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いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

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出雲に大和の影

忍原神社(川合忍原神社)(平成20年4月27日)

現在、大田市、物部神社。ここまで来て石見銀山や三瓶山(さんべさん)へ向かわない旅行客はいないだろう。特に石見銀山。世界遺産になってからそれまで考えられなかった数の観光客が押し寄せている、今、最もホットな島根の観光地だ。しかし、だからこそ近寄らない。遺跡に興味がないわけではないが、混雑の度は大変らしいので、何度か行ったこともあるし、しばらくは遠慮することにしているのだ。
ブームが一段落して落ち着いた頃に、また行く機会もあるだろう。

国道375号線を更に南下して物部神社から5km程の道端、右手に忍原神社(おしはら)が見えた。地元の人には申し訳ないが、特別に見るものが何かある訳ではなく、有名でもないどこにでもある田舎の産土神の社だ。

参道を登る。新しい石段だ。鳥居も新しい。
境内に眼を引くものは何もない。拝殿はどう見ても公民館だ。賽銭箱もなければ鈴もない。注連縄もない。正面扉のガラスの向こうに注連縄が見える。どうやら注連縄は建物の中にあるようだ。前面の扉を開けっ放すと拝殿になるということか。

地元民以外でこの神社にわざわざお参りに来るのは、よほどの変わり者だ。社の周囲を歩いている姿を見て不審者と思われて通報されても仕方がない。一言で言えばそんな神社だ。

道を隔てた向かいに鶴降山(つるぶ)があるはずなのだが、手前の山で隠れて見えない。

物部神社の由来によると、宇摩志麻遅命(うましまじ)は物部氏(もののべ)を率いて尾張、美濃、越国を平定し、更に播磨、丹波を経て石見に入り、都留夫(つるぶ)、忍原(おしはら)、於爾(おに)、曽保利(そほり)の凶賊を平定した。そして、鶴に乗り鶴降山に降り立ち大和の天香久山に似ている八百山(やおやま)の麓に宮を建てたことになっている。
都留夫はもちろん鶴降山の西の鶴府だろう。他は忍原以外は、現在の国土地理院の地図では場所が不明だが、全て物部神社のある川合周辺ということだ。

物部氏は饒速日尊(にぎはやひ)、宇摩志麻遅命の子孫という伝承を持つ、古代大和の天皇近臣の軍事氏族だった。物部神社に伝わる話は大和勢力の山陰への進攻を示すものという想像が生まれる。

古代出雲に大和朝廷と匹敵する国があったかどうかは疑問だが、少なくとも簡単には落とせない一大勢力があったと思われる。その出雲の制圧が記紀の国譲り神話に反映されているというのは良く知られている説だ。

大和勢力が出雲を攻略するルートを考えてみる。基本的には大和、出雲両軍の対峙は鳥取島根両県境あたりになると思われる。
一つは日本海に出て海路でも陸路でも山陰の海岸線を西に向かって進む方法だ。このルートの特徴は海路を使える点がある。船は古代では大量輸送を可能にする。大群の移動も容易だ。しかし、大和勢力が船を使った戦が得意だったと思えないのが問題だ。何しろ大和は海のない内陸の盆地だ。しかも、大和盆地からだと日本海へ出るだけでかなり遠い。
もう一つは、山陽から美作(みまさか)、現在の津山方面を通過して、伯耆(ほうき)、つまり鳥取県西部に入り進攻するルートだ。ただ、この場合は、途中の吉備(きび)、つまり岡山南部がどうなっていたかが、大きな問題となる。吉備にも強大な勢力があったとされるからだ。しかし、出雲平定を行おうとする場合、吉備は既に支配下にあったと考えるべきだろう。そうすると、吉備の軍事力も動員できるため、この美作から伯耆を通って進む道筋は日本海を進攻するよりも有利なルートだ。。

