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いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

中国観音霊場(第2回)

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○美作州、一宮、中山神社 (平成16年7月24日)

一宮は平安時代から鎌倉時代にかけて完成していったもので、その地方の最も影響力のある神社が呼ばれるようになったものと考えられている。時代によって多少の違いはあるものの古代は全国を66の国に分けていた。江戸時代の藩や今の県と似ている。そしてその国ごとに一つの一宮が設けられている。
祭祀や神道体制の整備等が進むにしたがって神社が徐々に階層化してゆきその一番トップが一宮として定着するようになったものらしい。元は中央より派遣されたその国の国司が地方の土着の神に敬意を表すためかどうかその地の主だった神社を参拝するようになっていた。一番初めに参るのが一宮と呼ばれ、順に二宮、三宮となる。
発生はどうあれ一宮はその地方を代表する神社と言ってよい。中国山地の札所は打ち終わり今日の予定は終了したので寄り道をすることにした。

ここ美作国の一宮中山神社は津山の北に鎮座する。津山は城下町の面影を残している町で古い町並みの例にもれず道が少々判りにくい。何度も地図とにらめっこしながらなんとか鳥居前に到着。
大鳥居から大きな杉並木の参道を進む。静かな境内に壮大な神社は建っていた。さすがは一宮。でも参拝者の姿がない。
本殿は中山造りと呼ばれる。入母屋妻入りの独特の造りで美作一帯の神社は概してこの中山造りになっているそうだ。建築には詳しくないが切り妻と入母屋の違いはあるが大社造りと似ているらしく、出雲と吉備の両方の折衷をうかがわせるとのこと。美作が吉備と出雲の文化の中継点であったことを反映しているともいわれる。
主祭神は鏡作神(かがみつくり)。耳にしたことがないため後日調べたところ、石凝姥命(いしこりどめ)のことではないかとされる。全く別に金山彦命(かなやまびこ)とされていた時期もあるようだ。金山彦は鉄精製の神として知られている。鏡と言うのはもちろん銅鏡を指す。石凝姥命は記紀神話で天照大神の岩戸隠れの時に八咫鏡(やたのかがみ)を作った神だ。何れにせよ製鉄製錬に関する神様のようである。しかし美作の国はそれほど製錬が盛んな地ではないはずで、製鉄でよく知られているのはもう少し西の出雲の国の中国山地だ。
大和朝廷が吉備を経由して出雲を征した理由は製錬技術と鉱石を求めてという説がある。そういう点でも吉備と出雲の文化の交わる地としての美作を反映してるのかも知れない。
久米の里のところでの疑問がそのまま引き継がれた格好になった。いずれ何かを思いつくかもしれないが今は考えがまとまらない。
社務所はあるが閉まっている。一宮でこうなのだから木山神社の社務所が開いていたのはやはりすごいことだ。

帰り際、参道でタクシーでやって来た中年夫婦とすれ違った。一宮ファンだろうか。全国一宮参拝を行う人も割合多いらしい。しかし、社務所が閉まっていてはいろいろと不都合だろう。気の毒だ。
門前の道路は工事中で交通整理のオジサンが、バイクは涼しいでしょう、と声をかけてくる。とんでもない。そんなことはないです。暑いです。
今回は夏用のメッシュジャケットを着ている。初めて使ってみたが走り出せば確かに涼しい。こんなに便利なものがあったのかと眼からウロコが落ちるほどだった。想像以上に快適だったのは認める。特に山影の高速では涼しすぎるくらいで上着を着てないのかと思うほど風が通る。だが、それも走っていてのこと。一旦停まれば着ている分だけ暑い。エンジンからも熱気が昇ってくる。一気に汗が噴き出す。
誕生寺で火事のことを考えたからでもないだろうが、日中は30度を遥かに越える一日であったらしい。

手始めとしては上出来と思われた284kmの日帰り巡礼。

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○特別霊場、栃社山、誕生寺 (平成16年7月24日)

津山から国道53号線で南へ10kmほどの所に誕生寺はある。何を勘違いしたのか国道を逆走したりしてずいぶん大回りをしてしまった。多少の土地鑑がある所でもこの調子だ。迷いやすい性格は変わらない。この先の札所巡りも思いやられる。

