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いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

宍道湖中海巡礼記2006

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境港お台場公園

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○美保関のかなたへ(3) お台場公園  (平成18年8月15日)

美保関(みほのせき)から戻って境大橋を渡る。橋から右下に見えるのがお台場公園。この橋は高い場所に架かっているので島根半島側から走ると境港(さかいみなと)へ向かって着陸してゆく飛行機の気分だ。
橋を降りて国道431号線を境水道へ向けてそのまま走って行くと左手に小さな灯台のある公園が見える。駐車場へは港まで進んで海とくらしの資料館を目標に入る。

関の五本松公園はつつじの名所、お台場公園は地元の桜の名所、どちらも今は花の季節ではない。当然屋台も出てない。人はまばらだ。

公園の東に教会風のモニュメントが建っている。昭和2年8月の美保関事件殉職者の鎮魂のために建てられた慰霊塔だ。
この慰霊塔の存在も以前から知ってはいたが、具体的な内容は全く知識がなかったのでじっくりと見るということがなかった。

巡洋艦神通(じんつう)と駆逐艦蕨(わらび)、巡洋艦那珂(なか)と駆逐艦葦(あし)の衝突にいたる航路が石版に刻まれている。
無謀な演習で起きた事故後の救助や捜索などに当時の境港の漁船や市民がこぞって協力したという。それが縁でここに慰霊碑が建てられているのだ。

ワシントン会議で軍事力を制限された日本軍は量の不足の不利を訓練や熟練でカバーしようとする。
「百発百中の砲一門は百発一中の砲百門にまさる」
大砲が一つしかなくても百発百中であれば、百発打って一発しかあたらない大砲が百あるよりずっと良いという考えだ。
大砲の扱いに習熟すれば命中率が上がり数の劣勢を補えるはずだと。それを可能とするのは厳しい訓練あるのみ。
つまり、兵士に熟練の技、名人芸を要求したわけだ。何だか間違ってなさそうに思えるところが巧妙だ。

これに対して、太平洋戦争でアメリカは、どの兵士でも効率よく戦闘力を上げられる方法を選択した。つまり、命中率をあげるのを大砲の改良で行った。それと同時に百で不足なら千の大砲を投入するという物量で勝負したのだ。国力の差が戦略の差となっている。

日本軍の方法では、ある兵器の達人が斃れたり働けなくなると戦闘力が激減する。百発百中が一気に百発一中になってしまうのだ。そうすると同じ程度の命中率の大砲ならば数が勝負を決める。戦闘力を維持するためには兵士の安全が最も重要視されなけれればならなかった。しかし、実際は全く反対で人命はどの国より軽視され続けた。

悪天候、ほぼ暗闇の中、目視によって艦隊同士が模擬戦闘を行い衝突した美保関事件、無謀な訓練の実施による人災だ。
しかし、軍部はこの事故を教訓に方針を見直すことはなくその後も訓練第一主義は続いてゆく。多分これは「努力さえすれば何でも出来る」というところへ行き着くのだろう。何となく根性論にも通じそうだ。

慰霊塔に「美保関のかなたへ」が奉納されていた。美保関事件を知った本だ。

お台場というのはもちろん幕末に外国船の脅威に備えて砲台を備えた場所のことだ。そのお台場跡に対米への訓練で殉職した人達の慰霊塔、この組み合わせは何か複雑な気持ちにさせられる。
島根半島の高尾山山頂の自衛隊のレーダーサイトが良く見える。

糺社

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○美保神社 境外末社六社参り(3) 糺社 (平成18年8月15日)

美保神社鳥居から少し西へ戻る。旧道に入って探すと道端に小さな祠があって、それが美保神社境外末社六社の一つ、糺社(ただす)だとわかる。

小さいながら桧皮葺の社だ。ただし痛みはかなり激しい。できれば屋根の葺き替えが望ましいところだ。社の前は敷地の工事中になっている。
狛犬が狐。どうやらもとはお稲荷さんらしい。