大和勢は吉備を配下に美作、伯耆と進攻し出雲に迫り降伏を勧告する。ただ、それでも出雲は容易に軍門に降らない。頑強に抵抗する。軍事力の差から考えて力押しでも破れただろうが、なるべく無益な争いは避けたい。
その場合、軍を分けて別働隊で裏を突くのはセオリーだろう。すぐに思いつくのは今の島根県西部、石見国からの挟み撃ちだ。
山陽から石見国に出る場合中国山地を超える必要がある。江の川(ごうのかわ)に沿って移動するルートが考えられる。当時の江の川がどうだったかは想像できないが、船での輸送も可能だったかも知れない。もし、船が使えるなら大量の兵士と軍事物資を一気に前線に送り込むことが可能だ。本隊から分かれ、三次あたりから江の川を下る。川沿いに進攻すると、三瓶山(さんべさん)の南から西、島根県邑智郡(おうち)あたりで川から離れ展開することになると想像される。そして、そこにあるのが、鶴降山なのだ。

もちろん別働隊には大軍を裂けない。数こそ少ないが精鋭部隊が望ましい。うってつけなのが軍事氏族、物部氏。江の川を船を使って中隊程度を一度に移動、邑智で上陸。周辺の地方豪族を制圧して三瓶山の西に大和勢力の前線基地を作る。

大和勢力の美作伯耆からの本隊は鳥取島根県境付近で動かない。対する出雲勢力はほぼ全軍で向かい合うが、軍勢の力の差から積極的には迎撃できない。双方膠着状態に見えるが、もちろん大和軍にとっては作戦通りの時間稼ぎ。
ほとんどが大和軍本隊に対して動員されていたため他は手薄になっているところに、西から満を持して物部隊が出雲国に侵攻する。堪らずに出雲は降伏したはずだ。

この、物部氏の出雲進攻が物部神社の宇摩志麻遅命伝説に反映されているのではないかと考えた。

大和本隊の天皇側近軍は物部氏と並ぶ大伴氏(おおとも)が勤めただろう。進軍経路と考えられる美作には久米(くめ)という地がある。久米氏は大伴支配下の軍事氏族だ。
古代出雲国の中心地は意宇川(いう)流域、つまり松江市の南から東にかけてと考えられている。ところが記紀での国譲りの舞台は何故か宍道湖の対岸ともいうべき、現在出雲大社があるそばの稲佐浜となっている。出雲国の中央からかなり離れた場所だ。
国譲りは降伏儀式ととれるが、それが出雲国の西の端で行われたのは西からの侵攻があったことを示唆すると考えられないだろうか。

何もない農村風景、前の国道を物部氏の軍隊が進攻する姿が見えたのは幻覚か。

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出雲に大和の影

石見一宮 物部神社(平成20年4月27日)(2)

(続き)

本殿に向かって左方向に進んでゆくと背後の山に登る小道が現れる。ようやく、この神社に来たらでぜひ行かねばと思っていた場所へ向かうことが出来た。

細道は木々で鬱蒼としいている。社叢の山だからだ。数分登ると本殿背後の山の中腹の、祭祀場のような場所に着く。宇摩志麻遅命の御陵と伝えられているもので、八百山の御墓と呼ばれている。

由来では宇摩志麻遅命が白い鶴に乗って鶴降山に天降り、国見をして大和の天香久山に似ているのその麓に住み、亡くなった後にそこに葬られた、とされ、それが今登っている八百山と呼ばれている神社背後の山だ。

陵は低い石垣の上が瑞垣で囲まれていた。大きさは5-6m四方程だ。瑞垣の内側には30-50cmの大きさの自然石を沢山無造作に積み上げて2-3mの四角い小山が作られている。一番上には蓋をするように平たい石が置かれ、その上に墓石のような縦長の自然石が乗っている。
御陵と伝えられるものには、墓とは考えられない遺跡も多い。神陵ということで、ここもそうかと思っていたが、本当に5-6世紀の円墳だととのことだ。もちろん、古墳なので当初からこんな形をしていたわけではないはずだ。
このあたりには八百山古墳群と呼ばれる遺跡がある。周囲には似たような石が転がっている場所があるので、御陵に積み上げられている石は周囲の円墳の葺石だったものかも知れない。
古墳なので宇摩志麻遅命の墓でないだろう。有力豪族のものだろうが、物部神社の司祭官と結びつけるとかなり興味深い想像が生まれそうだが、今日は止めておく。きりがない。

