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いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

中国観音霊場(第4回)

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旧山陽道、矢掛

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○旧山陽道、矢掛 (平成17年4月23日)

草戸千軒遺跡のあった中洲の上にかかる法音寺橋を渡り国道2号線に戻った後国道313号線に入って北上する。国道486号線と合流し道なりに東へ向かって走る。
途中で313号線は北へ方向を変えるのだがそのまま486号線を総社へ向かう。
この道はいわゆる旧山陽道の一部をトレースしている。旧山陽道といっても江戸時代の山陽道のことで律令制の山陽道ではないらしい。できれば律令時代の山陽道を走ってみたかったのだが道がはっきりわかってない以上どうしようもない。

古代律令制では行政区分として五畿七道があった。
五畿内とは都の周辺の山城、大和、摂津、河内、和泉の五ヶ国で今の京都府南部、奈良県、大阪府と兵庫県の一部にあたる。「畿」とは都のことで近畿地方というのもここからきている。
七道は東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道。この「道」というのは行政区分のことで「地方」にあたる。また行政区分と同時に街道の意味もある。つまり山陽道という「地方」に山陽道という「街道」を整備し幹線道路としたのだ。

七道が今のどのあたりになるかは東海道、北陸道、山陰道、山陽道は想像がつきやすい。東山道は江戸時代の中山道沿い。京から東に向かう海沿いの道が東海道で山の中の道が東山道なのだ。西海道は今の九州。南海道は四国と和歌山県になる。
律令制の税は租庸調で米のほかその地方の特産物も納めさせた。そのため気候、風土が似通った場所を行政区分とするのが都合がよかったのだ。南海道などは妙な区分けになっているように感じられるが実は気候区分に近い。昔の人は賢かった。
もちろん街道の整備は税を効率よく中央に運ぶために必要だった。そして道路としての「道」はその大きさから大道、中道、小道に分けられた。唯一、大道とされたのが山陽道だったのだ。

この道を西へ向かうと福山の北にある府中に着く。その地名は備後の国府があったことからきているわけで、律令時代の道がどこを通っていたのかはわからないが旧山陽道と似たような所だったのは確かなようだ。この道を通ることでよしとしよう。

矢掛町に到着。ここは旧山陽道に沿って残る本陣が有名。もちろん参勤交代に大名が利用したものなので江戸時代のことだ。
国道脇の観光協会にバイクを停めて本陣について尋ねる。残念ながら拝観できるのは4時までで多分入れないだろうとのことだ。陽は長くなって明るいがもう4時を20分ほど過ぎていた。

旧山陽道とされる旧道に入る。かなり整備されていて景観に気を使ってあり時代を感じさせる町並みがあった。
門前の案内には5時までとあるが旧矢掛本陣石井家、旧矢掛脇本陣高草家ともに閉まっている。観光協会の4時までというのが正しいようだ。本陣の観光はまたの機会として風情ある町並みをながめた。それでも十分趣を感じられた。

東に向け道は小田川に沿って続く。どちらに流れているのか。ほぼ平地なのでおだやかな流れだ。河原にはえる草をよく見ると進行方向に傾いている。どうやら行く先は川の流れと同じらしい。

ここは現代の山陽の主要道である国道2号線と比べて随分と内陸を走っている。一般的に古代の道路は川沿いや海沿いなどを避けて山の中を通る傾向にある。これは治水と橋の造築技術が発達していないと河口付近が沼地や広い川幅になっていて通行するのが難かったからだ。
特に瀬戸内では海岸沿いは船による航路が使えたため港が整備されていればよかったという事情もあるだろう。船による圧倒的な輸送量を考えれば港湾都市同士を陸上交通で継ぐ必要もない。渡河に苦労する必要のないやや山間部に入ったところを通行するのが都合がよかったと思われる。

草戸稲荷神社

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○草戸稲荷神社 (平成17年4月23日)

明王院の境内まで戻ってさらに隣の神社へ足を向ける。遠くから眺めて明王院と間違えていた朱塗りの社だ。これが草戸稲荷神社。何も由来書がないが隣接している明王院と無関係ではないはず。
後日調べたところやはり空海が明王院の鎮守として祀ったものと伝えられているらしい。なるほどと肯ける当然過ぎる結論だった。

