同行二輪

いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

宍道湖中海巡礼記2004

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 前のページ | 次のページ ]

日吉神社

イメージ 1

○神社紀行 日吉神社 (平成16年10月24日)

個人的には割りと平穏な平成16年10月24日、淀江の旧道をふらついて何となく日吉(ひよし)神社に参拝した。前は何度も通過したことがあったが足を踏み入れたのは初めてだ。有名な由来や縁起がないので興味がなかったのだ。今回も実は大して期待してなかったのだが、それは大きな間違いだった。

まず鳥居をくぐり広い境内を進んで行くと驚くべき光景に出会った。JR山陰本線が随身門の前を横切っているのだ。「とまれ」の標識があるだけで遮断器は当然ない。一応横断しやすいように線路の間に木が敷いてあるので踏み切りなのだろう。線路が敷地をここまで見事に通過している神社は見たことがない。境内で子供が遊んでいるが危険はないのだろうか。
線路を注意しながら横断しさらに進むと杜は急に深くなる。

ここは平安末期に比叡山延暦寺の領地として寄進されて以後、日吉大社の分社となったらしい。そのためだろうが寄進された石造のサルの神像がいくつある。風雨でかなり磨耗しているものもあるが古くても江戸時代か。それにしても狛犬のかわりにサルの像の置かれるところは多くないので珍しい。

延暦寺とサルの関連と言うと比叡山のドライブウエーなどにサルがよく出没するといったことではない。
元々延暦寺は伝教大師最澄が天台道場とした当初より滋賀県側の麓にある坂本の日吉神社の神宮寺的な位置付けを持って発している。延暦寺は日吉神社の神宮寺として、日吉神社は延暦寺の鎮守として双方が神仏混肴、お互い連携し合って発達した。比叡山という呼び方自体が既に日吉(ひえ)の社の山という意味を持っている。つまり延暦寺と日吉神社はセットになっているのだ。そのため延暦寺の荘園となった所には日吉神社が多く勧請されることになる。
混乱するので以後は坂本の総本山としての日吉神社はその別名である日吉山王という名称を使わせてもらい、ここ淀江は日吉神社と呼ぶことにする。

サルに戻ると日吉山王の神使はサル(申)とされているのでここの境内にサルの石造があるのだ。

石段を登ったところに荘厳な社が現れる。ここでは境内を貫く線路以上に驚いてしまった。想像していた以上の立派さ。大きな社殿が堂々と建っている。社を取り巻く苔むした境内など趣があり深い木立とよく調和している。大原三千院に似たところがあると言えば誇張しすぎだが、とにかく全体の印象はとても良い。まわりは住宅街とは思えない静けさと趣だ。

舞殿を兼ねたような拝殿の奥に本殿が建つ。大社造りとのことだが本殿の側面に扉らしきものが付けられているのが八幡造りを思い出させる。もちろん八幡造りは前殿と後殿を連結させているので全然違う。ここの横の扉らしきものはどのような役目なのだろうか。そう言えば東楽々福も同じ様な外観だった。
坂本の日吉山王は日吉造りと呼ばれる特殊な社の形態をしている。切り妻平入りの正面と両側面に庇を付けて背面には付けない。後側から見ないと入母屋造りの様に見える。しかしここでは日吉造りを採用していない。考えれば鳥居も日吉山王は山王鳥居という特殊な形をしているがここはごく一般的な明神鳥居だった。社殿を含めどこにも山王形式はない。もっとも日吉造りの建物はとても珍しいはずで日吉山王社以外に採用してる社は極端に少ないのかもしれない。

昨日新潟で巨大地震が発生した。震度6が3回という。情報が寸断されていてまだはっきりとしないようだが被害は甚大な様子だ。今年の集中的な台風の接近といい何か天変地異の前触れなのだろうか。鎮護国家、国家安泰とするのは大げさだが被災地の復興祈願も兼ねて参拝させてもらう。

