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いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

中国観音霊場(第10回)

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打吹公園

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○打吹公園 (平成19年5月26日)

第三十番、打吹山、長谷寺。寺は文字通り打吹山(うつぶきやま)の中腹に建っていた。
その打吹山は倉吉(くらよし)のシンボルで標高204m、戦国時代には城が築かれていた。山頂の城址まで遊歩道が伸びている。
この打吹山には天女の羽衣伝説がある。

昔、この山の麓に天女が舞い降りて羽衣を近くの枝にかけ水浴びをしていた。それを見ていた農夫が羽衣を奪ってしまい天女は天に帰れなくなる。
しかたなく天女は農夫の妻となり、やがて二人の娘が生まれた。
何年か後のある日、偶然に天女は農夫が隠していた羽衣を見つけてしまう。そして、子どもたちを不憫に思いながらも天に帰っていった。
残された子どもたちは母を慕い母が伎楽(ぎがく)が好きだったことを思い、毎晩この山に登って鼓を打ち笛を吹いて母を呼び続けたが、ついに母は帰って来なかった。
鼓を打ち笛を吹きならした山ということで打吹山と呼ばれるようになったと伝えられる。

全国に羽衣伝説は点在しているがどれも話の筋は似たり寄ったりだ。ここでも例外ではない。ただ、後日談に各地のバリエーションがある。打吹山の話は子供が母を慕うという少し哀れで涙を誘う最後になっている。

ちなみに天女が舞い降りた地はここではなく6-7km東の、その名も羽衣石(うえし)という所だという説もある。そこでは羽衣を木の枝にかけたのではなく大きな石の上に置いたことになっているので、羽衣石という地名になったとされる。

その打吹山の麓をなぞるように市役所前の道を走ってゆくと、すぐに打吹公園がある。城址を公園としたものだ。
「さくら名所百選」にも選ばれていて県内有数の花見の名所となっている。ツツジも有名だ。今は桜もツツジも既に季節外れなので人は少ない。

公園内には動物園といっていいのかどうか、小規模の動物舎があるが、特に目玉となる動物がいるわけでもなく時間が潰せるのはサル山くらいだ。
しかし、わざわざサルを見に来たわけではない。

うろうろと探し公園内の一番奥に大江神社を見つけた。今まで公園には何度も来ているし打吹山の遊歩道も歩いたことがある。しかし、大江神社の存在を知ったのは最近のことだ。それを思い出して寄り道に来たのだ。

公園の奥なので今までここまで来たことはなかった。植えられているのもモミジで秋には綺麗そうだが桜もツツジもないので花見の時にも近づいてないのだ。

大江神社とは光格天皇(こうかく)の生母である大江磐代(おおえのいわしろ)の君を祀った神社で大正2年(1913)造営されたが荒れ放題になって傷みが激しかったのを、地元の有志を中心に平成11年(1999)に整えられたと記されている。光格天皇は明治天皇の曽祖父にあたる。

拝殿に素木の一間社流造の本殿。もちろん建物は整備されて年数が経ってないので新しい。そのため残念ながら歴史的雰囲気は皆無だ。どこでも新しい社は靖国神社風で国家神道が連想させられ何となく権威的で冷たく感じられる。一種近寄り難い雰囲気が出てしまい、居心地が悪い。
拝殿前には賽銭箱を置くための台があるが、かんじんの賽銭箱がない。境内は掃除されているが、公園の一番奥のここは多分訪れる人は稀だ。それが賽銭箱の撤去された理由なのだろう。少し侘しい。何だか意味もなく少し身近に感じられた。

大江磐代は倉吉の大鉄屋の岩室りんの娘で市内の湊町で生まれた。父は倉吉荒尾家の家臣の岩室常右衛門。医師になるため浪人となった父とともに上京したとき大江家の養女となって成子内親王(しげこないしんのう)に仕えた。内親王が閑院宮典仁親王(かんいんのみやすけひと)に嫁いだ時その侍女となって付き従って行ったが、その後、親王の寵愛を受けて後の光格天皇を生んだとされる。
父の出身の大鉄屋は大阪の豪商淀屋の係累らしいし、母のりんも商家の出らしいから町娘から天皇生母となったことになる。

