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○神社紀行 日吉神社 (平成16年10月24日)
個人的には割りと平穏な平成16年10月24日、淀江の旧道をふらついて何となく日吉(ひよし)神社に参拝した。前は何度も通過したことがあったが足を踏み入れたのは初めてだ。有名な由来や縁起がないので興味がなかったのだ。今回も実は大して期待してなかったのだが、それは大きな間違いだった。
まず鳥居をくぐり広い境内を進んで行くと驚くべき光景に出会った。JR山陰本線が随身門の前を横切っているのだ。「とまれ」の標識があるだけで遮断器は当然ない。一応横断しやすいように線路の間に木が敷いてあるので踏み切りなのだろう。線路が敷地をここまで見事に通過している神社は見たことがない。境内で子供が遊んでいるが危険はないのだろうか。
線路を注意しながら横断しさらに進むと杜は急に深くなる。
ここは平安末期に比叡山延暦寺の領地として寄進されて以後、日吉大社の分社となったらしい。そのためだろうが寄進された石造のサルの神像がいくつある。風雨でかなり磨耗しているものもあるが古くても江戸時代か。それにしても狛犬のかわりにサルの像の置かれるところは多くないので珍しい。
延暦寺とサルの関連と言うと比叡山のドライブウエーなどにサルがよく出没するといったことではない。
元々延暦寺は伝教大師最澄が天台道場とした当初より滋賀県側の麓にある坂本の日吉神社の神宮寺的な位置付けを持って発している。延暦寺は日吉神社の神宮寺として、日吉神社は延暦寺の鎮守として双方が神仏混肴、お互い連携し合って発達した。比叡山という呼び方自体が既に日吉(ひえ)の社の山という意味を持っている。つまり延暦寺と日吉神社はセットになっているのだ。そのため延暦寺の荘園となった所には日吉神社が多く勧請されることになる。
混乱するので以後は坂本の総本山としての日吉神社はその別名である日吉山王という名称を使わせてもらい、ここ淀江は日吉神社と呼ぶことにする。
サルに戻ると日吉山王の神使はサル(申)とされているのでここの境内にサルの石造があるのだ。
石段を登ったところに荘厳な社が現れる。ここでは境内を貫く線路以上に驚いてしまった。想像していた以上の立派さ。大きな社殿が堂々と建っている。社を取り巻く苔むした境内など趣があり深い木立とよく調和している。大原三千院に似たところがあると言えば誇張しすぎだが、とにかく全体の印象はとても良い。まわりは住宅街とは思えない静けさと趣だ。
舞殿を兼ねたような拝殿の奥に本殿が建つ。大社造りとのことだが本殿の側面に扉らしきものが付けられているのが八幡造りを思い出させる。もちろん八幡造りは前殿と後殿を連結させているので全然違う。ここの横の扉らしきものはどのような役目なのだろうか。そう言えば東楽々福も同じ様な外観だった。
坂本の日吉山王は日吉造りと呼ばれる特殊な社の形態をしている。切り妻平入りの正面と両側面に庇を付けて背面には付けない。後側から見ないと入母屋造りの様に見える。しかしここでは日吉造りを採用していない。考えれば鳥居も日吉山王は山王鳥居という特殊な形をしているがここはごく一般的な明神鳥居だった。社殿を含めどこにも山王形式はない。もっとも日吉造りの建物はとても珍しいはずで日吉山王社以外に採用してる社は極端に少ないのかもしれない。
昨日新潟で巨大地震が発生した。震度6が3回という。情報が寸断されていてまだはっきりとしないようだが被害は甚大な様子だ。今年の集中的な台風の接近といい何か天変地異の前触れなのだろうか。鎮護国家、国家安泰とするのは大げさだが被災地の復興祈願も兼ねて参拝させてもらう。
境内向かって左の少し小高くなっているところへ伸びる小道がある。そこには崩れかけた小さな石製の祠がある。さらに小道を登ると一段高い場所にこちらは小さな方二間木造の切り妻妻入りの祠があり日御碕神社と読める。裏の地面には石棺の跡と思われる構造が見えている。古墳の頂上部に祠を建てたようだ。
今では海岸まで遠いがその昔はここから海がよく眺められたはずだ。淀江が潟湖を利用して栄えていたことを考えると港を見下ろし船からも良く見えるだろうこの地に航海安全の神を祀のは自然だ。古墳は有力豪族の墓なので崇拝対象となる事があり墳丘に神社が築かれるのもしばしば見られることだ。そうして出来た小社だろう。ただし当初から日御碕神社と呼ばれていたかどうかには疑問は残る。
どうやら先ほどの石の祠は天之佐奈[口羊]神(アメノサナメ)を祀るサナメ社と思われる。未発掘古墳とされているようだがあるいは磐座か祭祀のための場所のようにも見える。日御碕神社が建つている古墳の前方部としては場所が少し離れすぎているので別の古墳だろうか。
サナメ神については良く知らない。由来書によれば海の神らしいが他では見かけない。社伝いわく三代実録の清和天皇の条に従五位下を授けられた記録があるという。
どうやらこの神社の起源は日御碕神社の建つ古墳かサナメ社であることは間違いないようだ。
領地を延暦寺に寄進して日吉神社を勧請する時にそれまでこの地の有力祭祀場であったここに新しい本殿を建てて従来の社を摂社としたと想像できる。
現在は主祭神は大己貴命、少彦名命、猿田彦命、天之佐奈[口羊]神とのこと。大己貴命とはもちろん大国主命のことだ。日吉神社となったときに大己貴命が主祭神として迎えられたのだろう。
大己貴命が主祭神となっているのはもちろん総本山の日吉山王にあやかっている。日吉山には西宮と東宮がありそれぞれ西本宮は大己貴神、東本宮は大山咋神を主祭神とする。元々は大山咋神を祀っていたものに大神神社(おおみわ)より大己貴神を勧請したものとされる。大神神社の主祭神は大物主大神で一応は大国主命の幸魂、奇魂とされている。日吉山王が形成される点にもいろいろ興味深い経緯があって面白い。
日吉山王のもう一柱の主祭神大山咋神は何故ここに勧請されなかったのだろう。出雲文化圏の属するこのあたりでは大国主命は馴染みが深く祭神としても抵抗はなかったこと想像できる。それに比べて大山咋神はあまり身近でなかったということか。
日吉、日吉と考えていたらふと気がついた。ここ淀江の隣に日吉津と言う村がある。古来港を何々の津という。日吉津は文字からは日吉の津で日吉の港を意味するのか。そうするとかなり広い一帯を日吉神社は影響下に置いていたことになる。この説は正しいのやらどうやら。
参拝客もなくひっそりとした境内をのんびり散策しながらもっと知られて観光スポットになっても悪くないと感じた。規模は充分な神社なのに無名なのは社殿が昭和元年の再建と新しいからだろうか。延暦寺との関連や古墳などから創建自体はかなり古いと思われるので知名度が低いのは残念だ。劇的な由来がないのも歴史ファンの足を向けさせるには少し弱い。華麗な「よいとまかせ」と呼ばれる神事があるそうだが観光のてこ入れになっていない。
個人的には興味尽きない神社だった。
注)[口羊](口偏に羊)
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