同行二輪

いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

小豆島八十八(菩提)

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桜ノ庵

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○二十七番、桜ノ庵

案内書では近道に見える農免道路を使うのはあきらめておとなしく国道へ戻って回るルートをとる。
ここは札所の庵がみかん畑に囲まれた公民館のよう。建物もお堂の感じがしない。近づいて見る直前まで札所とは思わなかった。
庵の名前にこだわるわけではないが特に桜の名所でもなさそうだった。ひょっとするとその昔には桜の樹が沢山植わっていたのだろうか。

後日地図を調べて判明。実は農免道路は近道ではなかった。案内書の縮尺に完全に惑わされていたのだ。地図ではイラストに近い。

誓願寺庵

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○二十五番、誓願寺庵

草壁の町から子犬の前足にたとえられる三都半島へ国道を西へ向かう。犬といえば昨夕の犬の寺の近くが次の札所だ。
途中で国道から農免道路に入る。案内書の地図では国道からより二十五番、二十七番は裏のこの道からが近そうなのだが入り口が見つからなかった。
どうしても道が探せないため、かなり行過ぎて仕方なく国道に戻る。そして案内板が走る方向からは裏になっていたため見逃す。さらに札所への分岐を行過ぎて途中のお店の駐車場でUターン。そこは昨日転んでレバーを曲げた店先だ。近道をしようとして結局大きく回り道になってしまった。急がば回れとはこのことだ。

やっと近くまでたどり着いたが、バイクは途中までしか行けない。畑の畦道のようなところを歩き小山に向かって登ってゆく。雑木林の中の細い土道で雨が降るとぬかるんで滑りそうだ。
ほんとうにこの先なのかと少々不安になるが「同行二人」や「へんろ道」の小さなプレートが木にくくりつけてあるので札所への道であることがわかる。小さなプレートなのだが遍路の道しるべとして不安を取り除く効果は絶大だ。
木々に囲まれたひっそりとした庵に到着する。名前から考えて当然昔はお寺だったであろう。庵の周りは木々が茂っているがどことなく境内の跡に見える。
一応、お堂の裏に回って農免道路から下る道を確かめてみるがけものみちのようなものがあるだけだ。裏道を使うのは難しそうだ。

木下庵

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○十九番、木下庵

二日目の夕方に打った清見寺の近くにある。迷って探した峰之上庵や本堂とも遠くないのでどうして昨日の最後に廻ってないのか。ボーっとしてたのか。多分ブレーキレバーを曲げてしまって動転してたのだろう。
庵は村の墓地を守るお堂といった風情。隣に「老人いこいの家」が併設されている。今までに廻った庵堂の中にも境内に公民館や地区の集会所が建っているものにいくつも出会った。島では札所を守るだけでなく小さなお堂も地区と密着して今でも活気があるのが何かうれしくなる。都市部では地区の集会場が日常的に活躍している姿にはあまりお目にかかれないからだ。

石門洞

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○十八番、石門洞

ブルーラインから寒霞渓ロープウェー乗り場へ向かう分岐に登り道がある。入り口が分かりづらい。ここも自家用車では乗り入れて行くには勇気がいる。急カーブで狭いうえにいきなり登りになっている。
小型車しか登れないような山道を入って行くと駐車場がある。さらに舗装路は続くがこの先は歩道だと注意書きの看板がある。案内書にも徒歩のみと書いてある。まだ進んでゆけそうな雰囲気だが洞雲山のこともあるのでバイクを停めて歩き始めた。

疲れが体の奥に残っているため息を切らせながら登る。やはりバイクなら登れる道だった。少し後悔する。実際、駐車場に着くまでの道と変わらない狭い舗装路が続いている。結論から言えば二輪なら札所の近くまで可能だ。車でも対向車と歩行者がいなければ行ける。
途中には奇岩を望める場所があり案内板も立っている。たとえば「幟岩」、にょきっと空に突き出した巨岩で印象は幟(のぼり)よりも柱に近い。「ほらがい岩」、これはサザエに似ている。

