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いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

中国観音霊場(第8回)

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○第二十六番、医王山、一畑寺  (平成18年10月15日)

島根半島の北を走る県道23号斐川一畑線(ひかわいちばた)を使っても一畑薬師(いちばたやくし)へは行ける。しかし、道は少々根性が必要な厳しい場所がある。走りやすさを優先することにした。土地鑑があるとその場に応じて的確に道を選べるのがうれしい。
来た道を平田(ひらた)へ戻る途中で宍道湖北部広域農道へ入る。これは交通量も少なく適度なアップダウンやワインディングが続き快走出来る楽しい道だ。ただし、基本は農道なので作業車などが出てきたりするのであまり調子に乗って走ってはいけない。

県道23号斐川一畑線と交差所で左折すると一畑薬師の入り口がある。山上の寺へ向かうスカイラインは観光バスなどの対向車があるのでコーナーを攻めたりすると危険だ。もちろんオヤジでへなちょこなライダーは飛ばしたりしないでトコトコ登る。

駐車場には「本堂まで真っ直ぐ400m」の案内。山陰を代表する寺院なので広い。
駐車場の下のほうにある空き地を見ながら、昔そこに遊園地があったことをどれだけの人が知ってるのだろう、などと考えながら参道脇の土産物屋の前を歩いて行く。

火袋に丸一文字の模様が作られた石灯籠が参道にずらりと並ぶ。一畑の「一」なのだろう。
突き当りは本坊で庭園拝観が10人以上の団体なら予約で可能らしい。一人の飛び込みは問題外のようだ。

仁王門には彩色の像が立っている。禅定寺や神門寺と同じで、やはりどこかコミカルな表情だ。出雲の仁王はユーモラスなのが流行りなのかと神門寺で思ったが、本当にどこでもこんな感じなのだろうか。
小さな十王が仁王の前に安置してあるのが変わっている。

観音堂は本堂に向かって右に建っている。厨子は小さい。20cmほどのお前立ち。安置されている像は瑠璃観音菩薩(るりかんのん)と呼ばれる秘仏のようだ。
観音堂前には中国の補陀山(ふださん)から請来された観音石仏がおられる。中国観音霊場は中国の補陀山と友好交流の仲だ。宝珠を持たれた特殊な像様の観音菩薩で瑠璃観音と同じようなお姿だととされる。

一畑薬師の本尊は絶対秘仏の薬師如来。薬師如来はその名前からも病気平癒の御利益があるとされる。薬師瑠璃光如来(やくしるりこう)とも呼ばれ手に薬壷(やっこ)を持たれることが多い。それでここは観音菩薩も瑠璃観音と呼ばれるのだろう。そうすると持物は宝珠ではなく薬壷か。秘仏なので確認のしようはないが。

本堂は少し複雑な形をしている。正面からは入母屋唐破風向拝付きの一般的な建物に見えるがさらにその後ろに重層入母屋がくっついた形をしている。
本尊は多分奥の建物に安置してあるのだろう。神社の本殿と拝殿の関係に似ている。

寺の創建は、近くの海中から漁師が偶然引き上げたところ不自由だった母の眼が見えるようになり、以後その像を安置したのが始まりという伝説がある。そのため眼の神様とされ、地元では知らない人がいない。また地元でこの寺を一畑寺と呼ぶ人はほとんどいない。一畑薬師と呼ばれる。

本堂ではご祈祷中だ。今は亡き祖母の病気平癒祈願に来たことを思い出す。何年前になるのか。それ以来の参拝だ。

家は真言宗ではないのだが「おんころころまとうぎそわか」、この真言だけは覚えている。祖母がよく唱えていた。ごく普通の信者にとっては、法然も親鸞も空海も最澄も、果ては聖徳太子も、皆そろって有難い御蔭のある偉人であり、阿弥陀如来も薬師如来も大日如来も関係ないのだ。手を合わせて唱える。それでいいと思う。宗派にはこだわらなくても仏を信じて帰依する、それで十分な気がする。
本堂裏にお百度参りの木札があった。お百度を踏む人も多分宗派を考えてくるわけではないだろう。

