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いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

宍道湖中海巡礼記2005

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伯耆安綱伝承地

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○鉄の道を往く その1 伯耆安綱伝承地(平成17年8月27日)

まだまだ30℃を超える残暑の日が多いが徐々に秋の気配が近づく平成17年8月27日、午後からプチツーリングに出発。予定は大山環状道路を使い大山山麓を回る定番ルート。その後は倉吉方面に足を伸ばすつもりだ。

国道180号線の岸本から県道36号線を大山に向かい登ってゆく。八郷小学校を過ぎた左の道端に伯耆安綱伝承地(ほうきやすつな)がある。しかし、「伯耆安綱、鍛刀伝承の地」の石碑があるだけの田圃の畦で他には何もない。看板があるので注意して走ればかろうじて碑を見落とすことがないだけの旧蹟だ。

一応説明板だけは立てられている。それによると安綱は伯耆古鍛冶の始祖で反りのある日本刀の創始者で童子切安綱(どうじきり)の作者だとある。驚いてしまった。これは大変なことだ。

刀のことはよく知らないし博物館などに展示されているものを見ても鑑賞眼がないためどれも同じに見えてしまう。興味があまりないのも確かだ。
乏しい知識しかないが、他の剣と異なる日本刀の一番の特徴は反り(そり)と鎬(しのぎ)のはずだ。日本でも古代の太刀は直刀で刀ではなく剣と称されることが多い。そして反りと鎬が出来たことで切れ味が格段に進歩したとされる。日本刀は世界一の切れ味とされるが、それには反りと鎬が欠かせない。安綱はその画期的発明者らしい。それだけでなく童子切の作者だという。

夜な夜な京の都で悪行の限りをつくす大江山の鬼がいた。それを四天王と称される勇猛な家来を率いる源頼光(よりみつ)が退治に行き、首領の酒呑童子(しゅてんどうじ)を倒す有名な話がある。その時、酒呑童子の首を切り落としたことから童子切と呼ばれるようになったのが頼光の刀だ。時代は藤原道長や安倍清明が活躍していた平安中期。
鬼退治の話の真偽はともかく、童子切は日本刀の最高傑作のひとつに数えられ、国宝に指定されている。その作者がこの地と関係あるというのだから驚きだ。
もっと驚くのは伝承が本当なら、日本刀はほぼ完成された形で安綱が作り出したことになることだ。世界的にも格段の切れ味とされる日本刀が一人の刀工の手で生み出されたのなら、安綱が天才だったのは間違いない。

少々興奮した後、冷静になってみると、ここが一体何の跡なのか説明のないことに気がついた。生誕地なのか、鍛冶場工房があった所なのか、住んでいた場所なのか。
工房がここにあったかどうかわからないが日野川沿いは鍛冶の地として有名だった。奥出雲と呼ばれる中国山地を中心に古来より出雲文化圏とその周辺は鉄とのつながりが深い。良質な砂鉄が取れたことによる。宝篋印塔のあった日南の印賀も鎌倉から江戸期に印賀鋼(いんがはがね)という全国ブランドの鉄を生産していた。安綱伝承の背景にはそうした事情がある。
前から出雲と鉄の関連が気になっていたが、これを機に鉄に関して少しあっちこっち回ってみるのも良さそうだ。

ちなみに酒呑童子退治の頼光四天王には坂田金時(さかたのきんとき)と渡辺綱(わたなべのつな)がいる。坂田金時は金太郎のモデル。熊と相撲の稽古をした史実はないと思う。
さらに渡辺綱には別の鬼退治の話が伝わっている。彼はその当時、羅生門に住んでいるとされる鬼を退治へ行きみごと腕を切り落とす。後日、鬼は綱の乳母だったか母だったかに化け切り落とした腕を見せてほしいと訪ねてきて腕をそのまま奪って逃げて行ったという。
こちらの刀は鬼切丸と呼ばれるようになった。別名、髭切り(ひげきり)の太刀ともいわれて以後源氏の頭領へ代々伝えられる家宝とる。ただこちらは安綱作ではない。
それにしても頼光の周辺は鬼でいっぱいだ。平安京は鬼で溢れていたようだ。面白そうな時代だ。

改めて調べると安綱は伝えられている系図などでは平安時代初期の806年の人とされるが、安綱作とされる刀剣は国宝童子切を含め平安中期の10世紀末頃とされるのが通説となっているそうだ。これだから伝承は本当に面白い。
何はともあれ、彼が優れた鍛冶師だったことが伝説が生まれる背景にあることは疑問の余地はないだろ。そして、このあたりの中国山地が良質な鉄の産地だったことも伝説の背景になっている。

