同行二輪

いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

中国観音霊場(第5回)

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 次のページ ]

不動院

イメージ 1

○不動院 (平成17年5月29日)

ここから先は山口県の札所になり遠くなる。今回の目的は三滝寺で終了したのでこれで帰ってもいいのだが、以前から広島に来るたびに一度寄りたいと思っていた寺があるのでそこへ向かう。都合の良いことに帰り道の途中だ。

アストラムラインの不動院前駅近くから住宅地に入る。案内が全く出てないので一度迷うが何とか見つけた。国道54号線の直ぐ下。北側から国道を走って入るのが近づきやすいようだ。

周囲は住宅に囲まれ門前も少々寂しいが堂々とした楼門が迎えてくれる。本堂は国宝。建物全体は力強い印象を与える。入母屋に裳階をつけた構造になるのだろうか。二重の屋根のそりは優雅で優しさが感じられる。
広島市内にある唯一の国宝建築ということで機会があれば見たいと思っていたのだ。

原爆投下によって広島市街は廃墟と化したので現在の中心地には古い建築物は何も残っていない。ここは爆心地から4km離れているため被害は爆風だけで倒れなかったらしい。

境内は広いのだが本堂の他には鐘楼堂と不動堂があるだけでその広さの割りに伽藍が少ない。その昔は大層な寺勢だったのだろうがそれを忍ばせるものは空き地だけだ。
昭和20年8月6日、水を求め郊外へ避難する被爆者でこの境内はあふれかえった。先の三滝寺も被災者が殺到したということだ。

広島ICから山陽自動車道、広島自動車道と利用し中国自動車道の安佐SAで遅い昼食を取り庄原から昨日来た道を帰った。
SAではサイドカーのツーリング集団を見かけた。あのサイドカーに乗って高速道路を運ばれるのは怖そうだが実際どうなのだろか。

560kmの二日間の旅だった。

イメージ 1

○第十三番、龍泉山、三瀧寺 (平成17年5月29日)

広島の中心を突き抜けて市街地の北西にあるJR可部線の三滝駅方面を目指す。三滝橋で大田川を渡りそのまま山へ向かって登ってゆく。

事前調べで山寺のようだと少々警戒していたが割りに広い駐車場があった。
実は先行きが不明なので広い道の脇に路上駐車して、そこから歩こうとあたりを見渡していた時、散歩のおじさんがバイクを見て声をかけてきた。
鳥取から来たの?。どこへ行くの?。三滝寺。それならそこを登ったところ。上に大きな駐車場があるわ。
結局、お寺までの道にも駐車場にも全く問題がなかった。

市街に近く平和記念公園から直線で3kmほどしか離れていないのだが100万都市の郊外とも思えない静けさ。山深く分け入ったような錯覚をおこしてしまうほどだ。小川のせせらぎが涼やかな音をたてて流れている。

木々に囲まれた参道をゆっくり進むと瀬音が強まる。右から流れが加わるが、その奥が駒ヶ滝のようだ。何故か小道のど真ん中に鐘楼がある。参道から鐘楼をねらってスケッチをする人がいる。確かに絵になる。
背後の三滝山へ登山遊歩道がある。都会の片隅に森林浴の出来る清々しそうな散歩道で心ひかれるが行程は1km以上もある。また機会があれば歩こう。

参道は谷を流れる川沿いを奥に向かって伸びる。途中に梵音の滝と補陀洛の庭というものが見えてくる。柱状切離の石柱が立てられた庭で他ではあまり見かけない。奇抜な風景で現代作家の庭といっても通じそうだ。

右手の多宝塔は原爆犠牲者の菩提を弔うため他から譲られたものという。ここは爆心地からは少し山陰になっているが爆風で堂宇は倒壊したらしい。広島はいたるところ原爆と無関係ではない。

本堂は懸け造りになっていて舞台下の崖を滝が流れ落ちる。崖には石仏がいくつも安置してある。
小ぶりの1m足らずの十一面観音菩薩を本尊に、左脇侍不動明王、右脇侍阿弥陀如来、前には弘法大師坐像を中心に左に地蔵菩薩、右に役行者。さらに須弥壇左には愛染明王、右には観音像が二体。大きくもない本堂に少し詰めすぎている。以前は堂宇がもっと沢山あった証拠だろう。