祭神名は久延毘古命(くえびこ)。あまり聞きなれない。

古事記によれば、大国主命(おおくにぬし)が出雲の御大(みほ)の岬(美保関)にいると、海の向こうから天之羅摩船(あめのかがみぶね)に乗って蛾の皮を着た小さな神がやって来た。それが何者か誰も知らなかったが多邇具久(たにぐく)が「久延毘古命が知っているでしょう。」と言う。久延毘古命を呼んで尋ねると「神皇産霊尊(かむむすひ)の御子の少彦名命(すくなひこな)です。」と答えた。
その後には、久延毘古命は案山子(かかし)のことで歩くことができないけれどこの世界のことを全て知っている神だという説明が続く。
日本書紀では大国主命に訊ねられた天の神である高皇産霊尊(たかむすひ)が自ら、「指の間から落ちた自分の子供だ。」と答えている。話が少し違うが、一番問題なのは古事記と父親が違うことだ。何だか妙だ。多分、神皇産霊尊と高皇産霊尊が名前が似ているのでどこかで混乱が生じたのだろう。

糺というのは文字通り「問いただす」などと同義と思われる。多分、久延毘古命は何でも知っていてただしい答えを出してくれたり間違いを正してくれるということから糺社となったのだろう。
しかし、「糺」という字からはやはり糺の森が思い浮かび下鴨神社が連想される。

丹塗矢伝説(にぬりや)というものがある。
基本は矢あるいは蛇などに化身した男神が川を遡って行き女性の女陰を突いて懐妊させるという話だ。もちろん矢とか蛇が男性器を象徴しているのは疑う余地がない。また丹塗矢というのは朱色に塗られた矢だが、多分、朱色である丹は邪を祓うとされるため神を暗示する霊力ある色なのだろう。

古事記では神武天皇(じんむ)の皇后となる比売多多良伊須気余理比売命(ひめたたらいすけよりひめ)の誕生が語られる。
美しい勢夜陀多良比売(やせだたらひめ)を気に入った大物主神(おおものぬし)は姫が用を足そうとしたときに丹塗矢となって厠の下を流れる溝を溯り姫の女陰を突く。驚いた姫が矢を床(寝床)のそばに置くと神の姿に戻った。そして生まれたのが伊須気余理比売という。
当時のトイレは小川の上に作られていて用を足すと自然に流れる水洗式だった。
日本書紀では事代主神(ことしろぬし)が八尋熊鰐(やひろわに)に化けて三嶋溝杙姫(みしまのみぞくひめ)または玉櫛媛(たまくしひめ)の元へと通って姫蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ、比売多多良伊須気余理比売)を生んだとする。神名が違っていたり、変身が鰐だったり、単に通ってと述べるだけだったりするが内容は大差がない。ちなみに、鰐というのは古代ではサメのことでやはり流線型で細長い変身だ。

また、崇神天皇(すじん)の条で日本書紀では、倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)のもとに毎夜通ってくる高貴な夫の正体は小さな蛇で実は大物主神(おおものぬし)だったのだが、求めに応じてその姿を見せたところ姫に驚かれた大物主神は侮辱されたと怒って去ってしまい、姫はショックで座り込んだところ床にあった箸で女陰を突いて亡くなったと記す。変形はしているが丹塗矢型のポイントは残っている。
この話は古事記では、活玉依毘売(いくたまよりひめ)のところへ毎夜通ってくる男性の正体を知ろうと糸のついた針を裾に刺して翌日後をつけると、糸は鍵穴から出て大神神社(おおみわ)に続いていたという形に変わっている。鍵穴から出入りするというのは明らかに蛇を想定しているし、男は大神神社に祀られている大物主神だったことを示している。古事記ではこの姫の子が倭迹迹日百襲姫命になっている。日本書紀と古事記でこのあたりの血縁関係は多少入り乱れているようだ。