陵の位置は本殿のほぼ真後ろにあるが、陵の正面と本殿の向きは一致してないようだ。陵を御神体として発展した神社ではないのかも知れない。だとすると、意外と神陵とされるようになったのは古いことではないとも想像された。

境内の戻る。境内の向かって一番左隅に、洞(うろ)のある巨木があり、夜泣き椨(たぶ)、聖天さんとある。明らかに女陰を表している。夜泣きが治る、子育てのご利益から、子宝、夫婦和合、縁結びなど聖天と結びついたのだろう。

摂社でも想像が広がるが、その全てで楽しんでいては何時までたってもここから帰れない。そろそろ次へ行かないと。

境内から遠くに三瓶山が見えている。

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出雲に大和の影

石見一宮 物部神社(平成20年4月27日)(1)

国道375号線を大田(おおだ)から南に向かって走ると市街から約5kmで案内がある。国道から100m程入るが迷うことはない。

正面の駐車場から境内のほぼ全域が眺められる。広い。さすがに石見国一宮。最近参拝している小さな集落の神社とは格が違う。

巨大な鳥居をくぐる。最近の大鳥居はコンクリート製が多いが、ここは珍しく木製だ。それだけでも格式がうかがえる。
そのまま拝殿に向かって歩いてゆくと左右の狛犬と一緒に鶴が迎えてくれる。
何故鶴かというと、祭神の宇摩志麻遅命(うましまじ)が鶴に乗って降臨したという伝説から鶴との関連が深いのだ。神紋も真っ赤な太陽を背負った鶴で、日負鶴(ひおいづる)と呼ばれる。

由来書によれば、饒速日尊(にぎはやひ)と御炊屋姫命(みかしきやひめ)の御子神である宇摩志麻遅命は、神武東征の功績で霊剣を賜り神武即位に際しては十種神宝(とくさのかむたから)を奉じて天皇のための祭祀を行った。これが鎮魂際の起源であるという。
その後、天香久山(あまのかぐやま)と共に物部の兵を率いて尾張、美濃、越国(こしのくに)を平定し、同行の天香久山は新潟の弥彦神社(やひこ)に鎮座した。宇摩志麻遅命は更に播磨、丹波を経て石見に入り、都留夫(つるぶ)、忍原(おしはら)、於爾(おに)、曽保利(そほり)の凶賊を平定した。そして、鶴に乗り鶴降山(つるぶ)に降り立ち国見を行い、八百山(やお)が大和の天香久山に似ていることからその麓に宮を建てそこで亡くなったと伝えられている。

天香久山は奈良県の大和三山の一つだが、神の一人でその名でもある。それを知っても前半部分は省略が多すぎて少し難解だ。
宇摩志麻遅命は記紀には名前ぐらいしか登場しないが、物部氏(もののべ)の祖とされる。物部氏一族の歴史書とも称される旧事本紀(くじほんぎ)に記紀にはない宇摩志麻遅命の記事が記されている。
記紀と旧事本紀には内容にかなり違いがあるが、無理を承知で話を要約すると次のようになる。

