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「智」 第十番 大山寺
島根半島の東の端から、再び海岸沿いの爽快なワインディングを駆け抜ける。
日本海の向こうに霞んで聳えているのが中国地方最高峰の大山(だいせん)で、残り二つ最後の霊場の場所だ。ラストに向けて走り始めるが、数え切れないくらい行ったことのある馴染みの場所なので、特別な感慨は湧いてこない。
島根半島と弓ヶ浜半島を継ぐ境水道大橋を渡り、国道431号線を南へ走る。
港湾に架かる橋は船舶の邪魔にならないように、高い場所にあることが多いが、ここも例外ではなく、海面下から40mの高さがある。
島根半島側は崖の上から始まり境港(さかいみなと)側へ下るようになっているため、島根県から鳥取県に向かうと少し飛行機の着陸気分が味わえる。特に夜は眼下が街の灯りなので、一層雰囲気がある。
出雲国神仏霊場は手軽に出雲地方、つまり島根県東部の著名な寺社を3日程度で廻れる。地域が狭いのでそれぞれの霊場同士はお互いが近くだが、美保神社(みほ)と大山はその中で最も霊場間の距離が長く40km以上ある。
もう一つ異色なのは、大山は出雲ではなくお隣の伯耆国(ほうき)ということだ。出雲国神仏霊場という名前ではあるが、宍道湖(しんじこ)と中海(なかうみ)の周辺の霊場との理解なのだろう。
ただ、歴史的には鳥取県西部の大山周辺までは古代出雲支配圏だったと考えられているので、出雲国神仏霊場に組み込まれてもあながち間違いではない。出雲国風土記では長浜神社が国引きの西の浜なら、中海を日本海から切り離している弓が浜と、その向こうに聳える大山は国引き神話の東の舞台だ。
その、神話の舞台を南東へ向かい長い松林に沿った国道431号線を走る。
全国各地に、何とかの松原、と呼ばれる海浜に長く続く松林があるが、ここ弓ヶ浜は10kmはある立派な松林なのにそのような名前が付いていない。併走する国道が交通量の多いバイパスだから風情がないためか、それとも松林を歩く遊歩道が整備されていないためか。いずれにしても、長い立派な松林なのに観光資源になってないのは少し残念ことだ。
県道24号線、通称、大山観光道路に入って大山の中腹の大山寺(だいせんじ)に向かう。大山道路は左右は原生林があるだけで対象物があまりないので、勾配はそれほどではなさそうに見えるが、実は道はほぼ直登している。
標高が一気に上がるに連れて明らかに空気の温度が変わる。つかの間の避暑となることを期待したが、大山寺でバイクを停めて歩き始めると涼しいと感じない。結局は今日は暑すぎるということのようだ。
大山寺は大山の中腹にある。寺の名前と同時に集落の名前にもなっているので、どちらの意味で使っているか少し紛らわしい。集落の中を真っ直ぐに寺に向かう長い急な参道が通っている。その参道が多くの登山客で賑わっている。大山は鳥取県西部を代表する観光地なので、来る途中にも県外車が多く目に付いた。最近、大山寺を歩く観光客が増えた気がするが、多くが登山客で寺や古い文化に興味のある人は稀なようだ。
ほんの一月半前に中国三十三観音霊場のお礼参りで大山寺はかなり詳しく廻ったため、今回特別な目的はない。こんなに早く同じ場所を訪問するなら、少し残しておけばよかった、などと思いながら参道を登る。
現在の大山寺にはその昔華やかな時代があったことを残す姿は残っていない。失礼だが寂れた寺だ。しかし、注意しながら周辺を散策するとかつての堂宇の跡がいたる所にあり、栄華がしのばれる。一山三院四十二坊と呼ばれ40を越える堂宇が立ち並んでいたとされることからも、その規模の大きさが想像できる。
大山寺は出雲国風土記に火神岳(ひのかみたけ)と記される大山を御神体として発達した修験道の聖地として信仰され、中世には中国地方の修験道を束ねる存在として君臨した。大山寺が一大修験センターだったことから、三徳山(みとくさん)や今回廻った峯寺(みねじ)、鰐淵寺(がくえんじ)など山陰には修験道の寺が多い。後醍醐天皇が流された隠岐島から帰還して名和長年などと立て篭もった船上山(せんじょうざん)も、現在は跡形もなく消滅しているが、やはり大山寺とつながる修験道の寺があった。その時大山寺の僧兵も当然戦闘に加わっている。大山寺がなければ後醍醐天皇は再び京都に凱旋することはなかった。
古代伯耆国は出雲文化圏だったが、逆に出雲国は伯耆国大山寺修験文化圏でもあったということだ。
かつての大山寺には三つの寺院集団があった。それが一山三院の三院だ。一つの寺がいくつかに分かれているのは妙な感じだが、比叡山延暦寺が東塔、西塔、横川と分れているようなものだ。各々が中心とする経典や主尊が微妙に異なる。
大山寺集落の駐車場から急な参道が真っ直ぐ延びるが、このあたりが中門院。参道に並行して寺へ向かう右手に川があり、河原の向こう岸が南光院。さらにその西、現在の大山登山道あたりが西明院。
釈迦如来を主尊とした釈迦堂が中心だった南光院は現在見る影もない。遊歩道沿いに夏草に覆われた釈迦堂跡があるだけで、それさえも注意しないと通り過ぎてしまう。西明院は浄土信仰の集団だった。かろうじて中心伽藍の阿弥陀堂とそこに安置されている阿弥陀三尊像は残されている。地方仏としては優れたものだが、残念ながら普段は公開されてない。
そして、今、歩いて登っている参道周辺の中門院は密教系の集団で大日如来が本尊の大日堂を中心としていた。その大日堂が現在の大山寺の本堂だ。しかし、本尊は地蔵菩薩に代わっている。
一つの寺に三つの系統の寺院集団があったのだが、大山寺ではそれらを全て統括する形で大智明権現(だいちみょうごんげん)が信仰されていた。それを一山として大山寺は一山三院と称された。寺院やその集団を山と呼ぶのは現在でも大本山などというのと同じだ。
権現は典型的な神仏混肴の信仰で大智明権現は地蔵菩薩と同体と考えられていた。
しかし、権現思想は明治の神仏分離でほぼ壊滅した。大山寺もその時に大智明権現が神社となり、寺は廃寺となった。後に寺の復活が認められたが、既に往時の勢いは全くなく、残っていた大日堂を本堂として、根本の主尊と考えられていた大智明権現の本地である地蔵菩薩を本尊として今に至る。
出雲国神仏霊場で大山寺のシンボル文字が「智」なのは大智明権現からきている。美保神社の「知」と文字としては重なってしまうが、背景は全く違っている。
かなり急な坂道を登って、そろそろ疲れた頃に山門が現れる。この山門は最近の再建で、その時から入山料を納めるようになった。せめて、阿弥陀堂の阿弥陀如来像でも拝観できれば入山料も安いと思えるのだが。入山料に見合うだけの拝観対象はないのだが、霊場巡りということで素直に料金を払う。実は、山門を通過せずに簡単に本堂まで行ける道がいくらでもあるのだ。
ただ、この大山寺は元々僧の自治集団で檀家を持たない。そのため寺の維持にも苦労する状態だ。入山料はお布施と考えるしかないのかも知れない。
山門から更に急な石段が続き、ようやく本堂。本堂内の厨子は開いているが、遠く暗いので尊顔は拝せない。
御朱印は本堂横ではなく、下の観音堂だった。
中国三十三観音霊場の納経も同じく観音堂だったことを思い出していた。
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