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いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

宍道湖中海巡礼記2005

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○鉄の道を往く その2 羽内谷鉱山鉄穴流し本場 (平成17年9月23日)

以前から気になっていたことがある。古代より中国山地はたたら製鉄で栄え出雲は鉄の豊富な産地とされている。記紀神話の出雲の国譲りは大和朝廷が出雲地方を制圧した話とされているが、それは単なる政治的な覇権争いではなく背景には大和が鉄を押さえたかった事情があるという説もある。古代史では「出雲、たたら、鉄」という言葉は切っても切れない関係で語られることが多い。
しかし、果たして本当に古代出雲は鉄の国だったのだろうか。先日、安綱伝承地に出会ってから、一度鉄を巡って考えてみたくなった。

残暑のまだまだ厳しい平成17年9月23日、奥出雲へ向かう。比婆山を探した御墓山(平成17年8月6日)へのルートを再びなぞる。県道9号安来伯太日南線へ入った後、御墓山へ向かわずに県道108号印賀横田線で横田(よこた)を目指す。

途中、鳥取と島根の県境にある船通山(せんつうざん)の麓を通る。この山は素戔嗚尊(すさのおのみこと)が下界へ追放になったとき降り立ったところとされる。更に、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したときその尾から天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が出現した地とも伝えられる。いわば出雲と鉄を結びつける最初の場所といえる。船通山はハイキング登山に最適なのだが無論今回は登る予定はない。

峠を下ってゆくと右手に羽内谷鉄穴流し(はないだにかんなながし)の看板が出る。谷に向かって数十メートルの場所に駐車のための空き地がある。
たたら製鉄の原料の砂鉄状の鉄を精製するのが鉄穴流し。ここは日本で唯一保存されている鉄穴流しの施設で、いつでも再開できるようになっているという。そのため鉄穴流しを行う全体かと思っていたがどうやら少し違うようだ。ここは最後の精選を行う本場というものらしい。約1Km上流で山土を崩して谷へ流し込み谷川を流れた土砂がこの本場へ流れ着いて、ここで砂鉄精選をするのだと説明版に書かれている。

小さな谷川が流れ、そのそばにそこらの道路の側溝より多少広い樋状の流水路とわずかな水の溜まり場が何段かあるだけだ。看板がなければ小川に沿って造られた用水路と思ってしまう。昭和47年に廃止されるまで一日1-4tの砂鉄を採取していたとあるが、こんな流れと構造でそんなに取れるのものだろうか。信じ難いが事実なのだろう。
鉄穴流しでは山の土砂に含まれる微量の鉄鉱石を分離し砂鉄を得るので大量の山土を流す必要があり、鉄穴流しが行われた河川の下流は土砂の堆積が大変であったとされる。そのため鉄穴流しを禁止する通達が何度も出されたということなので、もっと大掛かりな流水規模とため池を想像していた。
最終工程の本場ではこの程度の施設でよかったというのは本当に意外だった。

一人おじさんが一生懸命水路を掃除している。
「明日、中央から誰だかえらい人が見学にくるらしいので掃除してるんですわ。」
文化財と言っても町指定なので予算がない。それでも文化財ということで時々役人が視察や見学に来るので、こうやって時々たまった泥や落ち葉を掃除しなければならないのだと言う。どう答えていいのか分からなかった。少なくとも、自主的にこんな辺鄙な無名の文化財を見学に来た中年男に対しては少し好意的な印象を持ったように見受けられた。

山狭神社

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○神社紀行 山狭神社

平成17年9月3日、曇り空の中、安来市の南、広瀬町へ向かう。県道45号安来木次線を更に1kmほど南へ向かうと道沿い左手に鳥居が見える。

この山狭神社は以前は熊野神社と呼ばれたとどこかで目にしたので、伊邪那美命との関連で何か興味深い由来でもあるのかとやって来た。

鳥居から石の階段を上り真っ直ぐに参道が続く。両側は小高い木々で日の光が遮られ、左右は田圃と道が迫っているのだが山の中に入り込んだ気にさせられる。社叢は古そうで参道も整備され立派。由緒ありそうな雰囲気が漂いかなり期待して拝殿までたどり着く。古くはないがこれまた華麗な装飾を施された唐破風だ。何かいわれのある神社ではないかと、ますます期待感が高まる。ところが周囲を見回しても何の説明もない。

