動かない。対する出雲勢力はほぼ全軍で向かい合うが、軍勢の力の差から積極的には迎撃できない。双方膠着状態に見えるが、もちろん大和軍にとっては作戦通りの時間稼ぎ。
ほとんどが大和軍本隊に対して動員されていたため他は手薄になっているところに、西から満を持して物部隊が出雲国に侵攻する。堪らずに出雲は降伏したはずだ。
この、物部氏の出雲進攻が物部神社の宇摩志麻遅命伝説に反映されているのではないかと考えた。
大和本隊の天皇側近軍は物部氏と並ぶ大伴氏(おおとも)が勤めただろう。進軍経路と考えられる美作には久米(くめ)という地がある。久米氏は大伴支配下の軍事氏族だ。
古代出雲国の中心地は意宇川(いう)流域、つまり松江市の南から東にかけてと考えられている。ところが記紀での国譲りの舞台は何故か宍道湖の対岸ともいうべき、現在出雲大社があるそばの稲佐浜となっている。出雲国の中央からかなり離れた場所だ。
国譲りは降伏儀式ととれるが、それが出雲国の西の端で行われたのは西からの侵攻があったことを示唆すると考えられないだろうか。
何もない農村風景、前の国道を物部氏の軍隊が進攻する姿が見えたのは幻覚か。
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