稲荷社が鎮守とされるのは愛宕神社のような直接のご利益のためとは少し違う。
これは空海が京都の東寺を下賜されて真言密教道場としたときに東寺の鎮守として稲荷神社を祀ったことに始まる。そのため真言宗では稲荷社を寺の鎮守とすることが多い。
どうして稲荷神を祀ったのかというと、東寺の伽藍を整備するのに伏見稲荷神社のお山から用材の調達を融通されたから敬意を表してだという説がある。伏見稲荷自体が空海の密教教化を助けるために熊野の翁姿で現れた稲荷神を祀ったものだという話さえある。もっとも伏見稲荷の方が空海の時代より創建が古いようなのでこの話は少し無理があるが。
正確なところははっきりしない。密教側の神道への気遣いや懐柔ではなかったかともいわれているが、東寺にも伏見稲荷にもお互い都合がよかったという背景があったのだろう。

神社の説明によると全国でも数少ない懸崖造の古社とされる。懸崖造というより巨大な櫓に見えてしまう。コンクリートと鉄筋で柱状に高く組まれているからだ。本殿の下には拝殿がある。拝殿は桧皮葺でこちらのほうが本殿よりも歴史があってありがたい雰囲気がする。

拝殿では祈祷中で祝詞が聞こえるがまるで音楽のようだ。太鼓が打ち鳴らされているがそのリズムが非常に早い。その上祝詞も抑揚が付いていて節回しがある。あまり厳かな感じがしない。少し変わっている。
本殿には自由に上れる。下の拝殿で祈祷している真っ最中にその上に昇って行っていいのだろうか。

上の本殿前は展望台のようで芦田川がよく見える。その中洲が草戸千軒遺跡になるが残念ながら遺跡は工事のため発掘の後全て掘削されて消滅している。何百年も川底に眠って中世の町を閉じ込めてきた遺跡も公共事業のもとに完全に消え去ってしまったのだ。無常を感じないではいられなかった。

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○第八番、中道山、円光寺、明王院 (平成17年4月23日)

福山市内の国道2号線を西へ向かうと神島橋から左手前方に赤いお稲荷さんのような派手な建物と太鼓橋が見える。そこが札所と判断して近づく。目印としてはとてもわかりやすい。しかし明王院はその隣だった。渡ってきた川が草戸千軒の芦田川。

寺伝によれば平城天皇の大同2年(807)、空海が唐からの帰国の途中に草戸千軒の港に立ち寄り草庵を結んだのを開基とする。
空海というのはあの弘法大師空海のことか。さすがはお大師さん、いろいろところで伝承に関係している。
調べてみると空海は806年に唐から帰っているが入京の許しが出ないため九州大宰府に滞在したことになっているが、809年都に入るまでのはっきりした行動がわかってない。この空白の時期に創建の由来を設定しているのは実に心憎い。
もっとも、平安時代にはまだ草戸千軒は瀬戸内交通の港となってないことを博物館で勉強してきた。空海が立ち寄るとは思えない。

参道の石段を登ると正面に入母屋の本堂とその左に国宝五重塔がある。
境内には数人の素人カメラマンと思われる人々がカメラで塔を様々な角度から狙っている。新緑の木々をバックにそびえる朱塗りの五重塔は確かに美しい。どこから撮っても絵になりそうだ。

本堂も堂々と建っていてこちらも国宝。和様と唐様の折衷様式の貴重な建物らしいがそのあたりのことは建築知識がないためよくわからない。ただ建築様式のためなのか朱塗りのためなのか本堂は大変大きくて立派なのだが重厚というより少し線が細く華奢な印象を受ける。繊細と華麗といったほうがいいかも知れない。塔と比べると少し弱い感じがするがとてもよい寺だ。

本尊は33年に一度開扉の秘仏で尊顔を拝することは出来ない。
開帳しないのならそれでも一向に構わないのだがお姿が何も見えないのはいかにも残念な気がしてしまう。秘仏の場合はせめてお前立ちを安置してもらいたいと思うのは信仰心が足りないのか。

納経所ではとても若い奥さんが対応してくれた。二十歳前後に見受けられる。ひょっとすると奥さんではなく娘さんかも知れない。さすがに高校生ではなさそうだ。いずれにせよあまり若い女性が朱印を下さることは少ないので意外だった。