お堂は渓谷の岩肌に開いた洞窟に張り付くように建っている。堂宇はいくつかあるが誰もいない。本堂への入り口には猿が入るので開け放さないようにと注意書きがある。
断崖や奇岩巨岩もあり渓谷のとても美しいところだ。境内には売店や休憩所と思われる場所もあり行楽地の気配がする。それもそのはず寒霞渓裏八景のひとつで「もみじ谷」とよばれる名所とのことだ。確かに秋に訪れるといいだろう。問題は観光客が多くなると駐車場まで登ってくる道路での渋滞がどうなるかだ。はたしてすれ違えるのか心配だ。
寺の名前の元になった自然の岩が門のようになっていって、その門をくぐり遊歩道というか登山道を登ると今朝立ち寄った寒霞渓展望所まで景観が楽しめるらしい。季節がよく時間もあればハイキングもいいなと思うが登山はかなりつらそうだ。他にも猿の軍団に遭遇することがあるという噂も気になる。たったひとり遊歩道で猿に囲まれる状況は想像しただけで怖い。

高い木々に囲まれて一部は苔むした舗装路をブルーラインに戻る。このブルーラインというのは草壁港から寒霞渓へ登る観光道路で展望台でスカイラインとつながる。
小豆島に来て寒霞渓を訪れない人はいないだろうが行き方は大きく二つある。ひとつは今回のルートのようにスカイラインを通ってブルーラインを下る方法でもう一つはブルーラインを登って逆へ向かうコース。ロープウェーに乗りたいならブルーラインを登り、途中ロープウェーを楽しんでからスカイラインを回って銚子渓に寄ったりする順路を取るだろう。しかし、景色を楽しむにはブルーラインは上るのではなく下るのが断然お勧めだ。
ブルーラインは星ヶ城山標高816mのほぼ山頂にある寒霞渓展望台から一気に草壁港の海抜0mへ下って行く。その道中は眼下に内海湾を見ながらの抜群の眺望が続くのだ。道は九十九折なのであまりよそ見をした運転をしていると危険だが道路は良いので誤って転落することはないだろう。
太陽もそろそろ上がってきて日差しも暖かくなり絶景を見ながら走り降りるのは実に爽快だ。

仏ヶ滝

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○二十番、仏ヶ滝

さらにブルーラインを下る。やはり道端の岩壁に札所がある。
石段を登る途中に来客を確認するセンサーがあるのだが人の出てくる気配はしない。庫裏はあるが中の様子は確認できない。札所の朝は早いのが普通だ。この時間になっても誰もいないということは閑散期には無住なのかもしれない。
垂直の岩場の岩窟前にコンクリート製のお堂がある。お堂の扉も閉じられたままだ。お堂に向かって右には二階部分が鐘付き堂を兼ねたコンクリート製の多宝塔がある。ここのお寺の基本設計はコンクリート造りのようだ。

「地図のこの赤く塗ってある札所がお寺で朱印をもらえるところ。この黄色のところはお堂で、緑色のところが山岳霊場。山岳霊場というのは小豆島独特で・・・」
早く廻り始めたくて気はそぞろ。後は良く聞いていなかった。今にして思い起こせば最初の霊場会でおじさんが山岳霊場の説明をしていたような気がする。
そんなかりうっ者でもここまで廻ってくれば山岳霊場がどんなところか大体理解ができる。
山岳霊場という文字から受ける印象は山の中にある小さなお堂というところ。
実際そう思い込んで廻り始めた。もちろん山の中にあるのは間違いないが、お堂のような小さなものではない。七堂伽藍とまではいかなくても多くの建物を持つ立派なお寺だ。
岩肌に口を開けた洞窟を本堂として護摩壇供養を中心とする修行を行う山寺といえば当らずといえど遠からずといったところだろうか。巡礼というより修験道や山岳密教とのつながりがうかがえる。「小豆島霊場は弘法大師の系統と山岳修験の系統の二つの流れが合わさって現在に至っているものと考えられる」という説明の通りだ。
独特の寺院形体と書かれていることもあるが、洞窟をお堂とすることは他にも全く無いわけではない。しかし、こんなに狭い範囲に多くの場所が作られているのは他にあまり例を見ないのは確かだ。ここからまたまた想像が爆発する。

