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いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

中国観音霊場(第10回)

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伯耆一宮経塚

○伯耆一宮経塚 (平成19年5月26日)

倭文神社(しどり)参道途中に伯耆一宮経塚への案内と小道がある。神社横の山を少し登るように遊歩道が延びているが、どの程度の距離なのか、道の状態はどうなのか全然わからない。
少々不安だったが今日の予定はここで終わりなので多少時間がかかってもまだ日も高い。意を決して登って行くと100m足らずで到着した。道は危険はないが枯葉が積っていて滑るので少し気をつけなければ転ぶかも知れない。

経塚(きょうづか)は単に柵で囲ってある雑木林の中の浅い窪地に過ぎなかった。枯葉の積った穴の側面には積み石が少し見えている。石室の一部だろうか。
説明板と柵がなければ誰も気がつかないような場所だ。干上がって枯葉で埋もれた古池といった感じしかしない。

何故か隣には西国観音霊場三十三番、谷汲寺(たにくみ)の小さな観音の石仏が置かれている。近くには三十一番もある。どうやらミニ霊場があるらしいが、廻る道は全く見えない。観音像も全て揃っているのかどうかも不明だ。
経塚もあるように中世には神仏混肴の神社で周辺には神宮寺も沢山あったらしい。ただ、この石仏はその名残ではないだろう。観音像が新しすぎる。

倭文神社の主祭神は建葉槌命(たけはづち)なのだが、実は合祀されている下照姫命(したてるひめ)の伝説のほうが多い。多いというより建葉槌命の伝承はなく下照姫命を祀った社といってもいい。
この経塚も下照姫命の陵墓と伝えられていた。

大正4年の発掘で古墳ではなく経塚であることが判明。また、その出土した銅経筒(きょうづつ)の銘文から少なくとも平安時代後期には伯耆国一宮であったことがわかったのだ。
ちなみに、この時の出土品は国宝に指定され、現在、東京国立博物館に展示してある。
東京へ行った時に時間が余れば上野の博物館へ足を運ぶことが多いのだが、今まで伯耆一宮経塚出土品の展示をじっくり見ているひとにはお眼にかかったことがない。国宝といっても地味すぎるのだろう。正直言って、個人的も知っているから立ち止まるだけであまり興味はない。研究者でもないし。

下照姫命は大国主命(おおくにぬし)の娘で天若日子(あめのわかひこ)の妻だ。天若日子は記紀の国譲り神話に登場し、高天原から葦原中国(あしはらのなかつくに)への使者として遣わされたにもかかわらず、下照姫命を娶って天照大神に復命しなかったために、返し矢で命を落とす話としてよく知られる。

社伝によると、出雲から下照姫命は船で渡って来て仮屋崎(かりやざき)に着き、この地に鎮まったとされる。つまり、全くの下照姫命の社なのだ。そこには建葉槌命の出番はない。
仮屋崎というのは仮名崎ともいうらしく、ここの北の日本海の海岸にある羽合(はわい)の宇野(うの)と泊(とまり)の宇谷(うだに)の間らしい。そこには下照姫命が腰を掛けたという御腰掛岩や化粧を直した化粧水などが残っているという。
また宇野の東海岸には「亀石」という岩があって下照姫命が仮屋崎に到着したときに乗っていた亀が変わった石だと伝えられているらしい。御腰掛岩は乗ってきた船だという話もある。それにしても、下照姫命は船で来たのか亀に乗って来たのかどちらなのだ。
残念ながらこれらの旧跡は未確認だ。

出雲から船で海岸に到着というのは今日寄り道した波波伎神社(ははき)にある事代主神(ことしろぬし)の話と良く似ている。もしかすると、元は同じ伝承が変化したのかも知れない。
古代、先進文明や文化は朝鮮半島から船で入ってきた。その玄関は北九州と日本海沿岸だ。運悪く難破した場合も日本海沿岸に漂着する。このあたりの海岸に、正規の航海にしろ漂流にしろ、海のかなたから高い文化と知識を持った人がやって来たことはあったはずだ。それがこの伝説の元になっていると考えるのは無理だろうか。

