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いつまでも若葉な中年ライダーの古社寺旧跡紀行

中国観音霊場(第11回)

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大雲院

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○第三十三番、乾向山、大雲院 (平成19年5月27日)

今日、国府(こくふ)から摩尼山(まにさん)へ行く途中に通った県道31号線に戻ると程なく道端に見える。直線距離で数キロほどだ。午前中に前を通過しているのだが、最後の札所ということで打たないでいた。
今回の中国観音霊場は特に順番どおりに打っているわけではないので走る道順でも良かったのだが、三十三番結願の寺ということになるので少しこだわってみたくなったからだ。

道路沿いに塀などもなく開放的な境内の寺で町の中でよく見かける特別に変わった所はない寺だ。

鐘楼前は広く空き地になっていて何かの建物の跡と思われる。今は駐車場として使われているようだ。残念ながら昔に比べて規模が縮小しているのだろう。
大雲院(だいういん)は明治までは樗谿神社(おおちだに)の別当だった。明治の神仏分離でこの場所に移転したという。先の観音院も藩主の祈願寺でやはり樗谿神社の別当の役割も担っていたらしい。寺が廃仏毀釈で受けたダメージはそのまま今につながっている。往時の姿は全く想像できない。

本堂へ向かう。扉は閉まっていて、「拝観希望200円」の札が出ている。どうやら本堂で御本尊を拝めるようだ。庫裏へ向かってみるが、どこにも納経所の表示が見当たらない。
玄関とそのまわりをうろつき、しかたなく再び本堂へ戻ると突然扉が開いた。人を感知して開く自動扉ではない。御住職が中から開けたのだ。
「どうぞ。」と、すすめられるので、遠慮なく上がらせて頂いた。

正面には阿弥陀三尊像(あみださんぞん)。堂の三方の壁に沿った外陣には西国三十三観音がずらりと並ぶ。荘厳な堂内だ。
本尊は阿弥陀如来なのだが外陣に安置されている観音像の最後にさらにもう一体、千手観音がおられて、それも本尊とされているらしい。それで観音霊場となっている。
千手観音立像は京都の清水寺形式という珍しい姿だ。42の手のうち2本を頭上にあげて組む。あまり見かけない。
ちなみに、京都清水寺の御本尊は33年毎に開扉される秘仏なので当分はお目にかかれない。前回は2000年だった。拝観に行った覚えがある。年齢的に、次の拝観は出来そうにない。

堂内には所々に葵の紋が見られる。徳川家康を祀る日光東照宮を勧請したのが樗谿神社で、その別当寺であった名残と思われる。

最後のお勤めをする。これが最後の般若心経だ。そして最後の納経をお願いする。
「四年かかって打ち終わりました。」
「それはそれは。(距離が)長いですからな。」と御住職。
何と満願のお札を頂いた。こんなものを頂いて朱印料だけでよかったのだろうか。

堂内の西国三十三観音はお砂踏みが出来るようになっているのでゆっくりと廻る。それぞれの札所の名前を見ながら西国も懐かしく思い出し、また廻ってもみるのも良いかなと思った。
ここは最後にしておいて本当に良かった。静かにゆっくりできる良いお寺だ。

打ち終わったことで、少しボーっと境内の木陰で休憩していると、また巡礼のバスが追いついてきた。ナンバーから福山からのツアーのようだ。四年間の中国観音霊場巡りで団体と遭遇したのは初めてだ。
中国観音霊場は知名度も低いので西国や四国と違ってそれほど巡礼者が多くない。落ち着いて廻ってみたい人には良い観音霊場だと思う。

打ち終わって満足というより少しの寂しさを感じる。何事も終わりはそんなものだ。
帰路はひたすら国道9号線を西へ向かう。最終日、254kmで旅の終わり。

観音院

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○第三十二番、補陀洛山、慈眼寺、観音院 (平成19年5月27日)

摩尼山(まに)を後にして来た道をバックする。ここまで来ていて鳥取(とっとり)の一番の名所、鳥取砂丘に寄らないというのは観光の王道を外すことになるが、全く足を伸ばす気はない。
砂丘はよく知っているので今は興味はないし、何よりこの暑さの中、砂丘を歩きたいとは思わないからだ。

再び鳥取市街に入る。国府(こくふ)から回って来ているので、実は、三十二番と三十三番は初めに打とうと思えば打てたのだ。しかし、さすがに最後くらいは順番通りにしたいと、敢えて通り過ぎてきた。
国道9号線から分かれた国道53号線は県庁前で直角に曲がるが、そのまま道なりに旧国道29号線を500mほど進むと、左手の山側にある樗谿神社(おおちだに)への交叉点がある。

