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いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

宍道湖中海巡礼記2006

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関の五本松公園

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○美保関のかなたへ(1) 関の五本松公園 (平成18年8月15日)

事情により遠出が出来ないお盆、中途半端な休みだ。昨日に続き二日連続で近くを巡ることにする。
平成18年8月15日、お盆ということに加えて終戦記念日でもある。その是非はともかく多くの問題を背負ったまま小泉首相は靖国神社へ参拝した。個人的には何の関係もないが慰霊の意味も込めて行く先は美保関(みほのせき)にする。

美保関に行くには島根半島へ出て県道2号境美保関線をひたすら東へ走る以外に道はない。この道は美保湾沿いの沿岸道路で少し狭いところもあるものの海べりを走る気持ちの良いルートだ。お盆だというのに所々で釣り人の姿も見える。

美保関ではまず関の五本松公園を目指す。港の背後の山の上にあるため登らねばならない。公園への登り口の周りにある店は打ち破れていて寂しく場末の観光地の典型だ。山陰は大都市からのアクセスの問題もあり観光だけで食べて行けるところは少ない。
楽をするならリフトもある。片道400円、往復500円、この値段設定はよくわからない。リフトも乗る人がいるときだけ動くようでそれ以外は止まっている。本当に客は多くなさそうだ。
乗り場には「関の五本松公園まで歩いて20分」と書かれている。しかし、それ程の距離ではないことを知っているので歩く。
営業妨害をするつもりはないが、実は公園までは確かに歩いて20分程度かかるがリフトに乗っている距離は登りでも10分もあれば着いてしまうのだ。帰りは5分程度。
歩く人は少ないらしく遊歩道には落ち葉が散乱しているが道自体は整備されていてサンダルでも歩ける。

上のリフト乗り場で関西弁の中年夫婦とすれ違う。遊歩道から登るこちらを見つけて、
「わー。歩いて登りはったんや。」
感嘆の声。歩いて20分の表示のおかげだ。実際は散歩程度なので照れてしまう。

ここでも茶屋が寂しい。公園入りには廃墟と化した茶屋が両脇に建つ。実は廃墟ではなく閉まっているだけなのだがそう見えてしまう。公園はツツジの名所で多くの観光客が来るのだが、季節外れは訪れる人もまばらだ。

歩道を登って行くと関(せき)の五本松が見えてくる。台風で倒れたり松くい虫で枯れたりと現在の松は三代目とのことだ。この公園は民謡ファンには馴染み深い。
江戸時代に藩主、松平侯が松江から美保関神社参詣の時に街道脇の松の一本が景色を眺めるのに邪魔になると、五本あったうちの一本を伐らせた。美保関に入る船の目印となっていた松を伐られて、それを里の人が嘆いた歌が民謡「関の五本松」。
「関の五本松、一本切りゃ四本、あとは切られぬ 夫婦松(みょうとまつ)」
残った4本を2組の夫婦に見立てて、これ以上伐るのは夫婦を別れさせるようなものなので、できないだろうというような意味だと思う。
何度か聞いたことはあるが民謡は興味がないので具体的にはどの様な節回しなのか覚えてない。当然続きの歌詞も知らない。

松の側を抜けるように細道があり「旧松江街道」の標識がある。これが江戸時代に松江と美保関を結んだ、民謡の逸話となった旧街道らしい。
具体的にこの松江街道がどこを通っていたのかは知らない。美保関に通じる道は、現在は今日走ってきた海岸線に沿うものなので、こんな山の上に街道があったわけではなく、昔は少し山側を通っていたようだ。湾になった美保関の港の西にある海崎の集落でこの山を越えていたと考えられる。
街道の表示の先に道は続いてないようだ。獣道が残っているかも知れないが少なくとも国土地理院の2万5000分の1の地図には道は記されてない。調べに行く気も起きない。

公園を登りつめた上に広い空き地があり休憩できる東屋と平和記念塔が聳えている。この記念塔がここでの目的地だ。日本海軍、美保関事件の慰霊塔。
今まではこの塔の具体的な内容を知らなかった。
手入れがあまりされてなくコンクリートの階段も一部傷んで崩れている。修理の費用が出ないのだろう。何となく寂しく感じるのは人が誰もいないからだけではないようだ。

塔の前の説明板の内容を要約抜粋する。
昭和2年8月24日夜半、日本帝国海軍戦艦「長門」以下の60余隻が、美保関の東北32km付近の海上で2軍に分かれて戦闘訓練を行った。台風の接近で雨と風の中、無灯火、全速での訓練だった。訓練中に駆逐艦「蕨」の船腹に巡洋艦「神通」が誤って激突、蕨は二つに裂けて沈没、直後には駆逐艦「葦」の船尾に巡洋艦「那珂」が衝突した。この事故で乗組員多数が行方不明となった。訓練の犠牲となった120名余の霊を慰めるために建立された。

