同行二輪

いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

中国観音霊場(第3回)

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]

イメージ 1

○第七番、補陀洛山、円通寺 (平成16年10月16日)

まだ日は高いがあまり余裕はない。納経所が閉まるのは早い。これから岡山周辺に残る二ヶ所を打ち終えるには時間が足りないことは確実だ。
一ヶ所も難しいかもしれない。閉まっていれば出直すだけなので、まずは行くだけ行ってみる。

水島の工業地帯を抜けて高梁川を渡り玉島の町を抜けて走る。円通寺への表示がほとんど見られない。結局、国民宿舎良寛荘を目印にした。しかし良寛荘へ向かう路地の入り口を示す表示がこれも大変にわかりにくい。一度は通り過ぎてしまった。

寺は住宅街の上にある。途中に駐車場の表示があるのだが広い道が続いている。もっと近くまで行けそうなのでそのまま登ってみて大失敗だった。上り坂の途中でいきなり道が細くなりそのまま未舗装の歩道となってしまった。
左にある良寛荘の裏口から駐車場へ入って方向転換をしようとしたがあえなく立ちゴケ。泊り客の誘導へ出ていた職員が起こすのを手伝ってくれた。
下の駐車場まで戻ろうとしていると、まず怪我がないか心配してくれた。さいわい、体は全く問題なし。立ちゴケは慣れている。次は車がきちんと動くかどうか場内を走ってみるようにいわれる。生憎と左のステップが折れ曲がってクラッチレバーも半分折れているが、運転操作に支障なし。走行にも問題なし。
さらに円通寺への参拝ならここにそのまま停めてもいいといっていただいた。ありがたい。本当にいい人だ。転倒のショックもかなり薄らぐ。
ここでの教訓は駐車場があればそこへきちんと停めろということか。

100m足らずで円通寺に着く。円通寺は良寛荘の名前が示すとおり良寛和尚に縁のある寺。若き良寛が修行に励んだ寺だ。
実は良寛についてはほとんど知らない。知ってるのは子供たちと鞠つきをしていて遊んでたということくらいだ。

石段を登ると巨石と植込で組まれた庭がある。落ち着いた風情だ。
夕方のためか本堂正面の扉が閉まっていてるので少し心配になり納経所へ向かった。受付は4時までとなっていて誰もいない。今は4時20分。
少し考えたが無作法を承知で呼び鈴を押してみた。待つことしばし。年老いた奥さんが出てこられたので御朱印を頼んだところ快く受けてくださった。
岡山はここが最後の札所かと尋ねられるのであと一つ残っていると答えると廻るのが少し遅いのではと指摘された。のんびりと廻っていますから、と答えたが納得されてない様子だった。各札所でゆっくりする巡礼は少ないのだろうか。大体は朱印を受けると直ぐに次へ向かうようだ。納経所にしか足を向けない者もいるとか。本堂を素通りするのは本末転倒だと思うのだが。
これから帰るのなら、道中気をつけて、と見送られて納経所を後にした。

本堂は茅葺で質素な印象を受ける。生憎と扉が閉まっているので本尊も厨子も拝むことはできないがお勤めだけは済ませた。ここは本堂を通り越して最初に納経所に向かったの朱印を頂いた後の拝むのは順序が逆だが仕方ない。

境内は山の斜面を利用していて広くはないが茶室、良寛堂、白雲閣など多くの堂宇が立ち並ぶ。そして散策しているといつのまにか公園にでてしまう。円通寺公園と一体になっているのだ。華美なところのない本堂に人気のない閑静な境内は子供たちと鞠をついていた良寛和尚の人柄をしのばせるようで心和む。
しかし、その有名なシーンは後年越後出雲崎へ戻ってからの出来事のはずなので、こことは全然関係がないのだ。良寛といえばあの好々爺としたイメージが強すぎるので全てがそこへ連想されてしまう。公園にあるのもやはり鞠と子供の像なので、誤解も許されそうな気がする。

良寛荘の職員といい円通寺の奥さんといい親切な人たちでありがたかった。転倒はしたものの人の温かさに触れられ慰められた。

玉島ICより高速に乗って一気に帰宅。約450kmの旅が終了。

イメージ 1

○第六番、瑜伽山、蓮台寺 (平成16年10月16日)

