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いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

宍道湖中海巡礼記2006

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神魂神社

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○伊邪那美命陵と比婆山比定 その5 神魂神社 (平成18年11月5日)

熊野大社を後にして県道53号大東東出雲線(だいとうひがしいずも)を松江に向かう。国道432号線に入って2kmほどで八雲立つ風土記の丘などと一緒に案内が出るのでそちらへ走って行く。全く田舎の田圃の中の長閑な散歩道だ。

道が突き当たるところにこんもりとした森があり、そこが神魂神社だ。「かもす」と読む。難読だ。知らなければ読めないが出雲に興味がある人には多分有名だろう。

杉の巨木に囲まれた立派な石段の参道を登る。横には車道が並行して走るが、参道は由緒を感じさせ厳かな雰囲気を醸し出している。

石段は途中で右に折れる。そこの手水鉢あたりで若い男女数人の一群が楽しそうにワイワイやっている。大学ゼミのフィールドワークか。聞こえてくる会話からはあまり神社などには詳しくなさそうで単に大学生の旅行かも知れない。
しかし、古社寺にたいして興味なくここにやって来るとは珍しい。出雲を代表する社だがそれ程の観光神社ではないからだ。

石段を登りきると大きな社殿が正面に堂々と建っている。
本殿は大社造。出雲大社と並ぶ国宝だがここは大社造最古とされる。出雲大社の約半分の規模らしいがそれでも大きい。大社と違って瑞垣と本殿の距離が短いのでかなり近くまで寄って見学できるのがうれしい。
建物にじっくり向き合えるし、いつ来ても閑静なこともあり個人的には出雲大社より好みだ。

千木(ちぎ)は内削(うちそぎ)。内部も出雲大社と違う。出雲大社の男作りに対して女作りと呼ばれる。
これは主祭神が伊邪那美命(いざなみ)だからだろうか。

神魂神社も熊野大社と同じく出雲国造家の社だ。東へ1kmほどで出雲国庁跡がある。ここは古代出雲の中心地だった場所だ。
国造家の代替わりにはこの神社で「火継式」という神事が執り行われるという。これは熊野大社の鑚火祭と同じような火鑚(ひきり)杵と臼を使う儀式らしい。
現在は出雲国造家が千家氏(せんげし)と北島氏(きたじまし)に分かれてそれぞれが宗教法人を組織しているため千家氏は火継式も熊野大社で行うという。千家氏と北島氏両家には何か確執がありそうだ。実は、鑚火祭も本来はこの神魂神社で行われるものだったとも聞く。

国造宗家争いは別にして、神魂神社はこの地を代表する社のはずなのだが、出雲国風土記にも延喜式にも名前が載ってない。
直ぐ近くに国造家の住居跡あり出雲大社へ本拠地を移すまでここに居を構えていたとされる。さらに隣接する寺に国造家の墓地もある。つまり神魂神社は国造家の奥津城と考えられていて、あくまでも国造家の個人的な氏神的な社なので風土記にも延喜式にも名前がないのだとされる。

しかし、国造家の個人的な神社なら祖先とされる天穂日尊(あめのほひ)を祀るのが筋だろう。
天穂日尊は出雲の国譲りの時に最初に高天原から交渉に遣わされた。その後、国譲りが完了してから瓊瓊杵尊が天降ってくる。出雲国造家は皇室の祖先である瓊瓊杵尊より早くこの豊葦原の中つ国に降臨した天穂日尊が祖先であるという伝承を大変誇りにしていた。つまり天皇家の祖先より早くこの地を治めていたというのを自負していたのだ。
その出雲国造家が身内の神社に一族の誇りである天穂日尊を祀らないということがあるだろうか。
また、記紀では出雲は黄泉の国で伊邪那岐命と密接に関連して語られるが、直接に出雲国造家と伊邪那岐命の関係はない。
どう考えても出雲国造家の氏神ともいうべき社に伊邪那美命を祀る積極的な理由が見当たらない。
これは、伊邪那美命を祀る何らかの必要があったとしか思えなくなる。

実はここは岩坂陵墓参考地と神納峠(かんの)を挟んで北に位置する。小さな山の向こうに伊邪那美命陵とされる古墳があるのだ(伊邪那美命陵と比婆山比定 その2 岩坂陵墓参考地)。
しかも、神納峠を越えて谷を溯ってゆくと今まで参拝していた伊邪那美命と密接に関係していそうな熊野大社がある。
この周辺が伊邪那美命の影が非常に色濃く存在する地帯なのは確かだ。何だか偶然とは思えない。

