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いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

中国観音霊場(第7回)

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日頼寺

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○日頼寺 (平成18年8月26日)

壇の浦を過ぎて道路の右に建物が出現して海が見えなくなると長府(ちょうふ)の町に入る。
偶然に忌宮神社(いみのみや)の前に出た。ここが仲哀天皇(ちゅうあい)と神功皇后(じんぐうこうごう)が九州巡幸した際の行宮(あんぐう)である穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや)の跡とされる。また先ほど走りながら眺めた満珠島干珠島はこの宮の飛地境内となっている。
古代史ファンにとっては避けて通ることは出来ないのだが、ここも以前に訪問したことがあるので、赤間神宮(あかま)とともに今回は寄り道するのを控えた。正直少々残念だ。

長府は古い町並みで道が入り組んで狭い。案の定迷ってしまった。道端に停車して地図を確認しつつ、現在地を確認しようと周囲を見回しながら振り向くと、そこが日頼寺(にちらいじ)の門前だった。運が良い。札所を先に廻るつもりだったので順序が逆だが、今回一番寄り道したいと思っていた寺に偶然着いてしまった。

門をくぐり右手の宮内庁の看板を見ながら裏山に向かって坂を上ってゆくと。仲哀天皇殯斂地とされる遺跡がある。殯斂(ひんれん)というのは難しい字だが要するに仮のもがりのことだそうだ。
仲哀天皇と神功皇后の記述には日本書紀と古事記では相違があり、それが多少複雑な問題を含んでいるのだが、それはともかく、仲哀天皇は九州までやって来て神の怒りに触れて亡くなってしまう。皇后は新羅征討(しらぎ)へ向かったため天皇の遺体は一旦ここに仮埋葬され後に河内の陵に移されたとされる。

道は枯葉が積り目の前には蜘蛛の巣が張り放題。きちんと整備している様子がない。
天皇関連遺跡は宮内庁が管理し瑞垣で囲まれ周囲も掃き清められていてゴミもなく厳かな感じで近寄り難い雰囲気を漂わせていることが多いのだが、ここは少し違う。
殯斂地ももちろん宮内庁指定遺跡なのでさすがに正面の門には鍵がかかり、そこから先には入れなくなっている。しかし、厳かという感じには程遠い。囲いは主に錆びた有刺鉄線で周りと区切られているが、木々が生い茂っていて雑木林の一角と変わるところがない。
横に回って有刺鉄線に近寄ってみると中央がややマウンド上に盛り上がっているようにも見える。本来は古墳なんだろうか。何しろ手入れされてない雑木林の中だし近づけないので何がどうなっているのか。

この遺跡は満珠と干珠のニ島を東西に結ぶ線の延長と忌宮神社本殿から真南に引いた線の交点にあるため何か意味が隠されているのではないかという説がある。信仰対象の山頂や島、遺跡、神社仏閣などの位置関係が一直線にのるとか、その直線の交点にあるとか、正三角形などの図形を形成するという説は結構聞かれる。宮元健次氏の「神社の系譜、なぜそこにあるのか」が最近では少し話題になった。いわゆるレイラインというものだ。
しかし、全てのレイラインを否定する気はないが、何故かこの種の理論には個人的には今ひとつ納得できていない。

くもの巣をかき分けながら日頼寺の境内に戻る。
本堂に向かって左奥に小さなお堂があり地蔵菩薩が沢山安置してある。いわれは分からない。線香なども用意してあり住民が日常的にお参りしているようだ。
本堂は何やら忙しそうだ。前に車を乗り付けて沢山の荷物を降ろしている。どうやら法事の準備らしい。特に一見さんが拝観をするような寺ではないので、お寺さんの邪魔にならないようにこの地蔵様でここのお参りとした。

壇の浦

○壇の浦 (平成18年8月26日)

平成18年8月26日。自宅から最も遠い札所へ向かう。つい先日山口まで行って一月も経たないうちにもう一度山口に行くことになる。効率は良くないし、忙しい日程になってしまったが、まとまって休めない以上仕方がない。出かけられる時には出かけなければ。