全然関係ないが倭迹迹日百襲姫命が葬られたのが奈良三輪の近くの箸墓(はしはか)とされる。箸がが原因で亡くなったことから名前がついたと。ちなみに姫を邪馬台国女王の卑弥呼かその後の壱与(台与)にあてる説はよく目にする。

丹塗矢型の伝説は葵祭りで有名な京都の上鴨神社と下鴨神社にも伝わっている。
山城国風土記の逸文によれば、賀茂建角身命(かもたけつぬみ)の娘の玉依日売(たまよりひめ)が鴨川で遊んでいると丹塗りの矢が川上から流れて来た。持ってかえって床(寝床)の傍に置いていたところ身篭って賀茂別雷神(かもわけいかずち)が生まれた。その後、成人した時に父親は火雷命(ほのいかずち)だったことがわかる。つまり丹塗矢は火雷命の化身だったわけだ。
上鴨神社に祀られているのが賀茂別雷神で、下鴨神社には賀茂別雷神の祖父にあたる賀茂建角身命と母の玉依日売が祀られている。そのようなことから上鴨神社は賀茂別雷神社と、下鴨神社は賀茂御祖神社とも呼ばれる。ちなみに上鴨神社は正式には上賀茂神社という字を使っているようだ。
ここでは、女陰を突く話はないが矢を床に置くというのは神武天皇皇后の比売多多良伊須気余理比売命誕生の時と同じで、丹塗矢型であることは明らかだ。

その下鴨神社にあるのが糺の森で京都市内に残る手付かずの原始林だ。
糺という社や神社は多くないだろう。「糺す」からの連想で上鴨神社と下鴨神社と何らかの関連があるかと思い、丹塗矢伝説を調べてはみたがどうやら見当外れのようだ。ここまで話を進めておいて関係ないようだという結論も無責任だが、もともとの神社仏閣名所旧跡めぐりもその場の思いつきでやっているので、時にはこんなこともある。

ただ、一つわかったのは丹塗矢伝説は三輪周辺、大物主神の話のようだということだ。
大物主神はどこで上鴨や下鴨神社と結びつくのだろう。鴨神社の祭祀は賀茂氏で鳥越健三郎氏によれば賀茂氏は葛城氏の分流という。大物主神を奉じる三輪氏と賀茂氏は同族という説もある。つまり葛城氏、三輪氏、賀茂氏は一族ということになるのか。しかし、賀茂氏の本家と考えられる葛城氏の本貫地、葛城山周辺での丹塗矢型の伝承は聞いたことがない。
何だか「糺す」から、何のまとまりもなく、さらに新たな疑問も出てしまった。これは鬱蒼として樹海と化した糺の森に迷い込んだといったところか。
もちろん、大きく話を脱線させてしまっただけなのだが。

美保神社境外末社六社の残りの二つ、久具谷社(くぐたに)と客社(きゃく)は関の五本松公園から美保関灯台への遊歩道途中にある。
久具谷社には少彦名命の正体を久延毘古命に訊ねるように進言した多邇具久が祀られる。
多邇具久というのはヒキガエルのことらしい。遊歩道を散歩した時に確かカエルの置物が置かれた祠があったと思うので多分あれだろう。仏谷寺の裏あたりから登る道があるはずだ。
いかし、多邇具久(たにぐく)を祀るのが久具谷社(くぐたに)というは似てはいるが名前がちょっとおかしくないか。

客社には国譲りの時に最後まで抵抗した建御名方神(たけみなかた)が祀られているらしい。反抗したものの建御名方神は敗れて信州諏訪に隠れる。それが諏訪大社とされる。
客社は遊歩道上の久具谷社より灯台側にあるようだが実際には未確認だ。

久具谷社も客社も山の尾根の遊歩道にあるので訪問は止めた。地図によれば遊歩道の最高地点は標高200mを超える。ちょっとした登山になってしまうので、行くにはかなり気合が必要だ。

青石畳通り

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○道草 美保関、青石畳通り (平成18年8月15日)