塔の後ろの崖に龕が掘られ小さな石仏がおられたが詳細は知らない。
明王院五重塔を回りこみ境内奥に進むと鳥居があり愛宕神社と書かれた扁額がかかっている。
案内板を見ると遊歩道のような参道の先に神社があり、さらに上には奥の院と書かれていた。時間にも余裕があるので行ってみることにする。
裏山によじ登る参道をしばらく歩くと大きな天狗のお面が壁にかけてある建物があらわれる。これが愛宕神社らしい。しかし建物は新しく倉庫風というか公民館風というか全然風情がない。特に名前が書かれているものはないようだが天狗のお面があるからには愛宕神社で間違いないだろう。それにお百度石も立っているので公民館でないのも明らかだ。

天狗が愛宕神社の目印になるのには訳がある。全国愛宕神社の総本社は京都の愛宕山山頂に鎮座する愛宕神社で、そこの祭神が天狗だという伝承があるのだ。
太平記には愛宕山で保元の乱に破れ天狗の首領となった崇徳上皇が恨みを抱いて亡くなった後鳥羽上皇や護良親王等の無念の怨霊となった者たちと天下を乱す密議をすることが語られていたというような話があったような気がする。とにかく今では鞍馬山のほうが有名になったが、古くから天狗といえば愛宕山だっのだ。

社の前は崖に向かっている。そこに炭となった木が堆積しているのは何だろう。何かを大量に焼いた跡なのだが祭りの関連だろうか。謎だ。

ここまでの道は登山とはいわないが結構大変だった。そしてそこからは本当に登山を思わせた。途中で少し後悔しながら登ると時計に付いた高度計で80m、ようやく建物が出現した。ここが奥の院か。なんだか倉庫に見える。
説明版によると、草戸愛宕神社本殿で明王院の防火の鎮守社であったが明治の神仏分離により現在は草戸稲荷神社に属している。 そして市の重要文化財の本殿は覆い屋内に納められているとのことだ。

明王院の奥の院だということで磐座か古いいわくありげな社を想像して登って来たが鎮守だというので少しがっかりした。文化財の社殿も覆い屋の中にあって見ることができない。景色でもよければまだましだが周りは木々に囲まれ眺望もきかない。
ここまで来て他に何かないのかと道がまだ続くので進んで行くとベンチのある広場に出た。せめて芦田川と草戸千軒跡でも見えるかと期待したが方向が違う。まったくないない尽くしだ。さらに向こうに展望台が見えるが少し遠い。引き返す。
山つつじがきれいなのが唯一の見どころか。

ところで愛宕神社が防火の鎮守とされるのには天狗とは別の理由がある。京都愛宕神社の主祭神は火神の迦倶槌命ともされていて火伏として有名だ。ご利益は火の用心なのだ。愛宕神社を勧請する場合は火事の防止を願うためで天狗を呼びたいのではない。
実際には愛宕神社は神仏習合の社で修験道とも密接に結びついているのでその祭神やご利益などなかなか一筋縄では行かないことが多い。神と仏さらには道教や民間信仰などが複雑に錯綜していているようだ。

広島県立歴史博物館

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広島県立歴史博物館

三原久井ICまで戻り中国自動車道へ乗る。福山SAで昼食に尾道ラーメンを食べる。イリコ中心のダシ汁のようでさっぱりしていておいしい。福山東ICで下りる。途中二輪の二人乗りを見かけた。今年の4月1日から高速道路の二輪車二人乗りが許可されたのだ。

福山城を目指す。山陽新幹線に乗っていると城は駅の近くということもあり車窓からはっきり目に出来る。とても目立つので一度は行ってみたくなるし、もちろん観光施設の一つだ。しかし残念ながら城は福山城博物館と呼ばれるよくある再建ものだったので今日わざわざ行くつもりはない。目的地はその隣の歴史博物館だ。この後の札所である明王院と関係がある。

草戸千軒。知る人はそれほどいないだろう。
福山市を流れる芦田川河口の三角州上にかつて存在した町の名だ。最盛期は鎌倉時代から室町時代にかけてだが平安から江戸時代まで続いた。瀬戸内海航路の中継港として、また芦田川から下る産物の積出港として賑わったという。
千軒というのは実際の建物の数ではなく、それだけ多いということで繁栄振りを示している。
その昔、芦田川の西岸に常福寺、東岸に明王院という寺があったらしい。江戸時代に福山城主が明王院を常福寺に合併し名前を明王院と改めた。これが現在の明王院とされる。草戸千軒は常福寺と明王院の門前町としても存在していた。明王院は草戸千軒なしには存在しないのだ。