島四国の最初の形態は山岳霊場を廻る修験道場からスタートした。そんな考えが湧き出してしまった。
小豆島霊場はどうやって発祥したか。いきなり四国八十八ヶ所をモデルにして今のような完成した形として出現したとは思えない。もちろん伝説では弘法大師が生まれ故郷の讃岐と京の都を行き来するその途中に小豆島に寄って修行したのがその起こりということになっているが、あくまでも言い伝えにすぎない。もっと確実そうな説は、貞享3年(1686)、島の真言宗の住職36人が集まり弘法大師縁の八十八札所を制定したのが始まりとされている。それが史実かどうかは不明だが、何らかの原型があっただろう。
島には元々いくつか霊場がありそこを廻って修行することが行われていて、それを島四国へ発展させたと考えるのが素直な気がする。それは札所の半数以上を庵堂が占めることからも想像できる。明らかに数を八十八にするためにお堂で札所を増やしている。元々、本当に札所と呼べるような場所がかなり少なかったことの証拠ではなかろうか。
では初めに霊場だったのはどこなのか。お寺だろうか。現在札所となっているお寺は三十ヶ寺ほどだ。島の大きさからほとんど全てのお寺と考えられる数だ。しかし、島全てのお寺が巡礼に関係する特別な弘法大師の霊蹟だとは考えにくい。それどころか、巡礼が自然発生しそうな由来のあるお寺はどうも見当たらない。核となるお寺がなさそうなのだ。
巡礼霊場を創作するのに数の点でも疑問が出る。巡礼といえば四国と西国観音霊場が最も有名だ。小数の巡礼を拡大するときに数からは西国霊場に対応させて三十三にしたほうが手っ取り早い。島のお寺の数からしても適当な数だ。
三十三霊場は観音なので寺の本尊が観音でない場合に困るという反論ももちろんある。しかし、意外だが観音霊場の本尊が観音である必要はない。観音霊場御本家の西国三十三にもお寺の中の観音堂が札所になっているところがいくつもある。本尊が観音様でないお寺は観音様を安置するお堂が札所になっているのだ。さらに、お寺の数が少々、三十三を越えていたとしてもいくつかを番外にすれば簡単に解決できる。札所は多少数が多くなっても融通が利くのだ。
数からは西国霊場にならったほうが、やはり都合が良さそうに思われる。しかし、小豆島の巡礼は三十三観音霊場ではなくてどうしても八十八ヶ所遍路にしたかったようだ。札所寺院の全てが真言宗という特殊事情もからんでいるだろう。ただ、八十八にこだわった理由は弘法大師信仰なのは間違いないが遍路の完成には大師信仰だけでは不十分な気がする。
八十八にしようとした場合、新しいお寺を建てるわけにもゆかないので半分以上を堂庵でまかなう今の形になる。その時に札所の数を揃えるだけなら山岳霊場を加える必然性が弱い。どうせ数の調整は庵堂でするのだから数が不足する心配はないだろう。どうしても足りなければ里に数ヶ所お堂を建てても良いし寺の境内のお堂を別に札所として加えても良い。大体、山岳霊場のような立地場所の特殊な札所は奥の院や番外に指定されるのが通例なのだ。

さらに遍路の一番札所が洞雲山の山岳霊場からというのも問題だ。打ち初めを山の上の洞窟からにしてあるのはそこが遍路にとって重要で必須の場所だったと考えなければ説明できない。

そんなことを考えると、島四国の成立にもっとも重要なポイントは山岳霊場の存在という結論になる。きっと巡礼の核となる場所は山岳霊場だったのだ。
各山岳霊場を結びつけていたのは修験者だ。修験道は熊野の奥駆けや比叡山の千日回峰行のように険しい山をめぐりながらの修行を特徴とする。島の山々の洞窟を霊地として巡りながらそこで護摩を焚き修行していた修験者がいたのではないだろうか。それが山岳霊場の原型であり巡礼の原型と考えられないだろうか。
修験道を行うのは基本的に天台宗系か真言宗系なので山岳霊場を大切にしたのは頷ける。島に四国八十八を設定しようとしたとき山岳霊場をはずすことは出来なかったのだろう。
勝手に何の根拠もない想像をめぐらすのも楽しい。それもまた素人遍路のお供だ。

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