そっと手を合わせて祈る。

今日は晴れているが霞んでいて遠望がきかない。いつもは海を隔てて聳える大山さえも見えない。美保関事件で亡くなった船員の中にはここへ登って来た人もいただろう。台風前とのことなので当日もやはり大山は見えなかったのだろうか。
眼下には小さな入り江になった美保関湾がある。この沖合に多数の軍船が停泊していた。日本は急速に太平洋戦争へと突き進んで行く中で、百名を超える犠牲者を出した事故が起こったのだ。

金龍山、雲光寺

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○小野という名 金龍山、雲光寺 (平成18年8月14日)

越敷山(こしき)の反対側へ越えて県道1号溝口伯太線(みぞくちはくた)へ合流し、すぐに県道180号線を南に走る。天宮(てんくう)さんを探して来たことのある御内谷(みうちたに)の集落の入り口に県道から良く見えるお寺がある。それが伯耆三十三観音霊場の一番札所である雲光寺。

楼門などを備えた格式の高そうな寺院だ。境内には仏足石もある。ただ、観光寺院ではないので人の気配はなく夏の日差しだけが暑い。

ここには小野小町の位牌とされるものが伝わっているらしい。誠清院殿霊顕妙照定尼。申し込めば拝見できるということだが、事前に何の連絡もしてない。
もっともお盆の最中はお寺さんは忙しいはずなので頼んでも今日は無理に違いない。
正直なところ位牌にはあまり興味がないので、拝見できなくてもどうということはないのだが。興味がないのに何故ここへ寄ったかといえば、これだけ近い場所に小野小町に縁のあるお寺があるなら、あえて外す理由がないといったことくらいだ。

本堂の前まで来たが、ここでは何もすることがなく空想も何も湧かないことに気がついた。ただ呆然と真昼の炎天下の中、直射日光を浴びて境内に佇んでいる。

特に興味のない場所へやって来ても仕方がないことがあるということを学んだ。所詮、趣味で廻っているので、ここはやはり押さえておかなければいけない場所だ、などという半分義務的な訪問では、その場で意外なものを見つけたりしない限り何も想像が膨らまないのですることがないのだ。もちろん見るべきものがあれば別だが。
単に興味に関連しているというだけで立ち寄るのは考えものなのはわかっているが、今まで結構それでうまく楽しんできた。ふらりと寄ったところに思いもかけない言い伝えや建築物や像があったりすることが、意外なほど多いからだ。
それでも、やはり、どうにも楽しめない場所というのもあるということがよくわかった。
もちろん寺に責任があるわけではなく、こちらの気持ちと態度に問題があるので、用もないのに勝手に来て不満を言うのは大変に失礼な話だ。申し訳ない。
ひょっとする、暑さで何も考える気になれないのかもしれない。

ところで、この寺が一番札所の伯耆観音霊場というものがある。これは廻って御朱印を頂けるのだろうか。それは少し興味がある。
伯耆観音霊場というのは、あまりに田舎で巡礼者を見かけないし、札所の寺も各集落の菩提寺で納経に年中無休で対応しているようには見られない所も多い。
何時か暇になったら調べてみよう。御朱印がいただけるようなら廻ってみるのも悪くはない。しかし、それは何時になることやら。

小野神社

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○小野という名 小野神社 (平成18年8月14日)

小野小町の五輪塔からバックしてもとの道に戻る。そのまま進み、とっとり花回廊への分岐を素通りすると日野川(ひのがわ)沿いに出る。その道より少し高台になった集落まで登って入り口にバイクを停めた。
目的地に近いはずなのだが正確な場所は知らないので歩いて探すことにする。お盆の真昼間に狭い集落内を騒がしく走って探す気にはなれない。
どうも、閑静な農村内を走るにはバイクは大きすぎる。何故もっと静かなバイクを作らないのだろか。エギゾーストノートの音が官能的などと書かれていることがあるが、個人的には喧しい排気音にすぎない。バイクという乗り物は好きなのだが、どうやら、排気音を愛でるというような感性は持ち合わせてないようだ。

集落の端に少し大きな樹木の繁った場所が見えるのでそこら辺と見当をつけて近寄る。確かに小野神社だった。遠くには御墓参りの人々が見える。こちらを少し気にしているのは当然だろう。こんなお盆の真っ只中に観光地でもない田舎の神社参りをする見知らぬ中年男、実に怪しい。何気ない素振りで、出来る限り怪しくないように努めるがそれが効果があったのかどうかは定かではない。

