|
○伊邪那美命陵と比婆山比定 その5 神魂神社 (平成18年11月5日)
熊野大社を後にして県道53号大東東出雲線(だいとうひがしいずも)を松江に向かう。国道432号線に入って2kmほどで八雲立つ風土記の丘などと一緒に案内が出るのでそちらへ走って行く。全く田舎の田圃の中の長閑な散歩道だ。
道が突き当たるところにこんもりとした森があり、そこが神魂神社だ。「かもす」と読む。難読だ。知らなければ読めないが出雲に興味がある人には多分有名だろう。
杉の巨木に囲まれた立派な石段の参道を登る。横には車道が並行して走るが、参道は由緒を感じさせ厳かな雰囲気を醸し出している。
石段は途中で右に折れる。そこの手水鉢あたりで若い男女数人の一群が楽しそうにワイワイやっている。大学ゼミのフィールドワークか。聞こえてくる会話からはあまり神社などには詳しくなさそうで単に大学生の旅行かも知れない。
しかし、古社寺にたいして興味なくここにやって来るとは珍しい。出雲を代表する社だがそれ程の観光神社ではないからだ。
石段を登りきると大きな社殿が正面に堂々と建っている。
本殿は大社造。出雲大社と並ぶ国宝だがここは大社造最古とされる。出雲大社の約半分の規模らしいがそれでも大きい。大社と違って瑞垣と本殿の距離が短いのでかなり近くまで寄って見学できるのがうれしい。
建物にじっくり向き合えるし、いつ来ても閑静なこともあり個人的には出雲大社より好みだ。
千木(ちぎ)は内削(うちそぎ)。内部も出雲大社と違う。出雲大社の男作りに対して女作りと呼ばれる。
これは主祭神が伊邪那美命(いざなみ)だからだろうか。
神魂神社も熊野大社と同じく出雲国造家の社だ。東へ1kmほどで出雲国庁跡がある。ここは古代出雲の中心地だった場所だ。
国造家の代替わりにはこの神社で「火継式」という神事が執り行われるという。これは熊野大社の鑚火祭と同じような火鑚(ひきり)杵と臼を使う儀式らしい。
現在は出雲国造家が千家氏(せんげし)と北島氏(きたじまし)に分かれてそれぞれが宗教法人を組織しているため千家氏は火継式も熊野大社で行うという。千家氏と北島氏両家には何か確執がありそうだ。実は、鑚火祭も本来はこの神魂神社で行われるものだったとも聞く。
国造宗家争いは別にして、神魂神社はこの地を代表する社のはずなのだが、出雲国風土記にも延喜式にも名前が載ってない。
直ぐ近くに国造家の住居跡あり出雲大社へ本拠地を移すまでここに居を構えていたとされる。さらに隣接する寺に国造家の墓地もある。つまり神魂神社は国造家の奥津城と考えられていて、あくまでも国造家の個人的な氏神的な社なので風土記にも延喜式にも名前がないのだとされる。
しかし、国造家の個人的な神社なら祖先とされる天穂日尊(あめのほひ)を祀るのが筋だろう。
天穂日尊は出雲の国譲りの時に最初に高天原から交渉に遣わされた。その後、国譲りが完了してから瓊瓊杵尊が天降ってくる。出雲国造家は皇室の祖先である瓊瓊杵尊より早くこの豊葦原の中つ国に降臨した天穂日尊が祖先であるという伝承を大変誇りにしていた。つまり天皇家の祖先より早くこの地を治めていたというのを自負していたのだ。
その出雲国造家が身内の神社に一族の誇りである天穂日尊を祀らないということがあるだろうか。
また、記紀では出雲は黄泉の国で伊邪那岐命と密接に関連して語られるが、直接に出雲国造家と伊邪那岐命の関係はない。
どう考えても出雲国造家の氏神ともいうべき社に伊邪那美命を祀る積極的な理由が見当たらない。
これは、伊邪那美命を祀る何らかの必要があったとしか思えなくなる。
実はここは岩坂陵墓参考地と神納峠(かんの)を挟んで北に位置する。小さな山の向こうに伊邪那美命陵とされる古墳があるのだ(伊邪那美命陵と比婆山比定 その2 岩坂陵墓参考地)。
しかも、神納峠を越えて谷を溯ってゆくと今まで参拝していた伊邪那美命と密接に関係していそうな熊野大社がある。
この周辺が伊邪那美命の影が非常に色濃く存在する地帯なのは確かだ。何だか偶然とは思えない。
駐車場に帰るとタクシーで乗って来たのは若い女性の二人連れ。八重垣神社(やえがき)に行ったついでに運転手に近くに国宝の神社があると勧められたのだろうか。何といっても若い女性には八重垣神社は絶大な人気があるが、ここには若者観光客を惹きつけるような由来がない。
国宝本殿以外にも本殿の両側には摂社が並ぶ。中には貴布禰稲荷両神社と呼ばれる二間社流造という全国的にも珍しい形式の社もある。これは重要文化財に指定されている。
普通に訪れても見所の多い社だ。
観光神社ではないと思っていたが、意外に、三々五々と参拝者が途切れることがない。
|