手持ちの文化財紹介などの本にもこの神社は載っていないので現地へ来ても伝説などの由来がわからないという不安はあったがそれが的中したようだ。気ままな行き当たりばったりではこんなこともあるよくある。いわゆるハズレなのだがそれもまた悪くない。
ともかく、説明書きが何もない以上、ここで得られる情報はなかった。さすがに想像たくましく長居をしようにも、今のところ思い浮かぶことが全くない。

一つの神社参拝を行ったということで後にした。ただ、小さな集落の神社にしては立派だ。
そろそろ稲刈りが始まりつつある。

大山神門

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○文化財点描(5) 大山神門 (平成17年8月27日)
ショートツーリングで大山(だいせん)を抜け、関金(せきがね)の町に入ったところで県道50号東伯関金線へ左折する。1kmほどで県立農業大学校が左手に見えてくる。このあたりの地名は大鳥居というので絶対にここらにあるはずだがはっきりした位置が分からない。訪ねようにもあたりに人影がない。
いつものように道を行ったり来たり。うろうろしてようやく目的の場所を見つけた。農業大学校の前を西へ数百メートル進んだ農地に囲まれた一角にぽつんとある。

以前(平成15年10月11日)に大山神門を訪れたが、ここは大智明権現(だいちみょうごんげん)と呼ばれた大山の東の遥拝所にあたる東大山鳥居。神門は東西南北にあったとされるが現在何とか残っているのは蒜山の南とここ東の鳥居のみだ。
今ではぱっとしない大山も、その昔は周辺に絶大な信仰を誇っていたことがわかる。

周囲には目立ったものはなく畑と田圃が広がる。境内らしくなく、道端の空き地に作られたごく小さな公園といった様子だ。鳥居と数本の若い杉の木、石灯籠、石柱、祠などがあるだけで社殿と呼べるようなものもない。石柱を除いては全て新しい。祠も風雨で痛んでいるが古いものではなさそうだ。近くにあった大山神門と関連したものをここに集めたもののようだ。

大山鳥居神社、大祇山神社遥拝所と彫られた碑が立つ。遥拝の鳥居がありそれが神社へと発展したものだろう。

ここで一番目立つのは鳥居だ。それ程巨大ではないのだが何しろその他に大きな構造物がないので目立つ。鳥居そのものが神社の本体なので当然といえば当然なのだが。
あくまで遥拝所なので鳥居の奥に社殿はない。扁額も道から見ると裏で、境内のようになっている社地に向かってではなく、反対の大山に向かうように付いている。大山を御神体とするかあるいは大山寺(だいせんじ)を本殿とみなしているのだ。扁額には大祇山神社とある。隣の石塔には大山大権現の文字、これは大山大智明権現のことだろう。
小さな祠がありそれが大山鳥居神社だ。多分ここはその境内ということになるのだろう。祭神は大己貴命、大山津見命(大山祇神)、須佐之雄命(素戔嗚尊)、少名毘古那命(少彦名命)の四柱とある。しかし、元々は遥拝のための鳥居自体を御神体とした神社だと思われる。

ところで、扁額に書かれた「大祇山」神社の文字を「大山祇」と勘違いし、古くは大山大智明権現が大山祇神(おおやまずみのかみ)と同一視されたことがあるのかと少し悩んでしまった。そんな話を聞いたことがないからだ。文字が似ているのうえに、大山鳥居神社に大山津見命(大山祇神)と須佐之雄命(素戔嗚尊)(すさのおのみこと)が祀ってあるのも手伝って大祇山を大山祇と何の抵抗もなく読んでしまったのだ。
八岐大蛇(やまたのおろち)から素戔嗚尊が助け結婚した奇稲田姫命(くしなだひめ)の両親である足名椎神(あしなづち)、手名椎神(てなづち)は大山祇神の子ということになっている。つまり、大山祇神の孫娘の婿が素戔嗚尊という関係だ。その二柱が大山鳥居神社の祭神になっている。しかも、大山祇神の大山祇とは「大きな山に住む」の意味だとされていることなどから、簡単に大祇山を大山祇と間違えたのだ。これは仕方がないだろう。一応、自分自身に弁解する。
もちろん大祇山は「おおがみやま(おおかみやま)」と読むのが正解と考えられる。どこにも振り仮名は書かれてないが大山寺にある大智明権現の社が明治の神仏分離以後は大神山神社(おおがみやま)の奥の宮となっていることからまず間違いないだろう。もちろん、それ以前は大智明権現の扁額だったと思われる。