本堂に向かって右には八万四千仏堂の小さな仏像がずらっと並ぶ。壮観だ。京都蓮華王院三十三間堂のミニチュア版のようだ。84000というのは煩悩の数とされる。除夜の鐘は108でこれが煩悩の数としてよく知られているが、経典を根拠とするのは84000のほうだ。もっとも8400は実際の数ではなくて、とても沢山といういうだけの意味らしい。八万四千の菩薩などという表現もある。

八万四千仏堂の先からは遠く宍道湖方面が見渡せる。山の上なので眺望が良い。

本堂周辺は整備工事中で少し雑然としてる。ブロンズ製の十六羅漢像の前を通り納経所へ向かう。納経所は大きなお守り売り場と兼用で売り子の作務衣の人にお願いする。まるで何かの受付の様な感じだ。

駐車場から本道へ向かうと山門のすぐ下に出るのだが、山門の下には千三百段とされる石段が下に向かって続いている。少し降りてみた。一段は妙に段差が小さい。
この石段を麓から一気に駆け上がる一畑薬師マラソンという催しがある。今年は10月29日、もう2週間後だ。この近くを走っている人とやたらにすれ違ったのはそのためだった。練習中なのだ。標高差300m近くの階段を走って登るのは想像すら出来ない。

帰りは広域農道まで出て続きを走る。ここからも楽しいアップダウンが楽しめるが景色という点では山里の農村風景だけなのが欠点だ。風情を求めるならやはりメインルートは宍道湖(しんじこ)北岸を通る国道431号線だ。このルートを走ると宍道湖の風景も捨てたものではないと思わせる。

陽の暮れる前に帰宅出来た。202km、近場のはずなのに意外に走っている。

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○第二十五番、浮浪山、一乗院、鰐淵寺  (平成18年10月15日)

昼食中に今回は出雲大社へは寄らないことに決めたので国道431号線に出たあと平田(ひらた)へ向い進路を東へ取る。平田の市街地手前で県道250号鰐淵寺線に入り島根半島を北へ横断して日本海へ出る。それから案内にしたがって再び島根半島の山の中へ入って行く。

道が少し狭まる。島根半島は日本海に面した北側はリアス式の海岸となっているため平地がほとんどなく海の近くまで山が迫る。そのため海から少し離れただけで急に深い谷に入り込んだような地形となる。
久しぶりだが道路事情は変わっていない。道幅は広くないがすれ違いが困難というほどではないので交通量がほとんどな今の時期は大丈夫だ。鰐淵寺(がくえんじ)は紅葉の名所として名高い。まだ色付いてもいないので人影もまばらだ。あと数週間後には大変な人出となる。シーズンには交通規制がしかれるはずだ。

川が道に沿って門前まで続く。苔むした岩が転がったり岩床を渓流が流れたりと小さな渓谷になっている。駐車場は伽藍まで少々遠い。森林浴など楽しみながら歩くものだが、人の姿もないことなので、仁王門まで進んで道端に停めさせてもらった。本当は駐車場ではないので駄目なのだろうだが。

海から3kmほどしか離れていないとは思えないほど山深く感じられる。中国自然歩道へ続く山道が脇にある。ここは出雲大社と山を隔てた場所に位置するため山を越えてゆけば出雲大社の方へ出られる。鰐淵寺が出雲大社の別当寺だったときは大社へ行く僧も参拝者も山道を歩いただろう。現在は鰐淵寺と出雲大社を結ぶ交通は今日走ってきた道しかないが、山を越えるのが最も近いのだ。