駐車場に帰るとタクシーで乗って来たのは若い女性の二人連れ。八重垣神社(やえがき)に行ったついでに運転手に近くに国宝の神社があると勧められたのだろうか。何といっても若い女性には八重垣神社は絶大な人気があるが、ここには若者観光客を惹きつけるような由来がない。

国宝本殿以外にも本殿の両側には摂社が並ぶ。中には貴布禰稲荷両神社と呼ばれる二間社流造という全国的にも珍しい形式の社もある。これは重要文化財に指定されている。
普通に訪れても見所の多い社だ。

観光神社ではないと思っていたが、意外に、三々五々と参拝者が途切れることがない。

熊野大社元宮遥拝所

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○伊邪那美命陵と比婆山比定 その5 熊野大社元宮遥拝所 (平成18年11月5日)

熊野大社上宮旧社地横に上宮旧社地の裏山へ登る小道が続いている。上には熊野大社元宮遥拝所があるはずだ。
道には落ち葉が積っているが整備されているので登るのに苦労はない。

登り始めて直ぐに気がついた。岩山なのだ。
社叢とされているのか、手入れのされた様子のない雑木林に覆われた山なので土の山と思って登り始めたのだが岩場が非常に多い。
この山は元宮遥拝所にすぎないはずなのだが、ひょっとすると磐座としての機能も持っていたのではないだろうか。

跡地の社の背後にあたる斜面の上に巨岩があり半洞窟のような窪みをつくっている。明見水と立て札がある。眼病に効く、産婦は母乳の出がよくなるといった効験があるそうだ。
周りに小川も湧水もないのに岩から水が染み出している。確かに不思議だ。
下に石の容器があって染み出す水を受けてある。お世辞にも綺麗な清水とはいえない。近くを見るのに眼鏡が必要になって来た身としては少し効能を試したい気もしないではないが、溜まっている水を目につける勇気はわかなかった。

その前には久米神社跡の石柱。意外なところで意外な神社名に出会った。伊邪那美命陵(しざなみ)と久米神社、この組み合わせでいつかは訪問しないといけないと思っている場所があるのだ。謎がまた一つ増えてしまった。

大きな巨石を巻くように登りの遊歩道が続く。行く手を塞ぐように巨大な岩が現れた。
祓所。これより先への結界になっている。塞の神(さいのかみ)の役割をしているのだ。これより先が聖域となるのだろう。
ここで身を祓って進む。

その巨石のちょうど真上辺りに展望が開ける場所があり、そこが熊野大社元宮遥拝所だ。簡単な祭壇が設けられている。
下の旧社地正面に見えた意宇川(いう)対岸の山が熊野山と思っていたが全く違った。低すぎた。
正面に高く聳える山が熊野山。今は天狗山という名前になっている。これは天宮山が訛ったものともいわれる。そういえば伯耆会見に天宮さんがあったがあれも同じだった意味だったのだろう(伊邪那美命陵と比婆山比定 その3 天宮さん)。
結構高い山だ。元宮とされる場所には巨岩があるらしいが、見学に行くには完全に軽登山になる。気楽には行けない。

遥拝所より参拝する。
熊野神社が山の上から里へ降りたときの宮は今の熊野大社のある下宮だったともされるが、ここから正面の熊野山を眺めているとこちらこの山の麓の上宮がやはり元の里宮に相応しい気がする。

熊野山を挟んで熊野大社と山の反対側東麓にはやはり上と下の二社ある山狭神社(やまさ)があり、伊邪那美命を祀っているとされる。
熊野山の東西に上下二社を持つ伊邪那美命を祀る神社があることになる。これは偶然だろうか。
熊野山は濃厚に伊邪那美命と結びついている。

祭壇横の板の説明板は風雨で傷んでいて読み難くなっている。

熊野大社元宮遥拝所
正面の最も高く聳える山が熊野山(標高610m)で、現在天狗山といいます。奈良時代に著された出雲国風土記に、熊野山、熊野大社の社座すと記載され、山頂やや下に大きな岩盤があり、元々そこに熊野大社があったとされています。往古に思いをいたし参拝ください。
尚、毎年5月の第四日曜日(変更になる場合もありますが)に熊野山(天狗山)へ登り、元宮祭を奉伺しております。参加御希望のかたは事前に期日等を熊野大社へご照会の上当日朝まず当社へお参りください。熊野大社。