家を出た時は青空だったが今はすっかり雲って大山が見えない。しかし、晴れていても鳥居正面には大山なさそうだ。説明板によるとここは移転した場所だとのこと。元あった場所でも正面に大山が望めない角度で鳥居が立っていたのだろうか。それで遥拝所として役に立つのか。何となく釈然としない。

空模様が急速に怪しくなってきたので急いで帰路に着く。

山郷神社

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○南総里見八犬伝 山郷神社(平成17年8月27日)

他に南総里見八犬伝との関わりについて書かれたものがないか見渡しながら里見忠義主従之廟より神社に戻る。

山郷神社(やまさと)は部落の神社としては大きな神社だ。本殿は方一間の流造(ながれつくり)。境内横に神社と一体となったように民家が建っているのが庫裏のように見え、何となく寺院風な印象を受ける。
どうやら近隣部落の神社が合祀されているらしい。社殿の規模が大きい理由はそのあたりにありそうだ。
散策するが忠義(ただよし)とは何の関連もなさそうだった。

八犬伝のモデルの墓が倉吉(くらよし)にあるらしいとは聞いていたがその内容を知らなかった。ここに来ればその疑問が解けると思ったのだが謎は残ったままだ。
結局、八犬伝との関連は後日別に調べることになった。少々複雑だ。忠臣蔵のような何か一つの出来事の単純な小説化ではない。

元々、里見氏は新田氏の一族で鎌倉時代末に新田氏と共に倒幕軍に参加。その一部が鎌倉公方に仕え上野国(こうづけ)や常陸国(ひたち)などに所領を与えられた。そういう経緯もあったためか永享の乱(1438年)とそれに続く結城合戦(1440年)では鎌倉府側についたため幕府管領側の攻撃を受け敗走する。
その後、安房(あわ)に逃れて領主同士の内乱に乗じ領主を追放して安房の国を平定した。これが安房里見氏初代、義実(よしざね)とされている。八犬伝に登場する人物だ。ここで里見氏と八犬伝がつながる。

実際のところは安房里見氏の出自ははっきりしないようで義実は実在の人物かどうかも疑わしいとのことだ。
義実の話は永享の乱、結城合戦と続く出来事なのでここに祀られている忠義とは時代が全く合わない。八犬伝や里見氏と倉吉の関連はまだない。話は更に続く。

時代はずっと下って義実の子孫、里見義康(よしやす)は徳川方として働き、関が原の戦いの後加増され出世する。この義康が倉吉に葬られている忠義の父だ。忠義も家督を相続した後、老中、大久保忠隣(ただちか)の孫娘を室として迎えるなど幕府での出世を図っている。しかし、大久保長安事件が起こり長安(ちょうあん、ながやす)の庇護者だった大久保忠隣が失脚。それに連座して忠義も安房を没収され伯耆国倉吉3万石に転封となる。実際は倉吉は4千石程度だったらしく配流に近い。出世を目論んだ婚姻が裏目に出た格好だ。それが1614年。

数年後、忠義が病死すると跡継ぎがいないという理由で改易。安房里見氏は断絶する。実際には忠義には側室の男子がいて取り潰しは幕府の陰謀との話もある。改易の原因となった長安事件も幕府内部での主導権争いによる陰謀らしいので里見家は幕府にとって何か目障りだったのかも知れない。
忠義が死去した時、8人の側近が殉死し忠義の臣と称えられたのが南総里見八犬伝の八犬士のモデルだとされる。もっとも殉死した家臣は6人とか7人とか説はあるらしい。