天照大神(あまてらすおおみかみ)の子孫である磐余彦尊(いわれひこ)は、この国は自分が治めるべきという神勅をもとに、日向(ひゅうが)から大和盆地へ進軍する。しかし、既に大和は旧事本紀によると饒速日尊の息子の宇摩志麻遅命が治めていた。そして、彼らを主と戴く長髄彦(ながすねひこ)に磐余彦尊の一行は苦戦し、磐余彦尊の兄、五瀬命(いつせ)も長髄彦の矢を受けて戦死してしまうという状態だった。
その後、紆余曲折あるのだが、最終的には宇摩志麻遅命は磐余彦尊に恭順を示し、それを受け入れない長髄彦を倒してしまう。そして、大和に入った磐余彦尊が即位し初代、神武天皇(じんむ)となる。
書紀では長髄彦が仕えていたのは宇摩志麻遅命ではなく父の饒速日尊となっているが、大まかなストーリーは変らない。
その後、長髄彦を倒して大和入りを助けた功績で、宇摩志麻遅命は磐余彦尊から霊剣を授けられる。また、宇摩志麻遅命は父神の饒速日尊が天から持ってきた神宝を天皇に献じて鎮魂祭を行ったとされる。神宝というのは天降る時に渡されたもので、もちろん物は違うが双方が持っていた。対峙したときにお互いが証拠として見せ合ったりしている。出自を示す大変重要な品だ。

少々複雑だが、この話で重要なのは饒速日尊は磐余彦尊の祖先より早く高天原(たかまがはら)より天降った神で、大和を治めていたことになっている点だ。元々治めていた国に、「我こそは正統」と言って進攻してきた軍に対し、徹底抗戦を叫ぶ部下を殺害して帰順し、そのまま重臣に取り立てられた大将というのが宇摩志麻遅命ということになる。書紀では宇摩志麻遅命ではなく、その父とされる饒速日尊になっている。どちらにせよ、現代の感覚からするとあまり褒められた態度ではないだろう。悪く言ってしまうと裏切り者だ。
しかし、物部氏は祖先が饒速日尊、宇摩志麻遅命親子だということを大変に誇りとしていた。そういえば、出雲国造家(いずもこくそう)も祖先は高天原を裏切った天穂日尊(あめのほひ)であることを誇りにしていた。どうも古代は考え方が全く違うようだ。
もっとも、日本書紀、古事記ともに大和朝廷を正当化する態度で書かれているので、それを差し引いて考える必要はあるが。

由来からは古い格式高い神社だとわかる。

境内を拝殿に向かって進むと右手に大きな石の手水場がある。それには四つの勾玉が彫られていて、触れると石の霊気を受けて運が開けるそうだ。
石は富金石(ふきんせき)。含金石(ふきんせき)とも呼ばれ砂金が含まれているらしいが、どのあたりが金なのか。砂金は見つけられないが勾玉には触っておく。

拝殿まで進むと丁度お宮参りの最中だ。
「ひとつ、ふたつ、みつ・・・・・・、ふるべゆらゆらとふるべ」。
自宅の近くに物部系の神社がないため今まで耳にする機会がなかったが、初めて聞いた。多分、十種大祓(とくさのおおはらい)の祝詞(のりと)だ。ここは確かに物部氏の神社。
物部の神道儀式は古い姿をとどめているとされる。確かに祝詞の響きは聞きなれたものとは全く異質に感じられるほど違った印象で、別系統の神道といわれても不思議ではない。特に「ふるべゆらゆらとふるべ」の部分は何とも神妙な響きで聞いていると何か不思議なことが起こりそうな気にさせられる。特徴的な句で、別名、布留部祓(ふるべのはらい)とも呼ばれる。

物部神道は「ひとつ、ふたつ、みつ」と数を数えるのを特色とする。
先代旧事本紀には次のような説明がある。

宇摩志麻遅命は神武天皇即位後に天皇の健康安寧長寿などを祈る御鎮魂祭(みたましずめのまつり)を始めた。その時に斎奉したのが、父神の饒速日尊が天から授かり持って降りた瑞宝十種(みずたからとくさ)、通称、十種神宝だ。
それは、息都鏡(おきつかがみ)、辺都鏡(へつかがみ)、八握剣(やつかのつるぎ)、生玉(いくたま)、死反玉(しにがえしたま)、足玉(たるたま)、道反玉(みちかえしたま)、蛇比禮(へびのひし)、蜂比禮(はちのひし)、品物比禮(くさぐさのものひそし)の十種類。
それを渡される時、もし、痛む所が有ればこの十宝(とくさのたから)に命じて「一二三四五六七八九十」言い、「ふるへゆらゆらとふるへ」と言えば死んだ人も生き返る」と教えられたとされる。これは布留言本(ふるのことのもと)といって、霊力のある言葉、すなわち呪文の核心とされる。