光格天皇の即位の事情も複雑だ。
幼名を祐宮(さちのみや)、はじめ師仁(もろひと)、後に兼仁(ともひと)に改めている。閑院宮家の皇子で当時の後桃園天皇(ごももぞの)からは傍流だったため、生まれてすぐに聖護院門主(しょうごいん)に預けられ、出家し聖護院門跡を継ぐ予定だった。ところが後桃園天皇は病気がちで安永8年(1779)に22歳で崩御されたがその時に皇子がいなかったため、急遽白羽の矢が立ち即位することになる。

江戸時代はあまり知識がないが、調べてみると、杉田玄白が解体新書を著し、平賀源内がエレキテルを作り、田沼意次が権勢を欲しいままにしていた頃になる。

しかし、後桃園天皇と兼仁親王(光格天皇)はかなり遠縁になる。兼仁親王が天皇につながるのは曽祖父、つまり「ひいおじいさん」の東山天皇(ひがしやま)まで溯らなければならない。後桃園天皇はその東山天皇の玄孫(やしゃご)、「ひいひい孫」にあたる。皇位継承するお互いは7親等も離れていることになる。相当遠い。普通の家なら親戚の内に入らないし、もちろん遺産相続にも関係ない。皇室でもなければお互いが知ることもないような間柄だ。
これだけ遠縁だと当の本人もまさか天皇となるとは思ってもいなかったに違いない。

あまりに天皇直系から離れていたということだろうか、急遽、即位の前日に危篤の後桃園天皇の養子に迎えられての即位となった。実際には既に後桃園天皇は崩御されていたが空位を避けるために発表されなかったという事情があるらしい。

光格天皇の后妃は先の天皇である後桃園天皇のただ一人の皇女、欣子内親王(よしこ)だ。つまり嫡流の皇女を皇后としている。皇后だけでも直系に近い女性をということだろう。このあたりは皇統の事情が十分に察せられる。

町人の娘が、親王の侍女となって宮中に入り、お手つきとなって生まれた子供が天皇に即位して天皇生母となる。そんな光格天皇の母、大江磐代。彼女の人生は波乱万丈だ。
何だか急に親しみが感じられるようになった。幸か不幸か、歴史に翻弄された女性だったようだ。

余談だがもう少し調べると更に興味深い事実があった。
光格天皇の即位から30年ほど前、桜町天皇(さくらまち)が譲位して桃園天皇(ももぞの)が即位したのだが、桃園天皇は22歳の若さで亡くなられてしまう。この時に後の後桃園天皇はまだ幼少だということで、中継ぎに桃園天皇の姉が後桜町天皇として即位している。この後桜町天皇は今のところ日本史最後の女帝として良く知られている。
その後予定通り後桜町天皇の譲位を受けて後桃園天皇が即位する。そして、後桃園天皇が皇子をもうけないまま亡くなられて光格天皇へと皇位は受け継がれていくわけだ。
中継ぎの女帝をたてての皇位継承だったのだが、結局は傍系へと移ってしまう。この時期は皇統維持がかなり危うかったようだ。

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○第三十番、打吹山、長谷寺 (平成19年5月26日)

伯耆国庁跡(ほうきこくちょう)から元来た道をバックして県道へ戻り小鴨橋を渡って倉吉市街(くらよし)へ入ったところで打吹山(うつぶきやま)の麓へ向かって右折してしばらく進むと長谷寺の駐車場へ着く。
車は一台も停まっていない。

門柱がありそこからすぐに石段となる。山道のような参道はずっと上へと続いている。
本堂は「ここより先300m」の表示。門柱のそばに竹の杖が置かれているのがこの先の石段の数を表していているようで少々気になる。
しかし、「イノシシが出ます」という注意書きのほうがもっと気になる。

実際のところ、どの程度の登山なのかは知っているので、杖を横目に登り始める。運動不足の身には少々足に堪えるが身構える程の参道ではない。ただし、息が切れるのは確実だ。
距離は300mほどなのだが、高度を100m近く稼がねばならないからだ。

入り口には地蔵堂、参道途中には不動堂、その上には草むらの広場があり僧坊か堂宇の跡で往事の寺勢を偲ばせる。

予想通り息を切らして本堂の下に着く。見上げると崖に張り付くように建てられた懸造(かけつくり)の観音堂がある。
仁王門をくぐると狛犬が置かれていて神仏習合の名残を留めている。
この寺は奉納された絵馬が有名だ。絵馬というのも通常は神社との結びつきが深い。これも神仏習合と関係していたのだろう。
絵馬の中には、毎夜絵馬から抜け出して城下の畑などを荒らして困っていたのを、僧が手綱を書き加えておとなしくさせたという伝説の馬の絵があるらしい。

