同行二輪

いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

宍道湖中海巡礼記2005

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楽々福神社

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○日野川沿いに孝霊天皇伝説をめぐる その3 楽々福神社 (平成17年4月2日)

平成17年4月2日。今年の春は近年になく遅かったがようやく暖かさが増してきた。
行き損なっていたもう一つの楽々福神社を目指して南へ向かった。途中品川ナンバーのキャンプ道具満載のバイクが追い越して行く。本格的な春の到来をここでも感じる。

国道180号線を日南湖の北端で県道48号阿毘縁宮沢線に入る。約5kmで印賀から大宮の楽々福と呼ばれる社に到着する。
大宮小学校そばの道端にひっそりと建っている。割と小さく村の鎮守といった風情だ。しっかりと随身門がありそれなりの風格はある。地名も大宮でやはり古い由来を持つ神社なのだろう。

境内に入ってみると以外に広くて明るい。背後は崖で法面工事がなされている。地面は一面杉の落ち葉で敷き詰められ建物陰の一部には雪が残る。
本殿は大社造りのようだ。木鼻の彫刻がよいアクセントになっている。また拝殿正面の唐破風にも彫刻が施され祀られているのが姫ということで少し華やいだ雰囲気が感じられる。
両脇に小さな末社も左右に二社あり由緒正しそうな社だ。

本殿右に御神木のようでうろに榊が供えてある古木がある。何の木か不明だ。
その奥に杉木立があり中を歩いてゆくと自然木で出来た鳥居がある。奥には瑞垣で囲まれた若い杉が祀ってある。これも何かの御神木に違いないがまわりの杉のほうがはるかに古い。ここには由来書がないためこれらのに関しては全くわからなかった。

ここに伝わる孝霊天皇の皇女福姫の伝説は菅福神社のところと少し違う。
まず生山八幡宮の山の上の柴滝で生まれたのでその地を生山と呼ぶようになったと誕生地が地名説話になっている。
その後13歳まで菅福ですごして印賀に移った。そのときの地が菅福神社だという。15歳の年に畑のえんどう豆をとろうとし蔓が竹に絡みついたまま力いっぱい引っ張ったはずみで竹の端が目に突き刺さってそれがもとで亡くなった。そして貴宮山に埋葬しその麓に楽々福神社が創られたという。それがここの楽々福神社で、神社の裏山がその崩御山である貴宮山とされる。またこ出来事のため姫を偲び印賀の人は竹を植えなかったし竹の箸で食事はしなかったとされる。

福姫にまつわる伝説は孝霊天皇伝説と結びつける必然性が弱いし内容もおとぎ話的だ。鬼退治とは受ける感じがかなり異なる。話の発生元が違うのだろう。

ここはこれまでの楽々福と違い日野川の谷ではなく支流の印賀川になる。
印賀は江戸時代に高品質の印賀鋼を産した地で製鉄が盛んだったとされる。「ささふく」というのは諸説あるがたたら製鉄のふいごを吹くことを意味するというのが有力だ。福姫の福もふいごを「吹く」から来ているのかもしれない。
ここの楽々福神社は製鉄鍛冶に携わる集団から出たもので時代がかなり下がってから孝霊天皇伝説と関連付けられたのではないだろうか。
楽々福に関しては孝霊天皇の巡行説話からではなくたたらの点から考えるのもまた興味がある。今後の楽しみだ。

境内の杉が真っ赤になっている。枯れているのではない。今年は近年にない杉花粉の大量の年と警告されている。花粉症の人は見ただけで発作が起きそうだ。

赤崎道の駅

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○道草 赤崎道の駅(ポート赤碕)(平成17年3月27日)

平成17年3月27日、午後から天気が崩れるとの予報なので近場を流すことにして国道9号線を東へ向かう。何か目的地があったわけではなく昨日は西へ走ったから今日は東へルートを取っただけのことだ。

赤崎の道の駅へバイクを停めた。レストランに公園、ちょっとした遊具もある。
最近は道の駅が沢山出来ているがどこも直売所と称した土産物屋になっている。ここも魚など海産物を中心に販売されている。買い物客が多いのは関西からだとお買い得なのだろうか。観察してみるがどこにでもありそうな値段と品揃えで地元明にとっては特に魅力的なものはない。

