|
○古代幻想、淀江(伯耆古代の丘公園界隈) 岩屋古墳 (平成16年10月31日)
民族資料館の前まで戻り道を少し行くと岩屋古墳の案内板がある。道端から柿畑横の畦道を登ってゆくと開いた横穴石室が見える。石室の入り口は崩れないように鉄枠で補強されているが入りたい気持ちはあまり起こらない。
円墳部へよじ登ると隣接した伯耆の丘公園内にある弥生時代の楼閣とその向こうに広がる日本海がよく見える。
古代はこの丘陵の近くまで潟湖として海岸が迫っていたはずだ。入り江となった良好な港湾を背景に日本海沿岸の各地、北九州、更には朝鮮半島との交易を行い巨大な勢力を持った地方豪族の存在したことが偲ばれる。
この湊を利用する船はいつもここの丘陵部にある古墳群を見上げ、この地の支配者の存在を知ったはずだ。海岸線に近いところに築かれた古墳は船舶への権力誇示が重要な目的の一つとなっていると考えてよい。
セイタカアワダチソウが前方部に生い茂っている。圧倒的な力を誇示した埋葬者の墳丘も今は海の向こうからやって来た在来種で覆われている。
セイタカアワダチソウ。北米原産の帰化植物。高さが2-3mにもなる。最初は観賞用として渡来したとされるが、第二次世界大戦後に急激に分布域が広がる。
大きさといい派手な色といい日本の秋には似合わない。どうしても好きになれない花だ。この花がススキなどを圧倒して群生しているのを見ると植物体系まで米国の軍門に屈したような気がしてやるせない。誰か一掃してくれないものか。
気を取り直して古墳の説明板に目を向ける。後円部にかなり大きな造出しが付いているのが知れる。
造出し(つくりだし)というのは普通は前方部と後円部の境のくびれた所に作られた小さな張り出し部分を指す。祭祀の場だったのではないかと考えられている。
この古墳では造出しが後円部に付いていてしかも大きい。小さな前方部といってもよい程の大きさがある。造出しと呼ぶよりむしろ福岡県八女市にある岩戸山古墳の別区のようだ。別区も造出しの一形態なのかも知れないが詳しい知識はない。とにかく通常の形とは変わっている。ただ実物は古墳の形が崩れていて造出しははっきりしない。
日本書紀によると継体朝に北九州で筑紫君磐井の乱があったとされる。
古代朝鮮半島には日本の植民地的な任那と呼ばれる国があったと記紀は記す。継体21年(527)新羅に併呑されていた任那の一部を回復するため大和朝廷は近江毛野を派遣する。これに対して新羅は北九州を支配する豪族である筑紫君磐井に賄賂を贈り毛野軍の進行の妨害を要請した。
当時磐井は大和朝廷に朝貢をせずに独立していて、朝鮮半島の高麗、百済、新羅などと日本の国主として貿易や使節派遣を独自に行っており朝廷に従っていなかったといわれている。
磐井の反乱に対して翌年継体22年(528)朝廷は物部麁鹿火を大将軍として征討軍を派遣し磐井を討った。
筑後国風土記逸文によれば磐井は生前に自分の墳墓を造っていたとする。墓には衙頭(がとう)という広場が付いていた。
衙頭には石製のいろいろな像が置かれていた。立っている人、座ってうつむく人、猪か豚、そして馬。猪を盗んだ者を裁判する様子を現しているらしい。磐井が独自の裁判権を持ち朝廷に属していないことを誇示したものと考えられている。
岩戸山古墳は前方後円墳で後円部に別区と呼ばれる広場が付いていて、そこに石人、石馬などが並んでいるためこれが衙頭で磐井の墓で間違いないとされる。
磐井の墳墓は他に類を見ない別区を持ちそこに石製の馬が置かれている。そしてここ淀江には別区のような造出しを持つ古墳があり石馬がある。磐井は朝鮮半島との交流があったといわれれているが石馬も大陸文化との関連が示唆されている。ここの岩屋古墳からの出土品にも環頭太刀など大陸文化の特色のあるものがあるらしい。
淀江は古代に朝鮮半島との交易で栄えていたことを想像させる。
物部大連麁鹿火が磐井を斬った後、朝廷軍の兵士は石人や石馬の一部を破壊したとされる。確かに馬の首がなかったり一部が壊れているそうだ。むろんここの石馬が完品でないのとは関係がないとは思うが。
|