紅葉の名所だけあって境内には紅葉の巨木が多い。石段の続く参道には両側から伸びた紅葉の枝が天を覆っている。
境内に点在する石垣は昔の塔頭(たっちゅう)や僧坊の跡で往時の隆盛をうかがわせる。
平安末期の俗謡、いわゆる流行歌を集めた梁塵秘抄(りょうじんひしょう)に
「聖の住所はどこどこぞ、箕面よ勝尾よ、播磨なる書写の山、出雲の鰐淵や日の御崎、南は熊野の那智とかや。」
とある。出雲の鰐淵というのが鰐淵寺のことだ。今は伽藍もわずかになって寂れた田舎寺院のようになっているが当時は都にまで知れ渡る程の有数な寺だったことが知れる。
余談だが、この歌からは、神と仏、神社と寺院が同列に述べられていて、古来は神仏混肴が普通だったことがわかる。また、日御碕神社(ひのみさき)はあるが出雲大社はない。当時は鰐淵寺は出雲大社の別当寺で出雲大社も含めた寺だと考えられていたことが察せられる。

ゆっくり長い石段を登ってゆくと正面が本堂だ。根本堂と呼ばれる本堂は立派な建物だ。基本は素木なのだが組み物より上の、升や肘木、地垂木(ぢだるき)と飛檐垂木(ひえんだるき)、さらに破風(はふ)などは朱塗りになっている。
参道を登って行くと石段の上に本堂の巨大な入母屋の屋根と唐破風向拝が紅葉の繁った枝と重なって姿を現わしてくるのだが、それはちょうど建物の上部の朱塗りの部分とのコントラストでとても美しく映える。視覚効果をあらかじめ考えて建ててあるかのようだ。

本堂に向かって右にはいわゆる弁慶(べんけい)の鐘で有名な鐘楼堂。弁慶が伯耆(ほうき)の大山寺(だいせんじ)から奪って一夜で運んできたという伝説がある。今の鐘は新しいものに代わっている。
平田や松江周辺には何故か弁慶伝説が多い。弁慶の生誕地や母の墓なども伝わっている。ただ一般的には全く無名で地元でも知る人ぞ知る状態だ。その中で少し知名度があるのがこの釣鐘の話だ。
釣鐘を運ぶのはいくら怪力でも一夜では無理だろう。両寺の間は直線距離でも80kmはある。ただ歩くだけでも大変だ。

本堂向かって左は建物の跡の空き地で、さらにその左には神社が建っている。寺と別経営ではないようなので神仏混肴そのままだ。さらに奥には稲荷神社もある。
神社は大社造で摩陀多羅神社(またら)とある。普通は摩多羅神と書かれる。踊る童子を二人連れた狩衣(かりぎぬ)姿に描かれる神で主に天台宗で阿弥陀堂(あみだどう)の守護神とされる。出自は不明だが典型的な神仏習合の神だ。単独で摩多羅神を祀る神社は珍しい。

出雲大社の裏に祀られていたのを明治に移したものらしい。出雲大社と鰐淵寺との強い関係がうかがわれる。寺が引き取ったのだろう。明治政府は神仏分離の時に摩多羅神を神道系の神とは認めなかったわけだ。
摩多羅神は大黒天や素盞嗚尊(すさのお)とみなされることもる。大黒天はその「だいこく」という読みから大国主命(おおくにぬし)とされた。出雲大社の祭神は大国主命なのでその関係で祀られたのか。また祭神が素盞嗚尊とされたこともあったのでその時期に祀られたのか。いずれにせよ鰐淵寺の支配下の時に出雲大社の本地のような位置付けだったのではないだろうか。

実は拝殿に見える建物は常行堂で、その後ろが摩陀多羅神社とも知った。常行堂とは阿弥陀如来を安置し念じて修法を行うお堂のことだ。天台宗では摩多羅神は阿弥陀如来の化身とされて一緒に祀ることがあるらしい。それで常行堂の後ろに移築したのだろうか。なかなか複雑な歴史がありそうだ。