樗谿神社は鳥取初代藩主、光仲(みつなか)が日光東照宮を勧請して建てた神社で、古くは因幡東照宮と呼ばれた。勧請した経緯はもちろん光仲の曽祖母が家康の娘にあたるからだ(第十一回、池田家墓所)。
藩主の氏寺のようなものなので明治になったときに一般の氏子がなかったため維持が大変だったらしい。隣接して整備された樗谿公園は今ではホタルの名所として市民に愛される場となっている。

樗谿公園への入り口のとなりの小さな交叉点に観音院案内板が立っている。入ってゆくと道が突き当たりになりそこに大きな寺があってと間違えそうになるが、札所はその隣だ。

桜並木の坂道の参道の奥に楼門が見える。趣のある風情だ。鳥取城のあった久松山(きゅうしょうざん)から続く山並みの麓の住宅街にひっそりと佇む様子はどこか雅な感じがする。元武家屋敷が立ち並ぶ場所だったからか。

境内は狭いがそれもかえって気持ちが良い。
残念ながら本尊は秘仏なので、代わりにといっては失礼だが庭園の拝観をお願いした。抹茶付きで600円。田舎にしては少々高い。

庫裏と一体となった書院の縁側に通された。眼前には広くはないが整えられた庭が迎えてくれる。国の名勝に指定されている庭ということだが、確かに美しい。
池を中心に配した池泉式庭園(ちせんしき)で山の斜面を利用しそのまま後ろの山並みを借景にしてあり、実際の広さより奥行きを感じさせる。背後の山から月の出を愛でれば風流なことこの上ない。一幅の絵画のようだ。

初代藩主の光仲が岡山から移封になったとき付き従ってきた僧が開いた寺だとされる。本尊の聖観音菩薩(しょうかんのん)は城のあった久松山の岩窟から見つかったもので、光仲は大変にこれを気に入って信仰したという。
以後、代々藩の祈願所となったらしいが、それが造園の動機の一つとなっているだろう。

池にぽつぽつと咲く蓮の花を眺めながら抹茶を頂き、のんびり庭を鑑賞する。まるで京都の寺にでもいるような気がしてくる。鳥取市内にこんなに落ち着く場所があったとは驚きだ。
縁側に座り吹いてくる風が気持ち良い。ただ一人ぽつんと座って雅な感じ楽しんでいたが、ぞろぞろと団体が入ってきた。どうやら摩尼寺から巡礼ツアーが追いついてきたようだ。
少々名残惜しいが、賑やかになってきたので退散する。

摩尼寺

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..特別霊場、喜見山、摩尼寺 (平成19年5月27日)

県道31号線を鳥取市街(とっとり)へ向かう。この辺りを走るのは久しぶりだったこともあり、うっかり曲がるべき交叉点を通り過ぎて完全に市街地に入ってしまった。
鳥取市の中心商店街道路の若桜街道(わかさ)を走ってビックリ。人通りがない。商店のシャッターが半分閉まっているというのは言い過ぎにせよあまりに閑散としている。とても繁華街とは呼べない。

アーケードや道路が新しく奇麗になっている分、人の姿のいないその通りは無機質で冷たく感じられ、一種廃墟な印象を受ける。主力店舗が郊外の大型店に移行したことを差し引いても、その寂れた様子には驚くばかりだ。
田舎の地方都市の行く末は真っ暗だということを再認識した。

市街の寂れ方に愕然としながら鳥取市内を通り過ぎて、旧国道9号線、現在の県道318号線を東へ曲がる。新しいバイパスとなった国道9号線と合流する交叉点は少々間違えやすいが、そこで、県道224号線を山に向かって谷を入ってゆく。

長閑な里山の合間を走ること3kmほどで摩尼寺(まに)の門前に到着する。
駐車場には中国観音のツアーバスが停まっていた。どうやら行く先にはこの団体が待ち受けていそうだ。いつもながら、巡礼集団に遭遇するのは気が重い。ツアー参加者はそれ程でもないのだが、どうにも好きになれないのがツアコンだ。彼らの行動は傍若無人でお寺が宗教施設であることを忘れているとしか思えない。要するに周囲への気配りが足りないのだ。しかし、考えてみれば先達ではないのだから仕方がないか、と少し諦めた。