本堂内の厨子は国の重文に指定されている。禅宗様(ぜんしゅうよう)の桁行一間梁間一間入母屋造りで柿葺(こけらぶき)の大型厨子とのことだが、残念ながら暗くてよく見えない。
厨子の扉は閉まっているので本尊の十一面観音もお目にかかれない。

本尊の両脇侍に不動明王(ふどうみょうおう)と毘沙門天(びしゃもんてん)が安置されている。珍しい組み合わせだ。
内陣の左には日光月光を伴った薬師三尊がある。写真が飾られているが女神形のようなお薬師さんで神像のような姿なのも興味深い。

老年男性が三々五々と途切れることなくやって来る。急に賑やかになった。
この寺の建つ山、打吹山は旧打吹城址で、すぐ近くの打吹公園などを結ぶ遊歩道が整備されている。その道を歩くハイキングの軍団のようだ。ここでお昼の休憩をとるらしい。
本堂でしばらく休憩をしようと思っていたが、人で溢れたためあきらめた。

鐘楼堂は改修中なのだが寄付が募られている。募金の趣意書からすると資金集めがままならないようだ。檀家が御布施に熱心でないのか住職が集金にあまり関心がないのかわからないが、寺全体を眺めてもそれほど資金が潤沢には見えない。庫裏も贅沢な作りになっていない。何か気の毒になってくる。
豪邸と呼ぶような庫裏のある寺より、生活に困っている感じのするお寺に好感が持てるのはひがみ根性なのか、浄財や布施に対する認識が間違っているのか。それとも単に困窮している者への同情なのだろうか。

庫裏の片隅にある納経所ではCDで御詠歌が流されている。札所に御詠歌は良く似合う。
遅れて老婦人が一人納経所へやって来たが特に朱印を頂くわけでもないようだ。仁王門から出たところですれ違ったので観音堂へお参りに行ったのだろうが、ハイキング集団で騒々しく長居しづらかったのかも知れない。
奉納絵馬は申し出れば観覧出来るのだが何となく遠慮してしまった。

庫裏の裏に墓地がありその奥に荒尾氏の墓がある。荒尾氏は鳥取池田藩の家老で江戸時代末まで倉吉を領した。荒尾氏には米子城代(よなご)だった別の系列もある。池田家の藩政を執る中心的な家老だったらしい。

2mほどの長方形の板状な石碑のような墓石が基壇に乗って8基ほど整然と並んでいる。割と地味だ。墓石の表面は平らにしてあるが裏は自然な切り出したときそのままの状態だ。
何だか石版で表現されたモニュメントのようだ。まあ、墓自体がモニュメントなのでその通りなのだが、芸術作品のような感じがする。
ちなみに参道途中に荒尾氏の墓への小道があるが、人はあまり通ってないし、山の斜面を一気に登らねばならないので、庫裏の裏から回ったほうがよい。

駐車場に帰ると広島ナンバーのベンツと岡山ナンバーのクラウンが停まっている。途中の参道ですれ違った高年夫婦のものだろう。悠々自適の引退後の巡礼ということか。
高級車と巡礼は似合わないと思うのは、やはりひがみ根性なのか、それとも偏見だろうか。

国庁裏神社

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○国庁裏神社 (平成19年5月26日)

伯耆国分寺跡の北縁にある細い農道を西に回りこむと広い草むらの空間がある。その真ん中にこんもりと10本ほどある杉林が目印だが他には何もない。
そこが伯耆国庁跡(ほうき)だ。
単なる草原にぽつんと林があるのは、北海道富良野のケンメリの木とかセブンスターの木などを少し思い出させる光景だ。

法華寺畑遺跡(ほっけじばた)でもそうだったが、国分寺の方角以外は周辺が開けていて良く見渡せ、このあたりが小高い場所であることがわかる。古代伯耆の中心地だった場所だ。
古代律令制時代の国府の場所は今の市街地とは全然違うことが少なくない。中心地というよりどちらかといえば郊外の田舎になっていることがよくある。現在の主要都市は戦国時代以降の城下町を中心に発達していることが多いため軍略上の防備や要衝となる場所に作られているが、国府はなだらかないわゆる神奈備の山の近くの平地にあることが多く、都市計画そのものが全く違うのがその理由だろう。
戦を考えずに地形だけで考えるならば国府の場所は相当に良い場所が多い気がする。

