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いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

中国観音霊場(第6回)

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龍蔵寺

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○第十七番、滝塔山、龍蔵寺 (平成18年8月6日)

今朝来た道をそのままバックして山口市へ戻る。
山口から秋吉台へのメインルートである国道435号線に入ると1km足らずで案内板がある。住宅地を抜けて山へ入ると2-3kmで到着した。

苔むした石段の参道に両側からモミジが覆いかぶさりその向こうに楼門が建つ。入山料200円を払って門をくぐる。巡礼者は無料という話もあったが喜捨ということで払った。
市街地近く山懐にあって木立に囲まれた清閑な境内。ここでは広島の三滝寺と似た環境だ。

さらに石段を登ると正面に古い方三間の宝形造の本堂が建つ。
向かって左には八百屋お七の供養塔と呼ばれている相輪を失った宝篋印塔が立っている。お七の兄が行脚してここに建立したものとされる。津山の誕生寺ではお七観音があった。中国三十三観音霊場に2ヶ所もお七ゆかりの寺があるとは意外だ。

この寺の観音堂は驚愕だ。それは建物ではなく堂内にある。本尊は馬頭観音。本尊とされることが比較的少ない観音様だ。馬頭観音があまり一般的でない観音様だから驚いたのではない。
原色の朱塗りの憤怒像が鮮やかな蓮弁の台座に安置してあるのだが、何と蓮弁は閉じた状態から電動で開くようになっているのだ。蓮の花びらが開くと中から観音様が現れるという凝った仕組みになっている。彩色があまりに鮮やかで、しかもからくり仕掛けまであり、不謹慎ながら仏像テーマパークというものがあれば、そのアトラクションはこの様なものになるだろうと思わせる。
奇をてらいすぎているといえばそれまでだが、「ここまでやるか!」と、むしろ少し笑いたくなった。
その他にもこの寺はいろいろ派手なものが多い。境内奥の滝のそばには10mもの巨大な不動明王が全身水色も鮮やかに立っている。護摩堂の壇下のお砂ふみは珍しくないが、その周囲の壁には中国やインドの異国情緒溢れる仏具や置物が飾られていて、どこか東南アジアの土産物屋のようだ。

紅葉の参道、境内の大銀杏、周りは深い森で古木に囲まれて静かに落ち着いた場所なのだが、そこにあるものは意外なほど派手なものが多い。確かにアンバランスだといえばそうなのだが、現代の寺というものの在り方を考えると、ここは一つの回答を提示しているようにも思えた。
このような演出のある寺も悪くない。これを見るのを目的に寺に足を向ける人が増えるほど単純なものではないだろうが、ただ葬式と法事ばかりやっているより格段にましだ。

境内奥に名勝「鼓の滝」が落ちている。涼しい。
滝から奥へ500mほど登ってゆくと線刻磨崖仏が描かれた巨岩があるらしい。奥の院とされているとのことだ。

また、流水の庭という昭和32年復元された雪舟の庭がある。大内氏の西の京を今に伝えるものといえる。ただし、復元なのでどこまで雪舟の庭なのか疑問だ。特にこの寺の今風の装置などを考えると本当に雪舟と関係があるのかさえ疑いたくなる。

納経所では、飼われている黒犬に妙に気に入られてしまった。病気で足が不自由とのことだ。人懐っこいがいつまでも相手をしてあげることも出来ない。明日のことを考え早めに帰ろう。

山口ICから中国道へ乗る。広島までほとんど車の気配がない。対向車もめったに来ない。平日ならともかく休日でこれでは収益が上がらないのも納得できる。
一転、安佐SAはすごい混雑だ。人ごみをかき分けながら席を確保して遅い昼食を摂る。涼しいから建物から出たくないが、進まなければ帰れない。暑さが堪える。
往復同じ道を使うのは能がないので少し時間はかかるが三次から国道54号線を帰ろうと思っていたのだが、すっかり忘れていた。暑さで思考力が鈍っているのか。気がついた時は既に遅くこの暑さの中昨日と同じ道を帰らなければならないかと思うと一気に疲れが増した。

七塚原SAで再び休憩。
ベンチに寝て体力と気力の回復を図っていたら突然声をかけられた。思い出せなかったが大学の同級生のTだった。今は庄原で開業しているという。全くの偶然でしばらくお互いの現状を話して別れた。それにしてもよくこちらの顔を覚えていたものだ。顔がよほど変わってないのか?
三次ICで降りそこなったおかげで久しぶりの知人に会う。それも人生だ。何がどう関わるのかわからない。

庄原ICから下道へ降りて、素直に昨日来た道を帰る。二日間で748km。今までで一番の距離を走った。正直少々疲れた。

宗隣寺

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○第十八番、松江山、宗隣寺 (平成18年8月6日)