他であまり眼にしないものとして石段を登りきった根本堂正面の石灯籠の形も珍しい。
屋根の四方を唐破風にしてその上に相輪(そうりん)を乗せる。とても凝った作りだ。
さらに、おやっと思うのは亀の上に灯篭が乗っていることだ。墓石が亀の上に乗っていることがあるが灯篭では初めて眼にした。

この亀は今まで知らなかったが亀趺(きふ)というものらしい。正確には亀型の台座を亀趺と呼ぶので亀の呼び名ではない。亀に見えるが牙があったりして本当は亀ではなく贔屓(ひいき)という中国の空想上の霊獣だという。贔屓は龍の子供で死者の霊を守るとされることから墓石の台座に使われるようだ。

贔屓というのは「彼をを贔屓にする。」などと使われるあの「ひいき」で、亀趺として下から支えることから来ていると知ってまた驚いた。

境内への道とは別に、寺の発祥であり奥の院とされる浮浪滝(ふろうたき)への鬱蒼とした小道が続いているのが見える。滝の裏の岩窟に不動堂と呼ばれるお堂がはまり込んだように建てられていて水量は少ないが滝はそのお堂の前を今日も落ちているはずだ。
「はずだ。」と、いうのは以前そうだったからで今回は確認してない。山道を10分あまり歩いて登らなければならないので遠慮させてもらったのだ。

出雲大社

○出雲大社 (平成18年10月15日)

出雲市内を平田へ向かいながら沿道のラーメン屋に入り遅くなった昼食をとる。

はじめてこの近くを旅する人ならここまで来て出雲大社へ寄らないというのはありえない選択だ。出雲大社は伊勢神宮と双璧をなす日本を代表する神社といってよい。今では神宮や大社という名前の付いた神社は各地に多いが、古くは神宮といえば伊勢神宮を指したのと同様、大社といえば出雲大社を意味したほど出雲大社は全国に知られていた。
出雲市から松江市にかけては古代史や日本神話に関心のある人は一日では到底足りないほど見所が多い。中でも出雲大社は様々な伝説や伝統行事などに彩られた出雲神話の中心となる場所だ。たとえ神様に何も興味がなくても出雲に足を踏み入れた人は誰でもここだけは素通りできない神社だと断言できる。

観音巡礼だからと札所だけを廻り、他には一切眼もくれないという巡礼もあるのだろうが、実は出雲大社は次に向かう札所の鰐淵寺(がくえんじ)と密接な関係にある。いや、あったと過去形のほうが正しい。

中世には全国どこでも有力な神社は次々と仏教との融合である神仏習合が進んだ。神社には別当寺や神宮寺が置かれて神事を僧侶が取り仕切るようになる。これは神社の都合というより仏教側の宗教支配力が強くなったということのほうが大きいのだが、神社に僧がいることは普通になっていた。
少なくとも戦国時代には出雲大社も鰐淵寺の支配を受けるようになっている。

全国的には別当寺が消えるのは明治政府の神仏分離令のためだが、出雲大社はかなり早い時期に寺の影響下から離れている。
江戸時代初め、それまでの藩主に代わって松江松平家初代の直正が松江に入る。出雲大社への信仰が篤かった新しい藩主へ大社側が働きかけて鰐淵寺との関係を解消させることに成功している。

これによって打撃を受けたのは鰐淵寺で、それまで出雲大社を利用した膨大な勢力を持っていたのが、以後寺勢は衰えてかげりをみせることになる。

現在、出雲大社を訪れると境内は広い松林になっている。そこはかつて寺院の塔や大日堂などが建っていた跡だという。今では全く仏教色は排除されて、以前は寺が管理していたその片鱗すらも感じられない。

このような歴史的背景からも札所鰐淵寺の番外と考えて参拝するのも悪くないだろう。
しかし、今回は敢えて寄らないことにした。出雲大社へ参るも当然といいながら敢えて参詣しないのも、どうかと思うが、何度も訪れているのでたまには近づかないのも許されるだろう。