草戸千軒という名前は江戸時代の中頃に記された「備陽六郡志」に、寛文13年(1673)大洪水で一夜にして川底に埋もれ、それ以後は人が住まなくなり滅びてしまった伝説の町として紹介されている。そして1930年頃、芦田川の改修工事中に大量の古銭や中国製陶磁器の破片などが出土して幻の町として噂だけたった草戸千軒の存在が確認された。
さらなる河川改修工事の必要性から、本格的な調査が1961年から1994年まで行われ、中世の集落遺跡であることが判明した。調査期間が非常に長期にわたっている。
木製品や繊維製品が良好な状態で保存されていたことが特徴らしい。
しかし、何よりこの遺跡を有名にし素人考古学ファンにロマンを感じさせるのは、やはり一夜にして埋まったという滅亡伝説で、東洋のポンペイとか日本のポンペイなどと呼ばれる。

発掘調査によると集落は13世紀中葉に成立し港町として栄えたが、芦田川の堆積によって河口が南下して徐々に港としての機能を果たせなくなり16世紀初頭には衰退した。そしてそれ以後は町としての景観を失っていたらしい。
町に関しての具体的な内容は備陽六郡志にもなく、記述者も実際に町が華やかな時を知らなかったことを示している。大洪水のあった寛文13年(1673)には既に町とは呼べない状態だったと考えられている。

かつて中国貿易にも関与した程大変に繁栄した港町が芦田川河口にあった。寛文13年大洪水があった。そして今は栄華を誇った町は跡形もなく消え去っている。このようなことが合わさって滅亡伝説が生まれたと考えられている。
伝承は全く事実と異なるという調査結果を博物館で知った。民衆のロマンは科学の発掘調査の前に敗れた。ポンペイのように一夜で町が埋もれたのではなかったのだ。

博物館には草戸千軒の町並みが復元されているというので是非見ておきたかった。以前に城を見学したときにはこの施設を知らなかった。
二階の展示場の一室に町の一角が実物大で復元されている。屋内復元なので狭く町の通りが一本あるだけだ。しかし作りはしっかりしている。こういう施設を屋外に作るとお金がかかるため保護と維持が十分出来ずに荒んでしまうものだが室内なので荒れてないのもいい。
14世紀の初夏の夕暮が設定してあるという少々薄暗い照明の中で中世の町が静かに迎えてくれる。幸いというか不幸というかここの博物館も一般客には人気がないようで誰もいないため、物音なくシーンと静まり、実際に滅んだ町の一角を切り取ってきたようだ。通りに足を踏み入れると住人を含めて生き物が全て突然消え去った中世にタイムスリップしたような錯覚さえ起こす。限られたスペースでこれだけできれば立派なものだ。

一方、一般展示は瀬戸内交通交易がテーマだが残念ながら展示も掘り下げ方も弱い。厳しいようだが取り立てて見るべきものに乏しい。ここにも何か一つ大きなものが欲しいところだ。
入館料290円のほとんどは草戸千軒の値段と考えてよい。一般展示だけなら明らかに高過ぎる。

ここでのんびりしているのは今日の予定札所は次の明王院で終わりだからだ。一日で札所がたった二ヶ所というのは少なすぎるかもしれない。しかし、納経所が閉まる時間を考えるとどうしようもなかった。

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○第十二番、御許山、佛通寺 (平成17年4月23日)

巡礼の巡はめぐるという字。今年も季節がめぐりお寺をめぐるにも良い季節となった。
平成17年4月23日、7時半、三原に向けて出発した。
全経路高速を使うと時間的には早そうだったが予定では急ぐ必要はないはずなのでゆっくり下道を走ることにした。最近は出来る限りのんびりと廻ることを心がけるようにしている。今までの経験からあせって廻ると気持ちに余裕がなくなりよくないことが起きやすい。また急ぐことは巡礼の目的からも外れるように感じられるのだ。

