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○後醍醐天皇にまつわる史蹟 その1 後醍醐天皇腰掛石(平成18年6月10日)
平成18年6月10日、入梅したあとの晴れ間を使って国道9号線を西に走る。米子から10数キロで名和(なわ)に着く。後醍醐天皇にまつわるテーマとすれば、ここには天皇と縁の深い名和長年を祀る名和神社があり、本来ならそちらへ向かうのが本道だろうが、今まで何度か訪問していることもあり今回は遠慮して別の機会にした。
JR名和駅の西にある名和川の手前から海側の旧道へ入り御来屋(みくりや)の集落の中を進むと格子戸の風情ある民家の前に「元弘帝御船着所」の碑が建つ。
後醍醐天皇が御来屋に上陸したときにしばらく天皇をかくまったとされる家を、後に鳥取藩がその功に対して碑を建てたものだという。銘文を読んだのではなく観光案内の説明だ。
元弘帝とはどうやら後醍醐天皇のことらしい。太平記の時代の知識はとても乏しいので少し事実確認をした。
1331年(元弘元年)に後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕計画が発覚し三種の神器を持って篭城するがあえなく鎮圧される元弘の変が起こる。天皇の倒幕計画は二度目なのでさすがに幕府は許さなかった。
天皇は翌、元弘2年/正慶元年(1332年)隠岐島に流罪となり、幕府は光厳天皇を即位させる。
しかし、後醍醐天皇は翌年の元弘3年/正慶2年(1333年)に隠岐島から脱出することに成功し伯耆の豪族、名和長年とその一族の協力なども得て船上山(せんじょうざん)で挙兵する。この名和長年を祀ったのが名和神社だ。
その後に反幕府勢力は勢いを増し、足利尊氏(たかうじ)や新田義貞(よしさだ)によって鎌倉幕府は滅亡する。鎌倉幕府が倒された事件が元弘の乱(げんこう)と呼ばれるものらしい。蒙古軍来襲の元弘の変と紛らわしいが全く別の事だ。混乱する。
どうやら、元弘年間に活躍して倒幕したことから後醍醐天皇が元弘帝とも呼ばれているようだ。
正慶というのは光厳天皇の即位で改元された年号だが幕府滅亡後に光厳天皇は後醍醐天皇に廃されたため使われなくなったとのことだ。元弘とは後醍醐天皇の勝利を示す年号でもあるようだ。
前に石碑が建っている民家は昔ながらの街道沿いの宿屋のような佇まいだ。今でも後醍醐天皇と縁のある当時の家の子孫かどうかはわからない。
その碑を横に海へ向い御来屋港へと歩く。漁港の中にひっそりと瑞垣に囲まれた場所がある。あまり目立たない。興味がなければ通り過ぎてしまうだろう。
大きさが2-3m程の石があり、その上には小さな石製社が置かれている。かたわらには、後醍醐天皇御腰掛岩の碑が建つ。
これが、隠岐を脱出した天皇がこの湊に着いた時にしばらく腰を掛けられたと伝えられる岩だ。観光案内によれば、30年程前までは海の中にあったが漁港の改修の時にそのままの位置で海面から1.4m持ち上げて現在のようにしているとのことだ。
横に松が植えられているが、岩が以前は渚の中にあったとすると改修時に植えられたものだろう。
大体、全国に天皇など貴人英雄が腰をかけたとか兜を置いたとか伝えられる岩は沢山ある。そのほとんどは単なる言い伝えに過ぎないのだろうが、大切なのはそれが史実かどうかではなく、話が伝えられてきてきたということなのだと思う。
港の左手に小さな神社が見えたので近寄ってみる。恵比須神社(えびす)。事代主命(ことしろぬし)を祀る。江戸時代末期に美保神社を勧請し一時は住吉神社に合祀されたりしたという略記を読む。。
横には錆びた錨が置かれていて海の神社なのを実感する。小さいながらも寄進名簿や略記が綺麗な御影石で造られていて地域から大切にされていることがわかるが、後醍醐天皇とは無関係のようだ。
社の後ろに広がる日本海を眺めていると魚が一匹跳ねた。遠くには島根半島がまるで島のように霞む。最近流行の風力発電の風車も数基ゆっくり回っている。
後醍醐天皇がこの地に隠岐島から戻ってきた事で鎌倉幕府は倒れた。いわば室町時代の幕を開けた記念の地といってもいい。
今では本当にのんびりした風景の漁村だ。
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