誕生寺は、浄土宗他力念仏門の開祖、法然上人降誕の聖地。建久4年(1193)法力房蓮生(熊谷直実)が、師法然上人の命を奉じこの地に来て、上人誕生の旧邸を寺院に改めたものである。以上はパンフレットからの要約。

南無阿弥陀仏と念仏を称えることで極楽往生を願う浄土系の宗派は法然に始まるといえる。それ以前にも阿弥陀信仰と念仏は比叡山延暦寺を中心に行われていたが法然の唱えた念仏はそれとはかなり異なる。
本来は仏教の究極の目的は悟りを得るところにある。悟りとは仏そのものと言ってよい。つまり仏になるということでそれが成仏することだ。悟りを得るために戒律を守り修行を重ねることが要求される。一般に使われるような、死者を仏と呼んだり亡くなることを成仏といったりするのは本来の意味と全然違う。

平安時代初期に円仁が比叡山で始めた常行三昧(じょうぎょうざんまい)は、阿弥陀仏を念じ本尊の阿弥陀仏の周りを歩きつづけながら一心に念仏を唱える。阿弥陀仏の周囲に広く空間がとってあり周りを歩けるようになっている本堂を時々見かけるが、それはこの常行三昧を行うためのもので、そのような造りの建物を特別に常行三昧堂と呼んだりする。ちなみに三昧とは何かに一心不乱になること。
この常行三昧は一見すると念仏が主体となっていて浄土宗と違わないようだが、あくまでも念仏は修行方法のひとつに過ぎず、その目標は悟りを得ることにある。

仏教では釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来など沢山の仏がおられるが悟った人の数だけ仏は存在してよいので無数の仏がおられることになる。そして一人の仏は一つの浄土を持つ。阿弥陀仏の浄土は極楽浄土と呼ばれる。浄土と言えば極楽浄土のことのようだが極楽浄土は浄土の一つに過ぎない。
法然の説く他力念仏は、悟りを開き如来の一人になろうとするのでなく、阿弥陀如来の極楽浄土へ生まれ変わることを願う。目標が悟ることから極楽往生に変わっているのだ。
法然はの教えは目的が悟りでなくなっている点では既に仏教と呼べないのかもしれない。この後、浄土宗は浄土真宗、時宗などを生みながら全国に広がってゆく。これら浄土系仏教を浄土教と呼ぶことがある。その言葉には仏教から派生した半ば新しい宗教といったニュアンスが含まれているように感じられる。ともあれ、日本の仏教史において画期的な出来事であったのは間違いない。
修行は厳しいし、教義は難解だ。どうせ凡夫は悟ることなど出来ないのだからせめて浄土にでも、といった気持ちはよく判る。しかも、南無阿弥陀仏と唱えるだけで良いと言う。大衆受けするに十分だ。

意外だったのは熊谷直実(なおざね)の名をパンフレットで見つけたことだ。出家した後は法然門下になっていたらしい。こんなところに来ていたのか。
寿永3年(1184)2月、木曾義仲に京都を追われた平氏一門は今の神戸、福原に陣を構え源氏軍と対立していた。源義経の鵯越の逆落としとして知られる背後の急斜面を下る奇襲攻撃を受け平氏軍は一気に崩壊する。有名な一の谷の合戦だ。
陣を捨てて沖の船団に退却する平氏。混乱の中、波打ち際を逃げる一騎の武者を発見して呼び止めて堂々勝負の一騎打ちを望んだのが源氏の熊谷直実。平氏の武者は笛の名手の平敦盛(あつもり)。
直実は敵を馬から落とし上から押さえてみると、自分の息子と同じ年くらいの少年。敦盛は組み伏せられた状態で、自分の首は手柄としては申し分ないから早く殺せと言う。直実は若い命を散らすのは忍びないと見逃そうとするが、源氏の兵が近くに集まってくるのがわかる。とても無事に逃がせないと知り、他人の手にかかるるくらいならと断腸の思いで討ち取る。

戦の前の両陣対峙中の夜、敦盛の笛の音が響き源平両軍にひと時の風流を感受させ、その後の悲劇の予兆とする。直実は、あの時呼び止めねばと、泣きながら紅顔の美少年の首をはねる。平家物語中でも特に悲しく哀れを誘う有名な場面として知られる。
戦の舞台となった須磨浦公園には敦盛塚がある。また須磨寺には敦盛愛用の笛があるというし敦盛の首塚もあるらしい。是非訪れたいと思いつつ、残念ながら未だに果たせずにいる。ちなみに平家物語では笛の名前は小枝(さえだ)なのだが世阿弥の謡曲「敦盛」以来青葉の笛という名で伝わっている。
直実はこの敦盛の件で無常を感じて出家したことになっているが、実は所領争いに敗れて裁定を不服として髷を切ったのが事実らしい。もちろんそれまでに出家したい気持ちを持っていたのは確かだろう。

