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いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

宍道湖中海巡礼記2006

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厳島神社

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○平家物語 その一 厳島神社 (平成18年6月18日)

長谷部信連(はせべのぶつら)の遺跡から100m足らずで神社がある。信連一族が勧請した厳島神社(いつくしま)だ。厳島神社といえば広島の宮島だが、もちろん平清盛(きよもり)が一族の守護として今の姿に整備したことで知られる世界遺産だ。
信連は源氏方なのにどうして平氏崇敬の厳島神社をここに建てたのか実に不思議だ。

鬱蒼とした原生林に囲まれ崩れかけた石段の参道が続く。社殿は方一間、大社造様の切妻妻入で出雲周辺ではよく見られる形だ。
ただ、他ではあまり見られない点がある。社の傷みが激しく柱が明らかに傾いているのだ。周辺に民家も少なく氏子も多くなさそうで建て替えはおろか改修もままならない感じだ。

本殿の後ろの山の斜面に小さな荒神社の祠があって、そこへ向かって踏み分けた小道らしいものが続いている。雨水の通り道のようで小川のようになっている。このあたりにも手入れのされてなさが目立つ。
向かって右にも小さな社があるがこちらはどの様なのもかも不明。
反対側の左には巨大な岩が雑木林の中にあり注連縄がされている。これも詳細は不明だが磐座に間違いはない。

参道正面にある石の鳥居の向こうには朱というより赤く塗られた両部鳥居が立っている。両部鳥居というのは両側の柱の前後に別の支えのための柱が付いている形だ。この程度の大きさの社には不釣合いな複雑な鳥居だ。
宮島厳島神社と同じ形式なのでそれに倣っているのだろう。しかし、これも塗りが剥げていて少し侘しい。

ここで帰宅のつもりだったが天気も良いし、予定を変更して蒜山高原から大山環状道路へのツーリングに向かった。
大山周辺はどこを走っても気持ちがいい。

長谷部信連公遺跡

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○平家物語 その一 長谷部信連公遺跡 (平成18年6月18日)

梅雨に入っても今のところ雨は少ないが曇った日が多かった。平成18年6月18日。快晴となったが気温が29℃と暑くなって最適な外出日和ではないが久しぶりの機会なので近くを流す。

米子から国道181号線を30kmあまり南へ走り、以前に訪問した長楽寺への標識の道から部落に入る(古寺巡礼 長楽寺)。JR伯備線を超えるとしばらくして長谷部信連公遺跡、500mという標識が出る。

山陰地方は源平の合戦の直接の舞台となった地がないので、その関連遺跡が少ない。伝説ではなく史実に基づくとなると、ほとんど唯一といってよいのが長谷部信連(はせべのぶつら)だ。

平家打倒を企てた鹿ヶ谷の謀議は敢え無く費えたが、その3年後の1180年(治承4年)、後白河法皇の第二皇子の高倉宮以仁王(もちひとおう)が平家追討の令旨を発する。この謀反が発覚し逮捕の検非違使が発せされたが、知らせを受けた長谷部信連は以仁王に女装して逃げることを勧める。王が無事に三井寺に逃れた後、やって来た役人たちに信連はたった一人で立ち向かった。
実戦の用の刀がないため儀式用の太刀を佩き、門を全て開け放ち一人で対峙する。
所詮は多勢に無勢で信連は生け捕りにされてしまう。しかし、清盛が一騎当千、剛の者とその命を惜しんで伯耆に流罪にした。

これを平家物語では「信連合戦」という。合戦といっても一対集団、孤軍奮闘という図式で合戦とはいえないが、信連の雄姿を称えた名称だろう。

遺跡は畑の真ん中に顕彰碑と説明板があるのみでその他には何もない。どうやら土塁を巡らした屋敷跡らしい。確かに土の盛り上がりが一部に見られる。しかし、実に殺風景だ。遺跡といっても畑との境界もはっきりしない。
残されているだけでも良いとしなければならないだろう。何しろ間違って耕されて畑の一部になってしまいそうなのだ。

源平の合戦が終わり源氏の世の中となった後で名乗り出た信連は頼朝(よりとも)に取り立てられて能登を領地にもらい最後はそこで亡くなっている。能登の方では神社もあって有名らしいが、こちらの扱いは寂しい限りだ。