隣接して日韓友好交流公園「風の丘」というのものがある。
解説によると、1819年に韓国の商船が嵐のため難破し赤碕沖に漂着したとき鳥取藩は乗組員を手厚くもてなして長崎まで送り届け一行は無事に帰国した。それを記念し友好を深めるために造られた。

公園では数メートルの大きな石の風車が目に付く。実際に羽根が回っている。あまりに勢いよく回っているので樹脂製かと思っていたが本物で2トンあるという。驚いた。
東屋も建っているが韓国風なのか中国風なのか乏しい知識では判然としない。

現在韓国との関係は島根が竹島の日を制定したことなどからギクシャクしている。任那日本府の存在をめぐって紛糾する程度ならいいのだが。何とかならないのだろうか。残念でしょうがない。
日韓友好資料館と特産館があるが中の様子が窺えないので何となく入りづらい。

旅行客が隠岐島が見えるとか見えないとか騒いでいるが今日は見えてないのが正解。空気の透明度さえ高ければはっきりと見える。

のき白鳥の里

○道草 のき白鳥の里 (平成17年3月26日)

出雲王陵の丘で古墳を楽しんでからの帰り道、安来の南に広がる能義平野の中を突っ切る農免道路。ここは安来市内のバイパス的な道としてよく利用する。通称白鳥ロード。
その道端に「出雲織・のき白鳥の里」が最近できた。土産物屋と古い民家風の機織工房がある。観光客で賑わっている風景は見たことがない。広い直線道路ではあるが幹線ではないこの場所に観光施設を作った理由が理解できない。
白鳥観察棟もありそれがメインのようだが白鳥は冬しかいないのでそれ以外の時期を機織でしのぐつもりなのだろうか。しかし施設の規模が小さすぎてわざわざ観光に足を伸ばすような場所ではない。見学は短時間で終わってしまう。その上白鳥も冬には平野一帯あっちこっちで目にすることができるので特別な観察小屋は必要でない。わざわざここに腰を落ち着けて白鳥を眺めなくてもいいのだ。実際この近くは耕地整理の工事中で今年の冬は観察小屋周囲に白鳥の姿を見なかった。
平野のどこからでも白鳥が観察できるとはいえ確かに屋根と風を防げる塀があると冬はありがたいかもしれない。しかし、一般人は小屋が必要な吹雪の日には観察しないので、やはり小屋は不要か。

白鳥の里から東へ離れた田圃の中にコハクチョウまだいるのが観察される。もうすっかりシベリアへ帰っていったと思っていたが今年は北帰行が少し遅いようだ。
通常北帰行は3月中旬までで終わり白鳥が去った後に山陰には春が訪れる。

古代出雲王陵の丘

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○古代幻想 古代出雲王陵の丘 (平成17年3月26日)

国道9号線を安来駅からさらに西へ向かいJR山陰本線の荒島駅を過ぎると左手に王陵の丘の看板が大きく見える。看板はよく見えるのだが入り口がわかりにくい。JRの線路を挟んで反対側なので踏切がなければ渡れないのだがそれがどこなのか。以前から行ってみたいと思っていたが近づく方法がはっきりしなかった。看板が巨大なだけに道案内の表示がないのは不親切だ。訪れて欲しいのかそれとも訪れて欲しくないのかはっきりして欲しい。

何とか道を見つけて線路を渡った後は見通しのよい田圃の向こうに公園が見えるので迷子になりようもなく到着した。
駐車場では子供が遊んでいる。それ以外には観光客らしい人影がない。どこでもそうだが遺跡は全国的に有名な一握りの所にしか人が訪れない。ここも例外ではないようだ。

駐車場は墓地に隣接している。王墓のそばに民間の墓場が仲良く並ぶ。古代には庶民は古墳に近づくこともできなかっただろう。まして埋葬などは一般人は行われてもいない。時の流れは全てを変えてゆくと少し感傷的になる。

特に高いわけではないが丘陵に上ると中海が一望できる。説明板にあるようにまさしく国引きの舞台が一目で見渡せる場所だ。ここも海からよく見えて目立つ高台に墳丘が築造されている。

安来の荒島一帯は墳墓が密集していてその一角にこの王陵の丘公園が整備されている。ここは造山(つくりやま)古墳群とよばれるが、ここから南東に2kmほどのところに仲仙寺墳墓群がありその二つを中心としてさらに多くの墳墓が周辺には散在する。まさしくこのあたり一帯は王陵の丘と呼ぶにふさわしい場所だ。