本堂の裏、境内の一番上に岩に囲まれて鎮守堂があり天神と山神が祀られる。ここの巨石は磐座のようだ。
細い小さな滝が流れ落ちていて幽明の滝という。参道途中の二つと合わせて三つの滝があるところから三滝寺と呼ばれるようになったという。滝といっても皆小さなものなので数の多さが珍しいのではなく、流れ落ちる水源が全て違うのがこの小さな規模の谷にしてはあまりないらしい。
ここの狛犬は妙だ。何にかを手に掴んでいる。判然としないのだが魚か子犬のようにも見える。北海道の熊ではないので鮭を持っているとは思わないが今まで見たことがない。結局何なのかはわからなかった。

本堂横の納経所脇には異国情緒豊かな仏像が並んでいる。東南アジアの仏ということだ。どのような縁で置いてあるのだろう。

本堂周辺は岩と崖が多く石仏や摩崖仏がいたるところ彫られている。滝に巨石という修験道になくてはならない舞台装置がこれほど見事に揃っていれば修行僧が集まり伽藍が整ってゆくのは必然だろう。小豆島の山岳霊場を思い出した。

本堂向かいに三鬼権現が祀られる。宮島の大聖院にあったあれだ。思いがけないところで思いがけないものに出会った。距離的にも遠くはないので大聖院と何らかの関係があったとしても不思議ではない。

むしろ不思議なのは人が結構来ることだ。何をしに来るのだろうか。確かに深山幽谷の風情を気楽に味わえるが有名な観光寺院でもないのに途切れることなく一人二人と参拝者がやって来る。どうやら遠くではなく市内からの人のようだ。避暑、紅葉狩り、遊歩道散歩、森林浴、ほっと癒されになど割と気楽に来られる寺ではある。

広島平和記念公園

イメージ 1

○広島平和記念公園 (平成17年5月29日)

そろそろ車が多くなった国道2号線をホテル近くまで戻る。目的地は平和記念公園。ここも初めてではないがどうしても寄ってみたかった。命の大切さ、平和のありがたさを考えるならここは番外札所に指定されてもいいと思っている。

まず平和記念館へ入る。観覧料50円。安すぎる。入館料を取らないと無茶をする輩が勝手に出入りして施設が荒れるので申し訳程度に設定されているようだ。一人でも多くの人に観てもらいたいという広島市の気持ちが強く伝わってくる。

中学校の修学旅行以来なので展示は変わっているらしい。らしいというのはよく覚えてないのだ。

内部が原爆ドームを模った構造の東館には原爆投下を中心に広島の被爆前後の歴史が展示されている。熱心にメモを取る外国人が多い。日本人もここではそこいらの観光施設とは態度が違う。
しかし、館内ショップでの外国人には記念メダルが大人気のようだ。英文解説本などはほとんど目を向ける人がいない。真面目なのかどうなのか、なんだかよくわからない。

東館はかなり淡々と事実のみを伝えるといった感じになっている。社会見学の学習や講義のようだ。それに対して西館では原爆被害の悲惨さを主眼に展示してある。被災を生々しく伝えていて胸を打つものがある。なす術もなく消えていった命を思うと涙ぐんでしまった。最近年をとって涙腺の締りが弱くなっただけではないだろう。
何かせねばと記念館資料館の本を買ったがこれは何かの役にたったのだろうか。

筆力の問題から何も伝えられないのが残念だ。百聞は一見にしかず。ここは広島を訪れる者は一度は来なければいけない。特に巡礼者は義務だろう。やはり番外札所に指定するべきだと強く思った。

記念館を出て、原爆死没者慰霊碑の前で線香と心経をあげた。これくらいしか出来ることがない。
平和のありがたさに感謝した。

イメージ 1

○第十四番、多喜山、水精寺、大聖院 (平成17年5月29日)

宮島厳島神社の宝物館を出て路地を山へ向かって歩いてゆくと大聖院への参道へたどり着く。このあたりまで来るともう本当に観光客はまばらで静かだ。神社周りの喧騒はなんだったのかと思ってしまう。