美保関神社(みほのせき)の鳥居の傍から西へ向かって集落の中を貫き海岸に沿って小さな通りがある。石畳の道が仏谷寺まで300mほど続いていて、雨に濡れると敷かれた石が青く見えるので「青石畳通り」と名前が付けられている。

美保関漁港のメインストリートだったが、車の便のため海岸に沿う道が昭和40年代に出来てからは裏通りとなってしまい、寂れた。最近になり、時代に取り残された町並みを利用し整備して観光の呼び物にしようとしている。

一歩通りに入るとしっとりとした昔ながらの佇まいの建物が並び、古きよき時代を彷彿とさせる落ち着いた景色を作り出している。急速に寂れて開発が遅れたのがかえってよかったようだ。
江戸時代とは言わないが少し時代が逆行したような錯覚を受ける。美保関は小さな湾に栄えた町なので路地は何百年も、ひょっとしたら千年以上も大きな変化はなかったのではないだろうか。住宅が少し近代的だがレトロ情緒な古い港町といったところだ。

大量物資輸送の主体が海運であった江戸時代、美保関は最盛期を迎える。
問屋42軒、船宿38軒、芸者遊女100人、出船入船は一日1000艘を数えたという記録があるそうだ。船の出入りに比べて船問屋が少ない感じもするが美保関の港町は長さが200m程で奥行きは数十mしかない狭い場所だ。それを考えると破格の規模といえる。
この道は宿屋を兼ねた廻船問屋がずらっと軒を連ね船員や商人など多くの人々で賑わったメインストリートだったのだろう。

当時の面影を感じながらのんびりと歩く。人影がまばらで喧騒がないのも落ち着いた風情で気持ちいいのだが、町おこしという点からは観光客がまばらなのは問題だろう。
最近では全国各地の古い面影を残した旧宿場町が観光の注目を集めて次々と整備されている。美保関は宿場町とはまた違う港町の姿でそれなりに味がある。もっと観光客が来てもよさそうに思うが今ひとつ成功してないようだ。何故だろう。関西圏からのアクセスの問題だろうか。

道沿いに与謝野晶子や高浜虚子、志賀直哉などこの地を訪れた文人墨客の句や作品の一節が紹介してある表示がところどころに設置してあるのが目に付く。
しかし、個人的に美保関といって思い出すのは
「わたの原 八十島(やそしま)かけてこぎ出(い)でぬと 人にはつげよ 海のつり舟」
百人一首の小野篁(おののたかむら)の句だ。

小野篁は遣隋使で有名の小野妹子(おののいもこ)の子孫で、三蹟の一人である小野道風の祖父にあたる。六道珍皇(ろくどうちんのうじ)にある井戸を通って毎夜地獄に降りて閻魔大王の裁判の補佐をしていたという妙な伝説を持った人物だ。
篁は承和元年(834)に計画された遣唐使の副使に任ぜられたが、病気と偽って行かなかった。そのため嵯峨上皇の怒りをかって隠岐に流される。その時に詠ったのが「わたの原」の句だとされる。

ところでこの時の遣唐使は渡唐までずいぶん時間がかかり、その経過を通じて全くやる気がなくだらけきった雰囲気が感じられる。
まず、計画されたのは承和元年(834)。しかし、造船など事業は進まずようやく船が出帆したのは2年後のこと。
九州を出たもののすぐ遭難して引き返した。この時一船失って、翌年には三船で再度出航するがまたもや逆風で戻っている。この間再出発まで大使を初めとして主要な乗員一同は京都に帰ったりしている。九州で出発を待つ様子もなく、本気で渡航する気がなさそうに思えてしまう。
そして承和5年(838)、ようやく再出発のめどがたったが、大使の藤原常嗣(つねつぐ)は自分が乗るはずの第一船が破損して修理となったためどうやら縁起が悪いと思ったらしく、篁が乗るはずの第二船と船を交換してしまう。
この処置に怒って篁は病気と称して乗船拒否をしたのだ。何だか嫌な行事を病気と言ってズル休みをする小学生のようだ。しかし、小学生と違って篁は曲がりなりにも遣唐副使。仮病が通じるはずもなく流罪になる。
最終的には篁の他にも乗船拒否をした連中が何人か出ているとのことなので、随分と行きたくない連中が多かったということだろう。