鳥居、拝殿、本殿、何もかも新しい。平成16年4月に再建してある。本殿は方一間の大社系の造りで、出雲地方を中心によくある形で特に特徴はない。
向かって左手に小さな東屋の様な建物があり、中に神棚風に社がまとめてある。どうやら摂社をまとめたもののようだ。神名が書かれているが馴染みのない名前が多い。多くが土着の氏神のようだ。
古い像も安置してある。神像なのか仏像なのか区別が付かない。
主祭神すら他所者にはわからない集落の社では、合祀されたらしき社や像がどのようなものなのかは見当もつかない事が多い。細かなことは氏子でなければわからないということだ。
しかし、少なくとも小野小町と関連するものは見られない。期待したのだが説明板もない。少し残念だ。

ここは小野(おの)という集落。当然、小野神社があってよい。ただそれだけのことなのだろうか。

ところで、小野小町の小町は名前ではない。平安時代宮中の女御には生活する部屋や一画が与えられていてそれを町といった。小町というのは、その町がかなり小さいものだったからという説がある。また、小野小町には姉妹がいて、姉と区別のために妹を小町と呼んだともされる。

先の小町の五輪塔があったのは、この小野と接した小町という集落だ。小野という地名の隣が小町、このことから小野小町伝説が出来出来上がっていったのだろう。
地名の知識はほとんどないが小野というのは少なくないだろう。しかし、小町という地名はは珍しいのではないだろうか。それに、小野という集落の隣に小町という名前の集落というのは、さすがに出来すぎている。
小野という地名から小野小町とつながって、近くにあった五輪塔が小町の墓とされるようになり、いつしかその五輪塔のある集落が小町という名前に代わったとも考えられる。
ともかく、小野小町伝説が生まれた背景は、ここが小野という地名だったことが大きく関係していることは間違いないだろう。

小野小町の五輪塔

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○小野という名 小野小町の五輪塔 (平成18年8月14日)

小野小町、日本を代表する絶世の美女で美貌だけでなく歌道にも優れ六歌仙の一人に数えられる。その名前を聞いたことのない人はいない才色兼備の女性の代表だろう。

天皇の後宮に仕えた女性だったらしいが、その生涯は全く不明といってよい。小野篁(おののたかむら)の孫とも姪ともされる。言い伝え以外にほとんど記録あないために様々な伝説が生まれてくる。
各地に散らばる伝説の多くはほぼ二つの系統にまとめられる。一つは「深草少将百夜通い(ふかくさのしょうしょうももよがよい)」系ともう一つは「卒塔婆小町(そとば)」系だ。

熱心に求愛する深草少将へ小野小町は、百夜毎日通って来てくれれば思いを遂げさせると告げる。それを聞いて少将は小町の邸宅へ毎晩通うが最後の日にとうとう力尽きて息絶えてしまう。
この百夜通いの伝説を、美貌を鼻に掛けた小町の非情な仕打ちと解釈して、小町落魄説話が生まれる。後年、年老い美貌の衰えた小町は家財も地位も全てを失い各地を乞食となってさすらったというのがそれだ。そして、これが能の卒塔婆小町のもととなる。
この卒塔婆小町系の話は、若い時の傲慢の罰という因果応報と、どんなに美しくてもいつかは衰えるという無常観などの仏教的な説話となっている。

そんな小野小町の伝説地に向かった。あるのは卒塔婆小町系の伝説だ。
米子から国道181号線を走ると、とっとり花回廊への案内が現れれる。その標識に従って進んで行くと「小野小町の五輪塔」の小さな案内が出る。案内に従うと道は狭くなって農道の様相を呈してくるが、構わずに進むと畑と田圃に囲まれた村はずれに小さな東屋が見えてくる。

風化した小さな五輪塔が雨をしのぐ屋根の下にちょこんと建っていた。これが小野小町の墓とされるものだ。落ちぶれて物乞いをしながら流れてきてここで亡くなったのを、村人が哀れに思い懇ろに葬ったとのだと伝えられる。
本当に慎ましやかな五輪塔だ。その横に小野小町と彫ってある自然石の碑があるが、そちらの方は五輪塔より大きく立派だ。

平成12年10月6日に鳥取県西部地震がこのあたりを襲った。この被害で五輪塔が倒れしばらくそのままに放置されていたのを平成14年に募金で直している。今ある屋根もその時に出来たものだ。説明板も新しい。