正直なところ大社へ寄ると見所が多く、ゆっくりしすぎて今日の内に札所がほとんど廻れなくなりそうだからだ。
出雲大社へ参拝するルートを取るならば回り道ついでに日御碕(ひのみさき)まで足を伸ばしたくなる。日御碕からは日本海側へ出て次の鰐淵寺へ行けるといったことも理由だが、日御碕神社は出雲大社と相争うほどの影響力を持っていた神社でお互いの関係など興味深く、様々に想像を膨らませるのも捨てがたいのだ。しかし、のんびり巡礼とはいってもさすがに程度というものがある。

後ろ髪を引かれる思いで大社に背を向けて東へ走る。

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..第二十三番、天応山、神門寺 (平成18年10月15日)

県道から国道184号線に入って出雲市街へ向かう。次の札所は島根大学医学部附属病院を目印にする。病院の前を少し入った場所なのでわかりやすい。

ここの門の仁王も彩色がすこし剥げた漫画チックでユーモラスな表情をしている。禅定寺といい出雲の仁王は皆こんな具合なのだろうか。もちろん偶然だろうが。

神門寺(かんど)は住宅街の真ん中にある寺で浄土宗だが弘法大師堂や観音堂がある。これは元は真言宗だからだ。
正面の本堂は巨大な入母屋唐破風の建物でどこにも古臭さを感じさせないところなどがいかにも浄土系のお寺に思わせる。ただこの印象は個人的な経験と勝手な思い込みによるもので何の根拠もなく全く無責任な感想だ。

納経所は庫裏の玄関。寺は大きいが特に納経の受付があるわけではない。出てこられたのは残念ながら少し愛想少ない奥方で、一人ぽつんと玄関で待つ間少々居心地が良くなかった。たまたまその時の些細な態度に過ぎないのだが納経の時の印象で寺のイメージが大きく決まってしまうことが多い。人への対応は大切だ。一期一会。自分自身も反省しなければ。

境内裏には小さな稲荷社や秋葉社などの小社が点在している。皆少し痛んでいる。
本堂後ろには池だったと思われるくぼ地がある。その横に影向石(ようごういし)として別名いろは石がある。
影向石というのは寺の開祖などに縁のある岩石で磐座と同じようなものだ。ここのいろは石には弘法大師の伝説が残る。元真言宗の寺であったことがここで関係している。

いろは歌は弘法大師の作という説があるが、弘法大師空海はこの寺でいろは歌を作ったとのだという。寺には空海の真筆と伝えられるいろは歌が残されているらしい。さらに「この世から文字が失われた時に掘り返してみよ」と石の裏にいろは歌を刻んだとされる。それがこのいろは石だそうだ。
こうしたことからこの神門寺は別名いろは寺とも呼ばれている。空海がここを訪れたのは遣唐使の時の航海安全祈願とも、唐から帰った後で出雲大社への参拝途中だったともいわれるが、いずれにせよ楽しい言い伝えだ。
石をひっくり返して見たい衝動に駆られるがさすがにそれは出来ない。

さらに興味をそそられる史跡があった。門をくぐって向かって左の一角にある五輪塔。これが塩冶判官(えんや)の墓とされる。塩冶判官の名は聞いたことがあったが恥ずかしながらその時は誰だか思いだせなかった。それは忠臣蔵だった。

忠臣蔵はもちろん知らない人はいないだろう。元禄14年(1701年)3月14日、遺恨による確執で赤穂(あこう)藩主浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)は殿中にて吉良上野介(きらこうづけのすけ)を脇差で切りつける刃傷沙汰を起こしてしまい赤穂藩は取り潰される。浪人となった藩士47名が筆頭家老大石内蔵助(おおいしくらのすけ)の指揮で元禄15年12月14日吉良邸へ討ち入り上野介の首を取って藩主の恨みを晴らす。赤穂事件としてよく知られた話だ。
この事件はいろいろな作品にされ芝居になったりしたが、中でも人形浄瑠璃や歌舞伎の仮名手本忠臣蔵の影響が大きい。今では忠臣蔵といえばほぼ仮名手本忠臣蔵のストーリーを指す。