御墓山

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○伊邪那美命陵と比婆山比定 その3 御墓山 (平成17年8月6日)

平成17年8月6日。夕立の中を走る。あまりに暑いので少し濡れながら走ると丁度気持ちがいいくらいだ。
国道180号線から県道48号阿毘縁宮沢線へ入り県境へ向かう。更に県道107号横田伯南線へルートを取る。分岐点に「横田方面への大型車の通行は困難です」と注意看板が出ている。何となく先行き嫌な予感がするが進む。
点々と民家が散在する道を山へ向かってゆっくりと入ってゆく。道は普通車なら十分すれ違えるが徐々に狭くなり確かに大型車の通行は困難になりそうな様相を呈してくる。

そろそろだと思って走っていると右手に神社を発見。停まる。もしかしてと思ったがやはり熊野神社だ。

伊邪那美命陵として最も有名なのは島根と広島の県境にある比婆山だろう。そしてもう一つが紀伊半島紀州熊野の花の岩窟。ともに古事記と日本書紀の記載に準じてそう伝承されているものだ。もちろん両方に葬られたわけではなく異説として載せてある。もっとも神様の話なので誰も本当のところはわからないだろう。

記紀では出雲と紀州は距離的にも地理的にも全く違うがどうやら大和朝廷は類似した地と捉えていたことが窺え黄泉の国として考えられていたようだ。伊邪那美命の葬られた地が出雲と熊野とされたことで比婆、熊野、伊邪那美というのは一つのセットとされることが多い。伊邪那美命の祀られているところには熊野の名前がついてまわる。
実際、ヒバゴンで知られる比婆山の麓には熊野神社と那智の滝がある。

休憩を兼ねてまずここを参拝することにした。
参道の石段を登る。本殿は方一間切り妻、妻入り。由来の書かれたものなどは何もない。祭神は多分伊邪那美命だろうが、どこにでもありそうな社だ。
近くの御墓山が御陵であるとの伝説はほとんど知られていないことからそういわれ始めたのはかなり時代が下ってからと考えられる。この神社の名前もその頃に熊野神社と変わったのではないだろうか。御祭神も本当のところは村の氏神だったと思われる。

熊野神社を見つけたので目的地にはかなり近づいている確診が持てた。
更に4-500m進むと道の横に少し広い場所がありそこに「御墓山」の石碑が立っている。目に付きにくいので注意しなければ通り過ぎてしまうところだ。
夏草に蔽われた石碑にははっきりと「比婆山伝説地」と彫ってある。鳥取県の山紹介の本があるのだが、それには頂上に遺跡らしいものの存在は書かれていないので多分何もないのだろう。
ここが伝承地として有力でないことは知っている。石碑の前を登山道らしき道が続いているがさすがに頂上まで行こうという気はない。

木々の間からかろうじて望める頂がそうだろうか。確かに山稜がなだらかで三角形に見える。その形から御陵といわれ始めたものだろう。出雲と伯耆の間という位置だけはぴったりしているから。

何故か煙たい。気のせいかと思っていたがよく見ると道を挟んで反対に炭焼き小屋がある。そこから煙がたっている。炭焼きの最中のようだ。懐かしさを感じさせる里山の匂いといった風情で悪くない。

ここまでは大型車でも来られるがここから先の道は狭くなる。少し手前に「横田方面への大型車の通行は困難です」の最後の警告があった。ガードレールもない一車線道路の峠を越えなければならなくなる。大菅峠だ。特に用事がなければ小型車でもバイクでもこの道を進むのは遠慮したい。

天宮さん

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○伊邪那美命陵と比婆山比定 その3 天宮さん・・・巨石の森 (平成17年7月24日)

国道181号線の溝口にとっとり花回廊がある。鳥取県西部の数少ない重要な観光施設だ。その入り口に近隣の観光地が紹介された巨大な案内板が置かれている。それには今まで聞いたこともないものが記されていたのを少し前に発見していた。何と地元で伊邪那美命の陵墓ではないかといわれている巨石があるらしい。これはぜひ行ってみなければならないだろう。

平成17年7月24日。米子市の南を東西に走る県道1号溝口伯太線から県道160線へ入り南へ向かい御内谷という集落を目指す。
予想通り大きな案内はない。めぼしをつけて走っていると集落の外れに小さな案内表示を発見。この案内を探すための案内が必要そうな案内だ。
示された道へ入ると道端に解説板が立っていた。