ここは厳島神社の別当寺として発展した。島の中央にそびえる山を弥山と呼びぶのだが、これは仏教でいうこの世界の中心にそびえる須弥山のことで、仏教が入ってきて神仏習合が進んだ後に呼ばれ始めたはずだ。
厳島神社の祭祀を司った別当寺の水精寺には今とは違ってもっと多くの塔頭があったと思われる。大聖院はそれら塔頭の総本坊だったということだ。

ずいぶんと以前に参拝したことがある。久しぶりで少し懐かしい。
境内に足を踏み入れると正面に波切不動を安置する本堂があり右手に札所である観音堂が建つ。

観音巡礼なのでまず観音堂へお参りをする。
本尊は十一面観音菩薩。厳島大明神の本地仏とされる。宗像三神は三柱なのにその本地仏が一体とは数が合わない。実は仏が垂迹するときに複数の神に分かれたり逆にいくつかの仏が一つになって神として現れてもいい。このあたり本地垂迹説はかなり融通が利く。本来全く別々の宗教概念である神道の神と仏教の仏を融合させなければならないために厳密な教義で固定してしまうのは無理なのだ。先人の工夫の跡だが見方によっては御都合主義ともとれる。
本尊も明治まで厳島神社に祀られていたが神仏分離でここに安置されるようなったものだ。

本地仏が十一面観音菩薩一体なのは別の理由もありそうな気がする。厳島では三神という認識が弱く厳島大明神と呼ばれるように一柱としてとらえられる傾向があったのではないだろうか。また、厳島神社の主祭神は宗像三神となっているが元々は違うのではないかと思われる。
厳島が祭祀を行う島、斎祀る(いつきまつる)島で、斎島なのは疑問の余地がない。そこに祀られる、あるいは住む神は斎島の姫神と呼ばれたのが最初ではないだろうか。斎島の姫神、すなわち「いつきしまのひめがみ」で市杵嶋姫命。厳島に祀られる神は市杵嶋姫命と呼ばれるようになる。
そしてこの市杵嶋姫命の名前を、やはり同じように沖ノ島という島を御神体として宗像神を奉ずる宗像氏が取り込んだのではないだろうか。その過程は宗像氏の瀬戸内航路への勢力拡大だったかも知れない。
市杵嶋姫命が加わった宗像三神が形成された後に、逆に厳島の固有の斎島の姫神に宗像三神が結びついたと想像するのは個人的にはかなり良いような気がする。

十一面観音像の前にチベット密教の巨大な砂曼荼羅が作られている。相互交流があるようだ。砂曼荼羅は様々な色に染められた砂を絵の具の代わりにして地面に描く極彩色の曼荼羅でチベットでは儀礼のたびごとに作り役目を終えた後は崩すのだが、ここではそのまま堂内に保存してある。
残念なのは須弥壇右に古い扁額やら斗供の組み物やらが置かれてまるで倉庫の様なこと。少し見苦しい。整理したほうがよさそうだ。

奥の本堂に本尊の波切不動が安置してある。境内は山の斜面にあるので広くはないが多くのお堂がありそれぞれに仏像も多いためなかなか全てを廻ることも出来ない。さらには裏山から続く弥山山頂にも大日堂、弥山本堂、霊火堂、三鬼大権現、奥の院など多くの伽藍を持っている。一度は弥山の各堂を廻ってみたいのだが未だに期会がないのが残念だ。

本堂の裏の境内一番上に摩尼殿がある。弥山にもある三鬼大権現が置かれる。三鬼大権現とは大日如来、虚空蔵菩薩、不動明王のことで福徳、智恵、降伏を備えた守護神だという。この名前は一般的ではなく聞いたことがない。響きからは蔵王権現などと同じく修験道系の護法神のようだ。弥山山頂は巨石があり古代磐座と考えられているので修験道と関連していても不思議はない。