広い境内は門を入ると法然の子供のときのお手植えと伝えられる大イチョウがあり、正面には本堂である御影堂がある。ご本尊は当然、法然像。丁度法要の最中だったので境内の散策をして時間を使う。
本堂に向かって右手には新築の阿弥陀堂。観音霊場としての観音像は阿弥陀堂の反対側の左側に観音堂がありそこに安置してある。観音霊場と言っても本尊が観音様でない札所もあり、その場合はここのように観音堂がある。
この観音様の寺伝もすごい。案内書によると次のような話だ。
元禄12年(1699年)のこと、当山第15世通誉上人が、江戸に上り、回向院で御本尊法然上人像を出開帳していた。このとき、八百屋お七の遺族が位牌と振袖を持参し、亡きお七の供養を上人に懇願したという。上人はこれらの遺品を持ち帰り、この観音菩薩ご前にて、お七の菩提をねんごろに弔った。そこで聖観音菩薩はお七観音と称され伝えられている。
八百屋お七の言い伝えがこんなところにあるとは。

江戸本郷駒込の八百屋の娘お七は、自宅の火事でお寺に仮住いした時、寺小姓と恋仲になった。自宅が直って家へ戻った後もその恋人が忘れられない。また火事になれば会えるとそそのかされて放火してしてしまう。当時放火は大罪で、結局火あぶりの刑に処せられる。よく知られている話だ。
この話自体にも諸説あって、少し調べただけで次々と異説が出てくる。恋人の名前は吉三や吉三郎が良く知られているが本当は左兵衛で吉三は火付けをそそのかしたならず者だとも言う。恋人のその後も、一緒に処刑されたというが、出家して僧となり漂白のうちに亡くなったとか、目黒に西運堂を建立した西運がそうだとかいう話もあるようだ。

お七と吉三にまつまる後日談も各地にある。しかし、ここに話が伝わっているのはここが浄土宗だということと無縁ではないだろう。
仏教の目的は成仏することなのだが、そのためには当然犯罪は犯してはならない。ところが浄土教では犯罪者も悪人も全てが念仏を唱えるだけで極楽往生できる。さらに、旧仏教では女性は成仏できないことになっている。一度男に生まれ変わらなければ駄目なのだ。理不尽だがそういうことになっている。しかし、南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土にはそのまま往くことが出来る。つまり、放火という大罪を犯した娘の魂を救済するには浄土教が一番適している。
島根県美保関の仏谷寺にも西運が巡礼でたどり着きそこで亡くなったという小姓吉三の墓が伝えられている。仏谷寺も浄土宗のお寺だ。浄土宗の聖が女人救済を説くためお七の後日談を語りながら廻ったというのがありそうな話だ。
ここ誕生寺には供養を依頼された振袖まである。さすがに出来すぎている。

お七を題材にした芝居や浮世絵では火の見櫓に登り半鐘を叩く振袖姿が描かれる。これは、放火したもののさすがに怖くなって自分で火事を知らせるという話になっているからだ。この絵のイメージからお七の火事は振袖火事のことだと思い込んでいたが、調べてみると大きな勘違いだった。明暦3年(1657)1月のいわゆる明暦の大火が振袖火事と呼ばれるもので、お七火事は天和2年(1682)12月のことらしい。ここに振袖が納めてあるというのはやはり振袖火事とお七の混同があったからに違いない。結構混同している例は多いようだ。
ついでに振袖火事にもいわくがある。
「明暦の大火」は明暦3年(1657)1月18日から20日にわたる火事であり、一度鎮火しかけた翌日に再度出火して死者10万人以上、江戸の町がほとんど焼けたという最悪の火事だ。このとき江戸城の天守閣も焼け落ちて以後再建されていない。
これをなぜ振袖火事と呼ぶのか。
大棚の娘が寺の小姓に片思いをして恋に焦がれて死んでしまう。両親は形見の振袖を娘の菩提を弔うため寺に納めたが、寺の坊主が古着屋に売ってしまった。ところがこの振袖を着た娘は次々と病死。供養のために振袖を本郷丸山本名寺で燃やしたところ強風にあおられ本堂に飛んで火事になったという。病死した娘を荼毘に付す時に振袖を一緒に焼いたところ突風で本堂に燃え移ったというのが本当のところらしいが、振袖が火元ということで振袖火事と呼ばれる。しかし、若い娘の恋心が原因という、いかにもお七と混同しそうな話になっているところが興味深い。