境内向かって左の少し小高くなっているところへ伸びる小道がある。そこには崩れかけた小さな石製の祠がある。さらに小道を登ると一段高い場所にこちらは小さな方二間木造の切り妻妻入りの祠があり日御碕神社と読める。裏の地面には石棺の跡と思われる構造が見えている。古墳の頂上部に祠を建てたようだ。
今では海岸まで遠いがその昔はここから海がよく眺められたはずだ。淀江が潟湖を利用して栄えていたことを考えると港を見下ろし船からも良く見えるだろうこの地に航海安全の神を祀のは自然だ。古墳は有力豪族の墓なので崇拝対象となる事があり墳丘に神社が築かれるのもしばしば見られることだ。そうして出来た小社だろう。ただし当初から日御碕神社と呼ばれていたかどうかには疑問は残る。

どうやら先ほどの石の祠は天之佐奈[口羊]神(アメノサナメ)を祀るサナメ社と思われる。未発掘古墳とされているようだがあるいは磐座か祭祀のための場所のようにも見える。日御碕神社が建つている古墳の前方部としては場所が少し離れすぎているので別の古墳だろうか。
サナメ神については良く知らない。由来書によれば海の神らしいが他では見かけない。社伝いわく三代実録の清和天皇の条に従五位下を授けられた記録があるという。
どうやらこの神社の起源は日御碕神社の建つ古墳かサナメ社であることは間違いないようだ。

領地を延暦寺に寄進して日吉神社を勧請する時にそれまでこの地の有力祭祀場であったここに新しい本殿を建てて従来の社を摂社としたと想像できる。
現在は主祭神は大己貴命、少彦名命、猿田彦命、天之佐奈[口羊]神とのこと。大己貴命とはもちろん大国主命のことだ。日吉神社となったときに大己貴命が主祭神として迎えられたのだろう。
大己貴命が主祭神となっているのはもちろん総本山の日吉山王にあやかっている。日吉山には西宮と東宮がありそれぞれ西本宮は大己貴神、東本宮は大山咋神を主祭神とする。元々は大山咋神を祀っていたものに大神神社(おおみわ)より大己貴神を勧請したものとされる。大神神社の主祭神は大物主大神で一応は大国主命の幸魂、奇魂とされている。日吉山王が形成される点にもいろいろ興味深い経緯があって面白い。

日吉山王のもう一柱の主祭神大山咋神は何故ここに勧請されなかったのだろう。出雲文化圏の属するこのあたりでは大国主命は馴染みが深く祭神としても抵抗はなかったこと想像できる。それに比べて大山咋神はあまり身近でなかったということか。

日吉、日吉と考えていたらふと気がついた。ここ淀江の隣に日吉津と言う村がある。古来港を何々の津という。日吉津は文字からは日吉の津で日吉の港を意味するのか。そうするとかなり広い一帯を日吉神社は影響下に置いていたことになる。この説は正しいのやらどうやら。

参拝客もなくひっそりとした境内をのんびり散策しながらもっと知られて観光スポットになっても悪くないと感じた。規模は充分な神社なのに無名なのは社殿が昭和元年の再建と新しいからだろうか。延暦寺との関連や古墳などから創建自体はかなり古いと思われるので知名度が低いのは残念だ。劇的な由来がないのも歴史ファンの足を向けさせるには少し弱い。華麗な「よいとまかせ」と呼ばれる神事があるそうだが観光のてこ入れになっていない。

個人的には興味尽きない神社だった。

注)[口羊](口偏に羊)

菅福神社

イメージ 1

○日野川沿いに孝霊天皇伝説をめぐる その2 菅福神社 (平成16年10月23日)

東西楽々福神社に来る前に通り過ぎているはずなのだが場所が判らない。目印も看板もないのだ。地図と見比べてやっと探し出した。
国道180号線の生山と黒坂のほぼ中間、JR伯備線上菅駅より東へ約1kmほど行ったところに石垣の切れ目から参道が始まる。駐車場はない。とても判りにくい。目印がないので土地鑑がないと地元の人に尋ねるしかないだろう。

田圃の畦道のような参道を進み少々くたびれた石段を登ると神社がある。
日野川沿いに建つ一間四方の小さなかわいい社だ。別名を高宮神社、または上菅の楽々福神社とも呼ばれる。鳥居の横に高宮神社の看板が折れてうち捨てられたように横になっている。近隣の鎮守としてしか知られていないことの証拠だろう。補修もままならないようだ。鳥居は新しかった。