主祭神の建葉槌命といい、下照姫命といい、謎が多い。
謎といえば建葉槌命と下照姫命の組み合わせも不思議だ。このニ神の接点がないのだ。

ここの主産業が織物だったことから建葉槌命を倭文部(しとりべ)が祀ったところに、この地方に伝説のあった下照姫命が祭神として加わったが、倭文織(しずおり)が姿を消すと下照姫命だけが残っていったのだと説明されてる。

しかし、何だか海からの客人(まれびと)の想像が頭から離れない。
波波伎神社では客人が事代主神と見なされるようになり、ここでは下照姫命とされるようになった。この想像が正しいないら、祭神が事代主神や下照姫命とされるようになったのは、記紀が成立して事代主神や下照姫命が広く知られるようになってからと考えられる。つまり倭文神社に下照姫命が祭神として加わるのはかなり次代が降ってからということになるだろう。それに対して、歴史的には倭文織が盛んだったのはそれ以前かなり古いはずだ。
そんな風に考えると、建葉槌命が忘れ去られていったため下照姫命の伝承が残ったというのは順序として疑問が残る。
もっとも、別に説明が出来る案を持っているわけでもない。

今では下照姫命は安産の神として信仰されている。ここも例外ではなく安産の神社で近隣には有名とのことだ。
神社近くの道沿いに「安産岩」というのがあった。
毎回難産で苦しんでいた女性が願かけをしたところ、満願の日に下照姫命が夢に現れれてこの岩の所で楽に出産出来たという。この岩を削って飲むと霊験があるそうだ。
しかし、記紀には下照姫命と安産を結びつけるそれらしい記述は全くない。これも不思議なことだ。どこで下照姫命が安産祈願の神様になったのだろう。
まったく八百万の神には謎が多い。

引き続き県道234号線を道なりに東郷湖(とうごうこ)をぐるっと回る。途中に出雲山展望台という場所があるが、ここから下照姫命が故郷を偲んで出雲の方を眺めたので出雲山と呼ばれるようになったという。さすがにこれは無理で、出雲が直接見えることはない。

後は帰るだけだがツーリングを続ける時間が十分ある。
今朝来た道をバックする形で三朝(みささ)へ向かい、そこでそのまま国道313号線を走り新しい犬挟峠(いぬばさり)道路で蒜山(ひるぜん)へ抜ける。蒜山高原もツーリングの定番で時折旅のグループとすれ違う。

さらに、大山(だいせん)に戻って県道52号線を流す。
大山環状道路もいいのだがこの道も捨てがたい。環状道路ほど知られていないために何より交通量が少ないので気持ちよく走れる。お薦めの道の一つだ。ただ、観光するならやはり環状道路のほうが良い。

最終的には225kmのツーリングとなった。札所だけ走るのと比べて5割増しにはなっているだろう。寄り道が多かったから。

注)伯耆一宮経筒は東京国立博物館に寄託されているが、いつも展示されているわけではないようだ。展示されている時と、されていない時、両方の経験がある。

倭文神社

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○倭文神社 (平成19年5月26日)

投入堂(なげいれどう)遥拝所を後にして三朝(みささ)方面へ戻り途中の県道29号三朝東郷線で東郷湖畔(とうごう)へ出る。
道は燕趙園(えんちょうえん)という観光公園の前に出るが今日は用がない。県道22号倉吉青谷線(くらよしあおや)を右にとって東郷温泉の町中を走る。温泉街は相変わらず寂れている。鄙びているというほうが響きが良いかもしれない。もっとも、表現を変えたところで人通りが増えはしない。

東郷湖の周りをグルッと時計回りに道なりに走って行くと案内が出るのでそのまま進めば特に苦労もすることなく到着。集落の地名は宮内で、神社があったことからの名前で社のの古さを表している。

湖に迫るような御冠山(みかむりやま)の中腹のやや高台となった村はずれに雑木林に囲まれて鎮座している。
驚いたことに駐車場に3台も車が停まっていた。田舎の観光地でもない神社では車が停まっているのは珍しい。
倭文神社(しどり)は伯耆(ほうき)一宮なのだが、一般的な知名度はそれ程高くない。残念ながら観光客が来る様な神社ではないのだ。

