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「授」 第十六番 須我神社
熊野大社から更に県道53号線を中国山地に向かい奥に進むと、途中一車線の山道になり、県道24号松江木次線(まつえきすき)に合流する。そこから再び松江方面に戻ると2km余で須我神社(すが)に到着する。
出雲国神仏霊場の小冊子では須我神社と須佐神社の名前が入れ替わっている。確かに似ているし、両者共に素戔嗚尊(すさのお)と縁の深い神社だが、それだけに、馴染みのない人は混同しやすいので、案内冊子は間違えないで印刷して欲しかった。と、いうことで、ここは須我神社。
神社は県道から少し離れているので、見落とさないようにしなければいけない。特に冊子をたよりに須佐神社を探している人は要注意だ。
ここも静かで参拝者が誰もいない。
鳥居の右手に和歌発祥の石碑がある。
第十四番、八重垣神社の所でも書いたが、素戔嗚尊は八岐大蛇(やまたのおろち)を退治して奇稲田媛命(くしなだひめ)を救い、宮を建てて鎮座して
「八雲立(やくもた)つ 出雲(いづも)八重垣(やへがき) 妻篭(つまご)みに 八重垣作(やへがきつく)る その八重垣(やへがき)を」
と、詠ったとされる。
この歌は三十一文字、日本で最初の和歌と言い伝えられているのだ。まあ、万葉集を読めば誰でも気がつくが、五七五七七の形式はかなり後になって出てくる新しい和歌の形式だ。最初の和歌を素戔嗚尊はこの形式では詠まないだろう。
記紀には、素戔嗚尊がここにやって来て、「わが心は清々しい。」と言ったので、「すが、須我」と呼ばれるようになり、宮を建てたとされる。和歌発祥の地であると同時に、日本初之宮(にほんはつのみや)とされる所以だ。
八雲立つの歌の発祥地との伝承を持つ八重垣神社と熊野大社を廻って来たことになるが、一番由緒正しそうなのは、ここ須我神社ということになる。ただし、それは観光人気や社格などとは全く関係がない。
ここの「授」という文字は何に由来するのだろう。一番端的に表わす「歌」で良かった気がするが、それは他の和歌発祥地を自認する神社が反対したのだろうか。また、「宮」でも良かった気もするが、やはり他から、神社自体を代表するような文字は良くないという意見でも出たのか。
素戔嗚尊と奇稲田媛命の伝説に因むのは間違いないが、はっきりと「授」と記されるようなエピソードはない。
素戔嗚尊は奇稲田媛命を見て、自分の妻に欲しいときちんと両親神に申し出て、両神もそれならばと承諾したことが、古事記と日本書紀の両方で述べられている。強奪や略奪ではないことが「授」といえる。
また、素戔嗚尊は両神に宮の首長を任じて新たな名前を与えたと、されるので、それもまた「授」なのだろう。
奇稲田媛命に宮を建てたて与えたのも「授」とも取れる。そんな、色々な意味が重なっているのだろうか。
ここも何度も訪れているので、今回特別に見学するポイントがない。
社務所でお守りを売っているおばさんに、御朱印をお願いする。
「これは(この企画は)、良いですよね。色々と行ったことのない所に行けて。」
そう言われて「そうですね。」と、相槌を打ってはみたが、実のところ出雲神仏霊場の二十寺社は既にほとんど訪問済みだ。
そうこうしているうちに、神仏霊場の団体が登場した。受付での添乗員の会話で19名のツアーであることがわかる。この霊場のツアーがあるとは知らなかった。
境内が急に騒々しくなった。賑やかなのも活気があって時には良いものだ。
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