熊野大社上宮旧社地

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○伊邪那美命陵と比婆山比定 その5 熊野大社上宮旧社地 (平成18年11月5日)

熊野大社は県道53号大東東出雲線(だいとうひがしいずも)に沿う意宇川(いう)の流れる谷間にある。神社の南東側に天狗山という山がある。古くは熊野山と呼ばれ熊野大社はその山の頂に祀られたのが起源だとされる。

正確な時期は不明だが山上にあった熊野大社は中世には里に降って上宮と下宮の二社の形をとっていたとされる。そして1881年に両宮が下の宮に合祀された。それが現在の熊野大社だそうだ。古い由緒のわりには今の姿になったのは明治のことだったのだ。

享保2年(1717)に松江藩で編纂された雲陽誌という出雲の地誌によると、速玉、事解男、伊弉冉(伊邪那美命)三神が上の社、天照大神、素戔嗚尊、五男三女が下の社に祀られているとあるらしい。そして上宮は熊野権現(熊野三社)、下宮は伊勢宮と呼ばれていたとのことだ。
もっと詳しく知りたいのだが雲陽誌が手元にないので仕方がない。もっとも、あったところで読めないので同じなのだが。

上下の二社ある場合、本来の社は上宮であることがほとんどだ。そしてどうやら上宮が伊邪那美命(いざなみ)と関連していたらしいと知った。当然、上宮を訪ねなければ。しかし、事前に調べたが正確な位置は分らなかった。
ともかく今の熊野大社の前を流れる意宇川の上流500mほどのところに上宮があったらしいので探す。
川沿いの県道を登ってゆくが何の案内もない。距離的に通り過ぎたと思われるところでバック。川向こうに大きな杉がこんもりとしているあたりがどうやらそうらしい。少し下流で川を渡り見当をつけたあたりへ細い道を入って行くと確かにそうだった。集落から離れている。

古い社叢に囲まれ落ち葉に覆われた空き地がある。参道らしきものも残っている。
山を背後にして石段を組んで一段と高くなった平地があり、そこに旧社を示す石柱が立っている。

中央が伊邪那美神社跡。向かってその左に事解男神社、向かって右には速玉神社、五所社、八所社とある。
ひっそりと静まり返った神社跡は紀州熊野の熊野三山の中心、熊野本宮大社の旧社地、大斎原(おおゆのはら)を思い出す。熊野という名前のせいで一層そう思わせるようだ。社殿が横に並んでいる形式も熊野本宮と似ている。一棟になっていたのか全く別々の建物だったのかはもちろんわからないが。

伊邪那美神社、事解男神社、速玉神社の三社に摂社が二社という構成だったようだ。速玉之男神、事解之男神、伊邪那美命の三神が上の社に祀られているという記載と合致する。そして、その社殿配置から中央の伊邪那美命神社が主祭神と考えられる。

ここは伊邪那美命が祀られた社だったのだ。
そうすると元々鎮座していた熊野山は伊邪那美命陵なのか。熊野山は実は比婆山なのか。
これは可能性があるかも知れないと一人で納得する。

実は祭神に関してはそんなに単純ではないことは直ぐに気がつく。
勝手に仮説をたてて自分で自説に疑問を投げかけるという。完全に一人相撲だ。

紀州熊野三山というのは熊野本宮大社(ほんぐう)、熊野速玉大社(はやたま)、熊野那智大社(なち)を指すのは説明するまでもない。
祭神は異説も多く神仏習合が院政期に進み仏教思想も混在して大変複雑だ。しかも非常に多くの神が祀られている。正直、理解できてない。本宮は家都御子神(けつみこ)、速玉大社は熊野速玉神(はやたま)、那智大社は熊野夫須美神(ふすみ)を主祭神として、この三神を熊野三所権現と呼びその総称を熊野大神とも称する。この熊野三所権現は熊野三山の全てで主祭神と同等に祀られている。そのほか熊野十二所権現と呼ばれる多くの神々も同時に祀られている。