倭文を「しどり、しとり」と読むのはかなり難しい。
古代に「しず」や「しつ」と呼ばれた織物がありと「倭文」と書かれる。そして、織られた倭文布、倭文織を「しずぬの」、「しずり」、「しどり」などと言ったらしい。そこから、倭文と書いて「しどり」と読まれるようになったとされる。
どの様な織り方なのか正確にはわからないが、木や麻で作られた糸で格子状の模様を織り出したものようだ。もっとも、はっきりとした織り方を説明されても違いがわからないのだが。
機織(はたおり)は古代では特殊技能で、この倭文を織る集団が倭文部(しとりべ)だ。このあたりに倭文部がいたことになる。

倭文神社の主祭神は建葉槌命(たけはづち)で、倭文部の祖神や氏神とされる。この神は実に謎が多い。

古事記には登場しない。日本書紀では出雲の国譲りの後、引き続き経津主神(ふつぬし)と建御雷神(たけみかづち)の二神は葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定してゆくが、星の神の香香背男神(天津甕星神)(かがせお、あまつみかぼし)だけが征服できなかった。そこで倭文神(しとりがみ)である建葉槌命を遣わして服従させたとある。

何故、武神、軍神である経津主神や建御雷神が敵わない相手を、機織の神が平らげることが出来るのだろう。それに、古来機織は女性の仕事とされている。記紀にも機織は女性がしている記事しかない。当然、機織の神は女神なのが筋だろう。
どうも建葉槌命は本来は倭文神でも機織の神でもなかったとしか思えない。

機織りの祖神として信仰され、倭文造の祖とされているもう一柱、天羽槌雄神(あまのはづちお)という神がいて、これは先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)や古語拾遺(こごしゅうい)で、いわゆる天岩戸隠れの記事に登場する。
高天原(たかまがはら)で素戔嗚尊(すさのお)の乱暴狼藉に恐れをなして天照大神(あまてらす)は天岩戸(あまのいわと)の中に隠れてしまい、この世は闇となってしまう。そこで、いろいろな神々が集まってそれぞれに画策して天照大神を外に誘い出すのだが、この時に天羽槌雄神は文布(しつ、倭文)を織ったとされる。

大和、葛城(かつらぎ)の葛木倭文坐天羽雷命神社の由来に「天羽槌雄神またの名を建葉槌命といふ」とあるらしく、はっきりと同一神とみなされている。
「天」と「建」は尊く雄雄しいといったほぼ同じ意味での尊称で、「羽」と「葉」はどちらも同じ読みで、「雄神」と「命」も同じなので天羽槌雄神と建葉槌命は同じだというのだ。しかし、何となくこじつけのような気がする。

天岩戸隠れでは天羽槌雄神と並び、天棚機姫神(あまのたなばたひめ)が神衣(かみむそ)を織る記事が載っている。この神は女神だし、名前からも機織の神様そのものだ。
これが本来の倭文神のような気がするのだがどうだろうか。
並んで出てくるところ、男女の神ということなどから天羽槌雄神と天棚機姫神はペアの神様と考えられる。そこから天羽槌雄神も機織の神になり、音の類似から天羽槌雄神と建葉槌命が同一神とみなされるようになったのではないだろうか。
まあ、いつものようにまったく根拠はないのだが。

大きな隋神門(ずいじんもん)をくぐり広い参道を進んでゆく。
玉垣(たまがき)で囲まれた境内に入母屋の拝殿が聳えている。本殿は一間2m前後の三間社流造(さんけんしゃながれつくり)。唐破風(からはふ)や木鼻(きばな)などの彫刻も見事だ。かなり大きく立派な社だ。
さすがに一宮、といいたいところだが、伯耆一宮である倭文神社の候補は二ヶ所ありここが一宮と決定されたのは、裏山の経塚からの出土品によってであった。つまり、古代から連綿とこの大きな神社が維持されていたのではなく、一宮もはっきりわからなくなっていたということだ。発掘は大正4年、つまり社殿などはそれ以後に整備されたはずなので比較的新しいのだ。
それにしてもかなり立派な社なのだが、以前来たのは10年以上前なので記憶がほとんどない。神社までのアクセスが道が農道のようだったことしか覚えていなかった。

