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いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

宍道湖中海巡礼記2006

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客人社

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○美保神社 境外末社参り(2) 客人社 (平成18年8月15日)

天王社(てんのう)からさらに登ったところに少し大きな新しいお堂がある。正面には石段の参道があり美保関灯台へ続く道の途中からも登ってこられるようだ。

社名が掛けられていないが、奉納の記録があってそこからこれが客人社(まろうど)であることがわかる。これが客人社なので先のお堂が天王社であるのは間違いないようだ。

方一間の切妻妻入、心柱は見えないがよくある大社系の造りの神社だ。ここには大国主命(おおくにぬし)が祀られているとのことだ。
三穂津姫命(みほつひめ)が天降ったのが客人山とされるなら、客人社に祀られるのは三穂津姫命と思われるのだが何故か違う。そもそも、客人というのは文字通り他所の地から来たお客様のことだ。大国主命は出雲の神様なので客人とするには相応しくない。その点、三穂津姫命はこの地にとっては客人なので当然、客人社に祀られるのが筋だと思うのだが。妙だ。

すぐ下には海が迫っている。木が生い茂ってなければ水平線が眺められるだろう。ここもひょっとすると港の灯台の役割をした場所なのだろうか。十分に機能しそうだ。

何となく社の裏に細い道が山に向かって続いているように見えたので、何かゆかりのものでもあるかと思い登ってみる。
しかし、途中で道らしきものは消えてしまった。振り返ってよく見るとどうも道ではなかったらしい。三穂津姫命の天下った地というような碑を期待したのだがそのようなものはなさそうだった。

そのそも客人山というのはどこなのだろう。社のあるのは山の肩というか中腹斜面で頂上ではない。港の後ろに聳える島根半島を形作る山の一つが客人山なのだろうか。しかし、この近くは尾根が続いているだけではっきりとしたピークはない。
国土地理院の地図で確認すると美保関湾の東に突き出す部分の山の斜面に「86」という頂を示す数字が見える。山裾が少し盛り上がったような場所だ。どうやらこれが客人山か。ただ現地でどこなのかを示すのは難しそうだ。
特に目立つわけでもないのに三穂津姫命の降臨地とされたのは不思議な気がする。
もっとも情報がないので全く的外れな高まりを客人山と勘違いしている可能性は十分にある。

天王社

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○美保神社 境外末社参り(2) 天王社 (平成18年8月15日)

美保神社(みほ)の六社巡りの境外末社を探し民家の尽きる東にある山道の階段を登る。道は雑木林の中を上へ続く。暑いので少々疲れた。

上には祠がある。扁額がないが多分これが天王社(てんのう)だと思われる。
道の向こうにもう一つ別のお堂がある。手持ちのマップによると港の東端に天王社と客人社が隣り合って建っているらしいのでこの二つがそれにあたるのは確実だ。向こうに見えるお堂がこの後に客人社であることがわかった時には間違いないことがわかって正直少しほっとした。ようやく境外末社六社のうちの一つを探し当てたことになる。

天王社には美保神社の主祭神の一人である三穂津姫命(みほつひめ)が祀られているらしい。

日本書紀によれば大国主命(おおくにぬし)が天照大神(あまてらす)に国譲りをしたあと、高皇産霊尊(たかむすひ)が娘の三穂津姫命を大物主神(おおものぬし)、つまり大国主命の妻として娶わせたと記されている。
そして、美保神社の伝承によれば三穂津姫命は国譲りの後に稲穂を持って客人山に天降ったとされる。