随分長い間お七に関わってしまった。観音堂でお勤めを終えた後、日陰が欲しくなり方丈と庭園の拝観を願う。庭は京都の寺院のような雅さはなくどちらかといえば少々野暮ったいがかえってのんびりと座っていられる。涼しい縁側で何をするというでもなく庭を眺める。そうこうしているうちに法要が終了したので本堂の参拝をさせていただいた。

境内に戻り再び観音堂の方へ向かう。浄土宗の聖跡寺院だけあって散策するのもなかなか広い。奥の橋を渡ると勢至堂があり、その横に法然の産湯の井戸と伝えられるものがある。「生水なので煮沸して飲んでください」と注意書きがしてある。失礼ながら確かに一度沸騰させたほうがよさそうな水だ。
さらに白壁と石垣の小道を回りこむと、石段の上に六角堂がある。浄土院というらしい。法然の両親の菩提を弔うために出来たとあるが建物は最近のものだ。寺自体も誕生寺と直接関連はなさそうな様子だった。寺同士の少々複雑な関係がにおう。

誕生寺では練供養(ねりくよう)が行われているとのこと。二十五菩薩の仮面を被って歩く催事で当麻寺のものが全国的には有名だ。機会があれば是非拝見したいが供養は4月第3日曜日なので今年はもう無理だ。
さらにここには七不思議と呼ばれるものが伝わっている。浄土宗総本山の知恩院にも七不思議が伝わっている。浄土宗は七不思議が好きなのか。そう言えばお七も七だ。
ここでいただいたパンフレットには観音堂のことは一言も触れてない。ご本尊は観音さまではないとはいえ中国観音霊場の特別霊場なのに説明が一言もないことのは七不思議以上に不思議だ。このお寺にとって中国霊場などとるに足らないということか。

道の駅、久米の里

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○道の駅、久米の里 (平成16年7月24日)

後醍醐天皇のことを考えるとはなしに思い出しながら、津山に向かう途中、国道181号線にある道の駅「久米の里」に立ち寄る。寄り道ではなく単なる休憩だ。
ここでは広場に立つZガンダムの身長7mの巨大モビルスーツがひときわ目を引く。アニメの設定の1/3モデルだそうだ。ガンダム世代のお父さんもその子供も、またドライブ途中のカップルもモビルスーツの足元で記念写真を撮っている。知るひとぞ知る有名な写真スポットだ。何故ここにガンダムなのか。ニュータイプではないので知る由もない。
個人的には特産物販売所の仙人館のほうが気になる。特産物や販売所に興味があるわけでなく久米の仙人の話が気にかかるのだ。仙人館の名前はもちろん久米の仙人から付けられている。

昔、厳しい修行の末に飛行術を修めた久米の仙人と呼ばれる人がいた。ある日、空を飛んでいる最中に、川で洗濯をしている若い娘の腿が目に入り、むらむらと欲望がわいたため神通力を失って落ちてしまったという話が今昔物語に記されている。これが久米の仙人の話なのだが、その仙人の落ちたところがこの久米町だと説明してある。しかし一般的には、奈良県近鉄橿原神宮前駅に近い久米寺が舞台とされる。意外な場所に「逸話の本家はここだ」といった話が伝わっているのはなかなか興味深い。

久米という地名は、古代豪族久米氏に因んでいるのだろうか。領地や勢力範囲、一族の移り住んだ地など、全国各地にある。ここも古代久米一族がいたのか。
久米氏は九州の隼人出身とされ、大和時代の最大軍事氏族の一つ大伴氏と深いつながりがある。大和朝廷は吉備の国から中国山地を通って出雲の国を平定したという説があるが、その時の軍事行動との関連はどうだろう。しかし出雲、吉備、美作の地と大伴氏や久米氏との深いつながりを示すものはあまりなさそうだ。もう少し興味が湧けば調べてみたい。