社務所に神職がおられる。どうやら駐車場の一台は彼のものらしい。
途中で若い女性の二人連れとすれ違う。何と彼女が手に持っているのは一宮巡拝の朱印張だ。
全国一宮巡拝というのは聞いたことはあるが、実際に朱印帳を持っている人を始めて見た。ひょっとすると巡拝の連絡をあらかじめ受けて社務所に人がいるのかもしれない。普段、ここに詰めていても、参拝者が来そうにないから。
それにしても、一般の札所巡りと違って、一宮巡拝は全国を廻らなければいけないので大変そうだ。

投入堂遥拝所

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○投入堂遥拝所 (平成19年5月26日)

人が多く訪れるのは多分良いことなのだろうと思いながらも、観光客の多くが宗教施設であることを忘れている様な態度にどうしても釈然としないものを感じながら三佛寺(さんぶつじ)の石段を下る。

登山はしないので、せめて投入堂(さげいれどう)を拝んで帰ることにする。そのまま県道をを数百メートル進むと道端に遥拝所が設けられている。

背後の山は標高900mの三徳山(みとくさん)。その中腹470mの所に投入堂は建っている。地形と木々に遮られて県道からは唯一この遥拝所の場所からしか眼にすることは出来ない。
それ程大きくない建物が遥か山の上に周囲の樹木に溶け込むようにあるので、注意して探さないと見落としてしまう。
老人が数人、遥拝所に備え付けの望遠鏡を覗き込み「白く霞んで何も見えない。」と怒っている。確かに季節外れの黄砂の影響もあって少々見づらくなっているが、肉眼でもはっきり鑑賞できる。
多分、もっと大きな建物を想像して、あらぬところを探しているに違いない。

ご老人達は仲間が投入堂まで登ったのを下から待っているらしかった。

国宝投入堂。三佛寺奥の院、蔵王堂(ざおう)が通称そう呼ばれる。
山の中腹の切り立った断崖絶壁の窪みの中にはめ込まれたように建てられている懸崖造(けんがいつくり)のお堂だ。役小角(えんのおづぬ)がその法力で岩屋に投げ入れたとされ投入堂と呼ばれるようになったと伝わっている。近づくことさえ難しそうな崖にあり、とても人の手で建てられたとは信じられないためそのような伝説が生まれたのだろう。
実際、投入堂を見ると、その美しさよりどうやって建てたのかに興味を持つ人が多いと思われる。

建物は寺院というより流造(ながれつくり)の変形の神社建築に近い。崖の急な斜面に長い柱を立ててその上に乗っている。
建てられた時期、当初の姿、発願者など数々の謎に包まれていて、解明されていないことも多い。
唯一つ確実なのはとても美しいということだ。

古寺巡礼で有名な写真家、土門拳(どもんけん)は
「日本第一の名建築は何かと問われれば、わたしは躊躇なく三仏寺投入堂を真先に挙げる。」
と、絶賛している。
「奈良、京都と古寺巡礼をつづけて、数十の名建築を見てきたが、投入堂のような軽快優美な日本的な美しさは、ついに三仏寺投入堂以外には求められなかった。」
「投入堂は本当に美しい。その建築美は日本一だ。」
簡素な素木造の投入堂は見飽きることがない、とも書いている。
もう手放しの賞賛ぶりだ。

確かに、初めてこの眼で見た時には感動した。日本一の建築美と断言できるほどの審美眼は持ってないが、それでも最高の建物だと思う。スッキリと建つその姿は清清しく高潔で、個人的にも日本建築の傑作と信じている。

それ程気に入っていれば登って間近で見ればいいのだが、今日は体力より時間と気力がない。
やはり、土門拳は
「また撮影の必要が起これば兎に角、三徳山の険阻艱難を思うと、二度と行きたいとは思わない。」
とも書いている。