中国山地の峠付近の温度計は19℃。前回より約3度程低くわりと涼しい。日中の暑さが少しは和らぐことを期待する。

全く前回と同じルートを走る。これは実につまらないが他に良い廻り方が見つからないのでやむを得ない。
中国自動車道にのった後はひたすら高速を走る。バイクツーリングでは高速を利用するのは面白くないと使うのを控える人もいるようだが個人的には特に気にはならない。むしろ積極的に高速を利用する方だろう。最終的な宿泊地や訪問地とか寄り道、時間配分などケースバイケースで決めているが、高速を使うと現地での時間で長く過ごせるのが一番の利点だろうか。

リッターバイクのパワーを生かして高速を快走するが、それにしても遠い。山口ICからも思いの他遠い。

下関ICから降りて県道57下関港線を通り市街地を抜けて国道9号線に出て東へ向かう。国道に出て1km足らずで赤間神宮(あかま)への参道石段が道端に突然現れる。下関方面から走るとカーブの陰になって見逃しやすい。赤間神宮の安徳天皇にちなんだ先帝祭は有名だ。

京から追われた平氏は1185年、壇の浦で源氏軍と最終決戦に臨み、そして敗れ、一門の栄華はここで尽きる。赤間神宮は源平の合戦で平氏一門と共にわずか八歳で入水して崩じた安徳天皇(あんとく)を弔うために創建されたことは良く知られている。
引き上げられた安徳天皇の遺骸は阿弥陀寺の境内に葬られたとされる。明治の神仏分離令で阿弥陀時が廃寺となり神社となり、1875年(明治8年)に赤間宮にと改称されて現在の赤間神宮となっている。境内には安徳天皇陵とされる阿弥陀寺陵がある。
その他、戦いで敗れた平氏一門の墓の七盛塚もある。また、その墓は耳なし芳一の話の舞台とされ芳一堂もある。

興味深く心ひかれる神社なのだが、以前に訪問していることもあり今回は先を急ぐことにする。立ち寄ってしまうと時間がかなり取られるのが分っているからだ。

宮を通り過ぎるとすぐに右に海が広がる海岸沿いの道路となる。このあたりが合戦の舞台となった壇の浦。対岸の九州が近くに見えて流れも速く海というよりまるで河川のようだ。古くは早鞆の瀬戸と呼ばれ難所であったとされるが、そのことがよくわかる。

前方には満珠島(まんじゅ)と干珠島(かんじゅ)を眺める。壇の浦は源平の合戦だけでなく神功皇后(じんぐうこうごう)伝説の舞台でもある。
神功皇后は仲哀天皇(ちゅあい)の皇后で日本書紀の記述に従えば女王卑弥呼の時代の話だ。記紀には卑弥呼は登場しな。また、神功皇后は実在とは考えられていない。そのため、神功皇后は卑弥呼に想を得て作られたのではないかという説がある。

仲哀天皇と皇后は熊襲征伐(くまそ)のため九州にやってくるが、何故か色々な経緯の末に皇后は朝鮮半島へ出兵することになる。いわゆる神功皇后の三韓征伐と呼ばれる記事だ。
伝説では皇后が戦勝を祈願したところ龍神が現れて満珠と干珠の二つの珠を渡されたとされる。満珠で潮を満ちさせて陸の敵を攻め、干珠で潮を干上がらせて船の敵を攻めたそうだ。
凱旋後に珠を海に返したところ二つの島が出来た。それが満珠と干珠の島だという。

珠を使って潮を満ちさせたり干上がらせたりするのはどこかで聞いた話だ。海幸彦山幸彦の話と同じだ。実は、書記では単に皇后が海から如意の珠を拾ったことになっていて、潮の干満を操作した話は見えない。さすがに単に珠を得ただけでは話が唐突過ぎると思ったのか、海幸彦山幸彦の話をくっつけたような伝説が出来上がったのだろう。

海岸沿いを走る。交通量はかなり多いのだが車の流れはスムーズで潮風も心地良いし爽快だ。
中国自動車道で長府(しょうふ)に向かうには一つ手前の小月IC(おづき)から国道2号線を使った方が近いし、
下関ICから降りた場合でも直接国道2号線に出るのが便利なのだが、古代史の舞台の関門海峡を横目にこの道を走ってみたかったのだ。

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