このうち家都御子神は素戔嗚尊(すさのお)のこととされる。
御饌を供したり食物を司る神を総称して御食神、御饌津神(みけつかみ)と呼んだりする。よく知られるのは伊勢神宮の内宮(ないくう)に祭られる天照大神(あまてらす)の神饌を供する伊勢外宮(げくう)の豊受大神(とようけのおおかみ)や稲荷神などだ。
また神饌を奉る地域を御食国(みけつくに)と呼んだりする。
つまり「みけつ」の「け」は「饌」のこと、つまり神饌を表す。「み」は尊称で「つ」は「何々の」という意味なので、家都御子神は「饌の御子」ということだろう。
家都御子神が御饌津神であることがわかる。

出雲熊野大社の櫛御気野命(くしみけぬ)も「みけ」つまり「御饌(みけ)」の神で御饌津神だ。そこから家都御子神は櫛御気野命と同じに考えられたようだ。読み方も似ている。さらに櫛御気野命は素戔嗚尊と同一神とされることから、紀州熊野の家都御子神も素戔嗚尊とされるようになったと考えられている。

また、熊野速玉神は伊邪那岐命(いざなぎ)、熊野夫須美神は伊邪那美命ともされる。しかし、これも後から出てきた説だ。
熊野速玉神はたぶん速玉之神(はやたま)だろう。日本書紀では伊邪那岐命が伊邪那美命に会いに黄泉を訪問した時に縁切りの誓いの言葉とともに吐いた唾から生まれたとされる。
熊野夫須美神は牟須美(むすび)ともされて「むすび(むすひ)」は生まれ出るというような生成の意味で、植物の発生から穀物神を現すのではないかともされている。

祭神の詳細はともかく、熊野三所権現は「家都御子神、熊野速玉神、熊野夫須美神」あるいは「素戔嗚尊、伊邪那岐命、伊邪那美命」ということになるが、ここでは「速玉之男神、事解之男神、伊邪那美命」となっていて対応してない。
しかも、紀州熊野三山の一番の基本は家都御子神ではないかとされているが、ここでは伊邪那美命が中央に位置する。
ちなみに事解男とは事解之男(ことわけのお)で、日本書紀では速玉之神が生まれた後に祓った神だ。紀州熊野では十二所権現の一柱とされる。

紀州熊野三山の祭神や出雲熊野大社の祭神など興味が尽きない。

実は、熊野大社の里宮は元来は下宮で上宮は紀州熊野が全国的に広がるのにあわせてここへ勧請されたものだととも伝わっている。そうすると、ここの熊野大社は紀州熊野と全く関係がなくなってしまう。調べれば調べるほど謎は深まってゆくようだ。
もっとも、元宮が里に下りたときに上宮でなく下宮になるというのは納得しにくいが。

とりあえず今回は熊野山の麓に伊邪那美神社というそのものずばりの社があったことで十分満足だ。

熊野大社

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○伊邪那美命陵と比婆山比定 その5 熊野大社 (平成18年11月5日)

絶好の秋の行楽日和となった三連休の最終日、平成18年11月5日の午後。県道53号大東東出雲線(だいとうひがしいずも)に松江の南から合流し奥に向けて走り熊野大社(くまの)を目指す。平地はまだ紅葉には早いようだ。

熊野神社には八雲温泉の施設が隣にありカラオケ大会真っ最中のようでやけに賑やかだ。

参道を進み正面から参拝する。数年ぶりだ。大きな鳥居を抜けて意宇川(いう)にかかる朱の欄干の橋を渡ると拝殿が見えてくる。
社叢に囲まれ厳かな雰囲気の中静かに社殿が建っている。もちろん本殿は大きく風格のある大社造。

熊野といえば蟻の熊野詣で知られる南紀の熊野三山が有名だ。全国にある熊野神社はその熊野詣が盛んになったことで広まったものが多いのだが、ここは少し違う。出雲国風土記に既に熊野という地名と社が記されているのだ。紀州の熊野から勧請したわけではないようだ。
記紀では紀州熊野と出雲は両方とも黄泉の国とみなされているようだが、熊野の名にも両者の関連がうかがわれる。

古代大和朝廷が全国支配をするための制度が国造なのは教科書にも書かれている。地方の有力豪族を国造として任命して朝廷の支配下に置き、その地の反発を和らげつつ中央集権を実現しようとした。