登山口から投入堂まで標高差300m程で距離も700m程度しかないが往復で1時間半はかかる。途中にはやはり懸崖造のお堂が急な崖上に点在しているので、それらをゆっくり見学しながらだと2時間は十分必要だ。
さらに、時間以上に問題なのは難路だということだ。
途中には木の根をつかみながらよじ登る場所や、鎖を頼りする所などあり、両側が崖となった細い場所もある。それなりに覚悟して登らなければいけない。
本格的な登山経験は必要ないが、ちょっと裏山の遊歩道を散歩という訳にはいなかいのだ。靴は底に溝がなければ用意された草履に履き替えさせられる。もちろんスカートでは入山は許可されない。

数年前「日本一危険な国宝鑑賞」というキャッチコピーで投入堂の観光ポスターが作られたが、これは誇張ではない。
毎年とはいわないが数年に一度は滑落事故が起きて、その内の何人かは命を落としている。
前回登った時には、下山すると本堂周辺が慌しくなっていた。男性が滑落したらしいということで救助隊が組織されるところだったのだ。結局そのかたは亡くなられた。
本当に日本一危険な国宝鑑賞なのだ。
もっとも、この刺激的なキャッチコピーのおかげで有名になり登山客が増えたことも確かだ。

多少の危険があっても登って鑑賞する価値は十分にある。
所詮、ここの遥拝所から眺めても投入堂の真の美しさは伝わらないからだ。登って直接見る投入堂と遥拝所から遠望する投入堂は全く別物といってもいい。極端ないいかただが、天と地ほどの差がある。それ程に受ける感動と印象が違うのだ。

登って眺める「投入堂は本当に美しい。」

注)写真ではかんじんの投入堂が見えてません。写真奥の薄く霞んだ山の真ん中あたりにあるのだが。

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○第三十一番、三徳山、三佛寺 (平成19年5月26日)

今日の予定は倉吉(くらよし)周辺の二ヶ寺しかないし、もうすでに長谷寺は打ったのでかなり道草をしている。寄り道ばかりではきりがないので、そろそろ三佛寺へ向かうことにする。

再び国道179号線に戻って倉吉市外を抜けて中国山地方向へ向かう。途中で県道21号鳥取鹿野倉吉線に入り三朝(みささ)を目指す。これは通称、鹿野街道(しかの)と呼ばれることが多いが旧山陰道と考えられている。道が海から離れた山側を通るのは古い街道には良くあることだ。鳥取倉吉間も例外ではなく海岸沿いを通る今の国道9号線とは違ってかなり山の中を通っていたらしい。

三朝温泉を越えると谷は徐々に深くなる。道路を跨ぐ三徳山(みとくさん)の大鳥居を過ぎるとほどなく門前に到着。

三佛寺(さんぶつじ)は中国地方を代表する修験道の寺として有名だ。地元では寺の名前でなく山号の三徳山と呼ばれることが多い。
古くは鳥取藩より寺領を受けるなど大きな勢力を誇り多くの堂宇があったらしいが、今はかなり寂れた山寺になっている。堂舎38、寺3千軒、寺領1万町歩、3千石を領していたと解説されている。少しオーバーな気がするが、昔日の面影がないのは確かだろう。

山の中の田舎寺にしては駐車している数が多い。豆腐と精進料理が有名なのだが、食事客の数以上の人が次々と姿を見せる。しかもその多くがハイキングの格好をしている。奥の院の投入堂(なげいれどう)を目的に来ているのだ。
この寺は近年訪れるたびに観光客が多くなっている気がする。

入山料を払う窓口で投入堂へまで行くかどうか受付の若者が訊ねては、靴の底に溝があるかどうか確認している。投入堂へはかなりの悪路でちょっとした登山になるからだ。滑落事故もある。
以前はこんな注意はなかった。観光客が増えているのだ。その分、事故も増えているのだろう。

納経の受付も入山窓口で行う。朱印帳はここで渡しておいて帰りに受け取るシステムとなっている。投入堂まで行きます、という人は次々と来るのだが、朱印帳を差し出す人はいない。

左右に今も残る僧坊を見ながら石段を登る。真っ直ぐに登りきるとそこが本堂前。
本堂は宝形造に唐破風付きで小さくはないが資料による以前の寺勢から考えると小ぶりだ。
堂内では左右に仁王が迎えてくれる。仁王門がなくなったのでしかたなく引っ越してきたのだろう。寺勢の衰えた寺ではよくある。