天宮さん(てんぐう)。町の指定文化財のようだ。御内谷の大蔵山の東斜面に巨石が散在し特に中腹をヒバガイチと呼んでそこの巨石群を天宮さんといって崇敬してきたものらしい。大正時代、鳥居龍蔵氏が調査してストーンサークル説を出したのを機に地元で伊邪那美命陵墓説が展開されたとある。
どうやら御陵と言われ始めたのはごく最近のことらしい。鳥居氏の後にはそれほどのまとまった研究はなされてないようで実は人工物かどうかもはっきりしてないとのこと。どうやら地方信仰の磐座だったもののようだ。

解説板があるのは道端なので巨石はどこかの山へ入ってゆかなければならないはずだ。だがどちらへ向かえばいいのか示されてない。横には田圃の畦のような道が出て山へ向かって消えている。ここに解説が置かれているのはここが分岐点である事を示す目的以外には考えられない。そう判断して道端にバイクを停めて歩き出した。途中までなら道はオフロード車なら入って行けそうだ。もっとも、たとえオフロード車に乗っていたとしてもテクニック的には無理なので実行する気はない。

どんどん山道になってゆく。そのうち道に轍もなくなり農耕車も通った跡がなくなる。道は意外に整備されてしっかりとしているが軽い登山になってしまった。枯葉の積った山道を数百メートル進んだところで行き止まりとなる。目の前には苔むした巨大な岩が立って行く手を遮っている。周囲にもいくつか巨岩が転がっている。
これが目的の天宮さんかと思ったがどうも案内にあった写真と違う。磐座にはつきものの注連縄もない。
岩を避けてさらに奥へ進める道があるのか探すが見当たらない。途中にあった分かれ道らしきところも少し進んで探索してみたが駄目だった。これが山に散在するとされる巨石群のひとつなのは間違いないのでここで撤退する。
薮蚊に刺されながら帰った。

主だった観光案内や文化財紹介にも全く載っていない史跡なのでこんなものだろう。結局天宮さんは見つけられなかった。伊邪那美稜といわれはじめたのが新しいと分かったこともあり今後再訪はしないだろう。

八雲風穴

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○文化財点描(4) 八雲風穴 (平成17年6月26日)

涼を求めて須佐神社の前を通り過ぎ県道185号線を山へ向かって1.5車線道路を走る。2km程で駐車場へ着く。福泉坊というお寺の駐車場らしいのでここへ停めていいのか悩むが他にも旅行客らしい車が置れていているので勝手に使わせてもらった。

管理棟のような建物の横に石垣で作られ地面より掘り下げられた巨大な井戸の様な建造物がある。井戸と言っても空井戸だ。何人かがそこへ入っている。水の抜けたプールに入ってるように見える。プールというより岩風呂か。
近づいてみると涼しい。冷風が空井戸から湧き上がってくる。ここが今回避暑を目的に来た八雲風穴だ。

脇にはベンチがありそこへ座っていてもひんやりと冷気が漂ってくる。しっかり涼まねばと空プールの底へ降りた。強力な冷房で体中の汗が一気に引く。
中に入りしばらくすると涼しいを通り越しえて肌寒くなった。温度計がかけられていて12度を示している。真夏の軽装では寒いはずだ。あまりに冷えてきたため長居出来なかった。

説明によると山が隙間の沢山ある火山岩の堆積で出来ていて岩と岩の間を流れる空気が地下水に冷やされて出てくるという仕組みらしい。

隣の建物の地下3-4階に本当の風穴がありそちらは7月から開くとのことだ。建物の下の石室はもっと冷えるらしい。ここより寒ければほとんど冷蔵庫だ。この石垣の空プールは八雲風穴のサンプル、お試し版といったもののようだ。

石垣の底でじっとしていると寒すぎるし上に出てしまうと少し暑い。自分に丁度の微妙な温度設定は位置を探して決めねばならない。石垣に腰を下ろしたところちょうどいい涼しさでなかなか快適だった。

座っているととても気持ちいいのだがいつまでもここにいるわけにもゆかない。しかたがないので帰り支度をする。駐車場まで戻っただけで既に暑く避暑の効果は一瞬で失われた。冷房の効いた部屋から出た時と同じだ。
結局、遠出して来ても一瞬の涼しか得られないということか。当たり前といえば当たり前まえだ。

夏用ウエアのメッシュウエアは走っていれば確かに涼しいのだが風穴にはかなわないことが確認できた一日だ。

須佐神社

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○素盞嗚尊の足跡 その2 須佐神社 (平成17年6月26日)