JR伯備線は生山駅から南に県道8号新見日南線に沿って中国山地に入る。その東西に大倉山と鬼林山が聳える。大倉山は牛鬼山とも呼ばれて鬼林山と共に鬼の住みかとされた。
孝霊天皇が牛鬼山と鬼林山の鬼退治に行くときに皇后細姫の陣痛が始まり福姫を産んだのがここ菅福だという。菅福(すげふく)の名前は河原の大岩に菅の葉を敷いた、つまり「菅を葺く」ことに由来すると言い伝えられる。ここらあたりは上菅(かみすげ)、下菅(しもすげ)、菅沢(すげさわ)など菅の字の付く地名が多くその地名説話ともなっている。

福姫の登場は伝説にさらなる混乱をもたらす。生まれはここではなくもう少し奥の生山であるという説がある。それが生山という地名説話になっているのだが、問題なのはどこで生まれたかではなく人物関係だ。
東楽々福の縁起書によれば福姫は彦狭島命の母と伝えられている。彦狭島命は歯黒皇子のとことされるので、そうなると歯黒皇子は孝霊天皇の皇子ではなく孫になってしまう。このあたりは後から何とか記紀とつながりをつけようとしてかえって収集がつかなくなってしまったことを疑わせて面白い。

楽々福をめぐってきたが「ささふく」という言葉は「すげふく」からの転音の可能性がありそうだ。
神社の創建、ささふくという言葉の起源、楽々福の文字の由来、孝霊天皇や鬼の伝承など、どの様に発生したのか解けない謎は多いがその分勝手な空想をめぐらす余地があって興味は尽きない。

神宮寺

○日野川沿いに孝霊天皇伝説をめぐる その2 神宮寺 (平成16年10月17日)

道路にも看板があったように西楽々福神社に接してお寺がある。これがどうやら神宮寺らしい。文字通り楽々福の神宮寺として創建されたものとして間違いないだろう。部落の菩提寺になっているようだ。気楽に話を聞けるような開放的な観光寺の雰囲気はない。この寺に関して特に情報もないこともありながめただけで退散した。
孝霊天皇伝説創作者はこの寺の住職の可能性もある。創建は何時なのだろうか。

孝霊天皇と鬼退治伝説は単なる天皇巡幸説話の一つにすぎないのだがその背景には日本海を通じた古代文化交流がうかがえる。
孝霊山は別名「からやま(高麗山、瓦山)」ともいい、もう一つ別の話が伝わっている。
その昔、朝鮮の神が半島から日本の山と背比べをするため持ってきたが、雲間から勇姿を現した大山の高さに驚き置いて逃げたという。韓国(からのくに)から来た山なのでからやまと呼ぶ。少し国引き神話を思い出させるが類話はよくある地名説話だ。山の大きさ比べの話も各地に多い。

この昔話が元にあり「こうらいさん」とも呼ばれていた高麗山が「こうれいさん」となって孝霊天皇と結びつけたと推測できる。孝霊天皇の話から逆に高麗山の名前が付いたとは考え難い。
孝霊天皇は実在の天皇とは考えられていない。たとえモデルがいたとしても孝霊天皇という呼び方は平安以降のことになる。記紀によれば大日本根子彦太瓊命(おおやまとねこひこふとまにのみこと)というのが正式な呼び名だ。現在通常使う漢字二文字の天皇号は漢風諡号といい死後に送られる。そしてこの漢風諡号は初代から奈良時代の称徳天皇までは勅を受けた淡海三船が一括して付けたとされる。つまり天皇が巡幸していてもその当時孝霊天皇とは呼ばれていないのだ。孝霊天皇と称されるのは随分と後になる。