この紀行の確認で日本書紀を改めて読んでみたのだが、このあたりの記述は妙に混乱している。
幸魂神社(さきたま)のところでも引用したが、記紀では大物主神は大国主命の幸魂奇魂(和魂)と説明され同神とみなされている。また書紀にははっきりと、「大国主神はまたの名を大物主神、または大己貴命(おおなもち)」というと書かれている。これからは大国主命、大己貴命、大物主神は全て同一神ということになる。
大国主命と大物主神は同じ神のはずなのだが実は妙な記述があるのに気がついた。
書紀の一書によれば大己貴命、つまり大国主命は国譲りを承諾した後、身を隠したとされる。その後に経津主神(ふつぬし)がこの国の残りを平定して行き、従わない者は切り殺し帰順した者には褒美を与えた。そしてその時に帰順したのが大物主神と事代主神(ことしろぬし)であると記されているのだ。この話からは大己貴命は経津主神が平定して行く時には既に国を譲って身を隠しているはずなので、同じ神とされる大物主神が後から帰順したというのはお互い別の神としか考えられない。
そして、この後に三穂津姫命を妻として下らせる話が続く。そこでは三穂津姫命の結婚相手は大物主神とはっきり書かれていて大己貴命とも大国主命とも書かれてないのだ。さらに、高皇産霊尊が娘の三穂津姫命を嫁す理由も、帰順した心に迷いがないようにだという。ますます、国譲りをして隠れた大己貴命と大物主神が別の神といった感じだ。

大国主命、大己貴命、大物主神、これらの神々は本来別だったのを記紀編纂時に同一神にまとめられたとされるので、そのあたりのほころびが見えるということか。

小さなお堂は少々痛んで歪んでいるようだ。ひっそりと建っている。特別にいわれを感じられるような造りではない。何かを特徴を示すものも見られない。
せめて解説板でも欲しいところだ。

幸魂神社

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○美保神社 境外末社参り(2) 幸魂神社 (平成18年8月15日)

灯台から戻って美保関(みほのせき)港の東端にある駐車場にバイクを停める。

境外末社六社を探して民家の中の細い路地を入ってゆく。
美保神社境外末社六社。客人社、天王社、地主社、客社、久具谷社、糺社がそれにあたる。
小さな社だと思われるがあまり有名でなく、地図はイラストマップのようなものしか入手できなかったので本当に見つけられるかどうかは自信がない。

山側へ住宅地の細い路地を歩いて行くと森の中に古ぼけた石段があり、何やらいわくありそうな小さな社が見える。それが地主社だろうと見当をつけて登ってみると幸魂神社(さきたま)だった。

何故この社の名前がわかったといえば説明板があったからだ。しかし、確実にわかったのは神社の名前だけでその他はよくわからない。
解説版によると、長い間祀ってある神様がわからなかったが平成15年2月の遷宮の際に「奉造立幸魂神社三穂津姫命霊廟一宇成就攸(ところ)」の記載のある棟札が見つかったとある。さらに、大己貴命が誰かと問われたところ私はそなたの幸魂奇魂であると答えた、と刻まれた石碑もあるとのこと。

説明を読んでも文章の前後のつながりが不明で理解に苦しむ。
どうやら棟札からは三穂津姫命(みほつひめ)の御陵とされているらしい。三穂津姫命というのは大国主命(おおくにぬし)の后神とされ現在の美保神社(みほ)に祀られている神様だ。
そしてどうやら大己貴命(おおなもち)の返答が神社の名前の由来となっているということらしい。
しかし、大己貴命の「私はそなたの幸魂奇魂(さきみたま、くしみたま)である」という言葉は記紀では三穂津姫でなく全く別の神の説明に出てくる。それは大和三輪山(みわ)の麓の大神神社(おおみわ)の縁起だ。

まず大己貴命は大国主命の別名とされている。
大国主命は少彦名命(すくなひこな)と一緒になって国造りをしていたが途中で少彦名命はいなくなってしまう。残された大国主命のもとに海原を照らして神が出現した。大国主命がその神に誰かと訊ねると、私はそなたの幸魂奇魂(和魂)(にぎみたま)であり、国造りに協力すると答えた。それが大和国の三輪山に鎮座している大物主神(おおものぬし)であると記される。