神社は「由加」で寺は「瑜伽」。どの様に表記しようと「ゆが」と読み意味は同じでヨーガのことだ。仏教では瑜伽の文字を使うので神社は由加を用いているのだろう。
瑞垣で囲まれた神域を抜けるともうそこは寺域に変わる。由加神社を挟んで蓮台寺の伽藍が立ち並ぶ。寺の境内の真ん中に神社があるというべきか。

神社の向かって右手にある多宝塔を過ぎて奥へ歩いてゆくと観音堂に着く。ここが本来の札所なのだが今は空きになっている。扉も閉まっているし人気もない。納め札入れだけは置いてある。
札所にはどこでも霊場何番札所と表示してある小僧の看板があるのだがここにはない。間違えないようになってる。もちろん今回は間違えて来たのではなく元の観音堂を見たかっただけだ。
ここからぐるっと廻って蓮台寺本殿へ抜ける小道でもあればいいのだがどうやらそんなものはなさそうだ。本殿は神社の反対側にあるのでもう一度由加神社へ戻って抜けなければならない。

神社を抜けると権現堂が右手の上にある。そこへの石段は参道からの延長線上に真っ直ぐに続いているように見える。権現堂は参道から正面にあって由加山建築群で一番高い場所にある。正面の最も高い位置ということからも神仏分離までは根本的なお堂だったと想像される。瑜伽大権現が祀られていたのだろう。

ここの神社寺院の根本である瑜伽大権現とは何者なのか。縁起によると行基が阿弥陀如来、薬師如来の二尊を瑜伽大権現として祀ったのが始まりという。さらに行基が自ら刻んだとされるのが本尊の十一面観音との伝承を持つ。由来書などを読んでみてもそれ以上の説明はなくわからない。瑜伽という名前の出自も不明だ。
神社本殿裏の巨石が元からの磐座信仰の霊地であることは確実だ。修験者が修行を始めたときそこに祀られていた磐座を瑜伽大権現として鎮守としたのが始まりだろう。修行が主に瑜伽行であったことから修行の妨げを防ぎ仏法を守護するという目的で瑜伽大権現と称したのではないだろうか。当初の磐座の名前が瑜伽であったとは考えにくい。

現在の瑜伽山蓮台寺の本堂である総本殿に行く。そこの前にも御零石と言われる巨石がありここらあたり一帯が磐座信仰を起源に持つことが確かめられる。
総本殿は瑜伽殿と呼ばれている。平成10年にできたもので本尊である十一面観音と瑜伽大権現を安置してるという。これが完成したときに観音堂から十一面観音を、権現堂から瑜伽大権現を移したものと思われる。

働いている人たちが僧侶に見えない。作務衣というより白い半被のようだ。天理教徒を思わせる。日光輪王寺とも似たところがある。本殿も新しい建物で寺院建築らしくない。まるで新興宗教の本部のようだ。少し宮殿風というか城風というか、装飾した屋根の観光旅館に見えないこともない。納経所も観光施設の券売所のようだ。

本殿に入り三十三の厄除け観音の階段を通り二階に上がる。本尊は大広間の奥に安置されているという。扉は閉まっている。厨子というより神棚のようだ。御幣がたてられているが密教法具も置かれている。尊号も南無瑜伽大権現を唱えるのが正しいらしい。ここでは神仏習合の形態を今尚色濃く残している。
いつものようにお勤めを行ってみるが神前読経のようでなんとも落ち着きが悪い。

本殿の横に県の重文で丸山応挙の作品などが残る客殿があり拝観できるはずなのだが今日は少し騒々しい。茶会が開かれているのでそこらかしこを振袖姿の女性が歩いている。客殿のどこかが会場となっているようで入り口付近はとても賑やかだ。入り辛い。
以前に拝観したこともあるので今回は客殿へ上がるのはやめた。

由加神社本宮

イメージ 1

○由加神社本宮 (平成16年10月16日)