今日は8月6日、広島原爆の日。昨年広島を廻ったことが思い出される。心の中で原爆犠牲者へ手合わせて出発。

湯田温泉から国道9号線を一路南下。朝早くなので交通量も少なく快調に走る。国道2号線に合流後山口宇部道路へ入り宇部JCTから山陽自動車道へ乗り入れて宇部ICで国道490号線と経由して宇部市街を目指す。
琴崎八幡宮手前の交叉点を右に入ればよかったのだが、通り過ぎてしまい宇部高校と山口大学医学部附属病院を見印に変更。大学病院横を流れる真締川沿いの道を北上すると左手に宗隣寺が見えてくる。

工業都市として発展した新しい街の宇部にあって古い伝統のある寺という説明がついている。市街地のはずれの川沿いの山の斜面に建つ風情は五番札所の法界院を思い出させる。しかし、こちらは少し寂れた感じがするといっては失礼か。

簡素な四脚門の向こうに本堂があり左に観音堂がある。秘仏とのことで本尊を拝むことは出来ない。小さな20cmほどのお前立ちの如意輪観音が安置してある。
本堂前には工事作業用のプレハブが建っている。隣の庫裏が青いシートに覆われていて改修中のようだ。それがどうにも田舎の少々くたびれた農家のようで寂しい感じが一層増してしまう。

庫裏で声をかけても誰も出てこない。何度呼んでも返事がない。この玄関先の様子だけ見れば、旅人が山奥の民家で何かものをたずねようとしているような姿にしか思えない。そんなことをふと思いながらも「これは初めての納経所不在で朱印が頂けない事態か。」と多少不安になる。
数分後、いよいよどうするかと思案していると離れた別棟からおばさんが出てこられて事なきを得た。庫裏の改修が終わればこういう事はなくなるのかも知れない。

帰りに境内のトイレに寄ると烏枢沙摩明王が置かれていたのが印象的だった。もとは炎の神でこの世の一切の汚れを焼き尽くすことから、全ての不浄を浄化する功徳を持つとされる。そのため特に禅宗ではトイレに置かれることが多い。

この寺は龍心庭という庭が山口最古の庭で国の名勝に指定されている。今回はうっかりして庭の拝観せずに終わった。機会をみてもう一度再訪せよと観音様がおっしゃられているのだろう。

大内氏遺跡

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○大内氏遺跡 (平成18年8月5日)

観光歴史探訪で山口県といえばやはり高杉晋作に代表される幕末維新の時代だろう。しかし、その主な舞台は長府と萩で山口市内には維新関連の史跡は少ない。山口市は毛利氏支配となる前の大内氏の都だからだ。維新の主役である長州は有名で目立つが、その前の大内氏の陰は薄い。

大内氏は南北朝時代の弘世(ひろよ)の代に周防(すおう)の守護として頭角を現す。長門(ながと)、石見(いわみ)、安芸(あき)を支配下に治めさらに九州へと勢力を伸ばした。本拠を山口に移し京都の街に倣って都市整備が進められる。息子の義弘(よしひろ)は朝鮮貿易などでさらに国力を伸ばすが将軍足利義満(よしみつ)との争いで敗死した後、大内氏は一時衰退する。しかし、戦国時代に入り当時の中国の明にまで伸ばした海外貿易でつけた経済力も背景にして有力大名として大きく成長する。
歴代大内氏が文治的、貴族的、懐古的趣味の大名だったことから、山口は文化都市として繁栄していった。特に応仁の乱の後は荒れた京都を避けて多くの文化人が移ってくるようになり雅な京風の大内文化を発展させることになる。雪舟(せっしゅう)や連歌師の宗祇(そうぎ)などは山口へ移ってきた代表だ。彼らゆかりの雪舟庭園や宗祇水などが県下にある。
15世紀から16世紀前半の義興(よしおき)、義隆(よしたか)のころ大内文化は最盛期となって京都と並ぶ文化都市という意味で山口は「西の京」と呼ばれるようになる。
以上は今回勉強した内容そのまま。大内氏と西の京という言葉くらいしか知らなかったので少し学習してみた。主な趣味が古代史なので源平の合戦以後の歴史は非常に弱いからだ。
詳しいことはともかく、この本州の西の端に京文化を継承する絢爛な都市があったということだ。その名残が瑠璃光寺の五重塔であり、大内塗り、大内人形などの工芸品だ。