赤穂浪士討ち入りは日本三代仇討ちの一つとされるが実は幕府は仇討ちと認めなかった。
仇討ちは父母の仇を届き出て子供が討つものとされる。特に子供がいない場合に兄弟や甥姪が認められただけだ。意外だが逆に子供の仇を親が討つとこは出来なかった。結構厳密に認定されている。つまり忠臣蔵のように主君の仇を家臣が討つというのは仇討ちとしては論外ということになる。
当時民衆には赤穂義士として英雄扱いされたようだが当然幕府は吉良上野介を討ったのは私闘であって単なる喧嘩に過ぎないと判定した。
そのため仮名手本忠臣蔵では幕府に憚って、そのままではまずいと舞台と主人公の設定が変えられている。

大石内蔵助は大星由良之助(おおぼしゆらのすけ)とすぐにそれとわかる名前になっている。そして吉良上野介は高師直(こうのもろなお)、赤穂藩主浅野内匠頭が塩冶判官高貞(たかさだ)。時代は南北朝で太平記の頃。塩冶判官と呼ばれた高貞が高師直に謀反の疑いをかけられて討たれた実際の事件がありそれに重ねた設定になっている。
その史実の塩冶判官の墓がここにあるのだ。知らなかった。

実はこの寺に関係しているいろは歌と忠臣蔵は無関係ではない。仮名手本忠臣蔵の「仮名」とはいろは歌を指すという説がある。
「ん」を除くいろは歌は47文字で赤穂浪士の47人と一致する。
また、いろは歌には暗号が隠されているといわれていて、「いろはにほへと」と7文字で区切って書き並べると行の最後が「とかなくてしす」「咎なくて死す」、つまり無実の罪で死ぬと読めるというのは有名だ。
殿中刃傷沙汰の後始末で吉良上野介はおとがめなく浅野内匠頭の切腹というのを、この「咎なくて死す」で密かに示したともいわれている。

仮名手本忠臣蔵で登場人物を塩冶判官としたのにはいろは歌と関連のあるこの寺のことが頭にあったのだろうか。

一森神社

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○一森神社(平成18年10月15日)

県道51号線に戻り出雲市方面へ進んで行く。道が広いのは禅定寺への入り口があるところまでで後は1-1.5車線の山間道路となる。山を越えるとそこは稗原(ひえばら)。

以前に何度か仕事の手伝いに来たことがあるところだ。そこは隣の神社の神主を兼ねている。神社へは一度も足を伸ばしたことがないので寄り道してみることにした。
出会うと話が長くなって逃げられなくなる恐れがある。留守だとは思うが見つからないようにこそこそとバイクを停めて神社へ急ぐ。

林の中を登ってゆく長い整備された参道にまず驚いた。そこからさらに伸びる石段途中にはしっかりと八脚門。社殿の大きさにもただ驚くばかり。
境内の摂社を含めて全ての建物が白木で新しく建替えられている。本殿は立派な大社造。これほどの神社の神主だとは思っても見なかった。綺麗とは言い難いが社域に池も二三あっていかにも由緒正しそうな神社だ。正直これほどの規模の神社だとは想像してなかった。見くびりすぎていた。
失礼ながらこのあたりは典型的な老人の過疎の村だ。これだけの造営が氏子だけで出来るのだろうか。不思議なものを見た気分だ。

不思議といえば参道石段を登りつめた拝殿前に鳥居ではないものが建っている。両側の柱の頂上近くに一本の横木が通されたものだ。鳥居だと両側の柱の上にもう一本横に渡される笠木がある。
これは以前に尾道の西国寺で見て、何だろうと思ったものだ。最近になってこれは門の一種の冠木門(かぶきもん)というものらしいと知った。これで西国寺の謎は解けたが、ここは神社なのにどうして鳥居でなくわざわざ門にしたのか。