干拓地を抜けて児島半島へ入った後、由加山の表示に沿って山を登ってゆく。間違えることもなく由加山神社本宮表参道入り口前の駐車場に到着。神社の表参道だが実はここが第六番札所蓮台寺なのだ。
瑜伽大権現という神仏混肴で発展したのだが明治に由加神社と蓮台寺に分離した。そのため神社とお寺は同じ場所にある。

入り口の御茶屋においてあるパンフレットを手に厄除け石段と呼ばれる参道を登る。33、42、61段と3段になっていてなかなか長い。両脇は店や民家となっている。賑わいはなく閑散としているし規模も比べることはできないがどことなく讃岐金刀比羅宮を思わせる。思わせるだけでなく実際金刀比羅とは深い関係がある。

江戸時代になると伊勢参り、善光寺参り、大山参りなど各社寺参りの旅が盛んになってくる。四国讃岐の金刀比羅参りも多くの人を集めるようになるが、それに並行してここ瑜伽山も栄えるようになった。
「金比羅参りは瑜伽参り。一方参りは片参り。」
どちらかだけではご利益も半減とされ、金刀比羅と瑜伽を同時に参る両参りと呼ばれる参拝が流行るようになったのだ。その成立は当時の交通手段とその変遷によるところが大きい。

本四連絡橋がない時代、金刀比羅参りをするには船で四国へ渡るしか方法がなかった。その主な船便は児島半島南岸の下津井や琴浦から出て四国坂出の多度津へ向かうものだった。当然だが今の瀬戸大橋と似たような航路だ。短くて利便のよい道筋は船でも橋でも同じになる。
岡山市には高梁川、吉井川、旭川という大きな河川が流れ込んでいてその河川からの堆積も加わり児島は江戸時代には陸続きとなって瀬戸内航路は児島の北側から南側へと移っていた。それによって下津井や琴浦が繁栄するようになったのだ。
金刀比羅へ参るのにこれらの港を利用する場合、干潮の差が激しく流れが速い瀬戸内では時に潮待ちをしただろうし、海が荒れればもちろん参拝者は足止めをくらう。そんな時には近くの大きな神社についでに参ろうと思った者もいただろう。金刀比羅と同じく権現さまだったことも幸いしただろう。それ以上に、港の商人たちが積極的に瑜伽山にも参るように勧めたことが想像できる。旅人が一日でも多く逗留すればそれだけ町が潤うからだ。
ともかくそんなことで両参りと言われだしたのだと思われる。

唐突だが講談で有名な森の石松。彼は親分である清水の次郎長に代わって金刀比羅宮に代参した。代参というのは自分で参れない人の代わりに参拝に行くことで江戸時代には盛んに行われた。希望者全員が行ければ問題ないが資金や時間などなかなかそうもいかないので代表者だけ行くわけだ。
「江戸っ子だってね、スシ食いねえ。」はその帰りの船での話。そしてこの後謀略で殺されるのだが、両参りせずに金比羅宮だけの片参りだったので命を落とすことになったという伝承がある。いくらなんでもこれでは片参りはご利益半分どころかばちがあたることになる。遠路はるばる参拝してばちあたりになっては石松も浮かばれないだろう。
ところで当面金刀比羅にお参りする予定はないのだが瑜伽権現だけの方参りは大丈夫なのだろうか。

参道石段の途中に石の鳥居があり扁額に由加大権現とある。そして鳥居の裏にまわってみるとそこには金比羅宮の扁額がある。登ってくるときは由加神社の鳥居として、帰りには金刀比羅宮の鳥居として機能するようになっているようだ。このまま金刀比羅へ参れということだろ。両参りを象徴した道具といえる。

そんな由緒ある神社なのだがとても残念なものを発見した。鳥居をくぐったところに看板が出ててそれが少し気にかかるのだ。
「瑜伽山大権現蓮台寺とは一切関係ありません。蓮台寺ご参拝のかたへ。」
そして蓮台寺の方向へ矢印が書かれているのだ。
参道脇で手に入れたパンフレットもよく見ると
「厄除け、成就、金比羅の両参りは神社で、蓮台寺は葬式、法事のかた。」
などと書かれていて蓮台寺を示す位置には葬式、法事殿となっている。参拝順路も表参道から赤い線で一路神社へ向かっている。
実はこのあと寺の方でも
「瑜伽大権現蓮台寺と由加神社とは何等関係ありません」
という看板があるし、蓮台寺の案内パンフレットには神社が表示されていない。
ここの神社と寺の関係には何か険悪な雰囲気を感じてしまう。