三鬼は宗像三神の本地仏として創られたと想像するのは無理だろうか。
本地仏の対応はかなりルーズで同じ神でも神社で違っていたりする。宗像神も宗像大社では辺津宮を釈迦如来、中津宮を大日如来、奥津宮を薬師如来としており、宗像三神の市杵嶋姫命を祀る厳島大明神の十一面観音とは全く違う。更に、厳島は本地を胎蔵大日如来とする説もあり必ずしも決まっているわけではない。
いつの頃か弥山修行者の中に宗像三神の本地を大日如来、虚空蔵菩薩、不動明王とする考えがありそこから三鬼大権現が感得されたのではないだろうか。何の根拠も資料もないのだが。
もっとも巡礼に関連した想像はほとんど全て無責任な空想なので三鬼大権現だけが特別なわけではない。それなりに自分で納得して満足すればそれでいいのだ。

境内には西国三十三観音の石仏があるし、四国八十八ヶ所のお砂ふみもある。なんとここだけで西国も四国も終わる。お手軽だが二大巡礼地が揃っているのは完璧すぎる。
ありがたく廻らせて頂いた。数の点で33に対して88はかなり多いというのが率直な感想だった。

のんびりと御成門へ戻ってゆく。モミジの木が多い。秋は美しそうだ。ふとこの規模の伽藍をどうやって維持しているのか疑問が湧いた。宮島は神の島なので墓地はないはずだ。それならこの寺に檀家は存在しないのではないだろうか。確かに三々五々と旅の参拝者がやって来るがそれだけで寺院経営が成り立つとも思えない。どうなっているのだろう。

厳島神社参道まで戻るとシンボルの大鳥居は海の中に浮かんでいた。大変な勢いで潮が満ちているようだ。日本海は干満の差がないので瀬戸内のようにダイナミックに砂浜が出現したり海中に没したりするのがとても不思議に感じられる。

今日は日が良いのだろうか参道を新郎新婦を乗せた結婚式の人力車が進んで来る。外人旅行者が盛んにカメラに新婚を収めていた。

それにしてもここは観光客が多すぎる。そろそろ土産物屋も店開きしていて朝以上に騒がしくなっている。巡礼者が似合わない場所だ。
フェリーは来る人で一杯だが本土へ帰る人は少ない。これからさらに宮島は賑わう時間となる。

厳島神社

イメージ 1

○厳島神社 (平成17年5月29日)

宮島口フェリー乗り場横の駐車場へ入った。この近くは車を停めておける場所が少ないのだがそれにしても500円も取られた。車と同じ駐車代金というのは少し高すぎる。いっそのこと停めずにフェリーで渡すという方法もあるが片道380円のフェリー代の方が高くつく。島の道は狭く交通規制も多いしバイクを使う予定もない。どうにもしかたがない。ちなみに乗船は片道170円。

今回の巡礼で3回目の船。どのフェリーも乗っている時間が短すぎて旅情をかきたてられないのが残念だ。

海の向こうに近づいてくる大鳥居と朱塗りの社殿、その背後にそびえる弥山はいかにも神の住む島という威厳を感じさせる。山が原生林として手付かずのまま残されていることが見る人へ神聖な印象をさらに強く与えるようだ。
わかりきったことだが、「厳島」とはそのものずばり「斎(いつき)島」のことなので島全体が聖地になっている。神そのものである島へ参拝するのは船であり大鳥居に向かって海が参道になっていたのだ。

世界遺産に登録された海に浮かぶ華麗な寝殿造りの社殿。平清盛は満潮になれば海上楼閣となる砂浜に宮を建てた。この発想はなかなか思いつかない。海の女神を祀るので竜宮を模したからとも、海を当時流行した浄土庭園の池に見立てたとも、海のかなたの極楽浄土を映したともいわれる。
島そのものを神であり御神体であるとみなしたため上陸することなく浜から拝むようにしたからという説もある。海の参道を通り船でしか参拝できないことを考んがえると最も理にかなった説明に思われる。しかし、実際は一つの理由ではなく多くの信仰を元に今の地に今の形に作り上げられたに違いない。