記紀では大国主命(大己貴命)の幸魂奇魂が大物主神だとされるので大国主命と大物主神も同一神だとみなされている。
そうなるとこの社の名前の由来は少し妙だ。見つかった棟札からはここに祀られているのは三穂津姫命のはずで大物主神ではない。そもそも、三穂津姫命は大国主命(大己貴命)の后神なのだ。そうなると自分の幸魂奇魂が妻ということになる。
何だか謎だらけの解説文だ。説明になっていない。
もっとも、大国主命もやってくる自分の一部が誰だかわからずに訊ねるくらいだから、日本の古代の思想は現在とは大きく違っているのだが。

それに比べて、説明文の前半は大変よくわかる。
祭神は不明だが昔から男女の下の病によく効くとされて、かつては芸者達からよく信仰されたと書かれている。
下の病というのはもちろん性病のことだ。昔だからAIDSはない。梅毒と淋病だ。
芸者というのも唄や踊り三味線などで客をもてなす祇園の芸者さんたちのような女性ではなくいわゆる遊女のことだ。芸ではなく寝る専門を枕芸者と呼んだ。本当の芸者は芸を売り物にしている。ちなみに遊廓というのは公認の遊女屋街で江戸の吉原や京都の島原など限られていた。私設はもちろん数限りなくあり半公認のものは岡場所といったりした。もちろん美保関にも公認のものはない。

下の病に効くというご利益から、かつてはここが大きな港町だったことがはっきりする。
現実に美保関は江戸時代には北前船の寄港地で多くの旅宿が軒を連ねて大層な賑わいを呈していたとされる。そして大きな港町には必ず遊女を囲った店がいくつかあった。
今は田舎の少々寂れた漁港にすぎないここも華やかな時代があったのだ。

美保関灯台

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○美保関のかなたへ(2) 美保関灯台 (平成18年8月15日)

港を通り過ぎてさらに半島の突端を目指す。昔はこの先は有料道路だったものだ。頭の中でさっきの岬めぐりがぐるぐるリフレインされる。
軽い登りのワインディング。
灯台の駐車場にも相変わらず車は少ない。

ここは古く美保之碕(みほのさき)と呼ばれた岬で美保関(みほのせき)の名前のもとになっている。今は地蔵碕(ぢぞうさき)と呼ばれる。
空気の透明度が高ければ海の向こうに微かに隠岐島(おきのしま)も見えるのだが残念ながら今日は霞んでいて視界が良くない。

岬には白亜の灯台が建っている。灯台の建物自体は低いのだが断崖絶壁の岬に建つために水面からは83mあるという。この灯台も海軍美保関事件を目撃した。

目の前には紺碧の海が広がる。海に向かって鳥居が建っている。それが遥拝所で、そこからは美保神社の飛地境内の地之御前(ぢのごぜん)と遥か向こうに沖之御前(おきのごぜん)と呼ばれる小さな島が見える。事代主神(ことしろぬし)が魚釣りをしていた場所だそうだ。
演習の軍船もその島を横に見ながら出航していったはずだ。

五十嵐邁作「美保関のかなたへ」という一冊の文庫本がある。これが今回、美保関事件の関連地を回ってみようと思うきっかけとなった本だ。

昭和2年8月24日、日も変わろうとする深夜11時30分過ぎ、美保関沖で2隊に分かれての戦闘演習中、駆逐艦蕨に巡洋艦神通が、駆逐艦葦に巡洋艦那珂が衝突して百以上の兵士が亡くなった日本海軍未曾有の事件。いわゆる美保関遭難事件というものを知った。

月齢26.4というほぼ暗闇、もともと夜間の無灯火の演習という危険で無謀なプラン。当時はレーダーでなく目視で戦艦を操縦していた。しかも台風が接近中という悪条件。訓練を行うのに適してない状況が重なった中で演習を行い事故を起こしたのだ。この事故は起こって当然の中で起こった人災だという事が悲劇だ。