平成17年6月26日、暑い季節になってきたので涼を求めて走り出した。国道54号線を南下し木次から三次方面へ。掛屋から県道39号湖陵掛合線へ入り佐田へ向かう。途中夕立にあうものの車の流れはスムーズで快調に走る。

山の中を縫うような道が少し開けてきたと思ったら道端に突然案内板が出てあわてて左折する。橋を渡るとすぐそこが須佐神社だ。傍らを須佐川が流れている。底は割りに深い。川底は岩肌になっていて少し変わった景色を作り出している。奥津温泉のように足踏み洗濯が出来そうだ。
川を挟んで両岸は少しの田圃があるだけで平地は少なく土地は狭い。中国山地から里へ下りて来ているがまだまだ山間の地で開けているとはいい難い。もう少し広い平野部を想像していた。

予想より狭い境内。否、けして狭くはないのだが著明な社というと出雲大社クラスを予想してしまうので期待が大きすぎたのだ。大社造りの堂々とした本殿で立派なことに異論はない。
平地の少ないところなので境内が広く取れていないが周囲は老木が生い茂り荘厳な感じを受ける。観光客は少ない。

案内板によるとこの神社には七不思議というものがあるらしい。その一つが境内に入って右手の小さな石組みの池で塩井(しおのい)と呼ばれる井戸だ。これは海に続いていて水の湧き出しは海の満ち引きに関係して間歇があり日本海満潮時には周囲に潮の花を吹くとされる。ちょっと信じられない。
本当に塩が析出するのなら岩塩層を地下水が通って来ているのだろうか。しかし日本にそれ程の巨大な岩塩の地層があるとは聞いたことがない。
念のため井戸の周囲をじっと眺めたが白いものは発見できなかった。井戸は汲めるようになっているのだが水面があまりきれいではないために実際に口に含んで確認しようという気持ちにはなれない。

出雲国風土記によれば、素盞嗚尊がここを訪れた時この地は小さいが良い所なので自分の名を木や石にはつけないようにしようと言って御魂を鎮め置いたとされる。御陵ということになるのだろうか。また、ここへ来られたのは八岐大蛇退治の後のことでここが古事記に言う須我の宮だという説もあるが地名が違うのでこれは少し無理があるようだ。

日本書紀、古事記で出雲神話はかなりの量を占める。素盞嗚尊の出雲下りや八岐大蛇退治、大国主命の因幡白兎の話や八十神の迫害、そして国譲りなどなど。主として素盞嗚尊と大国主命の出雲での活躍を出雲神話と称している。天上の高天原での話以外にこの地上の中津国葦原瑞穂国を舞台とするまとまった神話はこの出雲神話と邇邇芸命の天孫降臨から始まる日向三代の物語だけだ。
ところが出雲国風土記には記紀に記される出雲神話は一切載っていない。代わってそこには国引き神話を代表として記紀には全く触れられない神話が存在する。記紀と出雲国風土記には共通の神話は何一つないのだ。この事実は大和勢力が国家統一を行う過程で何らかの神話を作り出す必要に迫られて出雲国を舞台とした物語を創作したとする説がある。それは地方氏族が祀るそれぞれの地主神を一つの体系に組み込む目的で祭祀権の確立を目指すもの、いわば神々の中央集権化とも言える作業だったとされる。舞台はどこでもよかったのだが出雲にしたのは大和政権にとって出雲が無視できない勢力だったため反発を弱めるため、いわば機嫌取りだったと唱える人もいる。

出雲国風土記では素盞嗚尊は英雄譚が全くなくほとんど活躍しない。素盞嗚尊は「荒れすさぶ」神を示すという説と「須佐の王」のことで地主神を記紀が取り込んだのだという説が対立するが出雲国風土記での扱いの軽さを考えるとどうやら須佐の王説に説得力を感じる。
素盞嗚尊の本貫地はここで元来はこの一地方神だったのではないだろうか。そして記紀で出雲神話を創作する時に主役の一人に抜擢されたのではと思った。

一方、出雲国風土記で中心的な役割を示す大国主神は記紀でも説話は豊富だ。この神は別名が多く大穴牟遅神、大己貴命、大穴持命、八千矛神、葦原醜男、葦原色許男神など数々ある。これは各氏族の別の神を統合して一つにした結果だろう。記紀の大国主命の話は様々な神の伝説を実は大国主命の別名だったことにしてまとめたいわば寄せ集めと考えられる。
出雲国風土記で語られる大国主命は所造天下大神と呼ばれる神の神話でありけっして記紀での大国主命の物語ではない。
このあたりの想像はまた改めてきちっとまとめてみたいと思った。

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