ところで信連のおかげで京都を脱出した以仁王のその後。平家討伐に賛同した南都、いわゆる奈良の僧兵と合流するために南に向かう。しかし、宇治川で平氏に追いつかれそこでの戦で亡くなる。平家物語、「橋合戦」。この戦いが源平が激突した最初の本格的な戦闘とされる。
しかし、この後数ヶ月で源頼朝、木曽義仲(きそよしなか)などの打倒平氏の戦いが本格的になり、壇の浦の合戦へと時代は進んでゆく。

ハマナス自生南限地

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○文化財点描(8) ハマナス自生南限地 (平成18年6月10日)

岡古墳を探して歩いているうちに偶然に国道9号線の近くまで戻ってしまった。驚いたことに龍雲寺というお寺の前にハマナス自生南限地帯の案内図が立てられている。その案内を見れば岡古墳も隠岐の神塚も示されている。最初からここを出発点にすればよかった。少なくとも事前の下調べをしてない初めての訪問者はこの案内を頼りにしないとどこにもたどり着けないかも知れない。

鳥取県の国道9号線を目をさらのようにして注意しながら走っていると運がよければハマナス自生南限の標柱を二ヶ所で見ることが出来る。一つはここのJR山陰本線下市駅近くと、もう一つは大国主命の童謡大黒様で有名なシロウサギ伝説の地の白兎海岸。日本海側のハマナス自生南限になるようだ。しかし、どちらも南限というのは何か引っ掛かる。厳密な緯度での南限というものではなく、とにかく一番南あたりで集団自生してる場所というほどの意味なのだろう。どちらも国指定天然記念物だ。
もっと南の島根県大田市にもあるらしいがそちらは県指定天然記念物らしい。その違いがどこから来るのかは未確認。大田のほうが明らかに南なのだが。

知らなければ注意していても見落とすような表示に目を留めていたのはハマナスという言葉の響きにある。フォーク世代の身には「知床の岬に、ハマナスの咲く頃、思い出しておくれ、俺たちのことを。」と知床旅情が思い出されるからだ。森繁久弥には悪いがもちろん加藤登紀子の歌声だ。

案内板で場所をしっかり確認して岡の集落から再び海岸の方へ戻る。下市川の河口に川を挟んで両岸にハマナス南限指定地がある。
解説板と一応囲ってある柵があるがその周辺は何の整備もなく一見工事現場のようになっている。これでも国の天然記念物の指定だ。荒れ果てた感じがうら寂しい。
貴重なものなのだろうが観光資源にならなければ天然記念物といっても所詮こんな扱いという見本のような場所だ。

花は残念ながら終わりで萎れたものが数個見えるだけだ。

知床旅情の歌詞でも知れるように、ハマナスはもともと北海道などの寒冷地植物でもう少し早い時期にバラのような赤い花を咲かせる。ここより北の日本海側や北海道などの海岸で目にすることがある。植物に滅法弱いがハマナスは何とかわかる。わかるようになったきっかけはやはり歌でどんな花か興味を持って調べたからだ。
梨に似た実を付けるのでハマナシがハマナスになったとも、実はナスに似ているのでハマナスになったともいわれる。しかし、実は1cmほどで色は赤く梨にも茄子にも似てない。強いて似ていると思われるのはトマトか。赤いブルーベリーというのが最も近い気もする。

近くに朽ち果てた鳥居があり草むらに隠れるように小さな祠とその前に丸い自然石が二つ祀ってある。村の道祖神か。海に向かって鳥居が建っていて自然石が二つなので大漁祈願の恵比寿、大黒か。それとも伝説ではここらあたりの浜に後醍醐天皇が着いたはずなのでそのことと関連するのだろうか。

近くからは神塚が見える。集落の後ろには蒜山三山と大山が遠くに霞んでいる。

ここは家の軒先を縫うように教習所のような狭いクランクやS字カーブを抜けて来なければならない。途中はとても静かな集落なので普通に走っていてもエンジン音が少し気になってしまうほどだった。全く観光地向きではない。
次の訪問者はいつ来るのだろう。

岡岩屋古墳

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○文化財点描(7) 岡岩屋古墳 (平成18年6月10日)

せっかくここまで来たのでついでに岡岩屋古墳を探すことにした。特別有名ではないので集落の中や周辺を文字通り探し回る。
隠岐の神塚の場所を調べていて偶然見つけたので立ち寄るのも悪くないと思ったまでのことだ。思い入れや古代史想像のポイントとなっている訳ではない。