孝霊山の麓の淀江周辺は古代弥生時代から白鳳時代まで栄えた跡が点在する。以前探して場所の確認が出来なかったが宮内古墳群、そして日本最大規模とされる弥生集落の妻木晩田遺跡。ちなみにこの妻木の地名は孝霊天皇伝説のあの朝妻が住んでいた妻木だ。
向山古墳群からは日本で二体しか見つかっていない石馬の一つが出ているし、法隆寺と同時代とされる彩色壁画の断片が見つかった上淀廃寺跡もある。
古代日野川の河口は淀江近辺にあったらしく長く伸びた砂丘が砂嘴となって、孝霊山の麓に大きな入江となった潟湖を形成していたと考えられている。淀江の呼び名からも湾となった地形がうかがえる。そして潟を取り囲むように多くの古墳群が点在している。
森浩一氏によれば潟湖は自然の良好な港として使われ古代には交易の場となり河口に広がる豊な堆積地は農耕の場となりその地域の政治、経済文化などの拠点となっていたという。そのような地点として淀江も想定されている。

古代日本海側は朝鮮半島との交流で高度な中国文明を取り入れていた。海を越えてやって来るとき大山を目印にするとちょうどその麓の良港が淀江の立地になる。
朝鮮半島から渡ってきた渡来人が住み着いたところから高麗山(からやま)と呼ばれるようになったと考えるのが自然だろう。大陸文化の影響を強く受けている遺物とされる石馬が出土していることもそれを裏付ける。

伝説の孝霊天皇とは違うが、5世紀中ごろ倭の五王の一人とされる允恭天皇は雄朝津間種子宿禰(おあさつまわくごのすくね)という。朝津間は朝妻で、大和盆地の葛城にある地名らしい。また雄略天皇の妃となった葛城臣円の娘は韓姫(からひめ)だ。朝妻も韓(高麗)も葛城を連想させる。そして葛城襲津彦は朝鮮半島との関連が強い。
ひょっとすると淀江周辺には古代豪族葛城氏と何らかの関連をった勢力があり、天皇巡幸や鬼退治はもともと葛城氏の伝説だったが、雄略朝に葛城宗家が滅亡して衰退したため、いつの間にか高麗と読み方の音が似ている孝霊天皇の話にすりかわったのかも、などと想像はとりとめもなく広がって行く。

楽々福神社西宮

イメージ 1

○日野川沿いに孝霊天皇伝説をめぐる その2 楽々福神社西宮 (平成16年10月17日)

東宮から国道183号を進み橋を渡ると西楽々福神社の票が右手にあるが少し注意しなければ見過ごしてしまう。実際行過ぎてバックした。それよりも電柱のある神宮寺の看板のほうが車で通る時はよく見える。

国道から真っ直ぐに集落の生活道路と兼用の参道が伸びている。途中に日野川の支流を渡るが川底はかなり下だ。橋の端に生活用水の水路があり水が流れている。周囲の田圃へも下の川からは水を引けないのでかなり上流から水を引かなければならない。昔は川底が低いので水の確保が大変だったろう。

大きな玉を抱えた狛犬がかわいい。社は東に比べてとても規模が小さいがそれでも村の鎮守としては立派過ぎる。正面から拝殿だけを眺めると古ぼけた公民館のようでかなり見劣りがするのだが本殿はしっかりしている。
ここは社に由来書も説明板もない。少し手をかけて欲しいものだ。
本殿は方3間の入母屋で拝殿に向け唐破風を付ける。木鼻と蟇股の彫刻が美しい。意匠が凝らされている。小さいながらも華麗な印象は主祭神の細姫を祀るのにふさわしく感じられる。

ここでも台風の被害が痛々しい。桧皮葺の屋根が一部飛んでるのだ。周囲は人影もなく東宮以上に社の周囲は風で落とされた杉の枝で敷き詰められて鬱蒼としている。
ここの後方の山を崩御山と呼び細姫の陵墓とされ、頂上には石が積み上げられていて近寄ると良くないことがあると言い伝えられる。登ってもいいのだが道はどこを行けばいいのか判らない。後で調べたが国土地理院の2万5千分の一地形図でもどの山なのか判らなかった。もっとも周辺のどの山へも頂上に続く道は載っていないのできちんとした参道はなさそうだ。