中国山地を国道180号線、183号線、432号線と縦断して走り、甲山で県道25号三原東城線に入って三原久井のインターを目指す。山の中では水を張った田圃が目に付く。平地ではまだまだだが山中ではそろそろ田植えの準備が始まろうとしているようだ。水ぬるむ季節となり春になったことを実感する。

インターからは山陽自動車道と平行してしばらく進むと仏通寺の案内板が出始めた。後は看板を頼りに走ってゆく。
山中寺院で山の上にあると思っていたのだが予想に反して道は谷へ向かって下り行く。途中から民家はなくなり人里はなれた山の中であることは間違いない。
途中に仏通寺温泉跡地という看板を発見した。掘っ立て小屋がうち捨てられているようにある。旅館やホテルがあったわけではなさそうだ。いきさつは不明だがいかにも寂しい。北海道に点在する人のいなくなった開拓小屋を彷彿とさせる。

道は狭いが待避所が沢山設けてあるので車でも大丈夫だろう。11時、予定より早く到着した。
寺域は谷底のような地で山に囲まれている。参道の両脇には立派な杉木立が続き厳粛な雰囲気が漂う。伽藍も大きく落ち着いた佇まいを見せている。由緒ありそうな大寺院だ。

下ってきた道沿いの川が仏通寺川。この川が聖と俗の結界となっている。
イヌマキの大木が橋のかたわらに在りこれも境内へ入るものに睨みをきかせているようだ。橋は屋根を持ついわゆる呉橋形式で周りにもみじが多く東福寺の通天橋を思わせる。秋は紅葉の名所とのことなのでその季節はさぞ賑やかなのだろう。

堂宇のあちこちに見られる花頭窓が禅宗寺院であることを示している。
山門の正面に本堂が建つ。堂内は禅寺らしく土間となっていて釈迦如来が安置してある。両脇侍に騎像普賢菩薩と騎獅子文殊菩薩を伴う立派な三尊。堂内は床張りではないし周囲に荘厳も少なくて簡素な印象を受ける。
人気がなく静かだというだけでなく伽藍に装飾が少なく落ち着いた雰囲気でいかにも修業道場といった趣がする。禅寺ならではだろう。一種札所の感じが少ない。
西国三十三観音霊場は真言宗天台宗がほとんどを占めて禅寺がない。そのためここのように落ち着いた寺が少なかった。中国三十三観音霊場は禅宗寺院が多いのが特徴かも知れない。

観音堂は境内左手にあり、50cmくらいのかわいらしい十一面観音がお前立ちとしておられる。厨子内の本尊は拝めないがお前立ちのおかげで拝めない残念度がかなり軽減する。

樹齢150年といわれる臥龍の松をながめながら納経所に向かった。若いがキリッとした感じの僧が習字の楷書のように丁寧に墨書して下さる。お寺の印象が落ち着いているためか納経帳へ向かって筆をとる姿も修行の一つに見えるから不思議だ。
境内で老人と会う。時々巡礼者に会うのもまたいい。

開山堂への石段を登る。セーターを着込んでいるが朝は寒かったし途中の中国山地中は8-9℃の表示だったのでそれでちょうどよかった。この時間は気温が上昇しているうえに階段を登るので暖かくなり少し汗ばむ。
登りきると開山堂と地蔵堂、さらに禅宗には珍しい朱塗りの多宝塔が建つ。
残念ながらお堂は両方とも閉まっている。地蔵堂の方は左隅の障子が破られていたので、失礼して中を覗かせてもらった。薄暗い堂内にひっそりと地蔵菩薩坐像がおられた。覗きをたしなめられたような気がする。しかし障子に穴が開いているところをみると心理として誰もが中を見たくなるということだろう。明らかに故意に破られている。

多宝塔は崖の縁に建つ。塔の脇には遊歩道が続く。隣では小さな滝がすずやかな音をたてて流れ落ちている。本堂とその後ろの山が正面に見える。ここから眺めす姿は霊気漂う気配がする。

静寂を破って上空から轟音が響いた。ここは広島空港が近いため飛行機の離着陸で爆音がするのだ。飛行機の飛び去った後は再び滝の音だけが残った。

駐車場はバス停兼用となっている。走って来た道と反対の三原方面からバスが来るのでそちらは道が良いのだろう。時刻表を見るとバスは一日4便しかなかった。

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