観音霊場の札所なのだが、本来は修験道の山岳寺院なので観音信仰が主体ではない。
創建ははっきりしていないが、縁起によると修験道の開祖の役小角(えんのおづぬ)、つまり役行者(えんのぎょうじゃ)が開いたことになっている。
役行者が「仏教有縁の地にこそ落ちぞ(仏教に縁のあるところに落ちるように)」と蓮の華を投げたところ花びらが三つに別れ、奈良の吉野山と四国の石鎚山とこの三徳山に落ちたという。そこで慶雲3年(706)、子守権現、勝手権現、蔵王権現の三所権現を祀ったのが始めとされる。
さらに、嘉祥2年(849)、慈覚大師円仁(じかくたいしえんにん)が、釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来の三仏を安置して「浄土院美徳山三佛寺」と号したと記されている。つまりこの時から名前が三佛寺になったというのだ。

役行者や円仁の話が本当かどうかはともかく、この寺が修験道の聖地であり後に天台宗と結びついたことがよくわかる。

本堂の裏に投入堂への入山口がある。
投入堂は魅力的で個人的にも本当に好きな建物なのだが今日は登る予定にしてない。
注意すると本堂の前から本堂屋根の遥か上、山の中腹、木々の間に小さく地蔵堂(じぞうどう)が見えている。奥の院の投入堂はさらにその先だ。

ほとんどの人が本堂を通り過ぎて入山口へ向かって行く。中には本堂に向かって手すら合わせない人もいる。単なるレジャーでも投入堂観光でも軽登山でもいいが、信仰の山なのだから、登らせて頂きますくらいの気持ちはあってもいいと思うのだが。

宝物館に足を運ぶ。誰もいない。ここも本堂と同じく登山者とは無縁ようだ。
中にはいくつか狛犬が置かれている。投入堂も建物としては寺院建築でなく神社形式で、神仏習合をよく表している。修験道は元々神仏習合の要素が強い。
僧形坐像もあるが、ひょとすると神像として製作されたものもあるかも知れないなどと勝手なことを思いながら見て回る。

宝物館での一番の見所は蔵王権現(ざおうごんげん)の数々だろう。蔵王権現はもちろん役行者が修行中に感得したとされる仏で修験道で最も重要な仏だ。もちろん役行者創設の修験道の根本道場である吉野の金峯山寺(きんぶせんじ)の本尊となっている。
像容は一般的には忿怒相(ふんぬそう)で右足を上げて左足で立ち、右手は天に向けて挙げて左手は剣印を結び腰にあてる。挙げた右手は三鈷杵(さんこしょ)を持つこともある。
ここには、両足をそろえて立つものや、通常とは反対の左足と左手の方を挙げるものなど、通例でない形式も並んでいて興味深い。蔵王権現は日本で生まれた仏なので形が決まるまで様々な姿勢があったことが窺われる。大体に稚拙な感じのする田舎風の像で地方の仏師が彫ったと思われるのも楽しい。

一番中心には国の重文、典型的な蔵王権現立像が安置されている。これはとても洗練された像だ。いわば鄙にも稀な都ぶりといった印象を受ける。
実は観光客が続々と目指す投入堂の本尊がこの蔵王権現立像で、他の蔵王権現と一緒に安置されているのだ。投入堂での安置が難しくなってから宝物館に移されている。
山を登ってお堂は見学するが、その本尊は拝観しようとしないのは片手落ちだろう。この宝物館は料金が必要なわけでもない。入って見て損はない場所だ。

波波伎神社

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○波波伎神社 (平成19年5月26日)

倉吉(くらよし)から国道179号線を国道9号線方面へ向かって走り、JR山陰本線の線路を越えたところで右の旧国道へ道をとる。土地鑑があるのでそれが以前の国道だと知っているが今ではその面影はない。
自動車学校の前を福庭(ふくば)という集落へ入るのだが、案内がない。新しい住宅の立ち並ぶ一角に目立つのは新興宗教の巨大な朱塗りの建物だ。
目指す神社は古くからの集落にあるはずなので、村の奥に入れる道を探しながら走る。いつもの事ながら、長閑な集落の細い道をバイクで走るのは排気音が気になる。どうしてもバイクは車より騒々しいのだ。