公園の頂上には造山2号墳がある。かなり大きいので全体像がつかみにくいが前方後方墳と書いてある。そして隣接して方墳がある。しかし予想していたよりも沢山の古墳が狭いところに集中しているわけではないようだ。1号墳と3号墳は谷の向こうで遠そうなので行くのは遠慮した。どうやら2号墳がこの公園の中心として整備されているようなのでここを堪能して残りは省略させてもらおう。

全長が約50mの前方後方墳。この大きさからこのあたりには古代大きな勢力を持った首長が存在したことがうかがえる。
古代出雲に関しては謎だらけで多くの本が出ているし諸説入り乱れている。ここからさらに10kmほど西に行ったところに意宇川が流れる。古墳時代その流域を中心とした勢力が出雲一帯を支配していたとする説がある。そこにも八雲立つ風土記の丘として整備されている墳墓が多く集まった地域が存在する。
詳しくないのだが王陵の丘周辺は方墳や四隅突出方墳丘墓が中心で前方後円墳の多い八雲立つ風土記の丘周辺と比べるとやや時代が古そうな気がする。古代出雲の有力勢力はここらあたりの飯梨川流域から西の意宇川流域へ移って行ったのではないだろうか。

駐車場に接してお堂があったのでのぞいてみた。開運地蔵とある。扉を開けると石製の人の背丈より少し低いお地蔵様が安置されていた。お堂は割りに新しいが何かいわれでもあるのかと説明を探したがそんなものは見つけられなかった。単に土地のお地蔵様なのだろうか。
素朴なつくりのお地蔵様だった。

毘売塚古墳

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○風土記を旅する 毘売塚古墳 (平成17年3月26日)

年も明けて平成17年3月26日。今年はなかなか暖かくならず昨日も雪が舞ってうっすらと積もった。去年や一昨年に比べて春がやって来るのがずいぶん遅い気がするがこれが平年並みとのことだ。最近数年は春が早すぎた。個人的には早くても大丈夫なのだが。
さすがにこの季節は雪が積もっても一日で溶けてしまう。確実に春の気配を感じることが出来る。
今日は一転ポカポカ陽気となってようやくバイクに乗れそうなので軽く走る。

国道9号線を走り安来駅隣のローソンに車を停めた。無断駐車になってしまうがペットボトルを一本購入で容赦してもらうことにする。
JRの線路を超える陸橋を渡るがかなり錆びついている。落ちることはないと思うが錆の散乱具合を見ると少々不安がつのる。安来駅の裏に日立金属の工場があるのだがそこへの通勤の便を考慮した陸橋のようだ。
その工場へ向かう道沿いに毘売塚(ひめづか)古墳の案内板と上り口がある。

きれいに整備された道を丘に登ると鳥居があり頂上に着く。毘売塚と掘られた自然石の碑がささやかな瑞垣に囲まれている。社などは作られていない。ここでは石棺が発掘されているが埋め戻されているのでもちろん石碑しか見えない。
岡の下には工場がありまるで構内の一部のようだ。
形は帆立貝式らしいが、説明図を見ると前方部が極端に短い。円墳に造り出しを付けたような格好だ。ただ実際に登っても円形な広場以外に正確な形は判別できない。

海に向かって見晴らしがよく正面に十神山が見える。その昔、十神山は陸続きでなく海上にあったとされるのでその当時はこの丘の下は海だ。湊に近くよく見える場所に古墳を築造するのは淀江でもここでも同じだ。

この塚には出雲国風土記に記される伝説がある。
毘売埼というところで天武2年(674年)7月13日、猪麻呂の娘が遊んでいるうちにワニに食われてしまった。猪麻呂は浜辺に娘を埋葬し嘆き悲しんだが数日後復讐を決意し神に訴えた。しばらくすると沢山のワニが一匹のワニを囲んで浜辺に出てきた。祈りが神に通じてワニたちが娘を襲ったワニを差し出して来たとされる。猪麻呂が中央のワニを殺すと周りのワニは立ち去った。殺したワニの腹を裂くと娘の脛が出てきたという。
その娘を葬ったのが毘売塚古墳と伝えられている。

現代的な考えからすると話の展開に釈然としないところが残る。しかし最も疑問なのは関係者の名前と日付が明示されていることだ。何故それ程貴人とも思えない娘の事件の起こった日がここまではっきりと示されているのだろう。何か隠された謎がありそうだが残念ながらところ何も思いつかない。

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