日野の楽々福神社では溝口の楽々福で主役だった朝妻や鶯王の影が全くない。朝妻も鶯王も記紀には登場せずここより他では名前が見当たらない。地方のほのぼのとした神話だ。ところがここでは急に記紀と関連付けようとする作為が見られる。
皇后の細姫、皇子の彦狭島命は記紀に正式に記載されている。東社は若建吉備津彦命、西社は大吉備津彦命を祀るともされるがこの両者も孝霊天皇の皇子として載っている。
一方で東楽々福の由来書では歯黒皇子はこの後備中の石蟹魁荒仁(いしがにたけるこうじん)率いる賊を退治したり出雲振根を倒したとされる。これは崇神天皇の条の吉備津彦の吉備平定と出雲振根の討伐をそのまま流用したものだ。鬼退治といえば桃太郎が最も有名だが、これは記紀の吉備津彦の吉備への派遣が話の元とされている。鬼退治といえば吉備津彦なので楽々福の鬼退治伝説を積極的に吉備津彦と結び付け重ね合わせようとしたことが判る。

ただ記紀系譜を改めて眺めて見ると楽々福伝説はかなり人物関係の混乱があるようだ。少し整理してみた。
伝説の歯黒皇子は彦狭島命のこととされている。歯黒皇子の母は皇后の細姫と伝えられるが、彦狭島命の母は妃の[糸亙]某弟(はえいろど)(糸偏に瓦あるいは旦という字)だ。
また吉備と出雲振根の話の主人公は彦狭島命ではなく吉備津彦で大吉備津彦命のことだ。彼の母は倭国香媛(やまとのくにかひめ)、またの名を[糸亙]某姉(はえいろね)とされる。母も[糸亙]某弟(はえいろど)ではない。つまり歯黒皇子ではないことになる。
直接の関連はないが細姫の生んだ皇子の一人は次の天皇である孝元天皇となる。

人物関連に大混乱を呈しているがとにか記紀と関連があるように装おうとしている。それとは対照的に文献と全く関係なく登場する朝妻のロマンスがらみの話はその発生が少し違う気がする。
朝妻の話はよくある玉の輿の民話が山の名前から孝霊天皇と結びついて出来たもの。鬼退治は元からあった話に主人公の英雄として孝霊天皇とその皇子たちを使って整えられたもの。それは孝霊天皇の皇子吉備津彦が鬼退治として有名なために採用された。初めに朝妻の話が既に出来ていてこの地に孝霊天皇が巡幸されたという説話があったため鬼退治の主人公を吉備津彦とせずにその父の孝霊天皇で話を作り上げた。案外こんなところだろう。

話を創作したのは記紀を知るかなりの知識人。多分神主ではないだろうか。いずれにせよ知識階級とはいえ記紀が一般に知れれるようになるのはかなり時代が下ってからなので話が完成したのはそんなに古い時代ではないだろう。

「ささふく」という言葉ははたたら製鉄と関係するらしい。伯耆を含め古代出雲は鉄の国などと言われることがあるがこの近辺の中国山地が産鉄で知られるようになるのはずっと後になってからで鎌倉以後、特に江戸時代からになる。それはたたら製鉄に詳しく教科書とも呼べる鉄山必用記事、通称「鉄山秘書」が1800年前後に江府町の鉄山師、下原重仲によって書かれていることから推測できる。「ささふく」がたたらからきた言葉なら製鉄の隆盛と無関係とは考えにくい。そうすると孝霊天皇の鬼退治伝説が整ったのは江戸時代ではないだろうか。

縁起では孝霊天皇は幼少時に楽々清有彦(ささきよありひこ)命と呼ばれたとされ、これを楽々福の名前の由来としているがこの説はかなり苦しい。楽々福の名前から幼名を作り出した感じがする。
いずれにせよ楽々福と書いて「ささふく」と読ませる理由は全く不明だ。

注)[糸亙]は糸偏に瓦あるいは旦という字。

楽々福神社東宮

イメージ 1

○日野川沿いに孝霊天皇伝説をめぐる その2 楽々福神社東宮 (平成16年10月23日)

平成16年10月23日、長楽寺からさらに川上に向かって国道を遡って行く。生山から183号線に入り7kmほど走ると道の左に東楽々福神社の標識があり判りやすい。ここには日野川を挟んで二つの社がありこちらを東宮として数百メートル上流の対岸が西宮になる。東西を合わせて奥日野大社とも呼び溝口の楽々福を口日野大社とも呼ぶのに対応している。
社は山へ向かい少し登ったところに老杉に囲まれて建っていた。