ようやくのこと岡公民館の裏にあるのを発見した。案内の表示などないので見つけるのは相当困難だ。
集落の中に取り残された盛り土といった感じでどう形容してよいのか。さすがにここはマイナーすぎた。
いわれてみれば何となく前方後円墳に見えないこともない。

後円部の一部は切り取られて石室が露出している。石室はかなり大きい石で組んであり一つの石の大きさは3mはありそうだ。規模は小さいが石室が剥きだしなので少し飛鳥の石舞台を思い出させた。

ただ、どうやら石室は一部を失っているらしく危険とのことで金網で囲ってあり近づけない。石室内部には塗ってあった朱がまだわずかに残っているとのことだったので、金網に顔を押し付けて覗き込むが、中が暗くて確認できなかった。

古墳の研究者でもなければ知らないようなところに来たのには訳がある。
実はこの古墳を隠岐の神塚と混同していて事前の場所の確認に苦労したので、何となく通り過ぎるのが惜しまれたのだ。
神塚も古墳のようなので、この地域には割りと大きな勢力を持った豪族がいたのだろう。

隠岐の神塚

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○後醍醐天皇にまつわる史蹟 その1 隠岐の神塚(平成18年6月10日)

御来屋(みくりや)の古い町並みを通る県道269号線は多分、旧山陰道だろう。建ち並ぶ民家が何となく風情を感じさせる。もっとも、単に裏寂れた港町ともいってしまえばそれまでだが。

県道をそのまま海岸線に沿ってのんびりと東へ進んで国道9号線へ合流し、下市(いもいち)の集落へ到着する。御来屋から約5kmほど東になる。
ここには逢坂八幡宮(おおさかはちまん)の隣に木ノ根神社という民俗学に興味があれば立ち寄らなければならないような面白い神社があるのだが、今日は目的ではない。その横の小道へ入ってゆく。

国道から離れて岡という小さな集落の中を抜けると、田圃の中にぽつんと少し小高い夏草の茂った場所がある。近寄ると畦ではおじさんが草刈機で農作業の真っ最中、そのエンジン音でこちらには全く気がつかない。停めてある軽トラックが少々邪魔だが移動はしてくれないだろから避けて通る。

これが隠岐の神塚と呼ばれるもので、後醍醐天皇(ごだいご)が隠岐脱出後に上陸した場所の一つとされている。さらに数キロ東の赤碕の箆津(のつ)も天皇着船地の候補とされるらしい。先の御来屋を含めてこの辺一帯の日本海海岸線に主な候補地が点在していることになる。どこが本当なのかは不明だが、天皇を乗せた船はこのあたりの海岸に着いたことは確かなのだろう。

御来屋とここ逢坂にはこうして碑が建っていて伝説も残されているが、箆津には調べた範囲では何もない。有名な言い伝えもないようだ。
実際の天皇の隠岐脱出は極秘裏に行われただろうし、着船する時も待ち伏せをかなり警戒したはずで、こっそりと上陸しただろう。
反幕府方で天皇に協力する勢力もかなりあったことは確かだろうが、脱出してきた天皇は注意深く行動したはずだ。少なくとも凱旋帰港ではないので堂々とと港に入るとは思えない。人の気配がなくて見晴らしが良く、敵がいればすぐに見つけられるような砂浜に船を着けたいところだ。
上陸後も安全を確保するまで相当に気を使って隠密行動をしたはずだ。そう考えると何も残ってない箆津が案外と本当の上陸地点なのかも知れない。

天皇は浜に着いたあと、この塚の上で一休みして喉の渇きを訴え、村人が清水を運んできたと伝えられる。
御来屋でも腰掛石だった。隠岐から脱出した後醍醐天皇はどうしても腰を下ろして一休みしなければならないようだ。

塚の頂上に小さな祠と後醍醐天皇御着船地の碑が建っている。特別に囲いがあるわけではないので登っても問題ないのだろうが、夏草が生い茂っていて入って行く気が湧かない。近づくには草の枯れる冬場がよさそうだ。
ひょっとすると雑草を生え放題にしているのは自然の囲いなのだろうか。

塚は周囲から完全に取り残された小高いマウンドで、もとは円墳かもしれない。

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