もっと残念なのは、このような過酷な演習はたとえこの時に行われなくても何れは実行されたに違いないことだ。つまり、必ず起こってしまうような事故だったことだ。

第一次大戦後の1921年、ワシントン会議がアメリカの提唱で開かれる。そこで海軍軍縮が取り決められ、アメリカは英米日の軍事力を5:5:3の比率に押し付けることに成功する。それは日清、日露で連勝した日本の大陸への進出を牽制するため初めから仕組まれていた。
軍備を制限された軍部は数の劣勢を訓練や熟練で補おうと考える。いわゆる「十年一剣を磨く」という考えだ。
無謀な訓練や演習を進める準備がこの時に出来てしまったのだ。

冷静に考えれば当時の日本とアメリカでは国力が違いすぎるので軍縮で日本を押さえつけなくてもよかったはずなのだ。実際に太平洋戦争が勃発した後、戦場に注ぎ込まれた物資の量を見れば誰でもわかる。日本の軍事力をそのままにしていても、戦いが始まれば疲弊するのは明らかだった。
最終的には太平洋戦争へと進んでゆくのだが、それも含めてすべてはアメリカの思う壺だったとしか考えられない。軍縮を強制されることで日本は逃げ場を失い、開戦しなければならなかったという側面がある。

しかし、国家戦略の犠牲者となるのはいつでも一般国民だ。

美穂社

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○美保神社 境外末社参り(1) 美穂社 (平成18年8月15日)

美保神社(みほ)には「境外末社六社参り」というものがある。「ある。」というよりあることを知ったのはつい最近だ。今日はそれにも足を伸ばしてみようと思っている。

山の尾根にある関(せき)の五本松公園の頂上広場は雑草で覆われている。草むらの中に足を踏み入れるとそれに驚いてバッタが飛びまくる。その数にこちらが驚く。
奥に鳥居が見える。その向こうへ伸びる遊歩道に進んでゆく。そこから道は山の尾根伝いに続いている。

松林の中の赤土の遊歩道をいくつか朱塗りの鳥居をくぐりながら歩いて行くとしばらくして小さな祠に出会う。
美穂社(みほ)。これは境外末社六社参りの社ではないが少し気になりやって来た。

歩いて来た遊歩道はこの社の参道ではない。社の真裏に出てしまう。多分、下の美保神社の裏から登ってくる表参道があるはずだ。

社の前の鳥居は美保湾、つまり海に向かっている。出雲国風土記には美保社と記される神社があり一般的には美保神社がそれにあてられているが、こちらがその美保社だという意見もある。
風土記との関連は定かではないがこの場所から考えると美保神社の奥宮か元宮だったのではないだろうか。

鳥居が多く並んでいたがお稲荷さんではなさそうだ。狛犬も狐ではない。
社は1m足らずの方一間で、いわゆる向拝のない春日作りタイプ。小さな社によく見られる形式だ。
御影石の台座や鳥居など非常に新しい。祭神などの説明は見当たらなかった。

ここは港の真後ろ真上にあたる山の上だ。昔は沖で漁をする船からの格好の目印になったはずだ。今では木々が生い茂っているが夜に火でも焚けば灯台の役割をなしたと考えられる。そういう重要な場所に神社が建てられることはよくあることだ。

遊歩道はこの先も尾根に沿ってずっと続いている。このまま進めば途中には美保関の港から島根半島北側の才の集落へ行く山道との交差に出会い、更に島根半島の東端にある美保関灯台まで道は続いているはずだ。以前に分かれ道まで歩き美保関の町へ降りたことはあるが灯台まで行ったことはないので詳しい道の状態は不明だ。
進むと散歩が長くなりすぎるので今日はそのまま引き返す。

リフト乗り場まで帰るとラジオからリクエスト曲の岬めぐりが流れている。今、文字通り岬に来ている。そしてお盆の祖先迎え、終戦と戦争にまつわる犠牲、それらが青春時代に聞いた感傷旅行のフォークソングと一体になり訳もなく心に沁みてしまった。

ただ地元ローカル曲のラジオをスピーカーから流すだけというのも、うら寂れた観光地の典型で、それも何だか悲しくなる。

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