国造は通常「くにのみやつこ」と読むが、出雲国造家の場合は「こくぞう」と呼び、地元では「こくそう」と濁らずに呼ぶらしい。
出雲国造は、国譲りで派遣された天穂日尊(あめのほひ)を祖先とする伝承を持ち出雲地方の政治と祭祀を支配していた。
出雲国造家は代が替わりるごとに都へ出向き出雲国造神賀詞(かむよごと)などを天皇に奏上していたとされる。さらに大化の改新以後は律令制の確立と共に国造制が徐々に廃止されるにも関わらず出雲国造家はその後も祭祀を管理し続け現在まで続いている。
「こくそう」の呼び方だけでなく他の国造とは明らかに一線を隔した扱いを受けているようだ。これは古代出雲を大和朝廷が手厚く扱っていたことを示すものとされる。

出雲国一の宮は出雲大社だ。しかし、実は古くはここ熊野大社が一の宮とされた。出雲国造家は本来この熊野大社の祭祀を取り仕切り出雲国府跡を含む意宇郡に勢力を持つ氏族だったと考えられている。
それが何故か後に杵築大社(きづき)、いわゆる出雲大社へ本拠地を移してしまう。

しかし、出雲国造家は熊野大社を捨てたわけではない。
鑚火祭(さんかさい)という有名な行事がある。出雲国造家が行う新嘗祭(にいなめさい)で、そのときの食事の調理に使われる神聖な火を熾す臼と杵、つまり火起し器をこの熊野大社から受けるのだ。
出雲大社から神職が火鑚(ひきり)の臼と杵を借りる代償として巨大な餅を持ってきて納めようとすると熊野大社側の亀太夫と呼ばれる神職が餅の出来が悪いと難癖を付ける。もちろん最後には亀太夫は承知して餅を受け取り、出雲大社からの使者はかわりに火鑚の臼と杵を受け取るという神事だ。

この時、熊野大社の亀太夫は一方的に出雲大社からの使者に文句を言い出雲大社の神職はひたすら承るという体裁をとる。明らかに熊野大社が優位に立っている。これは出雲国造の本拠地が熊野大社だったことと無関係ではないだろう。

本殿に向かって左に鑚火祭の舞台となる鑚火殿がある。茅葺で小さな伊勢神宮のような印象を受ける建物だ。そう思うのは出雲には切妻平入の社が少ないことも影響しているのだろう。実際の神事がどの様に行われるのかは知らない。

本殿の主祭神は「加夫呂伎熊野大神櫛御気野命(かぶろぎくまののおおかみくしみけぬのみこと)と称える素戔嗚尊(すさのをのみこと)」。長すぎる。要するに櫛御気野命という別名で呼ばれる素戔嗚尊ということだ。
しかし、出雲国風土記では熊野大神とされ、出雲国造神賀詞では熊野大神である櫛御気野命とされる。これから本来は熊野大神と呼ばれていたことがわかる。多分それが後に穀物神、農業神と結びつき櫛御気野命とされたようだ。
櫛御気野命とは「奇(く)し御饌(みけ)」なのは間違いない。御饌というのは神饌、神様に捧げる食事のことだ。この名前は鑚火祭とも関連するのがわかる。

風土記にも神賀詞にも、どちらも熊野大神は伊邪那岐命(いざなぎ)の御子であるとはっきり述べられている。そのため記紀の影響下に素戔嗚尊と同一神とされるようになったと考えられる。素戔嗚尊は伊邪那岐命が伊邪那美命(いざなみ)を訪ねて黄泉から帰ったときに禊で生まれた。つまり伊邪那岐命の御子とされるからだ。
現在、一般的には熊野大社の祭神は素戔嗚尊とされるが、それはかなり時代が下ってからということのようだ。

本殿の鑚火殿の反対側には奇稲田媛命(くしなだひめ)を祀る稲田神社、稲荷神社などの末社もある。奇稲田媛命は素戔嗚尊の后神なので祀られて当然だが、奇稲田媛命も「奇し稲田」で穀物神なことと無関係ではないと思う。
ちなみに「奇(く)し」というのは、霊妙なとか神聖で通常ではないもの、珍しく有難いものといったことを意味する。

出雲国造家と古代出雲、さらに祭神など熊野大社にはまだまだ沢山の気になる点はあるのだがきりがない。熊野大社は古代出雲の謎と密接に結びついている。出雲大社も謎だらけだが、むしろ出雲大社より熊野退社のほうが奥が深そうだ。熊野大社を解明できれば古代出雲の全容が見えてくるような気がしてならないが相手が大きすぎる。しかも、今日の目的は少し違う。