長かったがようやく里見忠義と八犬伝が結びついた。どうやら馬琴は話を作るに際して南総という舞台と初代の義実の名前、忠義に殉死した忠臣8人などを借りただけのようだ。モデルというほどの具体的な事件や騒動があったわけではない。もちろん史実に犬はどこにも登場しない。
名前や地名を全くのフィクションにしなかったのは読者に馴染みを持たせやすかったからだろうか。里見家は家系断絶していたため勝手に物語りに拝借しても問題がなかったとも考えられる。
そういうことで、
「南総里見八犬伝のモデルとなった里見主従」の廟
ではなく、正確には
「南総里見八犬伝のモデルとなった里見家」最後の当主とその主従の廟
なのであった。

せっかく調べたがこの南総里見八犬伝と倉吉の関係は多分忘れてしまうだろう。複雑すぎる。中世以降の歴史には弱いので何かの出来事と直接関連した話でないと覚えられない。それでなくても物覚えが悪くなってきているのに。

里見忠義主従之廟

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○南総里見八犬伝 里見忠義主従之廟(平成17年8月27日)

国道181号線から大山を桝水(ますみず)まで登る。そこから県道45倉吉江府溝口線、通称、大山環状道路を通り鏡ヶ成(かがみがなる)へ。もし初めて大山をツーリングするというなら、この道を走らないでどこを走るのかという程のお決まりルート。景色の点からは雄大な大山南壁を見ながら走れるので逆走がよりベストだろう。

鏡ヶ成もツーリングでの休憩地の本場だが、小休止を必要とするほど走ってないので県道45号線をそのまま進む。途中の地蔵峠で県道44号線に左折すると大山中腹をぐるっと一周出来るのでよく走るのだが、今回はそのまま関金(せきがね)へ向かった。
地蔵峠を下ると高原風景の中を真っ直ぐな道が続く。距離は短いが人の気配がなく北海道を走っているようだ。もっとも、北海道はレンタカーでしか走ったことはないが。
それでもこのルートはなかなか軽快な道だ。

町の中心地手前までやって来ると道端に「里見忠義終焉の地」の案内板を発見した。あの滝沢馬琴の代表作とされる南総里見八犬伝のモデルとなった里見氏が倉吉(くらよし)で亡くなったという話は聞いていた。ここがそうだったのか。
通り過ぎてしまったためあわてて停車、Uターンして脇道へ入る。

程なく大きな神社がある。山郷神社(やまさと)と呼ぶらしい。鳥居の奥に石段が上へ続いているがここが終焉地だろうか。神社の説明板には里見氏との関連が何も書かれていない。
少し回り込んだ畑のそばに駐車場が整備してありそちらに説明板があった。しかし、肝心の終焉の地を示すものが何も見当たらない。しかたなく駐車場から続く道を登ると先ほどの神社の境内の横に出た。ようやくそこに案内があり、それにしたがって民家の前を通り過ぎて歩くと田圃の向こうに巨木と小さな社が見える。参道は畦道だ。

田圃の隅の一画に社がある。何の木か植物の知識に疎くてさっぱり分からないが相当な巨木の前の1mにも満たない一間社流造(ながれつくり)の祠だ。後に巨木は椎らしいことを知った。後ろに「里見忠義主従之廟」の碑が立つ。横にある説明板は駐車場のものと全く同じ文章だ。それによるとここが忠義(ただよし)の住居跡らしい。菩提寺は確か倉吉市街地の寺だったように記憶している。

祠は新しく周囲は狭いながらも綺麗に整備されていて地元の人たちに大切にされていることがよくわかる。地区の誇りなのだろう。あまり知られていないが大事にされている小さな史蹟に出会うとうれしくなってしまう。

しかし、南総里見八犬伝と忠義の関連が今ひとつはっきりしない。もちろん八犬伝の知識が断片的でごく一部しかないことも影響しているのだろうが説明板を読んでもよくわからないのだ。
説明板の内容を要約すると以下のようなことだ。

安房館山里見家10代の当主忠義が慶長19年(1614)伯耆国倉吉に移封され1625年に29歳で亡くなった。家臣たちがその3ヶ月後に殉死。滝沢馬琴の南総里見八犬伝は永享10年(1438)以来の里見一族のことがモデルとされている。

何だかさっぱり要領を得ない。大体、国替になった慶長19年と永享10年はどの様な関連があるのか。

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