10分の船旅で島に上陸する。引き潮の大鳥居周辺には学生服の大集団がいる。まだ参道脇の土産物屋が開いてない時間ということもあり観光客以上に修学旅行の生徒が目に付く。宮島に泊まっていた学校だろう。そういえば中学校の修学旅行でこの島の旅館に泊まったがどこだったか全く覚えてない。
参道も修学旅行生徒であふれて大混雑。あちらこちらで出発前の点呼や班長を呼んだりする声が聞こえる。
愛想をふりまく相手の旅行者が少ないので鹿はのんびりしている。

いつ来ても厳島神社は美しい。華麗、壮麗、優美、優雅など陳腐な語彙でしか形容できない文章力が情けない。
松島、天橋立と並び日本三景の一つだが、そのうちで唯一人工物なのが厳島神社だ。昔の人も自然美に匹敵すると感じたのだろう。日本を代表する建築であることは間違いない。そして、その美しさを背後の弥山の緑がさらにひきたてて神々しさを加える。

満潮になれば社の周囲は海面となる。一度海上に浮く姿を見たいのだが何度来ても満潮時に出会わない。今回もまた潮干狩りができそうな引き潮だ。

受け付けから入り東回廊を回ると平家物語の「平康頼卒塔婆流し」の卒塔婆が流れ着いたとされる伝説の場所がある。
平清盛全盛の頃、平家打倒の陰謀を鹿ヶ谷で企てたが発覚し鹿児島の鬼界ヶ島、現在の硫黄島に流された平康頼、藤原成経、僧俊寛。康頼は年老いた母を思って都をしのぶ歌を刻んだ卒塔婆を島から千本流した。そのうちの一つがここ厳島に流れ着き、その卒塔婆が母親の手に届いた。この話が宮中で話題となり清盛も哀れと思って娘の中宮建礼門院徳子が懐妊したとき男子誕生を願って大赦を行い平康頼と藤原成経は赦された。
歌舞伎や能などにも題材として取り上げられた有名な逸話だ。他の資料にも載っているので全くの作り話ではないらしい。潮の流れは意外なところへ思いもよらないものを運ぶものだ。流れ着く可能性はあるが康頼縁の者が卒塔婆を自分で作って話を創作した可能性のほうが高そうな気がする。
ちなみに、この時俊寛は赦免されなかった。

社殿は昨年の台風の傷跡がまだ癒えてない。屋根の一部は剥がれたままになっている。流された左楽坊と舞台も修復工事中なのが痛々しい。丘の上にそびえる千畳閣の三重塔も改修中で足場で囲まれている。これも台風被害の修理だろうか。

案内係やバスガイドが団体客にそこかしこで説明を行っている。聞こえてくる声がやたらと解説ばかりで博物館の見学のような気になってしまう。拝殿の前で参拝するより外の静かな場所から眺めていたほうがありがたく感じられるのは気のせいか。

厳島神社の主祭神は宗像三神。海の女神で海上交通、船、海の神だ。市杵島姫命(いちきしまひめ)、田心姫命(たごりひめ)、湍津姫命(たぎつひめ)。これは筑紫の宗像大社の三女神と同じ組み合わせで日本書紀の本文と古事記に準じている。
宗像三女神のそれぞれの名前には異説が多く名前の組み合わせが異なる。たぎつ姫、たぎり(たごり)姫、いちきしま姫、おきつしま姫の四神の中からいろんな三神の組み合わせがある。どうも三神にするために統一が取れてないようだ。

「たぎつ」とは潮や水の流れの速い様、「たぎり」は水面に泡がわきたつ様子。この二つは荒々しい海の様子を表していて宗像氏の勢力圏である荒海の玄界灘を神格化したものと思われる。
それに対して「いちきしま」とは厳島と同じで斎く島、斎祀る島だし、「おきつしま」は沖の島、沖にある島だ。こちらは島自体が御神体か神の住む島なのか確定できないがともかく島を神格化している。
波荒い海と神の島と少し違うものを三神の組み合わせにしようとしたところに統一性が取れなくなった原因がありそうだ。三神にしたのは住吉三神、綿津見三神と海神は全て三柱という考えが広まったためと推測される。