当初より意欲があまり見られないこの遣唐使、当時すでに日本は十分文化的で文明的であるという自負があり、わざわざ命がけで唐まで行って学んでくるほどのものはもうないだろうという国内の雰囲気を反映したものだったようだ。
ともかく、この時に遣唐使は無事に渡唐して実際に唐に渡った最後の使節となった。
次に計画されたのは寛平6年(894)。大使に任命された菅原道真(すがわらのみちざね)は遣唐使中止を訴えてあっさり了承されその後は計画もされていないのはよく知られる。道真は中国まで行く必要がないと力説したらしいが、本当は行きたくなかったのがあからさまにわかる。
篁の当時から遣唐使不要論が広がっていたようで、勇気ある誰かがもう止めようと声に出して言うのを待ってた感じがする。

古代においては島根県沖の日本海にある隠岐島(おきのしま)は流刑の地だった。流刑といっても凶悪犯ではなく政治犯だ。隠岐へ流されたのは篁の他に有名人としては後鳥羽上皇(ごとば)、後醍醐天皇(ごだいご)がいる。後鳥羽上皇は本土へ戻ることなく隠岐で崩御されるが後醍醐天皇は脱出して再び鎌倉幕府と対立するのはよく知られている。
隠岐への島流しの本土側の港はこの美保関だったとされる。

篁がここで百人一首の句を詠んだかどうかはわからないが、船で送られる前にはきっと都のことが様々に思い出されただろう。罪人とはいえ縄で縛られていたわけではないだろうから、この通りを歩いたかもしれない。
ちなみ篁は2年後に許されて帰京して復帰している。

流刑の人たちとその後の境遇などを思いながらそぞろ歩く。残念ながら篁の句は見つけられなかった。

青石畳通りをさらに歩いて行くと仏谷寺への門前に着く。仏谷寺は後醍醐天皇が配流になった時の行在所(あんざいしょ)とされる。薬師如来などの立派な仏像が収蔵庫に収めてあり拝観もできる。
しかし、今日はお盆ということでさすがにお寺さんは忙しそうだ。お邪魔しては失礼なので最初から見学するつもりはなかった。日を改めて出直すことにしてもと来た道を再びゆっくりと帰る。

美保神社

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○美保神社 境外末社参り(2) 美保神社 (平成18年8月15日)

いよいよ美保関で一番の社である美保神社(みほ)に参拝する。
海に向かって建つ巨大な石の鳥居の両側には土産物屋が店を開いている。門前にはっきりした駐車場はないが鳥居前が広いため観光客の多くが店の前に車を停めることになる。そうすると何となく店に入ってしまう。それで商売をやっていけるわけだ。

美保神社は拝殿、本殿とも壮大なにこの地方を代表する社だ。
本殿は大社造を二つ横に並べてつなげた独特の建物で、比翼大社造と呼ばれる。この本殿はあまりに有名だ。別名、美保造とも呼ばれる桧皮葺の社は堂々として本当に美しい。
向かって右手の左殿に三穂津姫命(みほつひめ)、もう一方の右殿に事代主神(ことしろぬし)を祀る。

屋根の正面にクロス型に交差させて伸びる千木(ちぎ)という柱のような構造物がある。これが左右の建物では違っているのがわかる。
千木は先端が垂直に切られているのを外削(そとそぎ)、水平に切られているのを内削(うちそぎ)と呼ぶ。内削が天照大神(あまてらす)を祀る伊勢神宮内宮(ないくう)に採用され、外削は伊勢神宮外宮(げくう)で用いられている。そこで内削は女神を外削は男神が主祭神とされる社に用いられるのが一般的になった。そのため、この美保神社では左殿と右殿で祀られる神様が男女なので千木が違うのだ。