洞春寺(とうしゅんじ)まで戻り国道9号へ出て横切るとすぐに八坂神社(やさか)がある。そして、一帯にある八坂神社、築山神社(つきやま)、築山跡、龍福寺(りゅうふくじ)、大内氏館跡などが大内氏遺跡として指定してある。西の京の中心地であった場所だ。
八坂神社はもちろん大内氏が京都から勧請した。ここの祭りが鷺の舞(さぎ)で有名な山口祇園祭だそうだ。京都の八坂神社は明治以降の名前で、それまで祇園感神院(かんじいん)や祇園社と呼ばれていたのが神仏分離令で改められたものなので、多分ここも祇園社と呼ばれていたに違いない。
本殿は三間社流造で国の重文らしい。最近出雲文化圏の神社を多く見慣れているので大社造でない大きな本殿が少し新鮮だ。
隣には足場を組んで屋根を修復中でシートのかけてある神社が寂しげに建っている。築山神社とある。
ここら八坂神社一帯は築山跡と呼ばれる場所で大内氏の別邸で賓客を迎えるのに使われたとされる築山館の跡らしい。築山神社の由来は書かれてないが築山館跡にちなんでつけられた名前だろうから、かなり時代が下ってからのものと思う。八坂神社も江戸時代に毛利がこの地へ移したという。
築山館跡で今日目に出来るのはこの二つの神社だけで当時の面影を偲ばせるものは他に何もない。

山口の市街は区画されている。このあたのは路地は狭いが格子状に配置されている。西の京と呼ばれた時代から街路は大きく変わっていないのかもしれない。当時を今に伝えるのはこの直行する路地だけなのか。

八坂神社の少し南に大内館跡がある。大内氏が政務を摂った地だ。百間四方の堀と土塁に囲まれていたという。大内氏滅亡の後、毛利氏が菩提を弔うため建立した龍福寺が建っている。本堂は現在覆屋に覆われて修復中だ。平日なら修復中の作業現場の見学ができるらしいが生憎と今日は土曜日。修理もお休みで作業員もいない。隣の庫裏で何か拝観できるのかも知れないが何となく近寄りがたくあきらめる。

石畳、左右の刈り込み、両脇の木々など参道からの趣はとてもいいのだが、庭が少々手狭で植木が密集しすぎている感じがある。
夕暮れが近づくためか、人影がないためか、庭に華やかさが欠けるためか、それとも先ほどの築山跡が寂しかったからか、「つわものどもがゆめのあと」の句が心に浮かぶ。感傷的になるのは栄華を極め敗れ去っていった大内氏の遺構だと知っているからなのだろうか。

大内館の発掘調査や復元計画があり少しずつ進められているようだが、お寺の墓地が広くて調査はどうにもなりそうにない。まさか墓地を掘り起こして発掘するわけにはいかないだろう。
寺に接して墓地の隅に枯山水庭園が復元してあるが狭すぎる。大内館にあった庭のごく一部なのはわかるがこんなに狭くしか復元できないのなら説明板だけで済ませてもいいような気がする。かえって侘しい。

大内氏の栄光の跡を見学して本日の宿のある湯田温泉へ向かう。湯田温泉は山口を代表する温泉だが山口市街の西にあり、一般市街地の続きようであまり情緒はない。

途中でGSに寄り給油したのはいいが、タンクバッグを道のど真ん中に落としてしまった。給油のためにタンクバッグをはずして後ろの荷物の上に乗せてたまま、もとに戻さずに走り出してしまったのだ。道路に出て走り始めたところで後ろで「ドスッ」という鈍い音がした。そして、バックミラーに落ちたバッグが。あやうく後続の車にバッグを轢かれるところだった。
さらに少し左へ傾いた道端に停めたバイクが引き起こせなくて苦労する。相当疲れている。
何とか無事にプラザホテル寿へ到着。

夕食は近くのファミレスでとる。相変わらず食事にはこだわりがないのでこんなものだ。そしてゆっくり温泉につかって疲れを癒す。やはり、何はなくとも旅には大きなお風呂があるとうれしい。本日370km走破。

瑠璃光寺

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○瑠璃光寺 (平成18年8月5日)

香山公園(こうざん)を進むと瑠璃光寺(るりこうじ)の五重塔が見えてくる。どこまでが公園でどこから境内かはっきりしない。一応道を横切るのでそこが境界なのだろう。

五重塔とそのまわりの庭園にはさすがに観光客が多い。廻ってきた中国観音札所の各寺とは大違いだ。ボランティアガイドの周囲で沢山の人が説明を聞いている。山口市の一二を争う観光地であることを実感する。それと同時に急に俗世間に戻った気がした。