両脇の茶屋を過ぎると長い石段が迎えてくれる。中国観音霊場で長い石段を登るのはこれが最後だ。ゆっくりと登る。かなり気温は上昇しているが、杉の老木に囲まれて木陰となっているのでありがたい。
石段途中で足の悪いおばあさんが、一段一段、杖と手すりを頼りに降りてくるのとすれ違う。あの足がでこれを登ったのだ。おかげがありそうだ。いや、是非おかげがあって欲しいと思う。

見上げていた仁王門にようやくたどり着くが、しかし、その先にもまだ石段は続く。下から本堂までは約300段。最後に屋敷の石垣のような石段を登り切るとようやく本堂前の境内に到着する。

境内は山の斜面につくられているので広くない。堂宇も多くない。正面に本堂と向かって右手のほうにある善光寺如来堂の二つが大きな建物だ。本尊は秘仏となっている。

ここは中国観音霊場の特別霊場。本尊が帝釈天(たいしゃくてん)だからだ。
創建は平安時代初期、慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)が唐から帰って来た際に、この山容が八葉の蓮花に似ていて、こここそ仏道の霊場と感じたことから開山したとされる。少し信じ難い。
創建に関しては別の伝説があり、個人的にはそちらの方が興味深い。
鳥取市の西に湖山(こやま)というところがある。昔、そこに湖山長者という富豪が住んでいたが子供がなく、神仏に祈願したところ女子を授かり大切に育てていた。
ところが娘が八歳になったとき突如姿が見えなくなり夫婦は手をつくて探したが見つからなかった。山の上から周囲を探していると海から龍神となった娘が舞い上がり、大岩の上に帝釈天となって降り立ち、「汝等の娘は帝釈天の化身なり、いまよりこの峰に鎮座して衆生を救う。広く国中に仏徳を知らしめよ。」と告げて消えた。
自分たちの娘が帝釈天であったことを知って感激した長者はそこに寺を建てたという。

背後の山の頂上付近に帝釈天出現地とされる立岩と呼ばれる巨岩があり、奥ノ院や本堂跡とされる場所などもあるらしいが、1kmほどの山道トレッキングになるようだ。
さすがに登る気にはならない。その上、どうやら現在は摩尼寺境内と奥の院参道の各所に設置されていた道標が何らかの事情で全て撤去されているとのこと。どうしてもというなら寺務所で尋ねるしかなさそうだが、今日のところは朱印を頂くだけで十分だ。

ところで、湖山長者の物語といえば地元ではもっとよく知られた話がある。
昔、湖山に広大な土地を持っていた長者がいた。長者の家では村人全員でその広大な田圃の田植えを一日で終わらせるしきたりなっていた。 ところがその年は夕方になっても終わらない。自分に出来ないことはないと慢心していた長者は、家宝の金の扇で沈みそうになっている太陽を招き戻したところ、日が戻って再び登り、その日のうちに田植えを終えることが出来た。
その夜、あたりを暴風雨が襲い、一夜明けると長者の田圃は一面全て大きな池に変わっていたという。それが、鳥取市の西にある湖山池だとされる。いわゆる人の傲慢を戒める話だ。
この湖山池の話と摩尼寺帝釈天の話では湖山長者の性格の描かれ方に相当の違いがあるのが面白い。

かなり昔のTVのトラベルミステリーで、鳥取に門跡尼寺を探して来る作品を見た。その時に門跡ではないが摩尼寺というのがあると、ここを訪れる場面があった。しかし、もちろんここは尼寺ではない。それ以前に門跡寺院がこんな田舎にあるはずもない。
多分、摩尼の「尼」という寺から尼寺を連想したのだろうが全然違う。摩尼というのは摩尼宝珠(まにほうじゅ)のことで如意宝珠(にょいほうじゅ)と同じだ。つまり願いを叶える玉という意味だ。知らない人に誤解を与えるかもしれない演出はちょっといただけないと思ったものだ。まあ、所詮安直なTVの2時間ドラマなのだからしょうがないのだが。

地元ではこの寺を摩尼寺と呼ぶ人は少ない。愛着を込めて「まにさん」と呼ぶ。

お勤めの後、境内が白衣の人で一杯にり急に賑やかになった。どうやら、駐車場で見かけた巡礼ツアーバスの団体が来たようだ。昼食が終わって登って来たのだろう。ここの門前の茶屋は精進料理で有名なのだ。
急いで納経所へ向かう。団体の納経が始まるとひどく待たされてしまうのだ。ツアーに参加している人はツアコンに任せてその間にお勤めや境内の散策をすればいいのだが、こちらはそうもいかない。