一般に明治の神仏分離令で神仏混肴の寺や神社はそれぞれが切り離される。そうして分かれた寺と神社が隣接するところはお互い関係がよくないようだ。前の余慶寺と豊原北島神社でも仲は悪そうだった。
そのような場合神社と寺を混同することを極端に嫌うだけでなく双方が起源を主張して他方を無視しようとする傾向がある。本家争いのようなものだ。それは寺院より神社でその傾向が強いようだ。神仏混肴とは言っても理論基盤は本地垂迹を基にしているので神に対して仏が優位に立った状態が長く続いたことへの神社側の反発なのだろうか。
しかし、ここほど関係が悪そうなところは多くない。お互い無視するというよりもむしろどこか敵意が感じられる。

案内板では倉敷市は由加山の建築群として寺と神社を一括説明していた。だからというわけではないが元は一つの施設から出たものなのだからもう少し仲良くしてはどうだろうか。
正直なところ多くの参拝者には神でも仏でもありがたければどちらでもいいのだ。戦後になって神仏の完全分離は必要でなくなった。権現に戻って一つになれとはいわないが共存共栄できる方法があるだろうと思うのだが残念だ。今のままでは参拝者に混乱と不快感を与えかねない。

参道を登りきると右手に備前焼の大鳥居が迎えてくれる。拝殿正面からは無理だがそばの権現堂への石段を登ると木立の中に本殿が見えてくる。
本殿は比翼造り。国宝備中一宮吉備津神社の本殿を参考に作られたものとされる。しかし、吉備津神社が平入りなのに対してこちらは妻入りになっているので印象が全く違う。同じ比翼造りといってよいのかどうかもわからない。

本殿背後には巨石がいくつか見えている。瑜伽山の起源はこの磐座信仰から始まっているのは疑いない。
現在、主祭神は手置帆負命(たおきほおひのみこと)でこれは由加大神と同体とされる。もちろん神社が分かれた時に定められたもので明治以前は由加大神とか瑜伽大権現と呼ばれていたはずだ。

吉備児島

○吉備児島 (平成16年10月16日)

国道2号線に戻り国道30号線で児島半島を目指して南下をする。途中道端のラーメン屋に入って遅い昼食をとる。

店の周囲一帯は広い平地で、区画整理された田圃が広がり、道路も直線で両脇は工場や郊外型の店舗がゆったりと建っている。どこからどう見ても干拓地。
それもそのはず昔は岡山や倉敷と児島の間には海峡が横たわり児島は文字通り島だったのだ。当然ラーメンを食べているこの辺りも元は海だった。地名からすると倉敷の南にある早島や玉島も島だったことは間違いないだろう。

現在の児島半島が陸続きでなく島だったことは古くは記紀に記される。伊邪那岐、伊邪那美が日本の国土を造ったいわゆる国生み神話で、本土や四国、九州、隠岐島、壱岐、対馬、佐渡、淡路島などと並んで吉備児島(きびのこじま)として挙げられている。もっとも北陸地方が越洲(こしのしま)となっていて本土である秋津島や大八島と別の島のように書かれているので国生みの島あるいは洲が全て本当の島かどうか微妙な問題は残る。本州の一部のはずがどうして越洲と記されるのかまた考えてみよう。