宗像三神の本宮とされる宗像大社は本土の辺津宮、400m程沖の大島にある中津宮、さらに4km程離れた沖ノ島の沖津宮からなる。どの宮にどの神が祀られるかは時代によっても違っていたりして相変わらず統一性がない。ここでも無理に三神にしたため整合性がうまくいってないことがうかがえる。
このうち沖ノ島は古代より連綿と祭祀が行われ聖なる島として一般人の上陸が禁止されてきた。そのため何世紀にも渡る祭祀器や供物が残されていて海の正倉院とも呼ばれる。その特別な扱われ方から沖ノ島が宗像神の中核をなすものであることは疑いがない。

九州北部に勢力を張る宗像氏は海の民。漁や航海の場は荒海の玄界灘。遭難は日常茶飯事だっただろう。そこに浮かぶ沖ノ島に安全を祈ったのが宗像の氏神の最初と思われる。日々の漁労や朝鮮半島への交易では航海上の目印にもなるはずだ。海を荒れさせる「たぎつ」とも「たぎり」とも呼ばれた神に波を鎮める祀りを行ったのではないだろうか。荒ぶる海神「たぎり」あるいは「たぎつ」が宗像氏の奉じる根本の神でその最も神聖な斎場が沖ノ島だったと想像している。

時代が下るにつれて本来まつりごとの場であった島そのものが徐々に神格化されてゆく。そうなれば当然「おきつしま」という神が形作られることになる。
島が神そのものとみなされるようになると遥拝所が出現する。島が容易に近づきがたい場所にあれば集落に近い所に島を拝する場所が出来る。それが大島ではないだろうか。中津宮は沖ノ島の遥拝所として発生したものと考えられる。
斎祀る島「いちきしま」は沖ノ島か大島を指す言葉として使われだし神格化したのだろうが元はここ宮島の厳島から出たのではないかという気がしている。

山中に磐座としてスタートした神社が徐々に里へ里へと降りて行くのはよくある。神を祀るのに便利な場所へ移動してゆくのだ。本来不便で人が簡単には近づけないことが自然の結界として作用し神聖視されるが、アクセスが良くないことが逆に参るのが不便だと思われるようになり山深い場所の磐座から宮が集落へ移ってゆく。少し矛盾しているが人は楽を求めるのでしかたがない。
宗像も中津宮からとうとう本土へ上陸して宗像神社辺津宮が作られるに至ったと想像できる。
御神体である沖ノ島、遥拝所の大島、里宮としての辺津宮。この三つが海神は三柱であるとの認識が広がるのと関連して三女神が形成された。初めから三柱としてスタートしたのではないので名前に異説が多くなったと想像してみた。

他の海神の代表である住吉神と綿津見神にも大きな謎がある。記と紀では多少名前の違いはあるが底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命が住吉三神で、底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神が綿津見三神だが、どちらも底(そこ)、中(なか)、上(うわ)とまるで作ったように整然とした名前になっている。また、宗像神は宗像氏が奉じ、綿津見神は安曇氏が祭るが住吉神には祭祀した有力氏族が認められていない。さらに綿津見神の総本社とされる志賀島海神社は宗像大社、住吉大社に比べてかなり規模が劣る。これらはどうしてなのか。このあたりはまた想像を膨らませるときもあるだろう。

拝殿で旅の安全と家内安全、無病息災を祈願して回廊を渡りきる。

出口の前には宝物館がある。初めてではないので少し迷ったが痛んだ社殿修復にも費用が必要だろうし寄付のつもりで入った。見学者が少ない。
失礼ながら展示物はあまりぱっとしない。奉納品がほとんどで割と新しいものが多くあまり興味をそそられない。解説書きなども色あせて薄汚れている。建物内部も古ぼけていて冴えないこと甚だしい。
そんな中での唯一のお目当ては平家納経だ。入館料300円は平家納経拝観料以外の何ものでもない。しかし国宝一つで300円は少し高い。やはりもう少し他の展示が充実していて欲しい。

国宝平家納経。平清盛を筆頭に一族の主だった郎等が自らの極楽往生と平氏一門の繁栄を願って厳島神社に奉納した法華経と願文。金銀をふんだんに使った料紙に宝石で装飾した軸など華麗なものだ。平家の栄華が偲ばれる。
神社に納経とは典型的な神仏混肴を表している。

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 次のページ ]


.
同行二輪
同行二輪
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事