納経を済ませたがそこの老人はお姿を渡してくれない。お姿というのはそこの御本尊が描かれた小さなお札のことだ。納経とは別に頂ける。
「あのー。すみません。お姿は?」
「あ。お姿いりますか?」
意外そうな表情で渡してくれた。
目の前に積まれたツアーの納経を済ませるのに急いで執りかかろうとしていたようだが、いくらなんでも、それはないだろう。

池田家墓所

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○池田家墓所 (平成19年5月27日)

宇倍神社(うべ)から数百m住宅街の旧道を走ると池田家墓所への案内板が出ている。

アクセスの道も駐車場も整備されていて驚きだ。すっかり綺麗になっていて全然違う。未舗装の細い道で墓所もかなり荒れていた記憶しかないが、明るい史跡として完備されている。
前に来たのは何しろ今から30年以上昔のことだ。すっかり変わっていても当然だろう。

鳥取藩主池田家は戦国時代にも幕末にも派手な活躍はしてないのであまり有名ではない。
池田家が因幡(いなば)、伯耆(ほうき)の鳥取藩を治めることになったを経緯を調べてみると次のようになる。少々複雑だ。

池田家は元は織田家の家臣だったが、池田輝政(てるまさ)は関ケ原の戦いでは徳川方へついて姫路を与えられ、さらに一族で岡山、鳥取なども領するようになる。
孫の光政(みつまさ)は跡を継いだ時に幼少という理由で鳥取藩へ移封となった。
十数年後、岡山藩を光仲(みつなか)が継ぐことになったが3歳という幼少のため、山陽道の西のおさえの拠点である重要な岡山を統治するのは荷が重いと鳥取藩へ国替となった。この時に鳥取藩には当然光政がいたのだが、彼は岡山藩へ交代に移封になる。
この後、明治まで鳥取藩は光仲の家系が、岡山藩は光政の家系が治めた。そのため鳥取藩はこのときの光仲を初代をとする。

このあたりかなり細かな国替が行われている。跡継ぎがあまりに幼少だとお家取り潰し、改易などの憂き目にあうことが多かったが、それに比べると池田家はかなり厚遇されているようだ。その理由は池田輝政が徳川家康の娘の督姫(とくひめ)を娶り家康の娘婿となったことが大きいとされる。鳥取藩初代となった光仲はその子供の忠継(ただつぐ)の孫にあたる。

ここの墓所にはその鳥取池田家歴代全ての藩主の墓碑が並ぶ。明治になって亡くなった12代は多摩墓地らしいが。

モミジが多く植えられていて雑草も処理して手入れされており墓地というより公園のようだ。藩主以外にも、室等の墓碑と多くの石灯籠が並びその立派さに驚く。
さらに、瑞垣で囲まれた藩主墓は亀趺円頭型(きふえんとうがた)と呼ばれる堂々たるものだ。亀趺というのは要するに亀の形の台で、その上に墓碑が乗っている。第二十五番札所鰐淵寺(がくえんじ)で知ったように正確には亀ではないのだが、子供のときに来た時に「亀の上に乗っている」と教えられた。子供心に、どうして亀の上に墓が乗っていると偉いのか、不思議だったことを思い出す。今思えば、説明してくれた先生も亀趺というものを良く知らなかったのだろう。

よく見ると中には瑞垣がかなり痛んで壊れそうになっているものも見られる。それを差し引いても壮大なものだ。歴代城主が全て揃っていてこれ程立派な墓地はそうそうあるものではない。そこで、観光地の一つとして整備されているのだ。
残念なことに知名度が上がっているとは言い難いと思っていたのだが、三々五々人がやってくるのには驚かされた。

ところで、山陰の片田舎にはこの墓地や墓碑は分不相応にも見える。しかし、これは別に不思議でも何でもなく、鳥取藩が大藩だったからなのだ。

鳥取県は日本一の最小人口県をここのところずっと維持している。もちろん人口流出は止まっていないし、老人の占める割合は増える一方という、典型的な過疎に悩む貧乏県だ。
そういう現在の感覚からすると岡山から鳥取へ国替になった光仲はかなりの左遷に思われる。
ところが、実はほぼ等価の交替なのだ。当時、因幡と伯耆の二国からなる鳥取藩は32万石、対して備前国の岡山藩は31万5千石だ。