宇摩志麻遅命が磐余彦尊、いわゆる初代天皇の神武天皇より頂いた剣の名前は、布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)といって、この神格が経津主神(布都主神)(ふつぬし)とされている。そして、布都御魂剣は大和、今の天理市の石上神宮(いそのかみ)の御神体として祀られていると伝わり、石上神宮こそ物部氏の氏神で、物部神道の中心地であり、また、古代物部氏の武器庫でもあったと考えられている。
石上神宮の祭神は現在、布都御魂大神(ふつのみたま)、布留御魂大神(ふるのみたま)、布都斯魂大神(ふつしみたま)の三神とされる。
「ふる」は物部の祝詞だが、「ふつ」と「ふる」が似ているのは単なる偶然だろうか。

古代物部神道の秘儀はがどのようなものなのかは知ることは出来ないし、伝わってないらしい。しかし、「ふる」というのは実際に「振る」ことだと考えられている。
十種神宝を降り、あるいは揺らしながら、布留の言葉を唱える。これによって、文字通り、魂が「振り起こされる」、「揺り起こされる」と考えられた。魂を鼓舞するのだ。魂振(たまふり)と呼ばれる。だからこそ、死んだ人も生き返るとされるのだ。

一方、経津主神の「ふつ」は物を切る音、「ブツッ」というのを神格化した神とされる。しかし、切る音ではなく剣を振る時の風切音「フッ」だとも考えられている。剣を振るときの音なら、それは布留、ふる、「振る」と同義だろう。十種神宝の中に剣、八握剣があるのもその根拠という説もある。

「一二三四五六七八九十、ふるへゆらゆらとふるへ」というのは物部神道の奥義で、他で使われることはない。非常に神秘的な祝詞だ。
始めて物部神道の一端に触れられ、少し興奮してしまった。

十種神宝は剣以外にも、それぞれ、なかなか興味深い名称が多い。
参道途中にあった富金石に四つの勾玉が彫られていたのは、十種神宝に玉が四つあることと関係しているのだろうか。

本殿をいつものように一周してみる。ぐるりと廻れるのは大社系の神社で多く見られるが、ここは春日造(かすがつくり)だ。石見は既に出雲文化圏から離れていることが実感される。
実に大きな社で県内では出雲大社に次ぐ規模の本殿らしい。高さは16mあまり。松江の神魂神社(かもす)や熊野神社(くまの)に匹敵しそうだ。また、春日造では日本一の大きさを誇ると観光パンフレットにある。一宮に相応しい規模だ。
確かに春日造なのだが、高床式で横から見るとまるで大社造(たいしゃつくり)に一間の庇屋根(ひさし)を持つ間をつけた格好に見える。後ろから見ると二間で正面は三間という変形大社造のようだ。
出雲文化圏ではないといってもやはり大社造の影響を非常に強く受けているのかも知れない。

左右には多くの摂社があり、社格を示している。

本殿に向かって右、拝殿の横に折居田(おりいだ)の腰掛石という大きな岩がある。
近くに折居田という場所があり、宇摩志麻遅命が鶴に乗って舞い降りたのでそう呼ばれ、命が腰を下ろしたとされる大石があり、それがこの岩なのだそうだ。
昭和56年の道路拡張工事にその岩がひっかかり、境内に移したそうだ。