発掘によってこの国府遺跡は200-300m四方、中心部は溝で境された90m四方ほどとされる。今はそれを偲ぶものは全く眼に出来ない。
小さな祠でもあるかと杉林まで草原を歩いて行ってみたが何もなかった。しかし、この杉林の存在は気になる。どうしてここだけ草むらの中に残っているのだろうか。

国庁跡から東を眺めると国分寺跡との間に鬱蒼とした森が広がっている。そこに、国庁裏神社という、実にそのままの名前の神社がある。しかし、どうやら読み方はこくちょうのうらではなく「こくちょうのうち」と読むらしい。
国庁跡側からは入りやすいのだが、国分寺跡側にある集落からの本来の参道としての道は細く、地元民でなければわからない。

思いの他大きな神社だ。鳥居そばのソメイヨシノはかなりの大木で春にはさぞかし見事だろうと思う。

場所が場所だけに伯耆の総社ではないかと思ったが、やはりそうらしい。江戸時代に惣社大明神と呼ばれていたという記事があることを知った。

広い境内、隋神門、拝殿と揃い、一辺4mはある大社造の本殿。立派なものだ。
建物は新しいものなのでそれ程の時代を感じない。境内の端に灯篭や狛犬の古いものがまとめて並べて置いてあり、それらがわずかに歴史を感じさせる。
一番歴史の重みを感じるのは周囲の暗く深い森だ。伯耆国庁の森という保存林で巨木も多く見受けられる。

伯耆国分寺跡

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○伯耆国分寺跡 (平成19年5月26日)

昨日から少し季節外れの黄砂の中、平成19年5月26日、大山(だいせん)へ向かう。

本来ならここで第二十九番札所、大山寺(だいせんじ)のはずなのだが、この巡礼では最初に打っている。それなら大山寺の関連として、大山寺と明治の神仏分離まで一体だった大神山神社(おおがみやま)奥宮かその里宮のほうの大神山神社に参るのが正しい寄り道だろう。
しかし、向かう先の大山は大山でも大山寺でも大神山神社でもない。ただ次の札所へ向かうのに大山を通ってツーリングを兼ねようというのだ。東へ向かうのに山陰を代表するツーリングルートである大山を走らない手はない。

実は、今回、大神山神社に立ち寄らないのは、大山寺の関連社を全て廻ると時間がかかりすぎるというのがその理由だ。時間的に立ち寄っていると次の札所に一日で廻れないというのが正しい。

米子自動車道の溝口IC近くの伯耆溝口(ほうきみぞくち)から県道45号倉吉江府溝口線(くらよしこうふみぞくち)に入り大山中腹の枡水(ますみず)まで登り、そのまま通称、大山環状道路と呼ばれる県道を進んで鏡ヶ成(かがみがなる)へと至り、そこから関金(せきがね)へ抜ける。

大山周辺の道はツーリングやドライビングには最適で、いつ走っても気持ちが良い。特にこの県道45号線はバイクツーリングの定番道路だ。シーズンの昼間には車も多いのだが、朝早いので交通量もほとんどなく貸し切り状態で快走する。
道の両脇は初夏のブナ林の緑が目に眩しい。

国道313号線に合流した後、倉吉市街手前で県道34号線を西に向かい案内を頼りに寄り道する。
伯耆国分寺跡。ここは札所と何か関係があるのか。全然無関係だ。

島根県東部と鳥取県は普段からあちらこちら走っていて、主だった神社仏閣、名所旧跡は既にかなり見学している。そのためこの中国観音霊場巡りで出雲(いずも)からここのところ道草が極端に減ってしまった。
霊場札所は残すところ鳥取県中東部のみ。このまま、札所だけを廻るのも何となくもったいないという気もして、最近足を向けてない少し懐かしいところを中心に寄り道をすることにした。その手始めがここなのだ。

説明板によると寺域は東西180m、南北160mほど。現在、その半分以上、中心伽藍をほぼ含む地域が公園として整備されている。それにしてもこれが境内だったというのは広い。さすがに国の威信をかけて全国に造営された国分寺だけのことはある。

伽藍配置は少々変わっている。南北に一直線に南門、金堂、講堂と並ぶ。そして、何故か塔が南門と講堂の中間辺りの東のはずれに建っている。回廊は金堂のみを囲むようにしか作られていないようだ。しかも、金堂と講堂は接近しすぎている。全体の配置バランスが非常に悪い。
ここは完全な平地なので地形上の制約はない。一直線に、門、塔、金堂、講堂と配置して全体を回廊で囲む、四天王寺形式の伽藍配置とすることが十分に可能だったはずなのに、どうしてこんな妙な配置にしたのだろう。さっぱりわからない。