この鳥取藩32万石というのは正直かなり大きい。輝政は家康の娘の娘婿になってはいるが、関ケ原の戦いまでは信長、豊臣ラインにいたj徳川にしてみれば完全な外様だ。
外様大名で大きな藩は加賀藩前田家の100万石が別格で、以下有名なところが薩摩藩島津家72万石、仙台藩伊達家62万石、 肥後藩細川家54万石、福岡藩黒田家47万石などと続く。長州藩毛利家が36万石で、鳥取藩はほぼそれに匹敵する。維新の原動力の土佐藩山内家は20万石ほどだ。鳥取藩の大きさがわかる。

鳥取藩はその大きさから、幕末には倒幕方と幕府方両方から協力を求められたが、目だった動きをしていない。薩長土(さっちょうど)へ積極的に加担していればその後の新政府内での立場も違い、ひいては今の貧乏県への凋落も防げたかもしれない。もっとも最後の鳥取藩主は養子で江戸幕府最後の将軍徳川慶喜(よしのぶ)の実兄にあたるので、時代の流れと血縁関係の板ばさみで、動きが取れなかったのかもしれないが。
そんなことを墓に囲まれて思いつつ、次へ向かう。

宇部神社

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○宇部神社 (平成19年5月27日)

昨日に引き続き二日連続で札所巡りへ出発。自宅から日帰りで廻れる場所になっているし、道を知っているので楽だ。平成19年5月27日。いよいよ今日で打ち終わる。

鳥取(とっとり)へ向かうのに中国山地を縦断するルートをとった。
国道482号線というのがある。鳥取県の米子(よなご)から京都府の宮津(みやづ)まで、海岸から離れた山中を通る道だ。一本道ではなく、途中で細かく別の国道と重複して続いている。
米子から江府(こうふ)までは国道181号線でそこからようやく国道482号線の表示が出てくる。岡山県の蒜山(ひるぜん)に上り、国道313号線に変わるが、国道482号線になって鳥取県に戻る。次は国道179号線になって人形峠(にんぎょう)を越えて再度岡山県入り、国道482号線になって恩原高原(おんばら)を通って辰巳峠(たつみ)から佐治(さじ)に降りたところで本格的に鳥取県に入る。
その後も国道の号数は目まぐるしく変り、一瞬、国道53号線になったあと再び分かれて国道29号線になる。この後も既存国道を結びながら国道482号線はまだまだ続く。
若桜(わかさ)で再び国道482号線となって氷ノ山(ひょうのせん)を越えて兵庫県に入るが、ここの峠越えは国道でなく舗装林道らしい。数キロ国道9号線になったあと出石(いずし)を通って国道313号線になり京都府へ入る。峰山(みねやま)で最後の国道482号線の表示となって丹後町(たんご)で日本海へ到達。その後は国道178号線となり丹後半島の海岸線を宮津(みやづ)へ到達する。
こんなにつぎはぎの国道を設定する必要があったのかどうか疑問だが、設定当初未開通区間があったにもかかわらず、今では一応完全につながっていることを考えると、道路整備目的には良かったのだろう。
それに単調な国道よりツーリング向きで変化に富んでいて走るのには悪くない。

今回は国道29号線になったところで国道482号線とは分かれて鳥取へ向かう。
そのまま走れば札所へ近いが、またまた寄り道で途中から県道31号鳥取国府岩美線(いわみ)で国府町へ入る。
国府町は文字通り因幡国(いなば)の国府が置かれたところで、因幡国庁跡、国分寺、国分尼寺跡、新たな観光施設の因幡万葉歴史館など見学ポイントは多い。
万葉の歌人、大伴家持(おおとものやかもち)が国司として赴任してこの地で万葉集最後の歌を詠んだことにちなむ碑もある。そういえば、山上憶良(やまのうえのおくら)は昨日立ち寄った伯耆国府(ほうき)へ国司として赴任している。山陰は結構万葉歌人とかかわり合いが深いようだ。
少し離れた岡益(おかます)には白鳳期製作と想像される謎の石塔があり、岡益の石堂(いしんどう)と地元では呼ばれている。これは、時代が全く違うのにもかかわらず安徳天皇陵(あんとく)として宮内庁が陵墓参考地に指定しているという、実に興味深い遺跡だ。あちらこちら見所は多いが、全て見て回っていてはもちろんきりがない。第一目的も違う。今回はそれらは一切パス。
それでも何も寄り道しないというのもそっけない。