記紀、旧事本紀の霊剣授受と鎮魂祭の話や神社由来などから推測できるように、物部氏は古代において天皇側近の軍事氏族とであると同時に祭祀を取り仕切る神祇官の役を引き受ける最有力氏族だった。しかし、飛鳥時代に廃仏崇仏の争いで蘇我氏などに敗れて政治の中枢から姿を消してしまったため、古代史に興味がないと知名度が低い。また、早い時期に衰退したため謎も多い。
今まで参拝する機会がなく始めてだということも手伝って、物部氏にまつわる伝説や想像が膨らみ、何時までたっても見学が進まない。さすがに表舞台から消えたとはいえ、古代の一大氏族、物部氏、簡単には参拝を終わらせてくれそうにないということか。

(続く)

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素戔嗚尊の系譜 その2
大屋姫命神社(大田大屋姫命神社)(平成20年4月27日)

五十猛神社への道を戻り県道289号久利五十猛停車場線に再び入る。どうも同じ道を往き来して効率が悪い。韓神新羅神社を五十猛神社より先に廻るべきだったのだが、まあ、今さら気がついても仕方がない。

道なりに走って行くと、途中でセンターラインもない一車線になったりするが、とりあえず通行には問題ない。JR五十猛駅から4km余で、道から少し離れた右手の山裾に大きな白い鳥居が見える。特に説明版も案内板もないが額には大屋姫命神社とあるので間違いない。
見上げる山の斜面の上にあるようで、まわりが社叢に囲まれているので道からも鳥居下からも社殿は見えない。

両側をツツジの花で迎えられながら真っ直ぐに上へと伸びる長い石段を登る。文字通りの花道だ。日ごろの運動不足で少々息が切れるのが少々情けない。週に3-4回、時間が取れれば4-5kmのジョギングをしているのだが、平地をゆっくり走るのと階段や斜面を登るのとでは使う筋肉が全く違うらしく、トレーニングの甲斐もなく呼吸が荒くなってしまう。楽に登るにはどうやら階段ダッシュも取り入れないといけないようだ。もっとも、やる気はないが。

境内まで上りきると、どこにでもありそうな特徴のない神社が建っている。特徴のないというのも失礼なのだが、大きくもなく小さくもなく、古くもなく新築ということもない。村の鎮守にしては立派過ぎる規模なのが少し違う点だが、それも特徴というほどの神社ではないということだ。
しかし、本殿へ廻ると事情が変る。

拝殿後ろは平地がない。奥まった本殿は背後の山の斜面に立てられていている。そのため拝殿と比べてかなり小さい。廻れないためはっきりしないが、どうやら大社系のつくりのようだ。
境内の平地はほぼ拝殿のためのもので、本殿は斜面にへばりつくように建っているのが特徴的だ。多分、本殿は昔から受け継がれている場所にあるのだろう。

このあたりの地名が大屋ということから考えると、氏神と大屋津姫命とが結びついた神社なのだろうか。大屋津姫命という名前の「津(つ)」をどう考えるかで少し変って来そうだ。
「つ」を何々「の」という修飾や所有を表す文字とすると、「大屋」の「姫」という意味になり、ここの産土神のことになる。素直に考えればこれで良いのだろう。

素戔嗚尊、五十猛命、大屋津姫命、柧津姫命の一行は新羅から船で大田市の西、五十猛の海岸に渡って来たという。その伝説からは港に関係した神を考えたくなってしまう。
大屋津姫命の「津(つ)」を文字通り「津」だとすれば、「大屋津」という港の神ということになる。現在は大屋津という地名はない。古代はどうだったのだろう。ひょっとすると、もっと一般的な「大きな津の姫」とっいった意味の可能性はないだろうか。
そんなことを推理してみた。

伝説では、父神の素戔嗚尊は先ほど廻った韓神新羅神社に留まり、五十猛命は五十猛神社に、そして娘の大屋津姫命はここに、姫の妹の柧津姫命はこれから訪問する物部神社の客神として祀ってあるそうだ。
この周辺は五十猛命の兄妹の伝説が色濃い。

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韓神新羅神社(大浦韓神新羅神社)(平成20年4月27日)

神社から国道9号線に戻って2km程西へ進み、五十猛の町から海へ向かう。目的の神社は港を見下ろすように海に向かって左の小高い場所にあるのですぐに目に付く。
大浦の港にあるので大浦神社とも呼ばれるらしいが、もちろん目的は韓神新羅神社の名前の方だ。