外削を男千木、内削を女千木とも呼んだりするが、実はこの千木の違いは絶対的なものではなく、女神が祀られる神社でも外削になっていたりする。佐太神社(さだ)の天照大神が祀られている北殿は外削になっている。外削と内削を男女神に対応させるのは、どうやら国家神道の浸透を受けて広まったもののようだ。

事代主神はゑびす神とされていて美保神社は全国の事代主神系のゑびす神を祀る社の総本山となっている。ゑびす神を祀る神社は2系統あり、一つはこの美保神社でもう一つは西宮神社だ。西宮神社ではゑびす神は蛭子(ひるこ)のことだとされ蛭子系ゑびす神の社の総本山となっている。
事代主神も蛭子もどちらもゑびす神とされているのだが、どちらが本当というよりは本来は三柱ともに違う神なのだろう。もっとも、ゑびす神と事代主神や蛭子との習合についてはほとんど知識がない。

神社では左、つまり向かって右が尊いとされるので左殿は第一殿ともされる。ところがゑびす神の総本山としての事代主神は右殿に祀られるているので、左殿に祀られる三穂津姫命が本来的な祭神となる。これは三穂津姫命と事代主神の関係のもう少し複雑な理由による。

出雲国風土記では美保郷、つまり美保関の説明に、所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)(大国主神、おおくにぬし)と奴奈宣波比売命(ぬなかわひめのみこと)の御子である美穂須須美命(みほすすみ)がおられるので美保と呼ぶと記されている。つまり、元々の美保神社の祭神はこの美穂須須美命だったことがわかる。
ちなみに、奴奈宣波比売命とは古事記で大国主命が求婚に行った越国(こし)の沼河比売命(ぬなかわひめ)のこととされ、古代出雲と北陸地方のつながりが垣間見える逸話となっている。

天王社(てんのう)のところでも確認したが、日本書紀によれば大国主命が天照大神に国譲りをしたあと、高皇産霊尊(たかむすひ)が娘の三穂津姫命を大物主神(おおものぬし)、つまり大国主命の妻として娶わせたと記されている。そこで、日本書紀の「みほつひめ」と風土記の「みほすすみ」の音の類似から美保神社の祭神が三穂津姫命に変わったと考えられている。大国主命との関連でも、三穂津姫命は妃で美穂須須美命は御子という違いがある。美穂須須美命は女神だとは考えられていない。名前が似ているだけなのだ。しかし、非常に近い間柄なので混同しやすかったことも祭神変化には影響しているだろう。

事代主神が一緒に祀られるようになったのも日本書紀などによるところが大きい。
記紀によると、建御雷神(たけみかづち)が大国主命に出雲を明け渡すように迫った国譲りで、大国主命は息子の事代主神に訊ねて欲しいと返事をする。そのとき事代主神は三穂之碕(みほのさき)、つまりこの美保関で魚釣りをしていたとも鳥の狩りをしていたともされる。
返事を求められた事代主神は申し出を承諾して自らは青柴垣(あおふしがき)の中に退去する。今でもこの記事に因んだとされる諸手船神事(もろたぶね)という行事が美保神社では行われる。この地方では有名な神事だ。

ちなみに、青柴垣というのは古事記では船を傾けて変化させたものとされるし、日本書紀では海中に作ったものとされる。そのためこのエピソードは国を奪われた事代主神の入水自殺と解釈する説は多い。同時に大国主命も自らを祀る出雲大社を創建することを条件に入水したとするのもよく言われている。

ともあれ、この記紀の記述から事代主神が美保関に祀られるようになったと考えられている。
ゑびす神が釣竿と鯛を手にしているのは国譲りの時に事代主神が釣りをしていたからとされる。そのため、ゑびす神つまり事代主神は釣りの神、つまり漁業の神様とされるようになり、さらに漁船、船の神様とも考えられるようになってゆく。そして、各地の港で祀られるようになり北前船などの廻船航路の発達と共に信仰が拡大していった。
それを受けて、美保関神社の祭神も本来の美穂須須美命から変わった三穂津姫命よりも事代主神の方が有名になったようだ。