古代久米氏と大伴氏の歌は天皇の兵としての参戦賛美や戦意高揚などに第二次大戦中使われた歴史がある。「撃ちてしやまむ」は有名な久米歌の一節で、「海ゆかば水漬く屍」は大伴家持の歌だ。しかしどちらも少し曲解されているように思われる。
「みつみつし 久米の子らが 粟生(あはふ)には 臭韮(かみら)一本(ひともと) そねが本 そね芽繋ぎて 撃ちてしやまむ」
(久米部の者たちの作っている粟畑には、臭気の強いニラが一本生えている。そいつの根と芽と一緒に引き抜くように、数珠繋ぎに敵を捕らえて、撃ち取ってしまうぞ)
これは久米歌の一つ。確かに勇猛果敢な戦士と宣言する面も持っているが、素直に読めばもっと素朴な印象を受ける。酒でも飲みながら宴会を盛り上げつつ景気付けに、我が氏族は勇猛果敢だぞ、と自慢しているような姿が想像されるのだ。

「海ゆかば水漬く屍、山ゆかば草むす屍、大君の辺にこそ死なめ、顧みはせじ。」
これも戦争を知る人たちには良い印象がないだろう。
家持の弁護をすると、必ずしも天皇に尽くすことだけを賛美して歌ったわけではない。
天平21年(749)、東大寺に国家威信で大仏を作り上げたものの、仕上げとして表面に塗る金に困っていた聖武天皇の元に陸奥の国で黄金が出て献上された。天皇は東大寺に行幸して黄金産出を大仏の前に報告したが、越中国司の家持もそれを喜んで「陸奥国より金を出せる詔書を賀(ほ)く」長歌を詠んだ。その長歌の後半部分の一節が問題の「海ゆかば」でお祝いの歌の一部分に過ぎない。ところで、この時の聖武天皇の感激は大変なもので、天平感宝と改元までしている。もっとも、この年の7月2日、聖武天皇は娘の阿倍内親王に譲位し孝謙天皇が新たに即位したため天平勝宝となり一年の間に二度も改元されている。

ガンダムに立ち寄ったせいで久米から大伴氏まで寄り道してしまった。モビルスーツなので軍事氏族の連想に発展してしまったのだろうか。

旧出雲街道

○旧出雲街道 (平成16年7月24日)

国道313号を走っていると「醍醐桜」の看板が目にとまる。落合町の山里に一本だけ聳える桜の巨木で町一番の観光名所と言って良いだろう。
日本の名木百選にも選ばれた桜で、目通り7.1m、根本周囲9.2m、枝張り東西南北20m、樹高18m、種類はアズマヒガン(ヒガンザクラの一種)で、昭和47年12月岡山県の天然記念物に指定されてると観光案内にある。

後醍醐天皇が隠岐配流される際この桜をご覧になり絶賛したとか、お手植えになったのだとか言い伝えられている。桜の花を愛でるのと植えるのではかなりの違いがあるが、樹齢についても一定せず文献では700年が主流のようだが地元の説では1000年とされていたりまちまちのようだ。後醍醐天皇が立ち寄ったとすると元弘2年(1332)なので、樹齢700年ならお手植えが可能だ。樹齢1000年だと花見ができる。どちらも可能性はあるということか。
大河ドラマのロケ地になったりして知名度が広まったため、花見の時期は観光客で大変らしい。道の状態とかは知っているので、どれ程の渋滞になるのか想像すると満開の醍醐桜を拝みに行くのもかなりの気合が必要そうだ。

