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○大山寺本堂 (平成19年7月8日)
大神山神社(おおがみやま)を後にして再び長い参道を下り戻る。
金門(きんもん)への分かれ道をすぎてしばらくすると、少しわかりにくいが左手に大山寺本堂(だいせんじ)への近道がある。本堂正面の参道の山門まで戻ってもいいのだが、そこまで行くと再び結構な数の石段を登らなければならなくなるので横道から楽をさせてもらう。
大山寺に牛馬市の博労座(ばくろうざ)が出来たのは、大山寺の本尊、大智明権現(だいちみょうごんげん)は本地が地蔵菩薩(ぢぞうぼさつ)とみなされ地蔵菩薩は牛馬の守護神とされていたからだ。
今でも大山寺集落にはあちらこちらに地蔵菩薩の石仏が多く立っている。
大山寺本堂、根本中堂は正面5間、横6間のほぼ正方形の宝形造。須弥壇にはもちろん地蔵菩薩が安置されている。
堂は決して小さくはないが、大智明権現、大日堂を中心とした中門院(ちゅうもんいん)、釈迦堂の南光院(なんこういん)、阿弥陀堂の西明院(さいみょういん)と、一山三院と称され僧徒3000を数えたとされる大山寺の根本中堂としては簡素で見劣りがするのは確かだろう。
それも当然で、本当の根本中堂というは本堂というか、伽藍の中心だったのはさっきまでいた大神山神社で、現在の本堂はもとの中門院の大日堂なのだ。
大山寺は江戸時代には3000石の領地を持ち自治を獲得していた。そして代々、皇族の宮が座主を勤めるようになっていた。もちろん名前だけの座主で実際は天台座主が兼任することになっていて当地には下向してこられてないが、大山寺が中央から一目置かれていたその実力がうかがえる。
明治になり、神仏分離令で神仏習合していた全国の寺が壊滅的な打撃を受ける。特に権現というのは仏が神の姿を借りて現れるという本地垂迹(ほんぢすいじゃく)が基本になっているので、神と仏を厳密に区別して分けろといわれたとき困った。
この時、東照大権現(とうしょうだいごんげん)の日光東照宮、金比羅大権現(こんぴら)の金刀比羅宮など、多くの権現は神であるという立場をとった。政府が仏教を軽視して神道を保護する姿勢をとったことも大きく影響しているだろう。
大山寺も大智明権現を大国主命として神社に姿を変えた。
上手く行けば王政復古の流れで、皇族の宮を座主にしていた大山寺は神社の分離だけで済んだはずなのだが、残念ながらそうはならなかった。
幕末の天台座主は日光宮北白川能久親王(よしひさ)というかただった。この皇族は戊辰戦争の時に上野で戦った彰義隊(しょうぎたい)に擁されている。また、それに続く奥羽越列藩同盟にも迎えられ、一時は東武天皇と称したともいわれる。
大山寺の座主は天台座主が兼ねることになっていたので、当然この北白川親王だった。北白川親王は新しい明治政府にとっては賊軍の御旗になっていたわけで、そのために大山寺も朝敵とみなされて処分が重くなったとされる。
大山寺の本尊である大智明権現を神社にかえて対応したものの、、明治4年には寺領を没収され、明治8年には大山寺の寺号を廃される。要するに寺としても認められなくなった。
寺号が何とか復活したのは明治36年。しかし、七堂八社四十二坊あった大山寺は三堂十坊となっている。
大山寺の歴史を簡単に紹介した記事によると以上のような経緯らしい。
鳥取藩の最後の藩主、池田慶徳(よしのり)は養子で、江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜(よしのぶ)の実兄にあたるため、新政府からの風当たりを弱めるために大山寺に過酷な処分を与えたということもあるような気がする。
と、いうのも、北白川親王は輪王寺宮(りんのうじのみや)とも通称され、寛永寺貫主(かんえいじ)、日光輪王寺門跡も兼ねていた。日光の輪王寺は東照宮と分離しただけで何とか維持されていることを考えると、同じ北白川親王を座主にした大山寺の処分に差がありすぎるからだ。
理由はどうあれ幕末から新政府への動乱の時代の波にのまれたということだろう。
寺号の廃止中は今の大神山神社から中門院の大日堂へ本尊を移して細々と寺を維持していた。もちろん本堂となった大日堂は名前からわかるように本来は大日如来を安置していた。中門院は密教系の属する集団だったらしい。
そして寺号復活の時にそのまま根本中堂となったのが今の大山寺だ。
その本堂も、1928年(昭和3)火事で焼失する。残念なのはその時に本堂とともに「大山寺縁起絵巻」も焼けてしまったことだ。室町時代初期のものといわれる大山寺縁起絵巻は残っていれば国宝級とされる。絵巻物だけであれば観光の集客もずいぶんと違うのだろうが。
本堂の前はコンクリートながら舞台造になってる。元が大日堂なのになぜ観音堂につきものの舞台を作る必要があったのか、何だか不思議だ。
舞台というより単に展望台なのか。しかし、特に景色がいいというわけでもないのだ。
舞台から下を眺めると目に入るのが、観音巡礼の札所である観音堂だ。
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