美保神社は事代主神、三穂津姫命、更に諸手船神事など記紀に基づいた縁起が多い。このことは美保神社が有力な神社として認められるようになったのは記紀成立以後ということを示唆する。
土着の古い祭祀が行われたのは先に見た地主神社(ぢぬし)周辺のようだ。本来の美保関の神、美穂須須美命はそこで祀られていたのが最初ではないだろうか。一方、美穂神社は先に廻った五本松公園の近くの美穂社が元宮の可能性が高いだろう。あそこは港の背後の山上で、漁の前に海の様子を見る物見と場合によっては烽火や篝火による灯台の役割を果たすことが出来る場所で、船乗りたちが神を祀るに最適な場所だ。
時代が下り、里宮として港へ降りた後、記紀の影響を受けて漁業の神として事代主神が祭神と考えられるようになり、更にゑびす神信仰の高まりとともに大きくなった。そして、古代よりの美穂須須美命を統合していったという想像も可能性は十分ありそうに思う。

地主社

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○美保神社 境外末社参り(2) 地主社 (平成18年8月15日)

山の中腹からもと来た道を戻る。天王社や客人社への上り口の傍に古ぼけた祠がある。どうやらこれが地主社(ぢぬし)だったらしい。
この社は境外末社の中で一番興味を持っていて、これだけは参拝したいと思っていたものなのだが、まさかこんな社とは想像していなかった。失礼ながらあまりにも朽ち果てた感じの祠なので、これではないだろうと通り過ぎていたのだ。

ここには美保神社(みほ)の本来の祭神である美穂須須美命(みほすすみ)が祀られているという。
実はこの社はストーンサークルの上に建っているらしい。古代より祭祀が行われてきた実に神聖な由緒正しい場所にある社らしいのだ。
しかし、いくら眺めてもストーンサークルを見ることは出来ない。遺跡がありそうな様子もない。埋まっていてその上にお堂が建っているのだろうか。

ここには別の由来もあり事代主神(ことしろぬし)の御陵とも伝えられる。御陵とされるからにはやはり何らかの遺跡があったのだろう。美穂須須美命と事代主神の二柱が祀られているという解釈もあるようだ。

地主社は美保関で最も古い社とされる。起源がストーンサークルならば当然だろう。地主という名称自体もその土地の産土を想像させる。
また天王社、客人社を含めて後ろの客人山(まろうど)との係わり合いがありそうだ。客人社ははっきり客人山を御神体としているとされる。客人山を背にしてはいないが、近くにあった幸魂神社(さきたま)も三穂津姫命陵(みほつひめ)とされるくらいなので何かの遺跡の跡に建てられたことが想像される。
山裾の小さな高みに過ぎない客人山だが、いわゆる神奈備た神宿る山として崇拝されたと思われる。この一帯は古代祭祀の中心だったようだ。
後に美保神社の隆盛によって祭祀の主体はそちらに移ったのではないだろうか。

近くには井戸があり底場の井戸と呼ばれるものでいわれがあるらしいのだが、民家の裏にあって傍らには洗濯物が掛けられているのが何だかとても寂しい。
各末社には何か案内や説明板が欲しいものだ。

さらに気になる事が頭に浮かんだ。それは社の名前と祀られる神名の関係だ。天王社に三穂津姫命、客人社に大国主命、地主社に事代主神と美穂須須美命となっている。
客人はその地の産土でなく外来の客を示すものなので、天降って来た三穂津姫命が適当である気がすることは客人社で感じた。地主は文字通りその土地の神を祀るのが相応しく、大きな土地を持つという意味とされる大穴持命の別名を持つ大国主命が、また、天王という文字からは牛頭天王の別名を持つ素戔嗚尊が一番に連想される。
長い年月の間に、祀られた神様が代わっていったのだろうか。

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