金堂が講堂に近すぎるため、金堂と南門の間は不必要に広くなる。伽藍配置図を眺めいてて想像をめぐらせてみた。奈良興福寺(こうふくじ)のように三金堂の計画で更に門と金堂の間の東西に金堂を建てる予定だったのではないか。それなら敷地のバランスからは丁度良いように思われる。三金堂にすると回廊の位置は邪魔になるが、中金堂を建てた後残りの東西金堂の計画は中止となり、体裁のためにとりあえず回廊を付けたのではないだろうか。

今は基壇と回廊を示す少し高く盛り上げてある場所に礎石跡を示すもの以外何もない。手入れが行き届き綺麗に掃除された芝生広場といった風景で、余計なものの何もないのがむしろ清々しささえ感じさせる。
最近は史跡といえばすぐに復元されるが、史跡公園は復元さえすれば良いというものでもないだろう。前に来たときには老人たちが芝生でゲートボールをやっていた。そんな普通の公園としての使い方も良い気がする。
もちろん、何もないのは予算の関係なのは十分承知はしているが。

左の奥に進むと古い1m足らずの小ぶりの五輪塔が沢山置かれていた。いわれも何もわからないが、中には赤崎塔(あかさきとう)と呼ばれる特殊な形式のものが混じっているところを見ると国分寺と関係があるほど古くはなさそうだ。記録によれば伯耆国分寺と国分尼寺は平安時代中期頃に消失している。
赤崎塔というのはこの近くの赤崎という場所で見られるもので、宝塔の屋根を宝篋印塔(ほうきょういんとう)の笠に替えたようなものだ。独特の形で他では見られない。主に鎌倉時代のものと考えられているので、ここの五輪塔群も多分その頃だろう。

国分寺跡のすぐ北には法華寺畑遺跡(ほっけじはた)があり、こちらも綺麗に整備されている。一面芝で覆われ、ここには建物跡の柱などを示す円柱が整然と並ぶ。門も一部が復元されている。

説明の付いた1/100復元模型がある。それによると敷地は約150m四方の塀で囲まれ東西南北の四ヶ所に門がある。中は空間が広い。建物の占める割合が妙に少ないのだ。南北線上の中央より北に並ぶ小さな3棟が主要構造で、後は隅に数棟の建物があるだけだ。全体としては何か広場といった感じだ。

目的は不明だと記されている。国庁に附属する官衙の一部とも、国分尼寺とも、また当初は役所として使用され、後に国分尼寺に転用されたとも推定されているが、はっきりしないらしい。

聖武天皇(しょうむ)は天平13年(741)全国に国分寺と国分尼寺の建立を命じる。それを受けて一般には国府近くに二つの寺が建てられた。その総本山は奈良の東大寺と法華寺で総国分寺と総国分尼寺とされた。
正式には国分寺は金光明四天王護国之寺(こんこうみょう)、国分尼寺は法華滅罪之寺(ほっけめつざい)という。これから国分尼寺の多くは法華寺と呼ばれるようになる。

法華寺畑遺跡、この名前と国分寺に隣接していることからは国分尼寺跡と考えたいが、どう見ても寺院の堂宇ではないし伽藍配置でもない。

実は、国分寺と国分尼寺の造営の詔が出された後も地方での建立や整備はスムーズに進んでなかったようで、国司への督促や怠慢を戒める書類が次々と出されているらしい。確かに莫大な費用のかかる寺の造営など迷惑だと感じた地方の国府や国司は沢山いただろう。
建設途中での規模の縮小や未完成での中止、その他設計変更が頻出したと思われる。
ここ伯耆では国分尼寺は計画はされたものの建設に着工されることはなく、苦肉の策として役所の一部をそのまま寺として利用したのではないだろうか。
国分寺跡では三金堂伽藍を途中で中止して予定変更して完成ということにしてしまったと想像したが、それも案外当たっているかも知れない。

建物配置はほぼ南北に向いている。北にはなだらかで少し神奈備た山が横たわる。四天王寺山というらしい。このような位置関係を考えると、ひょっとするとこの遺跡は国府の一部には違いないが、官衙ではなく祭祀の場だったかも知れない。空間が広くとってあるのも儀式を行うためか。それなら、そのまま国分尼寺に使われてもよさそうだ。

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