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○八十四番、雲海寺、八十五番、本地堂
前の札所から数百メートル、同じく福田の町中にある。海沿いの県道から八十三と八十四番札所への道標がでているが、福田庵に寄った後に国道へ戻ってゆく途中では案内表示が裏になる。そして裏側には表示がない。つまり八十三番から八十四番へ行こうとすると次への案内が見えないのだ。
「たしか来るときこの辺りに案内標識があったような・・・」
と、途中の交差点で振り向いて確認しなければならない。
せっかく案内を出しているのだから両面に表示がしてあればいいのだがちょっと不親切だ。片面表示しかなく裏からは見えない罠はここ以外にもいくつかあって島の札所は侮れない。
堂々したお寺が見えてくる。駐車場も広くお遍路バスが来ても大丈夫だ。少し高台に石垣を組み塀をめぐらした中に伽藍は立つ。下から見るとまるで大名屋敷か大庄屋の豪邸のようだ。
登ってゆく参道の両側に新しく奇麗に区画造成された墓地が並ぶ。一画にはピラミッド状の供養塔がそびえている。階段状の四方の各壇には整然としかもみっしりと石柱が立つ。よく見ると墓石のようだ。墓地の整理をした際に無縁の墓や新しい区画に入りきらない各代の墓石をまとめて並べたものと思われる。このあたりでも墓地は整理しないと不足してるのだろうか。でも新しい区画はまだまだ空きがいっぱい見える。墓地の確保の必要に迫られてのことではなく単なるお寺の墓地経営のための整理なのだろうか。
参道入り口の門柱は左に八十四番雲海寺、右に八十五番本地堂と刻んであり、ここが札所二つを並設している寺であることが誰にでもわかる。
札所の一つ、本地堂という名前からはどこかの本地仏を祀っているのは想像できる。
明治維新までの神仏混交で神様は仮の姿での本当は仏だという考えがありそれを本地垂迹説と呼ぶ。そして神様の本当の姿としての仏様をその神様の本地仏と称する。
案内書によると葺田八幡神社の旧神宮寺の本地仏である弁才天を安置してあるという。
葺田八幡というのはさっきの八十八番の福田庵が別当寺だった神社とは違う別物なのか。まさかこんな近くに八幡神社と別当寺をもつ別の神社が別々に二つもあったとは信じがたい。
「葺田」は「ふくだ」で「福田」と同じだ。地名は地元での呼び名があって後から漢字を当てはめるものなので使われている字が違うことがよくある。縁起の良い字に後で変えたりすることも珍しくない。一つの場所に複数の表記方法があるのことのほうが昔は一般的なことだ。「ふくだ」の地に「葺田」と「福田」の両方の書き方があるのだ。多分、縁起をかついで「葺」を後で「福」にしたのだろう。八十八番と八十五番が別当寺であった神社は同じ八幡神社のことだった。
少し考えただけで謎は解決したが、できれば案内書の記載表示は統一しておいて欲しい。
それ以上に弁財天が本地ということに興味がわく。
本地仏はもともとは全然関係のない神道と仏教、つまり日本の八百万の神々とインド生まれの仏教の諸仏菩薩を結びつけたものなので、その対応関係は厳密でなく結構いいかげんなところがある。完全に一対一に対応してるわけではないのだ。
八幡神は二女神と一緒に祀られることが多く、それぞれ本地仏は八幡が阿弥陀仏、息長帯姫が十一面観音菩薩、比売神が勢至菩薩とされるのが一般的だが、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩の組み合わせのこともあるらしい。各神社と別当寺がそれぞれの事情で本地を決定していたようだ。しかし、全く好き勝手に決めていたわけではないので大体は決まった組み合わせになる。
そんな状態でも八幡神の本地が弁財天というのは聞いたことがない。
八幡神は仏像としてではなく神としての像が造られるたりする。お地蔵さまのような姿の僧形八幡とよばれる神像だ。この場合両側に二女神像が合わせて祀られることがある。
廃仏毀釈の混乱のとき神宮寺の本地仏が散逸する危機があり、二女神のどちらかが幸に残って本地仏の弁財天と伝えられてきたのではないだろうか。
ご本尊にお目にかかってないので全然見当外れかも知れない。
勝手な想像をしながら次へ向かう。
島にはガソリンスタンドが少ないことにしばらく前から気がついていた。今のところ大丈夫だがいつ民家のない山道へ入ってゆくか分からない。万が一、人の姿のない山道でガス欠になったらバイクを押すのは骨が折れる。もちろん少しでも上り坂だと絶対に押せない。大型バイクではないが押すには重過ぎるのだ。
ここ福田港はフェリー乗り場があるのでガソリンスタンドもちゃんとある。かなり早めだが給油をした。
ガソリン代が明らかに高い。バイクなので給油量は知れているのでそんなに財布にはこたえないが、本州より一リットルあたり10円程度高い。離島の不自由さを少し実感する。
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