本殿に向かって左の奥に摂社がある。伊邪那美神社。以前は気にもしなかったので全く目にとまっていなかった。ここには多分伊邪那美命も祀ってあるはずだと予想していたが、やはりあった
古事記では伊邪那美命は出雲と伯耆の間の比婆山に、日本書紀では紀伊国熊野の有馬村に葬られたことになっている。そのため比婆山、熊野、伊邪那美命、この組み合わせは頻繁に見られる。特に、熊野の名前の付くところには必ずといってよいほど伊邪那美命に関連するものがあるのだ。

出雲の熊野と伊邪那美命、これが今回の興味の中心だ。これは一体何を意味するのか。

掩体壕

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○美保関のかなたへ(3) 掩体壕 (平成18年8月15日)

太平洋戦争の末期になると日本は制空権を完全にアメリカに奪われ度重なる空爆を受けるようになる。
その攻撃から身を守るための防空壕が各地に作られた。爆撃から守るのは人だけではなく貴重となった航空機にも及んだ。
航空機を空爆から守るための防空壕、それが掩体壕。難しい漢字で読めない。「えんたいごう」と読むらしい。

境港(さかいみなと)を後にして県道285号線を米子方面に走ると米子空港にぶつかる。そこで県道47号線に入って空港をぐるっと迂回して南へ回り込む。
片道二車線で交通量も少なく普段は快走する道なのだが、今日はスピードを抑えてゆっくり流す。中海に近くなった畑の中にかまぼこ型のコンクリート製の妙な物置がある。それが掩体壕だ。

全体はかまぼこ型でかまぼこの切り口の部分に凸の形に空間がもうけられている。構造物の上面は草ぼうぼうになっているが、元々上空から見て隠すためなので土が盛られていたらしい。
今では内部の空間は物置になっているが、目的は戦闘機を隠すためだった。

空襲に来る敵機からどうして戦闘機を守らなければならなかったのか。当然、出撃して迎え撃つのが当たり前なのだが、既にそれもままならなくなっていたのだ。

当時は日本のレーダーは性能が劣っていた。情報戦の軽視も日本軍の失敗だったが、ともかくレーダーで何とか敵を捕捉したとする。
その後、師団が出動命令を下すのに約30分、出撃機が高度1万mに達するのに60分で、結局90分近くかかったらしい。ところが、レーダーに捉えられたB29が都市の上空へ出現するのに60分。間に合わない。

その上、B29がやってくる高度1万mに上昇できたとしても日本の戦闘機はその高度では飛んでいるのがやっとという状態だったという。上空の気流が強いとそのまま流されたり一気に高度を失ったりととても戦闘にならなかった。
エンジン開発の遅れから高度1万mという高高度で自由に飛行できる戦闘機は日本にはなかったのだ。アメリカは高度1万mで飛行できれば日本軍からの反撃の手段がないことを前提にB29を開発したとされる。そして、それはその通りだったのだ。

日本軍は迎撃機から座席の操縦士を守る防弾鋼板、燃料タンクに被弾した時に燃料が漏れて引火するのを防ぐための防弾ゴムなどをはずした。さらに銃、機関砲、弾薬も取り払った。とことん軽量化してようやく高度1万mで何とか自由に飛ぶことが出来るようになったという。ただし、空気密度約1/5、気温-40℃、軽量化のため酸素ボンベも簡易酸素発生装置になり、防寒対策もほとんどない。パイロットのへの負担は大きすぎる。

何もかも取り外した迎撃機での攻撃、それは特攻しか残っていない。しかし、空飛ぶ要塞と形容されたB29は多くの機関砲を装備していてほとんど死角がなかった。

そこまでして迎撃しようとするが、悲しいことに既に日本にはその航空機を自由に飛ばせるだけの燃料も残ってなかった。そのために、数少ない貴重な航空機を敵の空爆から守る掩体壕が必要になっていたのだ。

実はここの掩体壕は隠す飛行機がほとんどなく活躍する機会はあまりなかったという。
何ともいいようがないほど悲しい。

現在の米子空港は航空自衛隊美保基地と共用になっているが、太平洋戦争中には海軍の航空基地が置かれていた。そのためここに掩体壕が残っているのだ。
空港の南側の自衛隊敷地内にも掩体壕があるのが金網フェンス越しに見える。

今は農家の物置小屋となっている掩体壕、老朽化して危険となっているのでそろそろ撤去をという話が時々出ている。できれば戦争の語り部として残すのも意味があることだと思う。

直接は美保関事件とは関連がないが、太平洋戦争に関連する施設としてしばらく立ち止まった。

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