孝霊天皇の鬼退治はここでも続く。奥日野楽々福神社の東にJR伯備線を挟んで鬼林山と大倉山があるがここも鬼の住処だった。大倉山は別名牛鬼山とも呼ぶ。伯耆国の中国山地は大勢の鬼が跋扈していたようだ。
鬼住山の鬼を退治した後さらに大倉と鬼林山の征伐にやって来た。今回の総大将は歯黒皇子。この皇子は懐胎3年3ヶ月でようやく誕生し、生まれたときには既に歯が生えそろい髪も長く不適な面構えだったと言う。正しくは彦狭島(ひこさしま)命だが生まれたときに歯が黒々と生えていたので歯黒皇子と呼ばれたとされる。母は皇后の細姫(くわしひめ)。
この異状出生は弁慶の誕生譚とよく似ている。弁慶も懐胎3年とも18ヶ月ともいい、生まれたときは2-3歳の子供くらいで髪は長く歯は全て生え揃っていたという。こういう出生は豪腕の英雄逸話にふさわしいのだろう。孝霊天皇の伝説がいつ出来たか考える上で参考になるかもしれない。
この皇子が鬼を退治した後、孝霊天皇は行宮と皇后の行宮を造った。こちらの楽々福東宮が行宮跡で皇后行宮跡がもう一つの楽々福神社西宮であるという。歯黒皇子はこの後四国へ遠征に出かけたともされる。なかなか忙しい皇子だ。

あまり関係はないが歯が黒いというのはお歯黒からくるイメージではないだろうか。
お歯黒は江戸時代以降は既婚女性の化粧の一つであったが元々は公家の風習で男女とも行っている。戦国時代までは武士でも血筋を強調する者は行っていたようだ。桶狭間で織田信長に敗れた今川義元はお歯黒をしていて貴族趣味の軟弱者に描かれることがあるが彼はお歯黒をしても良い位の家柄だったことの表れだ。
また、源平の合戦で和歌をたしなみ文武両道に長けた武将として知られる平忠度(ただのり)、都落ちの時の藤原俊成へ和歌を託すエピソードが有名だ。平家物語によれば彼は一ノ谷合戦で敵勢に囲まれた際、源氏のふりをして逃げようとしたがお歯黒をしていたため平氏だと見抜かれて討たれた。このことからも東国の田舎武士の源氏方はお歯黒をせずに貴族社会で暮らす平氏にはお歯黒をしている武士が沢山いたことがよく判る。
歯が黒いということで貴人であることと既に成人したほどの逞しさということを歯黒皇子という名前は表していると考えてはいけないだろうか。ちなみにお歯黒は実用的には虫歯予防になっていたのではないかという説がある。

境内は一段高くなっていて広い。本来瑞垣で囲まれていたと思われる境内周囲も広々とした空間になっている。左右に塀もなく随身門だけが建っているのが何となく妙だ。
先日の10月20日に通過し円山川を決壊させ豊岡を水没させた台風23号の影響で境内は一面杉の枝が風で吹き落とされて全面が覆われている。どこかに退治された鬼の墓とされる鬼塚があるらしいのだが足の踏み場もなく探索する気が起きない。鬼塚とは古墳の開口石室らしい。神社の起源はその古墳にありそうだ。

拝殿では何故か雅楽が流れている。本殿は二間三間で切り妻、妻入り。側面の前に扉が付いている。ここが出入り口なのだろうか。大社造りとのことだが階は正面に付いてる。堂々とした建物で村の氏神の規模ではない。
東宮は若建吉備津彦命、西宮は大吉備津彦命を祀るとの説もある。隣接する摂社の若宮神社が若建吉備津彦命を祀ったものであろう。

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 前のページ | 次のページ ]


.
同行二輪
同行二輪
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
コンタクトレンズで遠近両用?
「2WEEKメニコンプレミオ遠近両用」
無料モニター募集中!
話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン
ふるさと納税サイト『さとふる』
お米、お肉などの好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事