中国山地のいわゆる旧出雲街道沿いは後醍醐天皇が隠岐に流される道中なので天皇にまつわる旧蹟が点在している。南北朝時代に興味がる人なら尋ねて回るとさぞかし楽しいだろう。
中国自動車道を津山に向かって走ると手前に院庄ICがありすぐ近くに作楽神社がある。
天皇は隠岐に向かう途中ここあった美作守護職の館に泊った。このとき天皇の奪回を目指し密かに列を追っていた児島高徳は遂にはこの安在所に忍び込むことに成功する。しかし、さすがに警護は厳重で残念ながら救い出すことは叶わない。そこで、天皇を慰めるため庭の桜に十字の詩を刻んだ。「天莫空勾践 時非無笵蠡」。いい話なのだろうが解読不能。内容も判らない。理解不能だったのは護送にあたっていた兵士も同様だったらしく、彫ってある詩の意味が判ったのは後醍醐帝だけだったと言う。現在は詩は桜の木でなく碑に刻まれている。
「天、匂践(こうせん)を空(むな)しうすること莫(なか)れ、時に范蠡(はんれい)無きにしも非(あら)ず。」と読むらしい。
中国春秋時代の呉王匂践と越王夫差の故事が基になっている。呉の王である匂践は越の王の夫差に敗れ捕らえられるが、後に部下の范蠡の助けによって越を破る。つまり「天皇は今は匂践のように捕らわれの身ですが、いずれこの高徳が范蠡のようにお助けし必ずや足利幕府を打ち倒します」という決意を伝えた詩なのだそうだ。
この逸話は太平記にあるらしい。天皇に仕える忠臣児島高徳として戦前は教科書にも載っていた有名な話ということだが時代が違うため全然知らない。
作楽神社自体は館跡に明治2年に創建されたもので決して古いものではない。明治に建てられているのも天皇集権を推し進める明治政府の方針を表している。

木山神社、奥宮

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○木山神社、奥宮 (平成16年7月24日)

寺の境内を散歩がてら木山神社の奥の宮を探す。大体神仏分離で分かれた神社と寺は隣り合うように建っているはずなのだが見つけられない。周囲を見回しても老杉に囲まれて見通しが良くない。
一度、鳥居前まで戻ってあたりを観察すると、どうやら寺と道を隔てて向かい合うあたりがそれらしい様子だ。
見当を付けて細い道を登りつめると社叢に囲まれた広い境内と堂々たる社が眼に飛び込んでくる。唐破風を見上げてしばらくじっと立ち止まる。実際かなり大きな建物なのだが周りに附属の建物がなくただ一棟聳えていのでさらに存在感がある。

神社で奥の宮と里宮の両方がある場合、下の社に比べて奥の宮はかなり規模が小さいのが一般的なので、これほどの威容を誇る社殿が山頂にあるとは思っても見なかった。
観光情報によると、本殿は天正5年の大火の後、天正8年(9年説あり)(1580)に再建されたもので県の重要文化財に指定されている。今更ながら昔日のこの木山の賑わいを想像させるに十分な堂々とした本殿だ。
主祭神は素戔嗚尊。神仏分離の際に木山寺にあった牛頭天王を迎えて神社となったことが良く判る。神道では牛頭天王は素戔嗚尊と同一視されてるからだ。

牛頭天王は京都の八坂神社に祀られている神様で悪疫を防ぐと言われる。祇園祭も元々は疾病の流行を封じるために始まった八坂神社の祭りだ。
牛頭天王が妃を娶るために龍宮へ旅をする途中のこと。ある村で一夜の宿を探したが裕福な巨旦将来は泊めることを拒否する。一方兄の蘇民将来は貧乏ながら丁重にもてなした。数年して帰る途中で村に立ち寄った牛頭天王は蘇民将来に家族子孫は目印として腰に茅の輪をつけておくよう伝える。その後疫病で兄の巨旦一家は全滅したが、茅の輪をつけていた蘇民一家は無事であったという。牛頭天王は怒らせると疫病を流行らせるが丁寧に祀れば病から守ってくれるというこの話から、病気封じに「蘇民将来子孫之門戸」の護符を家に張ったり、神社で「茅の輪」くぐりをする風習が出来た。
正体不明な旅人に親切にすると実は大変な貴人でといった良くあるパターンの伝説のひとつなので類話は多い。ストーリーも少しずつ違う。備後国風土記では神の名前は牛頭天王ではなく武塔神となっているが、ともかくその正体は速須佐男神(素戔嗚尊)だということになっている。

疫病避けの牛頭天王は時代が下るとその名前から牛馬家畜の守護ともみなされるようになる。
木山神社は牛馬守護で有名なだけあって下の里宮では珍しい牛の狛犬が迎えてくれたが、ここにもかたわらに小ぶりのかわいい牛の石像が佇んでいた。

後に地図で確認したところ、里宮は奥宮から東へ直線で約600mの麓にあり、そこから山道を1.5km程歩いて登ればここへ到着出来るようだ。車道は大きく南側へ回り込んでから登るため随分遠回りとなる。

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