海に迫った崖の狭い場所が境内なので地面が完全な水平ではない。その上、どう見ても鳥居が少し傾いている。そんなことから、何となく平衡感覚が狂わされる。妙な感覚だ。まさか、そういう効果を意識して設計されているわけではないだろうが。

再三書いているが、五十猛命ら一行がこの地に上陸したのでこの地が五十猛となったとされる。日本書紀によれば父の素戔嗚尊と五十猛命は、初め韓国、あるいは新羅へ降り立って、その後日本に来たと記される。韓神新羅神社という名前の由来が韓国、新羅から渡って来たことにあるのは疑う余地はない。

古代日本は大陸から先進文化を取り入れていた。その経路は主に朝鮮半島を経由していたと考えられている。当然、表玄関は北九州や山陰海岸になる。文化、先進技術などと一緒に信仰ももたらされただろう。
出雲地方に五十猛命とそれを祀る韓国の名前の神社が点在するこは五十猛命が渡来神であることを想像させる。(2007年、素戔嗚尊と系譜その1、伊賀多気神社)。
五十猛の地名説話は後世のものとしか考えられないが、五十猛命の信仰が根付いていたからこそ成立した伝説なのは間違いないだろう。近くには韓郷山、韓浦などの地名があるとのことだ。

五十猛命の父神は素戔嗚尊で、親子とされるが本来系譜が別なのではないだろうか。確かに、記紀には素戔嗚尊と朝鮮半島のつながりを示唆するような記事があるのだが、出雲、石見の山陰海岸、あるいは中国山地には、意外なほどに素戔嗚尊伝説は少ない。朝鮮半島からの渡来神であることをうかがわせる結びつきがないのだ。
この韓神新羅神社の祭神は素戔嗚尊となっているが、元々は五十猛命が祀られていたのではないかと思う。その方が相応しい。

境内に進むと、「グロ」国指定重要無形民族文化財、と書いてある看板柱がある。グロとは一体何だ。
後で調べてみると、朝鮮文化の影響をそのまま受けていると思われる民間行事らしい。高さ20mの竹を立ててそのまわりには円形に木を立てる。それを笹で壁のように覆い、ゴザを屋根にして小屋にしたてて、中で歳徳神を祀る行事とのことだ。
小屋は中央から竹が高く伸びているが、全体の形はモンゴルのゲルのように円柱形になる。朝鮮半島に似た行事があるとのことだ。
韓神新羅神社という名前だけでなく、明らかに朝鮮半島との結びつきを感じさせる。

拝殿に進むがここにも鈴がない。石見の国には鈴がないことが多いのだろうか。多分、今日訪れている神社が、そうだというだけだろう。
拝殿は公民館を兼ねているような結構大きなものだ。何かの行事に使うために広いのかも知れない。それはグロの行事なのかも知れない。
本殿は後ろの崖にへばりつくように建っていてこじんまりとしている。背後に廻ることは出来ない。崖から落ちた岩が散乱していて少し危険だ。
社は大社系の造りで彫刻が施してあり、小さいながら綺麗な社だ。しかし、背後の崖からの落石が心配だ。

境内の左には船玉神社という小さな摂社がある。漁港なので船の航海安全の社で船魂という意味だろう。

大浦の港が良く見渡せる。五十猛命らが着いたのは湾内の神島という島らしい。近くに小島がいくつか見える。どれがその神島なのだろう。
五十猛命の上陸地点はここの他にも船通山にも伝説がある(2007年、素戔嗚尊の系譜その1、鬼神神社)(2007年、素戔嗚尊と八岐大蛇その5、船通山)。さらには対馬、壱岐、有明にもあるらしいが、もちろん自分の目で確認出来ていないし、これからも出来ないだろう。

遅咲きの桜とツツジがちらほら咲き、吹き上げる風が気持ち良い。


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