説明板によれば主祭神は阿陀加夜怒志多岐吉比売命(あだかやぬしたききひめ)、父神は大国主命(おおくにぬし)、母神は玉邑比売命(たまのむらひめ)。全く馴染みがない。
もとは出雲国風土記の加夜社とされ、やはり風土記の保乃加社を合祀して現在の地で同形同大の二つの本殿で祀っていたのが今の一社になったものだとも記されている。その他少々複雑な経緯も述べられているが、とにかく由緒正しい社であることは確かなようだ。

参道の入り口近くに摂社がある。小さな日吉、秋葉、武内神社などの社が建っている。
境内の中央に岩がありその上に五角柱の石柱が据えられている。石柱には天照大神(あまてらす)、大名持命(おおなもち)など刻まれているが残りは読めない。社日(しゃにち)と呼ばれるもので一般的には天照皇大神、大己貴命、稲倉魂命(うかのみたま)、埴安媛命(はにやすひめ)、少彦名命(すくなひこな)の五柱が多いらしいが、その組み合わせの理由はわからない。
ここでは磐座と産土の社日が合体したもののようだ。ひょっとすると一森神社のこちらが元々の本体ではないだろうか。

後日、見知らない祭神に興味がわいたので少し調べた。
阿陀加夜怒志多岐吉比売命は出雲国風土記にしか登場しない。出雲市の西に多伎(たき)という地がある。風土記には阿陀加夜努志多伎吉比賣命が鎮座されるから「たき」と呼ばれると記されている。多伎神社がそれに比定される。多伎吉比賣(たききひめ)とは「たき」の「ひめ」という意味のようだ。
一方、阿陀加夜怒志(あだかやぬし)というのは「あだかや」の「ぬし」、つまり「あだかやの王」のことだと思われる。

興味深いのは松江市の東にある東出雲町に出雲郷と書いて「あだかえ」と読む地があることだ。そこにはこの女神が祀られている阿太加夜神社があり、それは風土記にも載る由緒のある神社だ。ところが阿太加夜神社がある「あだかえ」の郷は出雲郷ではなく国引き神話の舞台である意宇の杜の候補地ともされた場所に近い。つまり意宇郡にある。風土記で出雲郷というのは現代の出雲市に近い斐川町の西側あたりを指す。つまり出雲郷でもないところに出雲郷とかいて「あだかえ」という地名があることになるのだ。両者は30km以上離れている。

どうやっても出雲郷を「あだかえ」とは読めない。
出雲郷からの移住者の集団が一族の神である阿陀加夜怒志多岐吉比売命を祀った阿太加夜社を奉じていたことから、出雲郷の者たちの住むその部落を「あだかや(あだかえ)」と呼ぶようになったと考えると少しは説明がつきそうだ。
それでも問題が残る。風土記で阿陀加夜怒志多岐吉比売命の説明のある多伎は実は神門郡(かんど)で出雲郷のある出雲郡ではないことだ。
出雲郡と神門郡はとなりの郡なので多伎の神を出雲郡でも祀っていた集団があり、意宇郡近くに移り住んだのが出雲郡の集団だったとすると説明はつかないこともない。それでも出雲郡出雲郷は神門郡多伎と隣で接しているわけではなく少し離れているのが難点だ。

さらに、風土記に「あだかや」という地名は出てこないのも頭を悩ませる。先に書いた意宇に阿太加夜社というのがあるのが「あだかや」の唯一の例なのだ。

つまり「あだかやの主」というのが今のところ何なのか全く想像できない。
「あだかやの王」であり「たきの姫」であるというのはどの様な意味なのか。謎は全く解決されなかった。ひょっとすると「あだかや」というのは地名ではないのかも知れない。
いずれ機会を見て阿陀加夜怒志多岐吉比売命をもう少し調べてみたいものだ。

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