美しい刈り込みの向こうにすっくと立つ国宝五重塔は記念写真定番の図で団体客用のお立ち台が用意されている。また、池から眺める塔もやはり観光パンフレット必携の構図。どちらにせよありきたりの絵なのだが、それはそれでやはり美しく写真に残したくなる。
五重塔は現存する大内文化の最高傑作とされる。室町時代の建立で京都の醍醐寺(だいごじ)、奈良の法隆寺のものとならんで日本三名塔とされるらしい。確かに見事なプロポーションで美しく、眺めていても飽きない。

山口に旅行に来てここへ来ないということはありえない。かなり以前に訪れたことがあるのだが塔しか覚えてない。正直言って瑠璃光寺はほとんど記憶から抜け落ちている。本堂としてのお寺は印象に残るほどの寺院ではないからだろうか。観光客も本堂に足を伸ばす人は少ない。五重塔の印象が強すぎるためなのだろう。

瑠璃光寺の前身は室町時代に大内義弘(よしひろ)が現在の地に建立した香積寺(こうせきじ)とされる。義弘が応永の乱で足利義満(よしみつ)に破れた後、五重塔は弟の盛見(もりはる)が兄の菩提を弔うためにに建設が開始された。関ケ原後には防府長門(ほうふながと)を与えられた毛利輝元(てるもと)が萩に居城し香積寺もそれとともに移された。そして、その跡地に大内氏の重臣、陶弘房(すえひろふさ)を弔うため弘房夫人がに建立した安養寺(あんようじ)の後を継ぐ仁保瑠璃光寺を移転したのがこの寺らしい。何だか複雑で一度聞いてもさっぱり理解できない。
要するに、五重塔のある香積寺という寺があったが、寺が萩へ移った跡に、別の場所にあった瑠璃光寺という寺をここへもって来たということらしい。現在では瑠璃光寺の五重塔と呼んでいるが、正確には瑠璃光寺にあるもと香積寺の五重塔というべきか。
塔のと寺の変遷はともかく、ここが大内文化を伝える寺院と建物であることは確かなようだ。

御本尊は金色も鮮やかな薬師如来。これは新しそうだ。あまりにきらびやか過ぎて少しありがたみが薄れるが、開かれた本堂に堂々と安置してあり誰でも気兼ねなく拝顔できるのは気持ちがいい。

香山公園

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○香山公園 (平成18年8月5日)

洞春寺(とうしゅんじ)を廻った時点で次の札所へ行くには中途半端な時間になっている。今日の巡礼はここまでとして宿へ入るまで近くを散策することにした。さいわい瑠璃光寺(るりこうじ)は近い。ここまで来てあえて瑠璃光寺へ行かない理由はない。
すでに瑠璃光寺と一体となった公園の一角なのでバイクはそのまま停めさせてもらったまま歩いて行くことにした。これから次の札所へ向かわないことに決めたので時間を気にする必要がなくなった。

毛利家墓所を中心に整備されているのがこの香山公園(こうざん)だ。山裾を利用してありこの先の瑠璃光寺へと続く。樹木は大きく木陰が多い。新しい公園は日差しを遮るもののない広場のようなものがほとんどだが、ここのように木々に囲まれているとそれだけでのんびり出来る。三々五々、観光客と市民が歩いてゆく。

ここで有名なのが鴬張りの石畳。鴬張りの廊下は歩くと音がするのだが、さすがに石畳は上を歩いただけでは音はしない。ただ勘違いしている人も多いようだ。宮脇俊三氏も「日本通史の旅」で、「歩くとキュッキュッと鳴るのだそうだ。」が、踏んでも「音もない。」と書いている。明らかに鴬張りの廊下と同じに見なしている。正しくは石畳を踏むというより蹴るようにする。
説明板のあるあたりで強く石畳を踏みしめると確かに「ピヒョン」といった感じの音が前の石段付近から聞こえてくる。その音も鴬張りの廊下の「ぎゅっ」といった感じをイメージしていると全く違うので、聞こえていてもそれと気づかない人がいたのも以前に見かけた。音は鴬張りの廊下のように最初から鳴るよう設計されているのではないようだ。ある場所で出た音が石段やその周辺で反射して帰ってくることで聞こえる。一種の山彦のような理屈で偶然の産物らしい。

鴬張りの石畳の音響を作り出す石段の上が毛利家墓所になっている。土饅頭のような墓で頂上部に盆栽のように一本植林してある。どこか円墳を思わせる。そして前に墓石が立つという変わった形式をとっている。

その他、公園内には薩長連合や倒幕の密議を行っていたとされる枕流亭(ちんりゅう)、露山堂(ろざん)などが移築されていているが、建物自体は特筆するようなものではないように感じられた。幕末ファンには興味尽きない場所なのだが、その頃の知識は歴史の授業程度しかないので受ける印象が弱いのだ。

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