試した3本目の道でようやく見つけ出した。
波波伎神社(ははき)は今回の倉吉周辺の札所めぐりの寄り道で唯一訪ねたことのない場所だ。

「波波伎」というのは「伯耆(ほうき)」と同じであるとされる。字は少し違うが古事記にも「伯耆」のことは「伯伎」と記されている。
つまり伯耆国造(くにのみやつこ)が祀っていた神社と考えられている。

後日、検索したところによると祭神は事代主神(ことしろぬし)。
記紀で出雲の国譲りの際に事代主神は青柴垣(あおしばがき)に籠ったが、社伝によるとそれがこの宮だという。さらに事代主神が国作りのでこの地へ巡幸した時に上陸したのが「渡上の地」(ワタラガヒの地)として社の西800mほどの場所にあるという。これはどこなのか知ることが出来なかった。

伯耆国と国造にとって大変重要な社のようだが、ここで妙なことに気がついた。
伯耆国造の奉じる社であるにも関わらず、伯耆二宮だ。一宮ではない。それすらも近年になって氏子の社格昇格運動で伯耆二宮と称するようになっただけらしい。つまりそれ以前は二宮ですらなかったのだ。
一般には伯耆国は、一宮は倭文神社(しどり)で二宮は大神山神社(おおがみやま)とされる。それに比べてここの神社はかなり格下の扱いを受けている。

伯耆国造の実態はよくわかってないらしい。しかし、この波波伎神社の社格を考えると、ここを祀っていた一族は伯耆国全体に影響力を与えるほどの力は持ってなかったのではないかと思われる。伯耆は多くの豪族がそれぞれかなり強力に各地に勢力を張る、いわば群雄割拠ともいう状態だったのかも知れない。

参道正面にある説明板で社叢が国指定の天然記念物に指定されていることを知る。
約1.5haにスダジイの巨木のほか20m以上のタブノキを混じる照葉樹林とのことだ。貴重なものらしいが樹木の知識がないので説明を読んでもさっぱりわからない。植物関係の記念物は全く猫に小判状態だ。

参道を登って境内前の鳥居に着くと周囲は薄暗い森になる。確かに社叢は古い。正面石段脇の巨木は目通りが4-5mもありそうだ。樹齢は大変なものだろう。樹木の種類は区別がつかなくても大きさは見たままなのでわかりやすい。さすがは天然記念物といったところか。

境内と接するように福庭古墳群がある。森の中を少し歩くとスダジイの巨木の隣に開口した石室の古墳が見える。

暗く口のあいた石室はどことなく薄ら寒く気持ちが良いものではない。周りが明るければ別なのだろうが森が深くて薄暗いのがいけない。
横のスダジイが祀られていて祭祀場となっているのも、石室に葬られていた人の鎮魂のような気すらしてくる。

石室自体は2m以上の一枚岩の天井を持つなどかなり立派なものだ。一部には赤色顔料が残っているということなので古墳時代後期の有力者のものと考えられる。
ここは古墳群のはずなので境内裏に広がる森の中のこんもりとした高なりは全部古墳なのかも知れない。
神社はこの古墳群を造った豪族の奥津城(おくつき)として創始されたものではないだろうか。少なくとも神社と古墳群が全く無関係とは考え難い。

三間社流造の本殿と入母屋唐破風付き拝殿の周りは鬱蒼とした森で鳥の鳴き声しか聞こえない。
摂社は多く歴史的な古さを感じる。しかし、残念ながら、神社そのものに関した由来書は見当たらなかった。

参道の隣に寺がある。立派な本堂と庫裏で本堂は神社社叢をバックにして堂々と建つのが神社を従えているようだ。
場所から考えて神宮寺だったことを窺わせる。

庫裏の車庫にはワーゲンのゴルフが停まっている。建物も立派で新しく、先ほど廻った打吹の長谷寺とかなり違う。資金の豊かな寺とそうでない寺。僧侶の本来の役割というものを考えると複雑な気持ちだ。それとも、僧侶に清貧を期待するのは今の時代では酷なことなのだろうか。

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