線香と新しい花が手向けてあるのはお盆だからだろうか。村人に大切にされているようなので日々線香と献花があるのかもしれない。

ここは解説にはっきりと伝説と書いてあるのが実に潔い。本当のことのように妙に押し付けがましい説明でないのだ。言い伝えの真偽の判断は個人に任せるといった感じだ。

近くの道端に別の五輪塔があるがこちらには何の説明もない。かたまって五輪塔があるのはここが何らかの宗教的な意味を持つ場所だったということなのだろうか。周りは田圃でそれを確かめることは出来ない。墓地だったとも思えないが。

ここへの道は直接国道181号線から入ることも出来る。国道沿いに案内板があるのだが、米子方面へ向かってでなければ見えない。案内板も小さく土地鑑がなければ多分見つけることは出来ないだろう。このあたりでは御前様と呼ばれているので案内にも御前様となっている。

坂中廃寺跡

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○文化財点描 坂中廃寺跡 (平成18年8月14日)

平成18年8月14日、お盆でしかも休みだというのに実家に墓参りに帰ることが出来ない。少し開いた時間があるのでふらっと出かけた。

国道180号線を米子から走っていると7-8kmでとっとり花回廊への案内が出る。とっとり花回廊は鳥取県西部を代表する観光施設なので案内は目に付きやすい。そこを県道316号線に入ると坂中(さかなか)という集落へ着く。

廃寺跡を集落の中を歩き回るが見つけられない。公民館を目印にしてその横にあるという文化財紹介の記事を頼りにしていたのだが、肝心の公民館が見つからないのだ。県道を行ったり来たりして、ようやく道沿いにバス停も備わった新しい公民館が出来ていることに気がついた。どうやら紹介記事内用が古かったようだ。

公民館が目印にならない以上は自力で探すしかない。バイクを公民館駐車場に停めて歩き回り何とか見つけ出した。何のことはない雑草の繁った単なる空き地でヒノキが一本生えている。横の建物を見ると確かに古い公民館のようだ。
小さなお堂があり中に蓮の花が沢山置かれている。お盆だからなのか。

塔の心礎が、唯一ここに現在坂中廃寺と呼ばれる寺が平安時代初期にあったことを物語る。心礎は大変珍しい形をしている。通常の礎石は上面が平らだがここのものは中央に直径30cm程の出っ張りがあってさらにその真ん中にに凹みがある。出柄式と呼ぶらしい。

このあたりは坂中長者原と呼ばれ、長者というのは紀成森(きのなりもり)という豪族が住んでいたからとされる。このあたりは確かに広い台地で開墾すれば大地主となったはずだ。ただ、日野川はここから低い場所を流れているので用水の確保が問題だっただろう。

心礎の横に碑文は全く読めないが紀成盛長者之塔というものも建っている。坂中廃寺はどの様な寺だったのかよくわかってないが紀成盛との関連が考えられている。紀成森盛は1172年に大山寺(だいせんじ)の金銅地蔵菩薩を鋳造したり大山権現堂も造営したとされ神仏に篤かったと思われるため、坂中廃寺の大壇越であっても不思議ではない。
それにしても和歌山を勢力基盤にした紀氏一族につながる豪族がどうしてこんな山陰で長者と呼ばれるようになったのだろうか。実に奇妙だ。

この廃寺跡に興味を持ったのは興福寺の国宝館で玄賓(げんびん)の像を見たからだ。奈良の興福寺はあの有名な阿修羅像を初めとして国宝の宝庫だ。すばらしい仏像群に囲まれているので目に付き難いがそこには国宝木造法相六祖坐像というものがありその中に玄賓像がある。
玄賓は天皇の病気平癒を祈祷するために招請される前に伯耆の会見郡に阿弥陀寺を建立していたとさる。ここの坂中廃寺は出土した瓦などから創建は奈良時代後半で玄賓が寺を創建した時期と重なる。遺跡で何々廃寺というのが出てくるがこれは元々の寺の名前が不明なためにその土地の名前を使って廃寺とつけている。つまり、この坂中廃寺が玄賓の阿弥陀寺の可能性があると考えても良いとされている。それで一度見たかったのだ。

玄賓は後に大僧都の位を贈られるのを辞退し三輪山の麓に隠居したとされる高僧でそれをもとにした能の三輪という話がある。改めてストーリーを確認した。
三輪山の麓に隠棲していた僧都に美しい女性が仏への供え物を持って通ってくるようになった。ある日、寒さをしのぐため僧都の衣を頂きたいと乞うので僧都はそれを女に与える。すると翌日、三輪神社の杉の枝に与えた衣が掛けてあると村人が教えに来る。僧都がそこに行くと女性は三輪明神の化身であった事を明かし三輪山の故事などを告げて消える。

とにかく有名な高僧なので能の題材にもされている。中央の権力を嫌った孤高の僧であったようだ。それ程の高僧と縁のある寺かもしれないと知れば一度は見てみなければと思ったのだ。

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