日本書紀には異説も多く載せられているので創造された島は一定しないがともかくその中に名前の挙がっているものは古来より重要視された島であることは確かだ。児島が含まれていることはそこが瀬戸内海交通の要衝であったことを反映している。
大伴旅人は九州大宰府から京へ戻る時に
「大和道の吉備の児島を過ぎて行かば筑紫の児島思ほえむかも」 6-967
と歌っている。
歌道には暗いが、吉備の児島を過ぎるときには筑紫の児島を思い出すかなあ、と言ったほどの意味だろう。
筑紫大宰府で懇意にしていた遊女の筑紫娘子(つくしのおとめ)は児島(こしま)と称していた。源氏名のようなものだろう。旅人が太宰府から京に登るときにこの筑紫娘子が別れに際して作った歌に答えた一首とされる。瀬戸内航路の途中の児島はよく知られた場所だったことがわかる。
航路は岡山と児島の間だったと想定されているため、このあたりから見える児島半島の山並みは旅人が船縁から眺めた景色とそんなに違ってないのではないだろうか。天平ロマンがあるのかないのか昼飯を食べている店が郊外型チェーン店であることを考えると複雑な感じだ。
それにしても餞別に歌を送るとは古代の遊女は教養がありすぎる。現代の風俗嬢とは違うのだ。

児島が島であったことは平家物語によっても知れる。
平家を追って倉敷まで攻めてきた源氏が児島に陣を敷く平氏と対峙する。しかし両者の間を狭いながら海峡が隔てていていた。軍船を大量に擁して海軍力では圧倒的な有利を誇る平氏軍に船戦を得意としない源氏勢はなかなか襲いかかれない。
この時源氏の佐々木盛綱は土地の漁師から浅瀬が馬で渡れることを聞いて攻め込みこれを機に源氏軍は大勝する。このことからも当時かなり浅瀬の所があるものの児島は海で離れていたことがわかる。この海峡を藤戸海峡と呼び約2kmほどだったとされる。
ところで盛綱は先陣の功をあげたが、情報を独り占めして手柄を立てるために渡海場所を教えてもらった漁師を殺した。世阿弥はこのエピソードから謡曲藤戸を作っているので後世の人もさすがに無関係の漁師を殺害したのは惨いと感じたのだろう。
この戦は藤戸合戦と呼ばれる。浅瀬のことを聞いて海を渡る話は覚えていたが実は今回きちんと調べるまでこれを水島の戦いだ勘違いしていた。水島の戦いは藤戸合戦の前年寿永2年(1183)に京を追われた平重衡などの平氏軍と追撃してきた木曽義仲が戦ったもので義仲はこの戦いに敗れた後勢いを失い進撃してきた源頼朝軍によって討たれる。
児島半島の話題と何も関係ないが水島の戦いは源平合戦で平氏方が勝利した唯一の戦いとまでいわれている。本当にこの一戦しか勝ってないということはないのだが平氏軍はほとんど全敗だったことは確かだ。

さらに児島といえば思いつくのが児島高徳。隠岐へ配流となる後醍醐天皇を奪回しようと津山の作楽神社に潜入したエピソードの武将だ。
名前からわかるように高徳の本拠地は児島にあったと思われる。先の余慶寺のある丘陵には高徳の居城があったとされているが、確かなところは不明で謎の人物だ。

豊原北島神社

イメージ 1

○豊原北島神社 (平成16年10月16日)

余慶寺の境内へ入った道の突き当たり、寺に隣り合って奥に神社がある。豊原北島神社というらしい。間違いなく神仏習合の名残だ。

近寄ってみると看板があってここは余慶寺の収蔵庫ではないので仏像などは納められていないと注意書きがある。要するに覗いたりして探すなということを言いたいらしい。どうやらお寺との仲はよくなさそうだ。

三間社流造の本殿のみ建っている。前にコンクリート基礎工事中で立ち入り禁止の場所があり拝殿再建中とのこと。

神社のさらに奥に土壇となった東遥拝所がある。磐座があり東を向いて日の出を拝する場所であるという。
説明板によると神社の創始になった場所のように書かれているが余慶寺開山の大師が太陽の昇るのを拝したという説もある。
神社と寺の言い分が違うようだが朝日の遥拝所として磐座から出発した神仏習合の寺と神社なのでどちらが正しいとか由緒があるとかいうことではないだろう。
今はって木が生い茂いるので眺望はさっぱり駄目になっているが、平野に少し小高い丘なので東から登るお日様を拝むには絶好の場所だっただろう。

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]


.
同行二輪
同行二輪
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事