国庁の中心地を左に眺めながら小学校のところで住宅街に入ると宇部神社(うべ)に到着する。因幡国一宮だ。
長い石段を登ったところに社殿がある。鳥居前に停めようとして、ふと横を見るとまだ奥へ行けそうな道があるので、進んでゆくと登りとなって境内横にある小さな駐車場に着いた。
石段を登らなくても楽な道があったとは知らなかった。

境内に足を運ぶと結婚式の真っ最中。人が多いのは皆関係者のようだ。写真屋さんもスタンバイしている。一般の参拝客は見当たらない。拝殿には近づけないので邪魔にならないように遠くから眺める。
新郎新婦や参列者は武内宿禰を知っているのだろうかと、ふと思った。

宇部神社の主祭神は武内宿禰(たけのうちのすくね)。
記紀では大和朝廷で景行(けいこう)、成務(せいむ)、仲哀(ちゅうあい)、応神(おうじん)、仁徳(にんとく)と5代の天皇に仕え、国政を補佐したとされる。
年齢は諸説あるが300歳くらい。非常に長生きだ。応神天皇の母である神功皇后(じんぐううこうごう)と共に朝鮮へ遠征したとされる三韓征伐(さんかんせいばつ)で活躍する。長生きと出征ということで、戦前、戦中は武運長久のシンボルとして信仰された。
またいわゆる三韓征伐の話は戦前、朝鮮半島と中国東北部の植民地支配を進めていた日本政府にとって非常に都合がよく、天皇を長期に渡って支えた忠臣でもあり、二重の意味で都合が良かったため国が盛んに教育に使ったこともあって大変に有名だった。お札の肖像にもなっている。しかし、あまりに天皇崇拝に結び付けられていたことから、戦後は皇国史観への反動で逆に全く人気がなくなりすっかり影が薄くなってしまった。
別に武内宿禰が悪いわけではなく時代に利用されただけなので、そういう点では不運な人だ。
もちろん、300歳ということからも実在の人物とは考えられていない。

境内に武内宿禰の終焉の地の碑がある。
その横から本殿裏にあたる小高い場所に上ると「双履石(跡)(そうりせき)」と呼ばれる1mにも満たない石が二つ瑞垣で囲まれている。
因幡国風土記逸文に、「仁徳天皇の五十五年春三月、大臣武内宿禰命は御年三百六十余歳で因幡国に下向され、亀金に双(ふたつ)の履(くつ)を残して行方知れずとなられた。聞くところによると、因幡国法美郡(ほふみ)の宇倍山の麓に神の社があり、これは武内宿禰の御霊(みたま)である。昔、武内宿禰は東方(あずま)の夷(えみし)を平らげて宇倍山に入ったあと終われる所を知らずという。」という記事があるとのことだ。
要するに、武内宿禰はここで山に入り履を残して姿を隠したということだ。
その残された双履が石になったものがこれらしい。石が双履そのものではないだろう。人が履くには大きすぎるし、第一重過ぎる。
小高い岡に履物だけを残して姿を消すというのは、天に昇って行ったということをイメージしているのだろう。

双履石は元来は神社の御神体のようにも思える。しかし、大きさからは磐座ではなさそうだ。あまりにも小さい
ひょとすると古墳の一部かも知れないと想像したが、後で調べてみると、本殿を建てるために平地にならされたため一部切り取られているが本当に古墳とのことだ。
伝承通りならこれは武内宿禰の御陵となるのか。
ただ、この「因幡国風土記によると」という引用はどうやら創作らしい。作者が勝手に風土記に書いてあるように語ったものか、当時そういう伝承があったのをそのまま記したものかはわからないが、ともかく伝説は鎌倉以前には溯らないという説もある。
どうやら因幡国風土記は残ってないが、そこには記されていない話らしい。
昔の人は、何々によると、といった引用を何の根拠も資料もなく勝手にしている例がよくある。大らかだったのだろうが、人騒がせなことだ。

本殿は桧皮葺、流造の変形のようだ。さすがに巨大な社で一宮の風格十分だ。
境内の隅に摂社の国府神社(こう)というものがある。国府跡も近いため総社かとも思ったが、最近合祀されたものらしい。

この神社からは遊歩道が続き、近くの山を鳥取市の方まで散策できるようだ。トレッキングで歩いているとここから姿を消した武内宿禰に会えるかも知れない。

式場の方々に「お幸せに」と心の中でお祝いを述べて、神社を後にした。

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